日常にまみれると

今日はもともとは体育祭でした。でも、昨日の時点で今日が雨とわかっていたので、来週に順延です。で、今日は木曜日だけど、月曜授業。特にこの時期「ハッピーマンデー」の関係で月曜日がたてつづけに休みになるため授業進度がクラスによってまちまちになるからです。ちなみに、2学期当初は午後の授業がなかったり、昨日も午後の授業がカットになったりと、午前と午後でも進度が変わるんだけど、そこはフォローしないんですよね。よくわかんないです。
ま、そういうことで、授業と会議にまみれる1日です。こんな日は、ほんとに何もできないので、空き時間はプリントづくりとか、やがて必要になるプリントの印刷とか、そんなあたりの作業です。
でも、今朝、前のおべんきょ場所のセンセからメールがあってゲンコをひとつ忘れてることに気づきました。やばいわ。何も考えてませんでした。

日常にまみれると、ほんとに何も考えられなくなります。新聞を読むヒマもないし、というか気力がわかないし、情報はネットだけです。まぁそれだけでもないよりはマシですがね。でも、その情報を咀嚼し、考え、どこかに投げ返すことができなくなります。まぁ、やってる人はできる人なんでしょうけど、わたしはできない。
わたしにとって、どうやら「考える」ということは、それなりの時間がないとできないことのようだということが、ようやくわかってきました。まぁ、今頃気がついたのかと、それならなんとかせいやという声があちこちから聞こえてきます(笑)。でも、だからといってすぐに時間がつくれるかというと、そうもいきません。いや、土日をなんとかすればどうにかなるだろうという話は当然あるわけですが、それはどもなりません。てか、どうにかしたって、それはそれで土日に用事は入ります。まぁそんなもんです。

でもまぁ、この危機に気づいただけでもよしとしましょう。で、今日明日のリソースを、忘れていたゲンコに割り振りましょう。
ということで、ほんの少しの時間だけど、ペーパー読みです。うーん、まだ形にならない。でも、いくつかキーワードがある気がします。これをどう形にするかですね。そういえば材料があったな。とにかく集中!

不摂生とか

今日は午前は「第2のふるさと」で会議です。今日はわたしがしたい話とその場でなされた話が少しずれたかなぁ。「子どもができないところを担任はわかってるんだから、そこをちゃんとフォローしなきゃならん」という話が出てきて、それはまったくその通りなんですが、わたしはそういうのはある種の精神論的な話だと思ってるんです。で、この場はそれはあたりまえの前提条件で、そういう話をする場ではないと思っているんですよね。具体的には「勉強が苦手な子どもたちに何が不足していて、それはどのような要因から起こっていて、それにどのように対処すればいいのか、あるいはそれを未然に防ぐにはどのようにすればいいのか」ということを過去のデータと現在子どもたちをとりまく状況とを重ねあわせながら論議する場所だと思ってるんですよね。
まぁ、その前提条件が崩れてるのかもしれないけど、でも、そこまでしつこく言わなくてもええんとちゃうかなと。つまり、そこにいる人たちは「わかってる人たち」なんですからね。まぁ言うならば、ホームルームの時間に「お前ら、なんでホームルームサボるねん」って話をするのと同じで、それは来てる子らに言うなよなって話です。いやもちろん言うのはいいんだけど、来てる子らがその話を聞くことに意味があるように言わなきゃならんだろうということです。
てことで、午前の会議終了。
ガッコに行って、トイレに行くと、某所から出血してるのを発見。うーん。3年たってもアカンか。まぁ、理由はわかってます。一番修正してほしかったところは、かなりたいへんだったので、相当テンションかかってるんです。でも、そこはけっこうこすれるところなので、傷ができやすいんです。例えばUシットとかするとアウトです。たぶん、昨日の筋トレがアカンかったのでしょう。でも、落ち込みますね。
で、おべんと食べたら、すぐにK新聞の記者が来られて、1時間半ほど取材を受けるなど。写真撮られちゃいました。バックは散らかってるぞ(笑)。
その後、傷跡の処置をしてみるなど。
あとはダラダラ雑事をして、定時にあがって、先週に引き続いてカイロプラクティックです。先週は体調最悪だったので、効果は劇的でしたが、今週はメンテナンスって感じです。次回は来月。その程度まで回復したってことですね。
さぁ、家に帰ってビールを飲んで、「マツコの知らない世界」を見て寝よう。と思ったら、「マツコ」ないよ!秋の特番かよ!ったく、特番、やめぇ!

どっちもどっちじゃない

はじめに結論を書くと「玉城デニーさんが当選してよかった」と思ってます。
「ウチナーでもなく、沖縄に縁もゆかりもなく、運動もしてないお前に何がわかるねん。何を言うとるねん」という批判は、当然引き受けます。でもそれは、アメリカに縁もゆかりもなにもないわたしがアメリカ大統領選挙の結果に関心を持ったり、その結果に喜んだり悲しんだりするのと同じ程度のことです。まぁ、アメリカとは違い、沖縄の現状にヤマトンチュのお前には責任があると言われたらそのとおりで、そうなると玉城デニーさんが当選したのを喜ぶこともまたかまわんやろとも思うわけです。
で、なにがよかったか。
それは、アメラジアンであり母子家庭の知事が誕生したということです。かたや佐喜真さんは羽衣伝説の末裔です。出自的にどちらを選択するかというと、わたしは玉城さんです。なぜなら、そういった立場の人のことをきっとわかるだろうなと思うからです。
もちろん、「ある出自を持つ人しかその問題はわからない」とは思っていません。そんなことだったら、わたしがやってることはすべて不可能になります。てか、「そういう出自を持つ人」にお願いして、わたしは退散します。
ではなくて、政策見た時に「そうだよなぁ」と思ったんですよね。なにより「中高生のバス代無料化」は「だよねー」と思いました。
例えばこれ、京都府知事には思いつかない発想です。なぜならバス代の高さを知らないからです。てか、京都市内のかなりの人は均一区間なので、わからない。でも、ひとたび均一区間を出ると、バス代ってすごく高い。わたしも京都府南部にいなかったらわからなかったと思います。
これだけでどれくらいの効果があるか。
例えば、バス代のために子どもがバイトしなくてすむ。例えば、バス代のために親がその分過重な仕事の仕方をしなくてすむ。例えば、バス代を節約するために親が車を動かさなくてすむようになる。例えば、子どもたちがバスに乗ることで、バス内でコミュニケーションをとることができるようになる。例えば、バスに乗る人が増えて、もしかしたらバス運転手の雇用が増えるかもしれない。
いろんな効果がある可能性があるんですよね。
それからもうひとつはアイデンティティです。
例えば、佐喜真さんが勝ったとして、その時カチャーシーを踊っただろうか。たぶん踊らなかったんじゃないかな。誰かが「ウチナーグチを使わないことに気づいた」って書いてたけど、そこです。佐喜真さんの本心はどうかわかりませんが、少なくとも玉城さんはアイデンティティとしての沖縄をとても大切にしている。そういう人が知事になることがとても大切だと思っています。
かつて、1995年の県民大会で「人沖縄は誰のものでもなく、沖縄の人のもの」というアピールがありました。その言葉が突き刺さってきます。少なくとも、玉城さんはそう考えている。それが翁長さんの遺志を継ぐことなのかなと思います。
で、辟易ということ。特に若者の辟易ということ。そして、10代20代では佐喜真さんが勝っていたということ。いろんな人がいろんな分析をしてるので、それはそこに譲るとして。
「辟易」を持ち込んだのは誰なのか。もちろんヤマトンチュである「わたしたち」です。が、ヤマトンチュは一枚岩なのか。それは違います。どのヤマトンチュが持ち込んだのかは正確に考える必要があると思います。そこに「どっちもどっち」を持ち込むのは違うと思います。
わたしは沖縄を利用したくない。だから、利用されることを拒否し、沖縄は沖縄の人のものということを明確に打ち出してくれた玉城さんが当選したことを喜ぶのです。なぜなら、わたしが利用することを強制されなくなるからです。

そんなことを考えていたら、ノーベル賞受賞のニュースが来ました。
「基礎研究が大切」と、この間、受賞者が口を揃えて言ってます。でも、そのことを聞かない。そして「受賞」という事実のみを利用する人たちがいます。「基礎研究が大切」という発言を利用するのと、「受賞という事実」を利用するのと、それらはどっちもどっちなのかな?
たぶん違う。

ある会話

来週、体育祭があります。となると、そのあと当然打ち上げがあるわけです。その打ち上げの文書を見ると、会場の案内に「職場から徒歩15分」とあります。
体育祭は、わたしがいるセクションの役割なので、この案内文も、うちのセクションの若い衆が書いたはずです。これはひとこと言ってあげなきゃと。
い「あのね、人権担当の立場で言うと「徒歩15分」は使わないんだよ」
T「なんでですか?」
い「車いすユーザーとか歩けない人もいるし、それだけじゃなくそもそも歩く速さは人によって違うからね」
T「あー」
い「15分はだいたい1キロと考えているので、例えば「徒歩10分」だと「700m」とか書くんだよ」
T「そうですかー。ボク、ずっと「徒歩15分、走って3分」って書いてました」
い「走って3分(笑)。それ、早すぎるやろ!」
伝わったかな(^^)

過去のしでかしを振り返る

この間「おべんきょ」が進みません。原因はわかっています。山のようにあるゲンコです。なので、とにかく前倒しでゲンコを出してきました。今日が〆切のゲンコは先週すでに出してたし、今月末のゲンコもすでに送りました。これはかなりめずらしいことです。でも、それくらい切羽詰まってるってことです。で、次にとりかかるのは、10月中頃〆切のゲンコなんですが、これがめんどくさい。というのは、10年前の出来事を思い出せって話です。しかもさらにめんどくさいのは、これ、わたしのところに直接来たものじゃなくて、KうさんとかHがしさんとかに行ったのがまわってきたってことです。ちなみに、ほんとなら0島さんからもまわってくるはずなんですが、天国からはちょっと無理なのでこなかったという。
それにしても、あらためて思ったのは、なんでわたしはこんなのに3回もかかわったんだ?ってことです。
1回目は0島さんとの腐れ縁はありました。さらに、当事者不在で勝手に決められたことに反発もして「やったろかい!」というのもありました。さらに、まだまだデビューしたてなので、いろんな人と一緒に「しでかしたい」ということもありました。なので、まぁそれはそれでいいでしょう。結果はなかなか楽しい時間になりました。
2回目はそれから3年後。「まぁ、前にもやったしええか」くらいの感じでした。スタイルもある程度確立してたし、人のつながりも増えてたし。なにより「新たなことにチャレンジしたい」ということがありました。結果はなかなかなカオスで、これまた楽しい時間が過ごせました。
問題は3回目です。はっきり言ってやる気なかったです。だって、2回もやったんやから、もうええやん。しかも、近年どんどん豪勢になって、とてもじゃないけど気安く引き受けられるものでもありません。ここはしっかりとした組織があるところにやっていただけばいいのではないかと。だって、わたしは組織もないし、常にピンで動いていますからね。でも、「どうしてもやって」と言われたので、しかたなく引き受けました。そしていろんな人に手伝ってもらいました。みなさん、しかたなくうれしそうに手伝ってくださいました。そんな人々がいないとなんにもできないということがわかった1日でした。もちろん結果はわけわからんことになってました。
で、今回のゲンコは、それを振り返れと。それ、約束にないし。だって、たいていの人は1回分書けばいいけど、わたし3回分だし。でも、あの3回を「なかったこと」にするわけにはいきません。たぶんそれだけのことはやってきましたし、そこでなされた議論はリソースとして残さなきゃなりません。
なので、書かなきゃならんなと。A4判2枚を2本か。やっつけてあげましょう。
それが終わったら、あと3本ね(笑)。そのころには「おべんきょ成果」のリライトも返ってくるでしょう(;_;)。

報道すべきことはなんだ?

今朝はいろいろ考えることがありました。
まずは『新潮45』という雑誌が休刊になりました。発端は、ある国会議員が「LGBTは生産性がない。そんな人に多額の税金を投入するのはおかしい」という文章を書いたことです。
ここでいう「生産性」は「子どもをつくること」です。わたしの知っているレズビアンカップルで子どもをつくった人はいるし、LGBTが子どもをつくれないというのは間違ってるし、そもそも生産性で人を判断することそのものが間違っています。ちょうど、解放新聞から「コラムを書いて」って言われて、解放新聞京都版のバックナンバー見ても書いてなかったから、「この件について書かなきゃな」って思って、書きました。こないだの解放新聞京都版に掲載されました。

まぁそれはいいとして、さきの国会議員の文章に対してたくさんの人が抗議をしました。それに対して、なんと『新潮45』は「あの国会議員の文章はおかしいのか?」という特集をしました。これに対して、さらに多くの人が抗議をしました。
そしたら、突然の休刊です。実はその前に「謝罪文」を出したのですが、「なにについてか」ということが一切出されていませんでした。そして今回の休刊も同じです。そして国会議員の人は、口をつぐんだままです。
この間、こんなんばっかりです。
先の国会では文書の改ざんがされました。が、誰もその責任をとっていません。さらに、情報公開に応じた公文書は黒塗りだらけです。そう言えば、かつてハードディスクをドリルで壊した国会議員もいました。携帯電話を調べられそうになったら「水没した」と言った人もいました。
こうやって、すべてにおいて責任をとらずに、なかったことにする、そういう社会にほんとに嫌気が差しています。
一方、とある高校の男性と思われる名前の教員が、男子高校生に痴漢をしたという容疑で逮捕されたというニュースが全国に配信されました。本人は否認してるので、これはあくまでも容疑です。でも、容疑なのに実名入りで全国に報道されました。これ、もしも教員じゃなかったら?もしも男子高校生相手じゃなかったら?
痴漢はダメです。犯罪です。決して許される行為じゃない。でも、日本全国で男性の女性に対する痴漢行為は山のようにあって、きっと逮捕されている事例も山のようにある。でも、全国に報道はされない。報道されるとしたら、たぶん女性が男性に対して痴漢行為をはたらいたとか、男性が男性に痴漢行為をはたらいたとか、そんな時です。
かつてわたしの友だちがあることで逮捕されたことがあります。決して許される行為じゃなかったけど、でも、被害者とは示談をすませて、ことは終わった。検挙もされなかった。懲戒免職にもならなかった。でも、全国に報道されたことで、結果的に仕事をやめる状況に追い込まれてしまいました。
かたやなかったことにする。そしてかたや大々的に報道することで社会的制裁をくわえる。
ほんとにこんなこの国がイヤでたまらない。
だから、とにかくこの社会を批判的に見る目を養ってください。そのための早道は、テレビや新聞やネットを総合的に見ることと、もうひとつは海外のメディアがどんな報道をしているかを知ることです。そのためには英語力が必要になります。だから、英語をしっかりと勉強してください。

じゃ、授業をはじめます。今日は三角関数の相互関係の続きからやったね。

こだわり

わたしのような文系の数学教員でもこだわりってのはあります。それがどんなところに出てくるかというと、三角関数(笑)。
たぶん三角関数って、単位円派とそうでない派にわかれます。ちなみにわたしは単位円派です。だって、角度ごとに半径を変えるの、なんでやねんというと、その角度における三角関数の値がわかってるからやし、そうなると、三角関数の値を求めるために円を書くことの意味がなくなります。そういう出来レースというか「やらせ」がきらいなんです。なので、わたしは単位円派です。
さらに、三角関数に限らずだけど、代数的解法と幾何学的解法だと、幾何学的解法が好きです。まぁでもこのあたりは数学教員共通かも。もちろん、高校レベルの話なんで、紀元前の話ではありますがね(笑)。いや、前にIずみちゃんが言ってたけど、高校の数学って、紀元前レベルですから(笑)。
つまりなんだって言うと、文字式をゴリゴリやるより図形的に考えるのが好きってことです。
でも、これ、基本的には数学がある程度できる人しかできない傾向にあります。なにせ、「やりたいこと」を図に落としこむ必要性がありますから。でも、図形的に考えると、まるで「アルプス交響曲」のように、目の前がパッとひらけた感じがするし、なにより、自分がやろうとしていることが具体化されるので意味がとりやすくなります。さらに最大のメリットは「公式を覚えなくていい」「計算が最小限になる」です。なので、数学が苦手な子にこそ図形的解法を身につけさせたいんですよね。
そんななかで、今朝、起き抜けのボーとした頭で今日の授業について考えていたのですが、画期的な教え方(解き方)を思いつきました。ここ、いままでは数学苦手な子には「解けなくていいよ」って捨てさせてたところです。いや、「解けなくていいよ」は、完全に教員の負けですからね。でも、そこをやらせると公式は間違えるわ計算はミスるわで、やるとろくなことがないんです。もちろんそれを回避する図形的解法がないわけじゃないんですけど、これが汚いんですよね。エレガントじゃない。
今回思いついたのは、エレガントさを保ちつつも簡単な図形的解法です。よし、やってみよう。
ということで、あるクラスで実践。実戦するなかで、さらに画期的な解法がみつかって、自分なりに感じてた「謎」への答も見つかりました。
が、んー、手応えがうすい。そうか、こいつら、それの前の段階だったか(;_;)。
それでも、「教科書式といつき式、どっちが簡単?」って聞いたら「いつき式」って答えてくれた数学苦手な子がいたから、よしとしましょうか。

剣を抜かざる得ない時

この間、杉田議員のことについて、なにも発信してきませんでした。というかできませんでした。理由は簡単で、ずっと別のことに忙殺されて、ほとんど情報が入ってこない状態にあったからです。さらにそれをいいことに、杉田議員の投稿の全文を読みませんでした。なぜなら、自分の感情を抑えられなくなる可能性があって、きっとしんどくなるかもしれないと思ったからです。
そんな中、ようやく林夏生さんのスピーチの全文を読みました。
林さんとは個人的に面識があります。最近ではTRPでお会いしました。いつも満面の笑みをたたえながら、富山の地で実践しておられる学生たちとのできごとを言ってくださいます。いつだったか「自分はカミングアウトしないんだけどね」って言ってくださったことがありました。
林さんがやっておられることの意味は「カミングアウトしなくてもできる」です。
何かやると「それがカミングアウト/アウティングにつながるのでは」と不安になる方がおられます。そういう方は、やりたくてもできなくなってしまう。「そんなことはないんだよ」ということを林さんは自分の生き方を通して伝えておられると思っています。そしてそれは「当事者でなくても実践できる」というわたしの基本的な姿勢と響きあうところがあるのです。
そんな林さんがカミングアウトされたということの衝撃は、わたしにとってはすごく大きなものです。それは「泣けた」とかいうものとは異質のものです。
わたしは「カミングアウトできる社会をつくりたい」と思っています。それは「カミングアウトしなきゃならない社会」と対極にあると思っています。林さんのカミングアウトは、いまこの時が「カミングアウトしなきゃならない社会」であるということを明らかにしたと思います。
林さんがカミングアウトしなかったのは、もちろんクローゼットでいなければならないという状況があるからではありますが、それと同時により積極的な意味があったと思います。その選択を変えさせられたということの衝撃です。
そして、今朝、岡野八代さんもカミングアウトされたことを知りました。
こうやって、口を閉ざしていた人々の口をこじあけるような社会への怒りとか悲しみとかやるせなさとか、いろんなものが押し寄せてきます。

さらに林さんをとりあげた新聞が出てきた。林さん自身がおっしゃっている通りアウティングです。口をこじ開けられた人を消費する社会。でも、抗議を受けた当の議員はなにもない。
わたしがめざすのはこんな社会じゃない。

「きゃ」

今日は午後から出張です。でも午前は授業がないから、雑務ができるなと。今日のタスクは某在日外国人教育関係の資料集と成績処理です。それぞれ2時間と考えたらギリギリいけますね。
てことで、PCに火を入れるも、ネタが来てない。これは落とさなきゃならんかな。と、職員朝礼から帰ってきたらネタが来てました。やれやれ。これでなんとかなります。にしても、ガチのデッドラインです。
まずは成績処理です。もう何年もやってる作業ですから、そんなにきつくはない。お次は資料集。もっと早くに全部がそろってたら時間を見つけてやれるのにな。
と、成績の提出が今日ということが判明。えーと。わたしが出張に出たあとに会議があって、そのあとに成績の提出?物理的に無理じゃん。とりま、会議を通す前に成績を提出するしかないですね。さらに印刷屋に電話したら今日とりにくると。てことは、出張に出る前にデータをそろえなきゃならんと。
綱渡りを越してます。でもやりきりましたとも。
出張はゆるりとしたもんです。
で、夜は恒例の会議のために大阪へ。こちらもゆるりとしたもんです。そのあとはこれまた恒例の呑み。
で、帰りのことです。
地下鉄に乗ってたら、メッチャふらふらのおじさまが乗ってこられて、その方が降りる際に大きくこちらによろめいてこられました。とっさに腕でガード。のしかかられるのはからくも避けることができました。おじさま、なにごともなかったかのように降りて行かれました。
えーと
けっこうヤバかったんですよね。あそこで「きゃ」とか言ったら状況は変わったのかな。そういやこないだも網棚からキャスターが落ちてきて、隣の人に当たりそうになったのでガードしたな。落とした人は隣の人にやたら謝ってたけど、ガードしたのわたしだったんだよな。ま、隣の人はお礼を言ってくださったけど。
なんか、そういう危機的状況になった時に「きゃ」でもいいし、「あ」でもいいし、声が出せればいいんだけど、声が出ないんですよね。なぜならとっさの時に息を止めるからです。息を止めてパワーを出す。で、ガードが終わったらすでに「きゃ」とか「あ」とかいうタイミングじゃなくなってるなら、結局なにごともなかったかのような日常になる。するとのしかかりかけた人もキャスター落とした人も「なにごともなかったんだ」と思ってしまう。
なんだかなぁ。

名前とかカミングアウトをめぐるあれこれ

まぁ、ここを読んでる人はほとんどいないだろうから、個人的な考えをテキトーに書きましょう。

たぶん、自分にとっての事の発端は、ガイドラインにまで遡ると思うんです。ガイドラインには「カミングアウトの検討」というのがあります。たぶんあれです。つまり「カミングアウト」がガイドラインの中に組み込まれることで、みんなカミングアウトしなくちゃならなくなった。で、適応があるかどうかの判定は「周囲の理解」で見ちゃいます。なので、「カミングアウト」が「理解を求めること」を前提になってしまった。そして、例えば「某会議」なんかで話を聞いていると「親にカミングアウトしたら受けとめてくれた」「友だちも受けとめてくれた」「せんせいも受けとめてくれた」みたいな話が頻発するわけです。もはや「カミングアウトの検討」とかいらんやろうと。カミングアウトはダダ通しやないかいと。なので、「某会議」では「カミングアウトってなんなんですかねぇ」とかいう意見を言ってしまうわけです。
まぁ、ある種しかたないといえばしかたない側面があることは否めないです。だって、2000年の日記見たら「あるクラスでカミングアウトしました」とか書いてるし、そんなもんではあると思います。
で、こういうカミングアウトだと、そりゃ「ノンカム」=「クローゼット」なんでしょうね。
でも、わたしは「カミングアウトしました」とか書いていた頃の後、少しずつスカートはいたり化粧したりしてパーティーなんかに行くようになって、「あなた、源氏名どうするの?」とか言われて、そこから「いつき」という人生がスタートしたわけです。それはそれでよかったんです。というのも、当時のわたしは「K」というわたしと「いつき」というわたしを切り離して生きてましたからね。だから、それぞれのシチュエーションにあわせた「名前」で生きることにさほどの矛盾もありませんでした。
でも、フルタイムで生きていくことを選択した時から「引き裂かれる自分」がいることに気がついたんですよね。つまり「いつき」という自分で新たにつくりつつあることと「K」という名前で今までやってきたことが引き裂かれる。
もちろんそんなことはよくあることです。だからこそ、女性たちが「姓の選択を!」と主張するわけです。そしてもちろん逆のパターンもあると思います。つまり「ペンネームでやってきたこと」が自分をつくりあげてるなら、それを選択することもあるでしょう。ただ、わたしの場合は「K」でやってきたことの上に「いつき」があるにもかかわらず、ふたつの名前があるという状態だった。それが「引き裂かれる自分」でした。
だから、2002年に「土肥/いつき」という名前で『部落解放』に出ることにしたんです。『部落解放』は、教育委員会はもちろん読んでるし、わたしが住んでいる地域の人も当然読んでいる、あるいは読む可能性があります。てか、地域の公民館に置いてあったし(笑)。そしてなにより、いままで「K」という名前でつきあって来た人や、その人に連なる人々も読んでいる。そういう雑誌に実名で出ることにしたんです。ちなみに、その時にコーディネーターをされた方は、諸般の事情で仮名で出られました。それを批判する気は毛頭ありません。それぞれがそれぞれの置かれた状況の中で選択するだけのことですからね。
そして「/」をとるために2004年に改名しました。もちろん「K」のままで生きることも考えたし、政治的正しさはそちらの選択にあることはわかっていました。そしてなにより、「本名(民族名)を呼び名のる」と言ってきたわたしが、そして生徒が本名を名のる瞬間に立ち会ってきたわたしが、「名前を変える」という選択をすることはどうなのか。そこでずいぶん悩みました。
けど、すでにフルタイムで4年ほど生きていて、すでに「K」はしんどかった。なので、「いつき」を実名にすることに決めた。なので、その選択を「同化」あるいは「クローゼット」と言うなら、まぁ、それはそうやなと思うわけです(笑)。実際そう思ってますから。
でも、「いつき」という名前ですべての時間を過ごすことを通して、ようやく「統合された自分」になりました。それが「いつき」という名前の選択の過程です。
で、実名で生きるってことです。
それは例えばわたしのクラスにいた在日の生徒が本名を名のる時に、最初の反対は家族から来たということとつながります。つまり、その子が本名を名のるということは、同時に家族も在日だということがわかるということです。部落の子が立場を語った時は家族の反対はなかったけど、やはり自分に連なるルーツについて話さざるを得ない。だから、その子の立場宣言は親が部落出身であることからスタートしました。そして部落の場合、家族だけではなく、その地域全体のカミングアウトにもつながります。
つまり、在日にしろ部落にしろ、カミングアウトは自分ひとりではおさまらない。でも、あの子たちはそれをしたんです。
あるいは、あるアメラジアンの友だちは、祖父のfamily nameを自分の「名」の前につけてミドルネーム風の名前にしました。別のダブルの友だちは、通名と民族名の両方を名のっています。そうやって「名のる」ことにこだわりぬいた人たちがいる。
そんな人たちとつながり、そんな子どもたちが語る場に立ち会ってきたわたしはどうするのか。
もちろん、部落や在日とトランスは違うという選択肢もあります。でも、わたしは「違う」という選択をしなかった。それは、あくまでも「わたし」の選択です。
だから、実名で生きることを選びました。それは同時に、わたしに連なる人々、すなわち家族にとってのアウティングでもあり、家族がおこなうカミングアウトでもあります。そういう生き方を選んだ。それがわたしの選択であり、家族の選択でもある。だからその総括として、朝日新聞の特集「家族」に出ることにしたんです。あのあと、家族についての取材はすべて拒否しました。
なので、実名にこだわっています。そして、実名で生きることをもって「わたしはトランスジェンダー」(笑)という言葉に依拠しないカミングアウトをしているつもりです。それが「24時間ひとりパレード」ということの意味です。
わたしが「カミングアウトしていない」というのは、最初に述べたカミングアウトをしていないということです。そう言えば、ふと思い出しましたが、かつてH間さんに「わたしって、Real Life Experienceしてますか?」って聞いたことがあったけど「微妙」と答えられました。たぶん「カミングアウトしてますか?」って聞いたら、やっぱり「微妙」なんでしょうね。でも、こういう生き方が可能であるということは、わたしがやっていることがその証明なわけです。

もちろんこれは「わたし」の「こだわり」なわけであって、そのことをもって他の人の生き方や選択と優劣や正誤をつける気はまったくありません。が、わたしがわたしのこだわりとして「実名主義」をとる限り、わたしの話すこと書くことにそれが価値あるものとして描かれてしまうのはしかたがないことでもあります。でなければ「こだわり」でなくなってしまいますからね。
まぁ、そんな話。