genfer expressionとbiological sexの境界線

今日はこないだに引き続き、「SOGIの多様性と共生の課題」の2回目「トイレ・更衣室問題から考える多様性」です。
それにしても、考えてみると、こんなセミナーを2回もやって、2月にはトランスジェンダーの歴史についてのセミナーもあって、しかも、すべて康さんや東さんと一緒に「中の人」をやらしてもらえるとか、すんごく幸せなんだなって、最近しみじみ思います。
てことで、早めに会場に行って、25分ばっかあたりをジョギング。完全にジョンキーです。まぁ、走ると脳内に麻薬様物質が出るらしいから、ほんとにそうなんでしょうね。
帰ってきて打ち合わせをしていると、なんと、順子姐さん登場!マジか!てか、明日は東京で「いずみちゃんナイト」とちゃいますのん。フットワークの軽さには驚きです。
で、しばしダラダラしていると、すぐにセミナー開始です。ますはなほさんからSOGIについての基礎知識と、大阪大学のトイレのピクトづくりのとりくみについての説明です。なるほど。「絵」にすると、とうしても固定化されたジェンダーが出てしまうので、最後は「M/W」にしたと。たしかにね。なほさんらしいなぁ(^^)。
その後、メインスピーカーの東さん登場。相変わらずの迫力です。しかも、過去と現在、日本と海外を自由自在に飛びまわられます。さらに、メンバー的にそしてわかりやすさからどうしても「gender identity」に話が偏りがちですが、「府中青年の家裁判」を持ってこられるなど「sexual orientation」のことも織り込んでおられます。さすが!そして締めくくりは「どんな人であろうとgender identityにマッチしたトイレを使える社会」とズバリです。直球です。好きです。
続いて、古怒田さんのコメント。実は、突如スライドを使おうと思ったので、はじめは聞けなかったのですが、トランスも欲望の対象になるという話が印象的だったかな。そういや、わたしもありましたわ。なんか、トランス女性って、たぶんハラスメントしてもいい対象に思えるんでしょうね。
で、わたしの出番。今回は月曜日の予行演習で、「文科省通知の影と闇」をメインにすえることにしました。出も、それだけではなんなので、自分の現在の状況を話したのですが、それが悪かった。いちおうトイレに入るときにはリスク回避のためにgender expressionを少し女性側に多めに振るのですが、それを一般論で語ってしまったみたいです。そこのところを東さんからズバリと突かれて苦しい苦しい(笑)。つまり、例えばどれだけがんばってもパスできない人はgender identityにしたがったトイレに入れないのかということです。もちろん、そんなことは言うつもりはないのですが、たしかに一般化するとそういうことになるわけで、苦しい苦しい(笑)。
その後、「性的欲望」の問題の提起があって、これもなかなかおもしろかったです。というのは、「性的欲望を持ってはいけないのか」(by 東さん)ということです。つまり「性的欲望を持つこと」と「同意のない行為をすること」は違うことで、大雑把に言うなら、後者はアカンけど前者はええやろという話です。なるほど。つまり、「性的欲望を持たないもの」というのが前提にあって、同性間にはそれがないとされる。で、トランスは「性的欲望を持つもの」とされ、排除される。さらに同性愛者もまた排除されたのが、まさに府中青年の家事件だったわけです。でも、現実には同性愛者でなくても同性に対して性的欲望を持つことはありうることで、「性的欲望を持たないこと」を前提とすることそのものがアカンのではないかということなのかな。
とても興味深い論議です。まさに「SOGIの多様性と共生の課題」です。
てことで、セミナー終了。

当然今日も打ち上げです。仕事終わりの康さんも来て
みんなでもりあがるわけですが…。
ずっと気になってたことを、つい発言。
「biological sexもgender expressionなんじゃないんですか?」
東さん曰く「意志と意図と実行がないとexpression社ない」
なるほど。でも、例えば、お風呂において身体はexpressionなんじゃないかと想うわけです。まぁ、すでにこんなことはバトラーが言ってるわけですが、でもそうだとしたら、正直トランス的にはしんどいです。と、なほさんが「だから、わざわざgender expressionを分節したわけじゃないですか」と。となると、そのふたつをわかつ分割線はどこにあるのかと。そこがはっきりしたら、あるいは可変であることがはっきりしたら、あるいはcontrolableてあるなら、トランス的にはすごく楽になるんじゃないかなと思ったんですよね。
ただ、酔っ払ってたから、単なる酔っ払いのたわご土になってしまいました(笑)。
ということで、打ち上げ終了。
今日は二次会はなし!

「続けることの意味」の続き

朝起きるとAっちゃんは仕事に行ったみたいです。日曜日も仕事という公務員ってなんでしょうね。ちなみに、休日出勤を命じることができるのは支店長だけなんですが、どうやら先輩から言われての出勤のようです。なので、当然のことながら振替休日なんてありません。支給されるお金は最低賃金をはるかに下回る程度です。まぁ、そりゃ、制度改革はすすまんわな。だって、お互いにタダ働きをさせあってるんだから、「制度」は痛くも痒くもない。
てことで、ひとりで「待ち」です。来ません。まぁ仕方ないです。広報が遅かったのもあるけど、それより深刻なことがあります。だって、京都の高校全体にチラシはまいてるけど、みんなそのままゴミ箱に捨ててるんでしょうね。生徒のところまで情報はまわってません。だから、来ようがない。せめて増し刷りして教室掲示してくれたらいいんだけど、たぶんそこで「行きたい」という生徒が出てきたら、自分が引率で行かなきゃならなくなる。すると、自分の土日出勤とバッティングする。だから、捨てる。いや、そこまで考えてくれたらまだマシか。「ふーん」で終わりなんだろな。
まぁ仕方ないです。アイデンティティ保障をひとまず横に置いた京都府を選んだのはわたしです。

昼前まで待ったけど、誰も来ません。しかたないのでジョギングです(笑)。
7条まで走って、そこからもどって勧進橋まで走ってもどるとちょうど20分です。ほんとに我ながらいいコースを考えるな(笑)。
ジョギングを終えて帰ると、kゎんすがいました。
てことで、ふたりでしばし話。何でも今度の4月に梨花展を京大吉田寮でやるそうな。これは協力せねばね。
久しぶりにマッサージをしてもらいながらそんな話など。
その後、北大路まで移動。交流会の担当者と合流して、なぜか王将へ。なんか、お腹減ってたのでやたら食べてしまいました。
家に帰ったら、まだ夕方です。でも、眠い。なので、午睡です。そうこうするうちに解放文化祭に行ってたパートナーが帰ってきたので、メガネをつくりに行ったり。店員さん、わたしのことを「お連れさん」と呼んでたのがおもしろかったな。
家に帰ってご飯を食べて、確定申告を送信。ひとつひとつやらなきゃならないことをこなしていくしかないですね。

にしても、昨日の夜も誰も来ないと思ったらYりかさんが来てくれて、今日も誰も来ないと思ったらkゎんすが来てくれて。なんかうれしいです。まだ「あの場」を必要と思ってくれてる人がいる。ちなみに、Oんにょんもメールをくれたしね。
まぁ、あともう少し続けることにしましょう。方法は考えないといけないけどね。

続けることの意味

今日はなんだかいろいろある日なので、朝からローテンションです。
まずは組合に行って、選挙の開票作業。なぜか去年からだったから、選挙管理委員長をしています(笑)。厳正に開票作業をしました。もちろん、票の廃棄とかはしていません(笑)。
で、さっくりと開票作業が終わったので、少し時間があまりました。なので、確定申告です。なんせ、医療費がすごい(;_;)。
そんなことをしていると、午前の会議のメンバーがボチボチ登場。今日は某在日外国人教育関係の会議です。わたしとしてはこないだの交渉の結果とか、こないだの謀議の結果なんかを報告しなきゃなりません。
午前の会議が終わったら、昼ごはん。いつものラーメン屋でギョーザ・ラーメン・ビールの鉄板の昼ごはんです。
その後、午後の会議。今日は参加人数も少なく、そんなに大きな論議もなく、けっこうあっさり終了です。
みんなは飲みに行きましたが、わたしはジョギング。御所のまわりは4kmなので、ちょうどいいです。それにしてもあきません。ゆっくり走りたいのに、つい「あげ」てしまいます。結局、22分くらいかな。1kmが5分30秒というところでしょうか。まだ遅いけど、まぁこんなもんでしょう。
で、飲みに合流。しばし遊んで、すぐに離脱。お次はダメダメ先輩と合流です。向かうは崇仁新町です。なかなか賑わってるけど、ちょっとしんどいかも。なんだかせわしないです。でも、たぶん京都のいろんなお店が出店を出してるのかな。ちょいと高めだけどおいしいですね。にしても、卒業生がいたのはびっくりしました。悪いことはでけへんな。
その後、マダンセンターに移動。今日は卒業生の会です。でも、誰も来ない。たしかに告知が遅かったというのはあるにしろ、事前に年間スケジュールは告知してあるし、ええかなと思ったのですが、来ない。まぁ、みんな仕事をしたり子育てしたりして忙しくなっているんだろうな。その次の参加者を発掘してないのがアカンのだと思います。が、来ない。
12時をまわったあたりにAっちゃん登場。このあたりで、わたしもそれなりに呑んでるので、フラフラです。しばし今後のことを話したりしているうちに寝てしまいました。
が、突然部屋が明るくなりました。え?と思ったら、Yりかさんがお友だちと登場。マジか?仕事が終わってから奈良の南部から来てくれたみたいです。朦朧とした頭で近況を話しあったりして、そのうち「明日仕事があるから」って言って、電気を消して帰っちゃいました。
うれしいな。わざわざ来てくれたんだ。というのと、もしかしたら、近況を話したかったのかな。ということは、やはり「ここ」を必要としてる人がいるんだってことなんですね。
誰も来なくて、かなりめげそうだったのですが、少し元気が出てきました。Aっちゃん、Yりかさん、N島さん、ありがとーo(^^)o

「祝福」が広がっている

今日は卒業式の日です。放送担当は、1年生と去年プレッシャーをかけた子のふたりです。なので安心です。わたしはバックヤードでのんびりさせていただきましょう。
で、のんびりしながらというか、いろいろ考え事をしながら、卒業式にも意識のリソースを振り分けていたのですが、とある生徒の話を聞きながら、ビミョーな感じになってきました。
曰く「お父さん、お母さん、今日まで育ててくれてありがとう」
たぶん、親にとってはうれしい言葉でしょう。教員にとっても、もしかしたらほほえましくもうれしい言葉かもしれません。でも、ほんの少し外に出ると「ほ…」という気がしてしまいます。
この言葉、一番良く出てくるシチュエーションは、言うまでもなく「結婚式の花嫁の家族へのスピーチ」です。ちなみに、あのスピーチは明らかに旧民法下での家制度の産物ですよね。
もちろん、それと今日とは違います。でも、どこか「予行演習と違うか?」と思ってしまうイジワルなわたしがいます。ついでに言うなら、今回の前の予行演習は1/2成人式ですね。なんで、こういう時の親への感謝がこんなに広まったんだろう。
そして、送る側も「祝福されて」です。かつて結婚差別についての講演を聞いた時に「若い子が結婚差別をする時によく使う言葉が「周囲に祝福されたい」なんですけど、祝福なんて言葉は日常使いますか(笑)?」って言っておられて笑ってたんですけど、最近は使うんだな。
なんか、「努力!」とか「根性!」はきらいだけど「感謝!」とか「絆!」はもっとキライですね。もちろん裏側ではみんなどう思っているかはわかりません。が、そんなのが表面に出てくる社会になってるんだな。その延長にあるのがアレとかアレとかアレなんでしょうね。あー、こわい。

午後からは少しゆっくりです。たった一人だけ、1年生の時に授業を担当した生徒が親と一緒に来てくれました。わたしのとてもえー加減な授業がよかったらしいです。なんでもとても真面目な子なんですけど、世界が広がったんだとか。ちょっと、うれしいです。
で、いつもの時間にジョギングして、夜はカイロプラクティック
なんでも、ストレスが溜まった時に、身体は自分を守るために神経のブレーカーを落とすんだとか。でもそれは自分では復旧できなくて、それが落ちっぱなしだと、身体が不調になるんだとか。なので、ブレーカーを入れてまわるらしいです。
おもしろいです。
さてと。あとは帰って、おふろ→ビール→ケンミンショー!

今日は奈良で呑み。源淳子さんがされている読書会の呑み会に、読書会のメンバーでもないのに呼ばれたりしました。実は、宮前千雅子さんも呼ばれていたらしいのですが、今日は都合がつかなくて、わたしだけが緊急参加ということになりました。
仕事を終えて、快速に乗って30分ほど移動すると、奈良に到着。駅前の居酒屋に入ると、すでにみなさん絶好調です。てか、テーブルの上の食べ物、全部ない。
「いつから呑んでたんですか?」
と聞くと
「4時かな、5時かな」
という絶好調のお答えが返ってきました。わたしの参加は無理やな。
てことで、みなさんに追いつくべく、わたしも急ピッチで呑みはじめました。
今日の話題は、なぜか信仰について。仏教者の源さんに対して、キリスト者がふたり(含、わたし(笑))。あとの3人は無宗教かな。で、無宗教の方からさっそく「権威にすがるってどうよ」というストレートパンチが繰り出されてきました。それに対して、それぞれがいろいろ話をします。ちなみに、源さんは
「仏教よりもフェミニズム
です。これ、本当に源さんはそうなんですよね。いつも言われます。それくらいフェミニズムで自由になったんでしょうね。言いかえるなら、フェミニズムに出会うまで、それほどまでに息苦しさを感じていて、しかもそれをあらわす言葉や概念と出会う機会を奪われていたとも言えるのかな。ところが、そんな源さんに対して
「そういう理論じゃなくて、やはり平塚らいてふとかね」
というフックが飛んできます。
ともに女性解放運動をしてきているんだけど、なにがそれらをわかつのか。そこへもうひとりのキリスト者の方が助け船。
「源さんにとっては、フェミニズムは理論じゃなくて生活なんじゃないかな」
なるほどなぁ。とてもわかりやすい助け船です。
ちなみに、今日わたしが声をかけていただいたのは、この間行った出版記念会の折、感想を言うことができなかったからなんですね。そこで、わたしの出番です。
自分らしい終末や葬儀の生前準備―「生老病死」を考える』という、あの本、当然のことなんですけど、そこに流れているのが仏教なんですよね。それも浄土真宗です。もちろん、わたしにはわからないことだらけです。でも、ひとつわかるのは「違う」ということです。そもそもキリスト教の人生観って、天国からこの世に来て再び天国に帰るという、一方通行です。なので、亡くなったうちの父親は、きっと天国で先にそっちに行った研究仲間と、楽しそうに研究をしてるんだろうなと思っています。
あと、お葬式も全然違います。基本的には教会でします。さらに一番違うのが「法事がない」です。年に1回物故者礼拝があるだけで、それ以外はありません。基本は「個人単位」で考えています。なぜなら、キリスト教って、神と個人の結びつきというのが根本にあるからです。なので、原則的にはお金がかからない(笑)。
まぁそういうキリスト教ですが、「直葬」というのは「なるほどなぁ」と思いました。あれ、あの本の大切なキーワードのうちのひとつなんでしょうね。あの「直葬」というので、おそらくは既存の形骸化したというか、まさに「つくられた」仏教のお葬式に叛旗を翻したんじゃないかと思います。
そんな話をしていたんですが、「キリスト教って、楽ですね」ということになって、それはそれでまぁそうなんだけどね。というのは、「キリスト者として生きる」ことは、今の日本の中にある「あたりまえ」と常に抗い続ける生き方でもあるわけです。その「あたりまえ」は、あまりにもあたりまえだから、そこにいちいち異議申し立てをしながら生きるのはけっこうめんどくさいし、なにより、そう生きること/生きていることをあらわす時点で「違う人目線」で見られるわけです。まぁそれがだんだん快感にはなっていくんですけどね(笑)。
じゃぁ、なぜわたしがキリスト者になろうと考えたか。それは、キリスト者の中には、あまりにもおかしいヤツが多すぎる。その1点です。そんなおかしいヤツが生まれるキリスト教であれば、自分もそこに入ろうかと。それですね。
まぁそんなこんなな話で盛りあがったり。さらには、「部落差別はあるのかないのか」とか、なかなかドラスティックな話で盛りあがったり。
あぁ、楽しかった。でも、奈良ですよ、ここは。てことで、9時半には退散。それでも家に帰ると11時。まぁやはり遠いわ。でも、また来よう。

この世界は、はまるとおもしろい

今日の午前は出張。第二のふるさとで定例の会議です。
ここ数年、ずっと学力問題について論議をしてきましたが、今日はもっとざっくばらんに「これからの人権教育」についての論議です。とはいえ、なんらかの共通のエビデンスに基づいて話するというよりも、それぞれの園校の実態をもとに話しあうという感じです。したがって、論議をかみあわすというより、話題を提供しあうという感じになります。
こういう時、保育園と義務制(小中)と高校では、まったく感じが違うんですね。保育園は、個別の課題というよりは「友だちと仲良く」とか「命の大切さ」を人権と考え、すべての保育士さんがそれをベースに保育をされます。義務制は基本的に教職員の統制をとりながら、一枚岩でとりくんでいきます。なので、年間の人権教育のスケジュールをたてて、個々の差別についての学習や人権という概念の学習を、教科としても担任としても、全体でとりくんでいく感じです。
それに対して、高校はバラッバラです。何がバラバラかというと、ほんとに、バラバラです。まぁもちろん「人権は大切」とは思っておられます。が、もしかしたら「人権より大切なものがあると思ってるやろ?」と思うこともしばしば。その「より大切」は、それぞれの立場でバラッバラです。例えば、分掌によって、教科によって、部活動によって、バラッバラです。それだけ個々の立場の独立性が高いといえばそうなんですが、逆に共有するのが難しい。それは、ある意味いいことです。わたしだって起立礼はしませんからね(笑)。でも一方、人権についてまともに考えたり実践したりする機会は、それをしなきゃならないセクションに入った時に限定されてしまうという側面もあります。もちろん、いずれのセクションも人権をベースにしなきゃならないことは言うまでもないことなんですが、でも、直接的には「より大切」なことがあると考える人が多いんです。必然的に、人権についてまともに考えたり実践したりする機会は「人権担当」にならないとなくなってしまいます。でもまぁ、ほんとは人権担当であろうがなかろうが関係なく、はじめから人権をすべての教育活動のベースにすえて実践するのが望ましいことは言うまでもないことなんですけどね。
てのはおいといて。
人権担当になった人は、大きく3種類にわかれます。ひとつのパターンは人権担当になることで「人権が大切」と考えるけど、人権担当ではなくなったら「より大切」なことが出てくる人です。もうひとつのパターンは、人権担当になることで「人権が大切」と考えて、人権担当でなくなってもやっぱり「人権が大切」と考える人です。
もちろん、育てたいなと思うのは後者のような人です。そしてそういう人は、たしかに存在しています。例えば、人権担当同士のメーリングリストに、人権担当をはずれても「いれといてね」とかいう人、おられます。とてもうれしいです。
で、3種類目の人ですが、それは人権担当になることで「はまる」人です。言い換えるなら、人生が変わる人です。例えば、趣味が高じて引越しをする人とか、研究にのめり込むとか、まぁいろんな人がいますけどね(笑)。
今日の会議で、わたしの先代の人がいみじくも言いました。
「この世界は、はまるとおもしろいんだけどね」
まさにそのとおりです。おもしろい。ほんとにはまるんです。もちろんわたしもそうだし、日本全国見渡すと、わたしの友だちはみんなそうです。てか、たぶんわたしの友だちも、その人のまわりはみんなそんな人なんだろうと思います。
じゃあ、どうすればどはまりするのか。それは、どはまりした人と一緒に実践をすることです。一緒に行動をするのもあるし、「話し込むことやな」と突き放されることもある。そうやって、どはまりした人のブラックホールに飲み込まれ、もまれることで、ホワイトホールからぽんと出て、自分もどはまりして、自分のブラックホールをつくっちゃう。
でもまぁ、どはまりすると、誰かさんみたいに人権担当に居座ってしまって、そうすると、そこの学校では他の人が人権担当になれる機会が減ってしまうということになります。となると、さっきの3種類以前の話になってしまう。困ったもんですわ…。

「心の壁」とか「当事者性を持つ」とか

午後の出張は、私学と市立と合同の研究会でした。
つくづく「作法」が違うなと。
例えば「法律や制度が変わっても変わらないもの」が「心の壁」らしくて、その事例として「入居差別」があげられてます。これ、心の壁じゃないでしょう。てか、心の問題ではないです。
そもそも、差別に心を持ってくるのはアカンと思うのです。でも、学校教育だけでなく社会教育でも「差別をなくす心」とか「心の中に潜む差別」とか、「心」を強調する傾向があります。まぁ、差別を身近なこととして認識するためにそういう語りになるのかなとは思うのですが、それはアカンやろうと思います。
なので、「入居差別は「心の壁」ですか?」という質問をしようかと思ったけど、レポートを聞いていて疲れてしまったのでスルーしました。アカンのやけどね…。

で、次のレポートは某有名私学です。なんでも、SSHとかSGHとかやってはるみたいです。国公立にもガンガン行ってはるみたいです。みなさん、自主性を持って学校生活を送っておられるみたいです。たぶん、日本のリーダーを育成しようとされてるんでしょうね。海外にも行って他国の高校生とも交流をしたり、それぞれの国のニーズにあったものをつくったりしておられるみたいです。
なんでも、「貧困と災害をなくす」らしいです。そして「当事者性を持つこと、社会的弱者の立場に立つこと」らしいです。
は?「当事者を持つ?」
そりゃ当事者の子どもはいるでしょう。そしたら「持つ」じゃなくて「気づく」とか「とりもどす」でしょう。当然「「当事者性を持つ」ってどういうことですか?」と質問です。答えはまぁええ話です。でも、それは「当事者性を持」たなくてもできることです。例えば「主体性を持つ」でもいい。
もちろん「誰もが当事者」ではあります。でも、当事者を代わることはできない。ましてや、貧困とか社会的弱者の当事者性を持つこと他者にはできないし、そんなことをやると言ったら当事者から怒られちゃいます。てか「社会的弱者」ってなんだよ!あまりの上から目線にイヤ気がさしました。

まぁでも、うちの「作法」で鍛えられたし、ここにいてよかったなと、あらためて思いました。

あるモヤモヤ

今日、またまた支店長室に呼ばれました。今回のネタはわかっています。
こないだの呼び出しの件です。たぶん依頼主が正式に依頼に来られたんですね。
てことで、支店長室に入ると、とある部屋のとってもえらい人がふたりおられました。まぁ、おふたりからあいさつされて、すでに中身はわかっているのでそれはそれです。で、わたしから一番大切な話を切り出しました。
い「時間はどれくらいいただけますか?」
参「40分でお願いします」
い「40分!無理です。2時間かかります」
参「少ないとは思いますが、これでお願いします」
い「で、どのジャンルの話を?」
参「トランスジェンダーについて」
い「でも、知識は必要ですよ。このギョーカイでは、知識というのは、語る人によってニュアンスが違います。あと、カバーしてる範囲によって、知識の濃淡もあります」
参「知識については、いちおうすでにレクチャーを受けているので、全員ある程度の知識はあります。こんなセミナーもやりました」
い「あぁ、これ。行きたかったけど用事があっていけませんでした。ここのトイレメーカーの方、いろいろやっておられるみたいですね。あと、村木さんもアンケートを実施したりしておられる。でも、トランスジェンダーについての専門家がおられないなと思っていました。これ、障害者解放運動の文脈でいうなら「Nothing about us, without us」だなって思ってました」
参「今回は講演ではなく、会議の中におけるレクチャーなので、40分しか時間がとれないので、これでお願いします」
い「わかりました。まぁ、ネタを考えます」
てことで、いちおう終わりです。

しかし、なんか、モヤモヤしています。きっとわたしの「えらいさん」への発言は間違ってないでしょうね。
あるひとつの「ものごと」をどう説明するかってことの背景には、それにまつわる「ある知識」をどう捉えるかとかがあって、その知識の捉え方抜きには説明できないんだと思います。だから、そこから話をしたいと考えたんだけど、「知識は一定ある」って言われた。そこにモヤモヤがあります。
今回、トランスジェンダーについて話をすることになりました。なので、セクシュアリティの知識についてもトランスジェンダーという観点からの軸足のかけ方や捉え方がある。でも、「それはいらない」と言われたわけです。これを言い換えるなら、「知識は普遍的である」という考え方に対する異議申し立てを無視されたということへのモヤモヤというか、たぶん怒りにも似た感情だと思います。だから、わたしは「えらい人」にドスをきかせました(笑)。
あるいは、わたしもいま日々アップデートすると同時に必死で深めようとしている「知識」を、「知ってる」と簡単に言われたことへの違和感と怒りでしょうね。「知ってる」と簡単に言うような人に「知ってる」と言われたくないということです。だから「えらい人」にドスをきかせました(笑)。
そしてなにより、学校現場の教員として「教育」に携わり、トランスジェンダー生徒交流会をすることで「実践」に携わり、こないだアドバイスをもらったにしろ、いちおうペーパーも認められたという意味では「研究」もしている人間であるという自負心は、やはりあります。もちろん「ネタだらけ」の話ではあるけど、そうした経験や知識のすべてを織り込んだ話なので、その一部を切りとることは、実はほぼ不可能です。それを尊重されてないというふうに思ったのです。だから「えらい人」にドスをきかせました(笑)。
あ、ついでに、「Nothing about us, without us」って言葉を言うことで、「当事者」という刀の刃をチラリと見せたかな(笑)。

で、職員室に帰って「ドスきかせたった!」って報告したら、そこにいたみんなから「やったれー!」ってエールもらいました(笑)。ええ職場やなぁo(^^)o

でもま、受けたものは受けたわけです。せっかく谷口さんが「京都ならこの人」と言ってくださり、伊藤さんが「うちの部屋にいたよ」と言ってくださったわけですから、それに負けない話をしなきゃなと思っています。もちろんフルパワーでやりますともo(^^)o。

変わり種

なんか、こないだの土日の集まりのレポートがSん潮に出てるとか。で、友だちが「京都の数学の教師の発言にけっこう紙面がさかれて」と教えてくれたので読んでみたら、ひどい書かれようです。かつて「『正論』にほめられちゃった」わたしなのになぁ(笑)。
なんか「権利に守られて」云々とか書いてわたしを批判してたけど、「守られている権利を行使すること」って、アカンことなのかなぁ。
文脈は、5時に帰るかどうかのことで、「5時に帰るときは「子どもの迎えがあるから帰る」と言います」という発言があったので「なぜ理由が必要なのか?理由はいらない。「帰ります」でかまわない」って言っただけのことで、それが批判されてるんですよね。ちなみに、「働き方改革」とか言われてるご時世にです。
基本的に、権利に守られてないことが問題で、権利に守られてない人は権利を守らないだれかによってその権利を剥奪されてるんだから、その「権利を剥奪するもの」を批判するのが正当だと思うんだけど、そうじゃなくて「権利を行使する人」を批判する。そしてそれが支持される。それが自分の首を締める行為だってことがわからないのかなぁ。
で、さらに笑ったのが、その教員で、「妻も子もいてトランスジェンダーという変わり種」らしいです。そりゃ、あたしゃ変態ですよ(笑)。でも、雑誌が特定の個人を指して「変わり種」はアカンでしょう。まぁ、LGBTブームの昨今ですが、「変わり種」じゃなくて、「ちゃんとした」人じゃないといけないらしい。で、どんな人がちゃんとしてるかというと、幸せな結婚式をあげる同性愛者とか、死ぬかもしれない手術を乗り越えて戸籍変更して幸せな結婚をした性同一性障害者とか、そんな人たちなんでしょうね。結婚して子どもができたトランスジェンダーはダメらしいです。でも、わたし、戸籍変更以外は上のふたつは満たしてるし、少子化解消にも協力してるし、なぜ批判されるのかよくわからないけどなぁ(笑)。

復習はいつしたらいいのかな

いま、毎週金曜日に「週末課題」なるものを出しています。ほんとうは宿題とかあまり好きではないし、そもそも世界侵略のススメでも宿題は出さないとなっているらしいから、あまりやりたくないのですが、昨今「意欲・関心・態度」を評価しなくちゃならないという、わけのわからんことになっているので、宿題を点数化して評価につなげるという外道なことをやっています。ちなみに、宿題の提出が「意欲」なのか「関心」なのか「態度」なのかはわからないし、提出しなかったらそれらがないかどうかもわかりません(笑)。
ただ、3日式に触れなかったら忘れるということはあるので、意味がないとは言えないかななどと思わないことはないです。まぁ、復習というやつです。
問題は、授業時の復習です。
ありがちなのは、早めに試験範囲を終わらせて、最後にまとめて復習する。これのいいところは、まとまった時間があるので、苦手な子に集中的に伝授することができたりします。が、遊ぶ子にとっては格好の遊び時間です。
もうひとつありがちなのは、週末の最後の1時間を復習にあてるというもの。これはその週にやった内容を復習するから、まぁ理にかなってるような気がしないわけでもありません。でも、ほんとうに理にかなってるのかどうかは不明です。というのは、金曜日に復習をして、土日は週末課題+遊んで、それが定着するかどうかが不明ということです。そして、月曜日は定着していることを前提に授業を試みるけど、定着していない子にとってはチンプンカンプンということになる。
なので、それの検証も兼ねて、今回は月曜日の授業を復習の図書館学習ということにしてみました。このメリットは、復習から1週間がはじまって、それを踏まえてその週の積み重ねができるということです。ちなみに、デメリットは、遊ぶ子にとっては格好の遊び時間になるということです(笑)。
まぁでも、いまやってるのが定積分の計算なわけで、これができないとあとの面積がさっぱりわやなので、やってみますか。
結果としてよかったかも。苦手な子が、週末課題を一生懸命やって、その成果が月曜日の復習プリントにつながるので、手応えがあったみたいです。もちろん、遊ぶ子にとっては格好の遊び時間でした(笑)。
まぁ、わたしにとっても教研明けのしんどい月曜日に授業せずに、かつ仕事もできたからメリットはありますね(笑)。