大切さ

「大切、大切」ってみんなが言うけど、「金は出せません」ということがよくあります。
これ、「国防」と比較すればわかります。「国防は大切」と言って防衛費を出さないなんてことはたぶんないです。
お金を出さないのは、ほんとうは「大切」って思っていないからなんだと思います。
例えば「教育」。「これは教育の課題だ」と、さも教育が人を動かすかのような口ぶりで人々は話します。これだけを聞けば、あたかも「教育は大切」と言っているかのように聞こえます。でも、ただでさえ少ない教育予算をさらに削減しようという動きがあります。「お金がない」というのがその理由です。でも、防衛予算はついたりするわけです。結局、「めんどうなことは学校に押しつけておけば自分はやらずに済む」という他人任せな魂胆が透けて見えます。その背後にあるのは、教育を道具としてしか考えていない、すなわち「大切とは考えていない」という発想です。
人権もそう。誰もが「人権は大切」と言います。でも、お金を出したがらない。逆に「大切なことなんだからボランティアで」とまで言う人もたまにいます。「安上がりな人権だな」と、わたしなんかは思ってしまいます。
こんなことを言うと「いや、そんなことはない。大切だと思ってる」と言われる方もおられます。というか、たいていの人はそう言われます。「教育」も「人権」も大切だと。
でも、そういう人にとっての大切さは「その程度の大切さ」ってことなんだろなと(笑)。

「カッコよさ」あれこれ

今日は体育祭。なので、メッチャ早くに出勤です。朝の気持ちいいグランドで放送セットの指示を飛ばすのは、それはそれで楽しいものです。抱えている仕事がなければね(笑)。
てことで、今日は放送席にパソコンを持ち込んで仕事です。が、なかなかうまくいきません。困ったな…。

それにしても、入学してくる子どもの雰囲気が変わりました。
いままでは「ダルくやるのがカッコいい」と思っていたのかな。でも今は「思いっ切りやるのがカッコいい」に変わった感じです。
例えば入場行進でも掛け声をかける。校歌はあえて大声で歌う。今までならダサいと思われたかもしれないけど、その「ダサい線」を越すと、それはそれで「カッコいい」と思えるところにくる。だから、たぶんいずれにしろ「カッコいい」からやっている。
ところが、かつての「カッコいい」は教員文化との親和性が少ないから批判されたけど、いまの「カッコいい」は教員文化と親和性が高い。だから評価される。
なんか、そんなことを感じました。まぁ、世相もあるだろうし、教員の枠の中で「カッコよさ」を見つけることができる子どもが入学してきてるってこともあるかな。
なんしか、「いい」体育祭でした。

その後、明日の学校公開の準備。2年生と「1年生に任せよう」と阿吽の呼吸で意思一致。まぁ、基礎中の基礎の組み方だし、いままで何度もやってきてるからさんざん見ているはずですが、任されなきゃできるようになりません。
しばらくして体育館に行ったら、できてました。よしよし。

標準を設定しないこと

で、その背後にあるのは「一致した行動」なんでしょうね。「みんなで一致して」という考え。これ、ガッコのセンセは好きです。子どもにも要求し、同僚にも要求する。
でも、基本的にムリなんです。
生徒は居住地も違えば生活環境も違う。階層も違えば学力も違う。ちなみに、階層と学力を近づけるために学校間格差をつくったわけですけど、それは居住地と生活環境の格差を広げる結果になったわけで、結局「違う」んですよね。なのに「同じであること」を要求する。それは無理でしょう。
同様に教員についても、例えば社会と数学と芸術では思考形態そのものが違いますから、そこで「一致せよ」なんて不可能です。しかも、社会とか芸術なんて、教科内でもバラバラですからね。
わたしは常に「バラバラを前提にした枠組みのゆるさこそが大切」と考えているのですが、どうもそれは伝わりません。ここで大切なのは「枠組みがないのではない」ということなんです。一定の枠組みは、おそらくは必要なんです。が、それを異なる人が同居できるようにどうゆるめるかが問われているんです。
例えば、マンションの規則で「ゴミは8時から9時の間に出す」なんていう規則があったとしたら、8時前に出勤をする人とか夜勤の人は出せない。それをどうするかということです。今のやり方は「無理は認めない」です。そこには「「8時から9時の間に出せる人」が標準」という考え方がある。でも、無理なものは無理なんです。そして、その回避の方法はあらゆるマンションでとられている。つまり、「ゴミ収集車が来る時間」という枠組みはあるけど、「ゴミ出しの時間」というもののゆるさを実現するってことです。
同じことは学校でも言えるはずなんですよね。でも「一致させたい」し、そのために「会議を開く」んです。それはとてもまずいです。
いいじゃん、バラバラで。だって、標準そのものがないんだから、ある人の「当たり前」は別の人の「当たり前」とことなる。ある人の「当たり前」で枠をつくったら、他の人に歪みが行って、結果うまくまわらなくなる。仮に「ある人と別の人」を標準としても「更に別の人」が排除される。そして排除されるのは「マイノリティ」です。
そんなことなら「標準がないこと」を前提にデザインしたほうがよほどいい。そのことでうまくまわるなら、なんの問題もない。

人権啓発ドラマ

今日は午後に人権教育関係の会議があって、そこで人権啓発ドラマを見たのですが…。
内容は部落差別にかかわる結婚差別を真正面からあつかったものです。2014年制作のもので、「cちゃんねる」なるものも出てくるし、連絡はLINEでとってるし、車は赤のPRIUSだし、なかなか「いま」を反映しています。それだけに、つくりそのものも今風だし、結末は感動的だし。部落問題そのものについても、ネットの問題出てくるし、部落であることを伝えるかどうかというテーマもあったり、都市型部落も農村型部落も出てきたり、ほんとによく考えられています。まぁ、てんこ盛りです。これを30分という尺の中で見事につくられています。
見終わって、涙も出てきました。
が…。なにか引っかかるものがあります。なんだろ…。

わたしは基本的には人権啓発の映像にドラマを使うのはキライです。使うならドキュメンタリーです。てか、そもそもドラマがあまり好きではない。
なぜなのかずっとわからなかったのですが、今日のドラマを見て「あぁ」と思いました。人権啓発ドラマって、化学調味料の味がするんだ。いわば「コンソメ味のポテチ」です。強制的に涙をしぼられる感じがする。
でも、現実ってそんなもんじゃないです。涙が出るシーンは、人によってさまざまだし、あるシーンをどう見るかは、見る人に委ねられています。もちろん、そのシーンを使うと決めるところに制作者の意図があるというのは前提ではありますが。でもそれは「天然素材」なんですよね。リアクションはそろわない。だからこそ豊かです。
それに対して、「化学調味料」の味は強制的であり均一です。たまにその「強制唾液プレイ」を経験するのはいいかもしれないけど、でもしんどくなってしまいます。
たぶんそういうことなんだろうなぁ。
少なくとも豊かな「天然素材」がものすごくたくさんあるという、ほんとにぜいたくな(笑)環境にいさせてもらっているからこそ、たぶん「化学調味料」の強制力を拒否するのかな。
そんな気がしました。

T-falのように→違和感

朝、副社長がやってきて「あの研修、しない」とか言ってきました。「は?」と。理由を聞きに行ったら「社長に聞け」と。もちろん社長を問いただしましたよ。そしたら「日程が」とのこと。まぁそれならわからんわけではない。
しかし「は?」となった瞬間の頭への血の登り方はたいがいだったんで、今もこれだけ怒りがわく力が残っていたんだなと、かえって感心したりしました。
てことで、副社長に
「久しぶりにT-falのように沸騰しましたよ」
と報告。いや、瞬間湯沸かし器と言っても、もう死語でしょう。

てことで、その後も淡々と仕事をしてましたが…。呼び出し放送とか、そこここで聞こえてくる声を聞いているうちに、おそろしい違和感がわたしを襲ってきました。
なぜにそんなに不機嫌な声を出す?
なぜにそんなに投げやりな調子で話す?
なぜにそんなに威圧的な態度をとる?
そんなふうにしか子どもと接することができないのか?たぶん「人」とは接することができるんです。副社長とか社長とはにこやかにしゃべってますから。もちろんT-falのようにならずにね(笑)。
もしかしたら、子どもたちを「人」として見てないのかな。だとしたら、やはり「あの研修」は必要だよ。

ちなみにわたしは…。
ええ、今日は怒りましたとも。試験前なのに遊んでいるからね。
「君たち。君たちの態度は、まるで中学生が「勉強する」と言って友だちの家に行って結局遊んでたみたいな態度だよ」
「オレ、まだやってる」
「お前は厨房か!」
はい。怒りましたとも。それは、そのクラスの一番数学が苦手な子が遊びに釣られないためですけどね。

ニュース系バラエティ

今週も特に飲み会もなく平穏な一週間になるかな。なので、定時にあがって、本屋さんに寄って本を買ったりして早々に家に帰りました。
さっさとお風呂に入って、さっさとビール飲んで、録画してあったモトGPを見ても、まだ9時です。もう少し起きてましょう。ということで、この時間のニュース番組は、とある大本営発表チャンネルしかないのでチャンネルをあわせたのですが。
ひどいわ…。
なんか、ずっとノーベル賞。それも、研究内容じゃなく、受賞者の人となり。パートナーさんが出てくるわ、同僚が出てくるわ、同窓生が出てくるわ。果ては「「我が国」の首相」がやらせで電話するシーンまで。
あまりにひどいので、チャンネルのザッピングをしたのですが、民放がまたひどい。芸人がメシ食ってるだけ。あとは互いのいじりあい。
もう見てられなくて早々に寝たのですが…。

たぶん、いまやニュースは「報道」ではなく「ニュースをネタにしたバラエティ番組」になってるんでしょうね。すると「わかりやすい」わけで。
「へー、なんか難しいことしてる人で、中身はよくわからないけど、研究に対してはすごく熱心で、でも案外フランクな人で、少しおちゃめなところもあるんだぁ。難しいこともちょっと身近な感じだなぁ」
みたいな。
そんなもので身近になるはずがないです。難しいことを難しいなりにわかろうとし、そこに適切な解説を加えることで少し近くする。それが身近であることなんじゃないのかな。そんなものは放棄ですね。
あと、受賞者の方がインタビューの中で「基礎研究」の重要さについて話してたけど、これはスルー。今回の受賞理由となった研究は、おそらくはまだ基礎研究にそれなりの予算が投入されていた頃のものだろうと思うのですが、それは無視。先人が育てた成果を、その過程を無視して、横取りして「ニッポンの底力」とか、どんだけ情けないねんと思います。

でもまぁ「「我が国」の首相」は政治に耐えられないバラエティレベルやしな。そして、そんな人と寿司食ってるトップがやってるテレビやからな。そんな人らが「感動する」中身は、その程度でしかないってことですね。

キャッチボール式歩行法から学ぶ

電車の中で、たぶん中国から仕事で渡日してすぐっぽい人がパニック起こしてた。たぶん、どこで降りていいのかわからないみたい。駅ごとに「ここでいいのか!」と、車掌さんや運転士さん(!)に聞いていた。でも、みんな知らんぷり。隣に座ってる人も知らんぷり。
しかたないからそばに行って「どこまで行くの?」って聞いて、隣に連れてきた。ものすごく不安そうな泣き顔で、「ここまで」って言ったので「大丈夫。もう少し先だから」って笑顔で答えたら、「ありがとう。日本に来てはじめて」って言われた。
マジで?って思ったけど、まぁそうなんだろうな。
駅についたので「ここですよ」って言ったら「一緒に」って頼まれた。ホントは行きたかったけど、わたしも仕事があるので「ダメ、わたしも仕事」って言った。でも、電車を降りていく足取りは、さっきとはぜんぜん違うしっかりしたものだったから、なんとかなるかな。
それにしても、なんでみんな知らんぷりなんだろ。自分が仕事で異国の地に行って言葉もカタコトだったらすごく不安だと思う。
風の旅人」の宇都宮さんじゃないけど、みんなが自分ができる範囲でサポートして、できないところは「きっと誰かがやってくれる」ってすればいいんだよ。そうやって、ひとりひとりが「できる範囲を無理なく」ってすれば、ひとりの負担は減って、でもサポートの総量は増えるのにね。
それにしても、宇都宮さんの「キャッチボール歩行法」から学ぶものはたくさんあるなぁ。

それにしても、今日のクライマックスは、自分が英語しゃべれないのに、相手さんに「Can you speak English?」って聞いてみたら、相手さんが「ポカン」とした顔でこっち見た、あの瞬間のふたりの絶望感だな(笑)。

「トランスという旅」

ふいに6年前を振り返るんだけど…。
ごにょごにょ(笑)をしたあとのイベントQで、Kさんと論争になった。
わたし「長い長いトランスの旅が終わった気がした」
kさん「トランスの旅に終わりはない」
この平行線だった。
いま振り返ると、「トランスの旅」に込めた意味が違ったんだろうなぁ。
もしかしたらkさんにとっては「トランスであること」は「自分が生きる」ということと不可分なものなのかもしれない。であるなら、「トランスの旅」は終わらないのは当たり前。に対して、わたしは「トランスであること」は「自分が生きることの一部」なんだろうな。いや、kさんもきっとそうなんだけど。ただ、「トランスであること」に過剰な比重を置く「旅」から「トランスを含み込んだ人生の旅」へと、その時フェーズが変わったんだと思う。それをわたしは「長い長いトランスの旅が終わった」と表現したんだよね。それは同時に「トランスであることを含み込んだ新たな旅がはじまった」ことを意味していたんだけど、それが伝わらなかったのかな。
たぶん、kさんはわたしの言葉を「トランスという病が治った」「トランスを卒業」みたいに感じたんだろうな。でも、そんなことはみじんも思っていなかったし、今も思っていない。わたしにとっては、kさんとわたしの差は、とても些末なものだと思っていたんだけど、kさんにとっては大きかったようだ。それからイベントQに来なくなった。
なんか、あれだけはとても残念でしかたがない。今も「また、来てほしいな」と思ってるんだけど、その思いは伝わらないだろうな。

雰囲気なんていらない!・文化祭2日目

今朝もいつも通り出勤です。
体育館に行くと、部員たちはのんびりしています。もう一個の体育館に行くと、こちらもまたーり。ならば安心です。と、とある部員から「雰囲気、悪いで。ギスギスしてる」とのご指摘(笑)。ま、いいでしょ。
そんなこんなで、ルーティンの間はわたしはのんびり自分の仕事です。部活発表からあとかたづけまでが鉄火場になります。
11時半。さてと、動くか。体育館に行って、そこからは細々とした作業の連続です。マイクは何本必要か。不要なマイクをどうするか。ミキサに接続する機器は何か。はたまた舞台の状態はどうするのがベストなのか。
1年生にこんな細かいこと、わかるはずがないです。2年生でもしんどい。3年生ならわかるだろうけど、バリエーションまでいくと、たぶん無理です。卒業生ならわかるかな(笑)。
てことで、放送ブースのあたりに寝転んで、部員に指示を出しまくりです。ま、任せられない時もあります。

で、片づけがすべて終わってミーティング。

んーと。みんな、「できなかったこと」をあげてるけど、できるはずがないんだよ。だから、できなくていいの。できることをいかに増やすかってことを考えてくれたらいい。
あとね。「雰囲気が悪い」って言ってたね。雰囲気なんていいはずがない。現場は急いでいるからね。鉄火場なんだ。そんな時に雰囲気よく話ができるはずがない。だから、それでいいんだよ。どうしたらよかったのかは、あとで振り返って考えればいい。
あとね。任すって難しいんだよ。
君たちは、今までの学校での経験で100%任されたことはあるかい?きっとほとんどないと思う。でも、わたしは任せるよ。任せるときはほんとうに任せてしまう。でも、結果には責任をとります。だって、学校に対して「ごめん」って言うだけのことだから。だから、安心して任されたらいい。
でも、任せるときに任せられる人と任せられない人は考える。「これなら大丈夫」「これはあいつしかアカンかな」「これは誰にも任せられないな」ってね。それは考える。そういうもんなんですよ。
それからね。できないことに対して個人を攻撃しちゃいけない。放送には「技術」と「動き」がある。例えば「動くけどできない人」と「できるけど動かない人」がいた時、どちらがいいと思う?それを考えたら「できないこと」への攻撃は違うことがわかると思う。個人の責任にするんじゃなくて、どうすればチームとしてうまく機能するかを考えるんだ。チームとして必要なことはたくさんある。それらがすべてできる人はいない。だから、ある瞬間に「できない人」と見られても、その人が「できる人」になることはある。そういうものを見つけいくことが大切なんた。
じゃ、みんな、もう一回文化祭を振り返って話してごらん。

さぁ、文化祭は終わった。次は体育祭。
でもその前に呑み会だ(笑)。

いつもの中華料理屋で、あーだこーだと大盛り上がりです。
でも、明日の朝、早いんだよね。さてと帰りましょう。

「困る」ということ

よくインクルーシブ教育がらみで「困った子は、困っている子」と言われます。これ、教員目線で「この子、困った子だなぁ」=「教員が扱いに困る子」というのは、実は本人が一番困っているんだよということなんですよね。つまり、視点を教員から生徒に移すことでパラダイムの変換が起こる。そのことを通して、「教員の困り感」に疑問を呈するわけです。
これは、とっても大切だよなぁと思います。
が…。
たまに「この人、困ってないんじゃない?」と思うこともあります。いや、たぶん、その人自身は困っておられます。が、困っている感が伝わってこない。
なぜなんだろう…。「困っている子ども」となにが違うんだろう。
よくわからないです。が、ふと思ったのは「右往左往していない」ところにあるのかもしれません。ブレがない。言いかえるなら、「変化する意志」がない。さらに言いかえるなら、「変化をまわりに要求する」ということなのかな。
もちろん、そのことそのものは別に悪いことだとは思いません。が、それは本人がなんとかする以外方法はないです。だって、「この人のために、あなた変わって」なんてことを、他者が言えるはずがない。
まぁなにがどうということもないのですが、なんとなく…。