遅すぎ…

明日から遠出をしなくちゃなりません。でも、休みをとる時間と電車の時間がビミョーなので、乗車券はあらかじめ買っておいたほうがいいかなと。
なので、今日の帰りに職場の最寄り駅の「みどりの窓口」でゲットしようかと。
てことで、少し早歩きで駅に向かいました。到着すると、みどりの窓口にはお客はいません。やったね。
今回買うのは、ほんの少しだけ複雑です。こんな時のいずみちゃん頼みです。快く経路を調べてくださって、決定したのは次の通り。

往路が
京都→(新幹線)→小倉(途中下車)
小倉→(在来線)→佐賀
復路が
佐賀→(在来線)→博多(途中下車)
博多→(新幹線)→京都

という往復切符になります。つまり、小倉博多間がきっちりの往復にならない。こんな時のために「別線往復切符」というのがあるらしいです。
いずみちゃんからは「紙に書いていくと早いよ」というアドバイスももらいましたが、まぁなんとかなるでしょう。
さて、勝負。
ところがこれがどうやらメッチャめんどくさいみたいです。マルスって、出発駅と到着駅を入れたらいくつか経路の候補が出てきて、そこから決定すると一発なんですね。でも、その候補からはずれると手入力になるみたいです。しかも、その手入力は「路線」が変わると中継駅を入力しなきゃならないみたいです。
例えば、京都→奈良だと
京都→(奈良線)→木津→(関西線)→奈良
みたいな感じです。
すると、小倉→佐賀は
小倉→(鹿児島線)→鳥栖→(長崎本線)→佐賀
となります。ここでめんどうなのは、鳥栖を入れなきゃならない。ところが、関西の駅員さんはそれがピンとこない。なぜならJR西日本の会社員なので、他の会社(JR九州)の駅まで把握してないからです。
しかも、往復で経路が違うから、往復それぞれ入力しなくちゃなりません。つまり
京都→(新幹線)→小倉→(鹿児島線)→鳥栖→(長崎本線)→佐賀
佐賀→(長崎本線)→鳥栖→(鹿児島線)→博多→(新幹線)京都
となるわけです。
これが時間がかかる!途中やり直しも含めて時間がかかる!さらにもうひとつ乗車券を出してもらったら、所要時間は全部で10分。
快速に乗り遅れました(;_;)。

でも、これいずみちゃんの指摘通り、分割民営化がアカンのですよね。JR西日本内で仕事すればOKと思ってる人だとこうなってしまう。このあたりはプロ意識とかかわってきますよね。
つまり、国鉄なら全国ですから、プロ意識というより仕事の範疇になります。
労組つぶしがこういうところに出てくるってわけですね。

逃げた自分を反省的にとらえること

ここしばらく、ずっと2次校正をしています。この作業、たしかにしんどいけどおもしろいです。
しんどさはというと、言うまでもなく「校正はしんどいもの」ということです。
てか、トランスクリプトを作成する人が解釈を加えて文章をいじるのをやめぃ!これは「改竄」ですよ。一番ひどい「改竄」は、直接話法で話している中身を標準語的な言葉に変えてしまうことです。それは直接話法とは言わない。で、直接話法で話しているのは、そういうライブ感があって、必然として使っている。そしてそこには講演者の「意図」があるんですよね。で、この「改竄」は、その意図を踏みにじることに他なりません。
なので、結局今日はずっと音声データを聞きながら校正をしてました。でもこれ、なんのためにトランスクリプトをつくってもらったかということですよね。わたしもしんどいし、もっとしんどいのはトランスクリプトの作業をした人です。「せっかくやったのに、自分はなんのため?」って、きっと思われます。そんなふうにならないためにも、文章はいじらない。

なんてことを考えながら、K原さんの講演を読み聞きしてました。
あらためて読み聞きして、「おもしろい!」と思いました。
K原さんは徳島の方です。徳島のとりくみは、それはそれは暑苦しい(笑)。まぁそれだけ分厚い実践があるということです。京都「府」とは比べものになりません。そんな中でK原さんは子ども時代を過ごしてこられたわけです。そして「イヤや!」とそこから逃げてきた。
たいていの場合、「逃げ」は「自分の弱さ」と結びつけて考えられがちです。でもK原さんは違います。「教員のとりくみの問題だ」とバッサリ切られます。まぁそれができるのは、K原さん自身が教員ということもあるだろうけど、もうひとつは生徒時代に感じた「分厚い実践の背後にあるもの」≒「形骸化したとりくみやそこにあるホンネ」を、教員になって再確認したということなんでしょうね。そしてもうひとつは、にもかかわらずある差別の現実を目のあたりにされたとかな。
そこで、K原さんは、そういう現実を引き受ける。具体的には「差別の現実」と「「自分が逃げさせられてきた実践」をやる立場になった」というふたつを引き受ける。ここでおもしろいのは、K原さんが、やはり「教員である」ことにこだわり抜いていることなんじゃないかな。つまり解放運動に「逃げ」ない。解放運動の立場で教員を断罪するのではなく、教員として自己矛盾を引き受け、それを止揚した結果、「目の前の子にかかわる」という原点にもどる。それは、ある種、自分が「逃げ」てきたところに教員としてもどることです。ここでもしも子どもが「逃げ」たら、自分もまた自分を逃げへと追いやった教員と同じになってしまいます。
そして、子どもたちと出会いつながる。
これ、もちろん、孤独な闘いです。なので、はじめは「尖ったナイフ(K原さん談)」です。そんなK原さんが、ナイフにシースをかぶせてもええかと思わせたのがる、K野さんとの出会いだったみたいです(笑)。やれやれ。
でも、K原さんは、たぶん今も孤独な闘いをしてるな。そこにはあきらめというか、絶望というか、そんなのもあるんだろうな。だからこそ、「クズ仲間」として、わたしともつながっていてくれているのかな。
まさに「希望は、絶望をわかちあうこと」ですね。

ヤバイな

なんか、自分の中に「センサーの波」みたいなものがあることを感じます。いや「センサーの向かう先」みたいな感じ?簡単に言うと「ローテーターのついた八木アンテナ」みたいな(笑)。
つまり、自分のアンテナが向く方向が変わるので、キャッチできるものが変化していくんですよね。すると、こないだまでキャッチしてた情報がキャッチできなくなったり、その方向での発信ができなくなったり。すると、常に変わらず「そこ」にアンテナが向いて、情報を入れたり発信している人に比べると、ある種「おとなしく」なってしまいます。てか、正確には「億劫になる」かな。まぁ感度が鈍ってるってのもあるかもですけどね。
でも、やってることがあまりにも多すぎるのかもしれませんね。なので、投入する集中力の方向が周期的に変わるのかも。
で、向く方向によっては「なにもない」ってのがあったりして、そっち向くと「なにもやりたくない」というふうになってしまいます。これがマジでヤバイです。メール返すのも億劫になる。あり?これ、鬱?でも、違うでしょうね。仕事には行ってるし、こんな駄文も打ってます。だから、たぶん鬱じゃないです。せいぜいが燃料切れくらい。

まぁしかし、久しぶりに元号問題でテッペンきたから、まだ「感性」は残ってるな。

保険適用か

こないだ新聞に載った手術の保険適用の問題ですがね。もちろん、12月の段階でここでもいろいろ話はしてました。
原則、保険適用そのものはいいんです。てか、あるべきではあります。が、今の状況ではなぁ。SRSをとりまく社会的・法的状況が悪すぎる。それがひとつ。
もうひとつは、保険適用を満たす要件の問題ですね。国内3院だとか。これ、かつての和田形成外科の話の繰り返しです。例えば、◯ローブとか◯グモとか、はたまたゴッドハンドの◯江とか、最近話題の◯ズキとか、そういったこれまでたくさんの当事者のニーズに答えてきた「街のクリニック」が保険適用から除外される。いや、仮に除外されなくても、保険点数が大幅に下がることによって撤退せざるを得なくなったり、保険適用をあえてしない選択しかできなくなったり。
となると、2極分化しそうですね。お金があって早くやりたい人と、お金がないから順番待ちをする人と。
それを「選択肢」というのは、あまりにアレやなぁ。
ついでにいうと、特例法の要件を満たすために手術をするという人の場合、ほとんど内摘でいけてしまうトランス男性は、たぶん高額医療のバックとあわせると、ほとんどただ同然でできてしまう。それに対してトランス女性はそれなりの金額がかかる。いまもそうなんだけど、それがより一層はっきりするだろうな。
なんしか、ややこしすぎる。

得手不得手

それにしても、つくづく思うのは、わたしは「政治」には向いてないんでしょうね。あるいは「運動」か。まぁ、運動も政治ですからね。
かつて、ある尊敬する先輩教員から
「お前は活動家じゃない、実践家やぞ」
と言われたことを、あらためて思い出します。
学校という分脈に引きつけて言うなら「教育活動」ではなく「教育実践」ですね。
そして、解放教育の世界で言われてきたことは「実践を差し出せ」でした。つまり実践に基づいた論議をするってことです。
なので、わたしはそうやってきたんだけど、そうもいかないこともある。でも、元来不得手なんですね。
そんなことを思った朝。

今後の予定

家に帰ってお風呂に浸かりながらいろいろ考えていました。ちなみに、考えがまとまる主な場所は、お風呂とトイレです。
で、なんとなく決意。
もういろんなことがいろんな意味で限界です。いままで心がささくれたり詩に励ましてもらったりしてきましたが、やはり限界です。なので、新たな方策を考えなきゃダメですね。
で、考えたのが、「夏」は残り4回。こないだのネタを含めると、持ちネタは4つ。他にもないわけじゃない。てことは、いけるな…。
もう、聞きたい人が聞けばいい。聞きたくなければ聞かなくていい。その代わり、聞きたい人がうちの支店以外にいるならその人に来てもらってもいい。
そう考えたら、なんとなく吹っ切れました。
考えてみると、残り少ないですからね(^^)。

前から見る

今日は午前に2発授業です。でも、走り続けてきたので、一旦立ち止まって復習しましょう。ということで、いつもの教えてあい学習。なんか質問に来る子が多かったな。いいことです。
で、午後に研究授業。
はっきり言って、きらいです。だって、みんな「板書がどう」とか「発問がこう」とか。まぁ、たしかに意味はあるかもしれないけど、個人的にはどーでもええやろと思う話ばかりです。なので、まったく行きたくないのですが、なんでも研究授業週間らしく、行かなきゃなりません。
てことでしかたなく参加。まぁ、お友だちの授業なので、ちょいとやらかしてやろうかなと、教室の前の窓側の端に陣取ることにしました。はじめは子どもたちは面食らい、次はクスクスと笑っていましたが、気配を消すのは得意です。なので、平常へ。
なるほど、前から見るとおもしろいです。どの子が意欲をなくしてるかとか、いろんなことがわかります。
てことで、わたしのメモ

1、よかったこと
・誰かがあたった時、他の子らも自分たちの答えが正解かどうかを相談しあってる
・自分があたったかどうか関係なく、誰かがあたった時に教科書やノートを見て答えを考えてる
2、気がついたこと
ひとつの証明に30分、みんなよくついていったなぁ
3、感想
5時間目は眠い

で、結論は「ええ子らやなぁ」です。
まぁそんなもんです。
でもこれ、数学の教員でなくてもわかることで、たぶんこういうのが研究授業なんだと思ってるんだけど、どうやら世の中の研究授業はほとんどがこうじゃないらしい。

「語ること、つながること」のために

来週水曜日は3年生の人権学習。例年リビングライブラリをしてますが、今年はいろいろあって5人の方をお呼びしてのシンポジウムになりました。タイトルはいろいろ考えたけど「語ること、つながること」にしました。
で、朝、ぼんやり考えていたこと。
おそらくキーワードは、今はやりの「マイクロアグレッション」ですね。ちなみに、うちの教員というか、京都府の教員に「マイクロアグレッション」と言っても「なにそれ?」って言われそうだけどね。まぁ関心事が、わたしはあさって向いてますからね(笑)。まぁ、詳しくはこのpdfファイルを読めば一番いいかなと思います。でも、これ、リビングライブラリはじめた時からずっと言い続けてきたことです。「微細な差別にセンシティブになる」なんです。マイクロアグレッションを受けた時の当事者の心の微妙なざわめきや混乱を知ることを通して、想像できるようになることなんですよね。
で、そんなことを背景に持ちながら
前半
0、趣旨説明
1、それぞれの背景の説明
2、「痛っ」と思った経験のシェア
3、内在するフォビアのシェア
後半
4、変わり目=人との出会い
5、語りあえる関係をどうつくるか
みたいな流れで行こうかと。まぁあくまでもたたき台ですけどね。たぶん、ここに乗らないこともあるかなと。
そして今回の流れはすっぱりとこれでいきます。「回復の物語」!まぁ正確には「回復」ではないわけですがね。なぜなら「わかりやすい」からです。まぁ、生徒にわかりやすいことは教員にもわかりやすいってことです。わたし的には「混沌」が好きなんだけど、まぁそれは誰かが「わかりにくさ」を伝えてくれるでしょう。
さてと。どうなるかな(^^)。

承認欲求のジェンダー差

毎朝、出勤途中、同僚とダラダラしゃべりながら歩いてます。たいていは「飲み過ぎた」みたいな話ですが、たまに「昨日こんなことを考えて」みたいなことも話します。
で、今朝の話は当然「承認欲求」の話です。「講演やったり起業したりってことを通して他者から依存されるみたいな人、トランス女性よりトランス男性のほうが多くて、これも承認欲求なのかな」みたいなことを話したら、その同僚さん、しばらく考えて答えられました。
同「それ、トランス男性というより男性に多いんじゃないですか?依存されるによって承認欲求を満たす人。かつては「家庭」だったけど、今は無理ですしね」
まさに!
い「で、女性は依存することで承認欲求を満たすわけですね?」
同「(笑)」
い「で、ふたりで幸せアピールをする」
同「幸せなのはいいことじゃないですか」
い「いや、アピールすることができるような幸せなんて、どこかうさんくさいです。幸せなんて、そんなのじゃなくて、「いろいろめんどくさいこともいっぱいあるけと、それでもまぁなんだかんだいって幸せなんだろうな」くらいがちょうどいいんですよ」
同「(笑)」
なんかもう(笑)。

承認欲求を満たすこと

今日は午前は第二の故郷に出張です。内容は、いつもの通り、学力問題についての論議です。
なんかどうもかみあわない。いや、かみあわないのはわたしだけなんですけどね。どうも焦点がズレます。たぶん、変なところ見てるんです。だって「参考になれば」とか言って、「フィンランドにおける包括的性教育のpdf」を送ったりしてますから。なんか、たぶん、あることを示すために、かなり遠いところに駒を置く感じなんですよね。まぁいいや。

で、午後は職場に行って、あれこれやって。そんな間にも、いろんな情報が入ってきます。
で、帰り道に「人をたぶらかす」ってことについて考えました。
これ、うまい人います。てか、わたしもうまいです。でも、それをどれくらい意識化し、それをどう使うかってすごく大事です。
「人をたぶらかすことがうまい人」は、たぶん「承認欲求が強い人」の「承認欲」をうまく満たすんですよね。「わたし、あの人と知り合い!」みたいな。で、それって、どこか依存体質とつながっていると思います。ちなみに、「承認欲求が強い人」をうまくたぶらかすことができる人も、実は「承認欲求が強い人」だったりします(笑)。なので、「承認欲求が強い人」によって「承認欲求が強い人」の承認欲求が満たされるということになります。ちなみに、この手の人が一番手っ取り早く承認欲求を満たす方法は「有名になること」です。てことで、講演の講師になったり本を出したり、まぁ、壮大なブーメランが飛んでくるわけです(笑)。
実は、人をたぶらかすのはとても簡単で、結論としては、依存の対象となることを引き受ければいいわけです。ちなみに、依存の対象になることもまた承認欲求を満たすことにつながります。「いや、引き受けるのはたいへんだろう」と。実は簡単です。ヤバくなったら逃げればいい。じゃ、その人はどうなる?それは「知らない」って逃げればいいんです。しかも、これ、意識化してなかったら、こういうことをやってることがわからないから、本人には罪の意識もない。でも、逃げられた側はたいへんです。依存体質を満たされたうえで、さらにはしごをはずされるわけですから、ヘタすると生死にかかわります。
まぁ、たぶん、というか、確実にわたしにもこういう過去があって、いまだにそのことを引きずっています。だから、とてもこわい。
でも、それをこわいとも思わず、意識化してかつ自分のためにやる人がいたら?それはこわいです。で、そんな人はきっと現実にいるわけです。
ほんとにどうしたものかなぁ。