再び『分解者たち』

朝、職場に着くと、こないだの部落問題学習の感想が返ってきてました。その中に「あぁいうシーンは不愉快だから流さないでほしい」という感想がありました。
そこで思い出したのが『分解者たち』です。

かつては「人→糞尿→肥料→作物→人→」という円環が成立してた。でも、「糞尿→肥料」のところが途切れた。「糞尿」は、わたしたちの知らないところで処理されるようになった。「肥料」は化学肥料になった。ボットン便所の頃は「糞尿」はわたしたちの下にリアルにあった。でも今は水を流したらどこかへと消えていく。でも、その行き先を知らない。その「行き先」に押しつけてる。そこは都市の外部にある辺境か、あるいは都市内部の辺境。
同様のことが、屠場にも言える。どこかで処理をされた牛を食べている。その「どこか」は誰も知らない。誰かがその処理をしてるけど、その「誰か」は誰も知らない。辺境で処理をされている。その辺境が顕在化した瞬間、「不愉快」という感情が沸き起こる。「隠蔽せよ」という言葉が発せられる。
マグロの解体ショーは成立するけど、牛の解体ショーは成立しない。いや、マグロもショーとしての解体しか成立せず、日常生活での解体は存在しない。魚を三枚におろす必要もなくなってる。今はまだ「魚屋さん」というリアルなところにあるけど、コンビニで魚が売られる時代になったら、もしかしたらそのリアルさがなくなるかもしれない。魚の頭を落とし、内蔵を掻き出し、皮をひくという屠場と同じ作業が、もしかしたら隠蔽される時代が来るかもしれない。
皮を剥がれた頭の中にタンがある。それを取り出し、皮を剥いで薄くスライスしたものを「タン塩おいしい」って食べてる。でも、そのもとには、あの皮を剥がれた頭がある。
革だってそうです。
みんな革製品を買う。でも、その革製品をつくるためには、誰かが「皮をはぐ」という作業をしている。そして、その皮を誰かが鞣してる。あのすごい臭いの中で作業をしている。でも、そんなことを知らずに、それは隠蔽されたままで、わたしたちは革製品をほしがる。
そんなことを思いました。だからこそ、わたしはあえて顕在化させようと思ったし、顕在化させたし、これからも流し続けます。

てことで、わたしの話を聞いてくれた子らの「6人講座」でそんな話をしました。
みんな真剣に聞き、反応してくれました。ええ子らです。
ついでに「おべんきょ成果」の話もしたりして。
なんでも、この間の「関西インクルーシブ教育研究会」の帰りに「社会学で博士をとるか、『Sゃ会学Hょう論』に「おべんきょ成果」が載ったら「社会学者として認められる」って言われる」って言っておられる方がおられました。てことは、あそこに載ったらこんなことになるんですね。
「へー、社会学ですか。どんなことをやってるんですか?ジェンダー。へー、どこの大学にお勤めですか?え、高校。何を教えておられるんですか?数学?」
みたいな。「数学を教えられる社会学者(笑)」です。
その延長で、バトラーの話やセジウィックの話をしたら「こっちのほうがおもしろい!」って言われた「数学B」の時間でした。

聞くのが怖いことと聞かなきゃならないことは違う

今日から2年生が研修旅行です。ちなみに、わたしが授業を担当してるのはほとんどが2年生&副担任も2年生なので、わたしが引率になれば「穴」がなくなるのですが、なぜか引率にはならない。まぁ、そりゃそうでしょうね(笑)。
なので、穴が開くおふたりの代講をするなど。
授業が終わったら、駅まで走って出張です。ちなみに、火曜日は出張日なので、本来走らなくていいようになってますが、代講があるから走らなきゃなりません。これ、1週間ずれてたら、代講できないから、えらいことになってたぞ(笑)。
で、午後からの会議で出た話題のうちのひとつが、外国籍の子どもの在籍把握の問題です。
いちおう、毎年文科省が5月1日時点での国籍別の在籍数の調査をしてきます。「把握できる範囲で」って言われるけど、できる限り正確な情報は出したいです。だって、把握すればするほど人数は増える、逆に言うと「不正確さ」は、すなわち人数が少なくなることですからね。
あと、国籍別より、ある種大切なのは、「在留資格」です。例えば「配偶者等」とかだと、親が離婚したら在留資格がなくなります。ヘタしたらオーパーステイで入管行きだっだ、ないわけではない。あるいは「家族滞在」も不安定です。さらに就労制限がかかってるから、原則的には働けない。働く場合は入管の許可を得ないといけないし、28時間/週の制限があります。てことは、例えばそれを知らずに子どもがバイトしたらヤバイことが起こりかねないし、ましてやその子が就職希望だったら「そういう指導のしかた」をしなきゃなりません。ちなみに、「日本で義務教育を受けた」とみなされる場合(渡日が小学校4年くらい以前だとか)は、就職が決まったら「定住」に切り替えられるので働けるようになるんだけど、そういうことも知ってないといけない。これ、就職だけじゃなく進学にも影響します。日本学生支援機構の奨学金(ローン)は、家族滞在の場合は「申込資格」がありません。そんなことも知ってないといけない。
「知ってないといけない」は、制度を知ってることはもちろんですが「目の前の子どもがそうであるかどうか」も「知ってないといけない」。
で、それは誰に聞けばわかるかというと、本人や親です。
京都では多くの学校が、入学時に新入生から住民票を提出してもらってます。たいていの自治体では、住民票を見れば外国籍か日本籍かはわかります。でも、ほとんどの場合、「国籍」「在留資格」「在留期間」の欄が「省略」になってます。これ、申請者が「省略」にチェックしてる場合もありますが、役所の受付で「どこに提出されますか?」と聞かれて「高校です」って答えると「じゃここはいらないです」って、役所の職員の判断で省略されてしまうこともあります。さらに自治体によっては、そもそも欄そのものがないところもあるとか。
で、一番簡単な把握の方法は、『入学の手引』に「外国籍の方は国籍欄・在留資格欄・在留期間欄を省略せずに出してください」って書くことなんですよね。
ところが、会議でそんなことを言ったら
「そんなことはできない」
って言いはじめる教員が出てくるんですよね。
「子どもが知らされてない場合、どうするんだ」
って。いや、子ども知ってるし。そしたら
「なぜそうとわかる」
ときます。だって、現行の住民票だって「日本籍ではない」ことはわかります。てか、そもそも自分の国籍くらい知ってないでどうすんねんと。だって、主権者教育受けて、投票行く気満々で、18歳になってハガキが送られてこず「なんで?」って親に聞いたら「あんた外国籍やし」って話ですよね。どのみちわかるんだから、知るのは早ければ早いほどいい。
でも、教員はビビります。
「そんなことは聞けない。文科省には協力できないって返せばいい」
「じゃ、在留資格の問題はどうするんですか?もしも『入学の手引』に書かなかったら、ひとりひとり確認をしなきゃダメですよね」

そりゃ、聞くのは怖いですよ。でも、その怖さは、「わたしの問題」なんです。だから、「わたし」が克服すべき課題でしかない。そして、こちらが覚悟を持ってたずねれば、ほんの少しいろんなことがあるけど、教えてくれます。なにより「なんのために聞いてるか」ってことが自分の中で整理できてることが大切なんですよね。
それは部落のことも同じです。障害だって同じです。自分の置かれた立場を自覚するところからはじまります。
でも、どうやらそうは考えない教員もいるらしいです。子どもに必要なのは「隠すこと」ってことらしいです。
まぁそんなことを考えながら会議は終了。

夜は恒例の会議→総会→飲み会です。こちらはホンネでしゃべれるから楽ですね。
でも、家に帰るのは遅くなります。そのためにスペアのおべんと箱を買ったんですけどね。で、家に帰るとおべんと詰めてくれて、明日の朝の準備も終わってました。ありがたや。
その隣にあったメモ。

なるほど(笑)。

「おもしろかった」らしい

今日の授業はプリント学習。と思ったけど、あまりにも簡単なプリントなので、早い子は10分ほどで終わってしまうんですよね。そうなると、残りの40分がヒマになってしまいます。もちろん、課題は与えるけど、やるかどうかはその子次第です。てことで、はじめ15分だけ授業をして、プリントの時間は35分にしました。
さてさてどうなるか。
教室で教員と生徒の間にinteractiveな関係がある場合は、子どもたち同士の関係をどうつくるかってのが課題になります。でも、教員と生徒の間にinteractiveな関係がつくれない場合、子どもたち同士の関係があらかじめあって、教員を寄せつけない感じがあるんですよね。そういう場合にどうするか。とにかく、個々の生徒との関係をつくるしかないです。だから、どんな質問にも全力で答える。解決の糸口を提示して考えてもらう。こういう教員と生徒の関係づくりを通して、既存の子どもたち同士の関係を切る。interactiveな関係にある子どもを少しずつ増やす。そして、そういう子どもたち同士の関係を再構築する。
たぶん、そんなことが必要なのかなと思います。今はその最初の段階です。そして、プリント学習の時間が、それをやる時間なんですよね。だから、ここでの個々の子どもたちとの関係づくりは大切です。と同時に、「数学」でつながっている関係があれば、それを最大限尊重して、肯定する。そうすれば、「そういう関係は肯定される」ってことが明らかになります。
プリント学習のもうひとつの効果は「できる」気にさせること。そうすれば、諦めなくなります。なので、みんなのできぐあいを点検しながら、苦手な子が少しずつでもやっていたら「やってるね。OKOK」とつぶやく。
そんなことを繰り返しながら、35分間をめいっぱい動きまわりました。
職員室に帰ったらプリントチェック。楽しみなのは、プリントの最後にある「今週の授業を振り返っての一言」欄です。ここには子どもたちが気づいたことがいっぱい書いてあって、それを読むと自分が何に気をつけながら授業を進めなくちゃならないかがよくわかります。そんな中に、ひとこと「おもしろかった」と書いてる子がいました。
この子とは、ほんのちいさなひとことがきっかけで、すこしずつinteractiveな関係をつくりつつある感じなんですよね。こういう小さな関係を大切にしながら、クラスづくりをしなくちゃなと思いました。
さらに、放課後、気にしている生徒と会ったので廊下で立ち話。
「まさか、うしろの答え、写してへんやろな?」
「写してへんよ」
「そうか。あのプリントな、できぐあいはどうでもよくて、半分しかできていない子をチェックしてるねん。その子ができるようにするためにやってるねん。だから、写されるとチェックから漏れてしまって困るねん」
「今回、簡単やったし,自分でできたわ」
「そうかぁ。よかった」
少しずつ「芽」が出てきたかな。でも、まだまだこれからです。

何が違うのかな

今日から授業は「円の方程式」に入ります。まぁ点がとれるヤツです。覚えさえすればね。てか、「図形と方程式」の分野は「公式を覚えてあてはめる」だけで、それなりに点がとれます。なのに、なぜか点がとれないんだよなぁ。まぁ、公式を覚えてないのとあてはめられないんだろうな。なので、いかにそれらができるようにするかなんですけどね。
で、2つのクラスで同じ授業をしたんだけど、反応があまりにも違う。片方のクラスでは笑いが起きたけど、片方のクラスではほとんど反応がない。笑いが起きたクラスでは、隣で社会のノートを写してる子に「今日の授業、なんか知らんけど、おもろいで」と、暗に「聞いてみたら」って言ってくれたんですけどね。
たぶん、「笑い」って、緊張がカタルシスを迎えることで起きるものかなと思います。で、緊張は集中によって生まれます。集中してる人は、その場に参加してるんですよね。てことは、笑いが起きたクラスは、その場に参加してる子が多くて、すなわち集中してるってことになるのかな。
ちなみに、もうひとつのクラスでも笑いは起きたけど、それはある生徒を当てた時なんですよね。どちらかというと「いじり」の笑いです。まぁ、その子はいじめにあってるわけではないのがわかってるから、そこはスルーしたけど、まぁそんな感じです。「笑いの質」が低い。
いま、授業のやり方を「反応がないクラス」向けにカスタマイズしてます。とにかく、徹底的に苦手な子に点をとらせるための授業の工夫をしてます。で、そういう授業は、実は高得点層にも「利」があったりします。たぶん「笑い」のあったクラスは点が伸びるんじゃないかな。でも、もうひとつのクラスは自信がないです。いや、一部の子らの点は伸びるか。つまり、クラス内の格差が拡大するのかな。
2つのクラス、何が違うのかな。

そんなことを考えて職員室にもどってスマホを見ると、スパムメールが来てます。めんどくさい。おとついあたりから来るようになりました。
たぶん、来始めると、どんどん来るようになります。しかし、スパムメール出すヤツ、なにがおもしろいんだ?

で、夜はまんまるの会。
最近、参加者が変わりはじめました。いや、最近は違うか。常に変わり続けてるんだけど、今の変化が「変わった感」が強いのかな。ここ一年くらい、若いトランス男性が来るようになりました。
まんまるの会は受診者の会だから、当然みんな体をいじりたい。自己紹介タイムでもそんな話が出てきます。
「もっと自分の考える性にあわせた外見になりたい」
思わず
「充分そう見えるよ。実はね、トランスが一番「そう見える」と考えるハードルが高いんだよね」
もちろん、元ネタはこの本です。
と、他のベテラン参加者からも、そんな「はやる気持ち」に水を指す発言が。
「そうそう、少しハードルを下げると楽になるよ」
こんな感じがいいですね。
飲み会タイムでは、しょーもない話です。
ちなみに、まんまるの会に来るトランス女性は、不思議と「しょーもない話」をする人が少ない気がします。基本的にマジメかな。何が違うのかな。まぁ、まんまるの会のトランス女性には過酷な経験してる人が多いから、それはそれでしかたないかもしれません。
そんなことを考えながら、9時くらいから「やぱいかも」って思いはじめました。なにがヤバイかというと、明日のことです。朝起きられないかも。なので、9時半くらいにおいとま。トントン拍子て電車が来たので、さっと帰れたけど、それでも家に帰ったのが11時過ぎ。あかん、睡眠時間が足りない(;_;)。

そこじゃないんだよな

今日は午後から会議で出張です。つくづく出張が多いなと思います。でも、午前は何もないから、雑務をしたりおべんきょしたりしようかなと思っていたら、1時間目は会議でした。これ、いらん(;_;)。
しかも、雑務がけっこう大きいのが来て、半日ほとんどそれでつぶれました。でも、ひとつ大きな懸案事項が処理できて、それはそれでよかったなと。

で、午後からの会議は京都府南部の人権教育担当者の会議です。約半数が去年からの継続メンバーなので、話がそれなりにはずみます。さらに特別支援学校の方もおられるので、観点が豊かです。
そんな中、話題はこないだの加藤さんの話の感想へとなだれこみました。
それなりに好評だったのはうれしかったんだけど、なんか違和感が…。そうか。みんな「薬物依存」の「薬物」に焦点化した感想なんだ。そこじゃないんですよね。加藤さんの話は「依存」に重きをおいてるんです。つまり「依存」を「心の弱さ」みたいな定義不可能で個人的な問題とするのではなく、その人の置かれた状況と結びつけて考えるという、いわばreflamingすることによって、社会的な問題としてとらえるところに、真骨頂があるんですよね。だからこそ「 The Opposite Of Addiction Is Connection.」なんです。なので、そんなことをちょこっと話したうえで、「AIDS文化フォーラムin京都」のプレフォーラムの宣伝をしてみたり。

で、夜は久しぶりに家に帰って晩ごはん。なんか、残り物チックなわりに種類がたくさんあっておいしい。そして「少ないか?」と思ったら充分。やはりいいなぁ。
寝る前はいつものハーブティー。

ほっと一息つきながら報ステ。
と、「「老後資金2000万円不足」報告書は「受け取らない」麻生大臣」とのこと。アホかと。自分に都合の悪いことは認めないってことですね。政治家がやるのはそこじゃない。そういう現実と向きあい、その現実をなんとかするのが仕事やろ!
ほんまにアカンで、この内閣。

もぐら叩き→それでもここでは継承はなされてるよな

今日の授業の組み立てを考えて、さぁやろうと思ったら、ひとクラスは「府立高校模試」なるものでつぶれました。やれやれ。で、もうひとつのクラスがなかなかです。
今日は15分だけ授業をして、残りの時間はプリントなんですが、やらない。てか、できない。
もちろん黒板には解き方というか、公式の使い方を図式的に書いてあるんだけど、それを見てもわからないんでしょうね。もちろん、多数の子はやります。が、やらない子とできない子が目立ちます。やらない子は、まぁいいんです。でも、やらない子ができない子を引っ張ってやらさない。てことで、そこのつながりを切りながら、ひとりひとり教えていくんですけど、ほとんど5〜6人の子の家庭教師を同時にやってる感じです。これ、他のクラスなら「教えあい」に持ち込めるんだけど、教えられる子がいないから、それができない。なので、教えてる時はやるけど、他の子を教えに行ってる間はできない。もぐら叩きです。
こうなるのはわかってたんだけど、なぜそれがわからんかなぁ。まぁ、「日本の競技スポーツ」、特に「高校における競技スポーツ」はコーチの言うとおりにやって、自分たちで考えるってことを要求しないことが、まだまだ多数やからなぁ。でも、授業はクラブとは違うんですよね。モチベーションも強制力もまったく違う。
まぁでも、「落とさない」ためには年間トータルで点をとらせるしかないので、こんなことを続けて、少しずつ「やる子」を増やしていくしかないかな。

で、グッタリ疲れた次は府立高校模試の採点です。これがまためんどくさい。まぁ、採点が好きな教員なんていないと思いますけどね。これ、早めにやってさっさと終わってしまえばいいんだけど、あとの方になると自分のを終えて他の人のを助けたりするハメになったりするので、延々とやらなきゃならないです。
こんな採点、府教委が人を雇って処理すればいいはずなんだけど、教員にやらせるんですよね。まぁお金がないらしいけど、アカンやろと。「働き方改革」と反対の方向だし、人を雇えば雇用が増えて、もしかしたら収入や消費が増えると税収も増えるわけで、そうしたら府の予算がないのも好転するはずなんだけど、その前のところで財布の紐をしめるんだよな。

で、疲れきったところで定時で退勤。
京都駅で「阪急北千里線的な名前」のI田さんたちと合流。夏のお座敷の打ち合わせです。ちなみに、わたしとの打ち合わせの前は「堀家さん」としてたとか。他の講師を見たら「幸重さん」「李信恵さん」とあるので、ぎょえーな感じです。でも、I田さんはこういう人を知ってるわけですから、よほどあちこちで人とつながっておられるんだろな。それだけじゃなくて、男女共生部会のお三方も若いです。みなさんにわたしの問題意識を伝えると、「あぁ、それ!」と、打てば響くように返ってくる。
なんだかんだ言っても、大阪では京都よりは同和教育・人権教育の継承がなされてるよなぁと思いますね。もちろん、京都でもやってるのはやってるんだけど、打ち合わせを飲みながらやるという発想はたぶんないな。だって、わたしが飲んでる時間帯は、みなさんクラブで忙しいのが京都の現状です。それを変えないと、たぶん継承はムリやろな。もっとも「働き方改革」の真反対ですけどね(笑)。
そんな感じで、疲れた日の最後は「希望」で終わった気がしました。
で、お開きは9時。これはうれしい。二次会もなく、帰りましょう。家に帰ったら、ハーブティー飲んで寝ようかな。

足りないもの

今日は午後から京都府中部に出張です。ここが遠いんだ。京都府中部そのものが遠いんですけど、それはしかたないです。京都は南北に長いんです。問題は駅からが遠い。駅からいきなり峠道を歩き、その先は畑の中を突っ切って行かなきゃなりません。でもま、子どもたちはここを毎朝歩いてるんだろうからしかたないか。

で、夜はまたまたNH○の人と話です。前に会った時はイノダコーヒーでした。
「今回はどうしますか?」
とたずねると
「芸がないけどイノダコーヒーで」
と返ってきたので
「はじめから呑み屋でってのはいかが?」
と返すと
「望むところです」
とのお答え。ひでぇo(^^)o
てことで、安定のニューエビスノにしました。
お店に到着すると
バズフィード、読みました。「あ!ここだ!」って思いました」
とのこと。そのとおりです。
てことで、話。
その後、ふたりほど話を聞かれたとのこと。そんな中で、今の報道に足りないことを感じはじめておられるとのこと。
今までの報道は「辛かった過去」についての話に焦点があてられてたけど、実際に話を聞いてみると、過去の話はどんどん薄れていってると。それよりも切実なのは、「今」と「これから」なんだと。なるほどね。そりゃそうです。わたしもとある映画(笑)で「夢が現実になると辛くなる。なまじ夢を見てしまうから」って言いました。まぁそういうことです。
で、わたしに「足りないものは?」って聞かれたので
「歴史ですね」
って返事しました。
もちろんここで言う「歴史」は、いわゆる「性同一性障害の治療が公的に行われるようになった歴史」なんかじゃないです。性を変えて生きようとしたさまざまな人たち、それもスポットがあたらないところで行ってきた営みです。そのあたりは、やはり三橋さんですね。もうひとつの「歴史」は脱病理へ向けた世界的な流れです。ここはやはり、とまとさんか。
もうひとつ足りないのは、日常を生きている人々の姿かな。
「わたしカミングアウトしました!今日から女として生きます!」
みたいな話が、今でもニュースでとりあげられるけど、「女として生きるってどういうことですか?」なわけです。カミングアウトなんてしなくても、自認する性で生きる人はいるわけです。そういう人にスポットをあてるわけにはいかないんだけど、でも、そういう人の話を聞くことはとても大切だと思うのです。
そしてもうひとつ足りないのが、都市部以外で生きる人です。
これ、端的に言うと、今までの報道は、都市部でカミングアウトしてる人の話を聞いてきたわけですから、すんごくお手軽なところでやってきたってことですね。まぁ、しかたないっちゃしかたないんですけどね。
そんな話から、いつの間にやら話は放送部の話へと。気がつくと合宿に誘ってました(笑)。
ほんとに来てくれるかな。
てことで、3杯目の日本酒と、〆のチキンラーデンと、さらに〆のレモンチューハイを飲んで、おひらきです。
やれやれ。

てことで、やり方を変える

個人的な感覚として、わたし(たち)がはじめた習熟度授業は「数学の問題を解く力」でわけてました。しかし、いつの頃からか、テストの点数でわけてるものの、その根底にあるのは「意欲」に変わっていった気がします。
そのターニングポイントは、ある年、習熟度の基礎講座を持った時のできごとでした。チャイムが鳴って、「座ろうか」と言っても、自分たちの気がすむまで座らない5人くらいの集団ができた時でした。
ちなみに、40人のうちの5人なら、たぶん座ります。が、基礎講座は20人くらいに設定されていて、その中の5人となると、すでにマジョリティです。さらにそういう状況になったのは2学期後半です。つまり、試験の点でメンバーの入れ替えを繰り返す中で、「意欲のない子」が集まり、かつ母数が少ないクラスなので、簡単にパーセンテージがあがってしまう。そういう中で学級崩壊に近い状態が起こってしまった。
わたしはずっと基礎講座を持ってきたけど、こういう事態ははじめてでした。その時に「習熟度」の闇を垣間見たってことです。そしてそれは、いまや都道府県をあげて習熟度にしてる高校という制度において、「意欲別」の学校ができている。
てことで、基礎講座を担当した時に必要なのは、数学を教える能力ではなく、数学へのモチベーションを高める能力になるんですよね。
ちなみに、習熟度ではない場合は、意欲の高い子がいるから、高校の場合、学級崩壊は起こりにくい。なので、全体としての「問題を解くスキル」はあがりやすい。さらに、習熟度で「上」は「雑味」が減るのでやりやすいように思われがちだけど、実は「意欲の高さ」から置いていかける子ができるので、習熟度ではない時には力が発揮できても、なまじ習熟度で「上」に入れられて期待されるがゆえにドロップしてしまう子が出てくるってこともあるわけです。
簡単に言えば、進学校に行ったがゆえに、学力的についていけずにやめちゃう子がいるって話です。そんな子、うちのガッコにくればトッブなのにね(笑)。

ただまぁ、そんなことも言ってられないので、やらなきゃならんわけです。
てことで、やり方を変える決意をしました。
その根底にあるのは「怒り」です。もちろん点数が低い子への怒りとか、意欲の低い子への怒りではありません。「習熟度」で切り捨てることを決めた「大人」への怒りです。
まさに「負けてたまるか」です。
ちなみに、新自由主義では、競争原理の中「能力」の高いところにリソースが集まるみたいですが、わたしは福祉主義をとるので、低学力層にリソースを集めることになんの躊躇もありません。なぜなら、意欲の高い子は、お金をかけなくても本人がやるからです。まぁ、世間では反対の方向みたいですけどね。それは違います。簡単に言えば、深い穴にはたくさんの土を入れないと平坦にならんってことです。
こんなことからもわかるだろうけど、新自由主義は教育とは真反対だってことです。
てことで、こっそりお金をかけることにしました。ちなみに、「公的」に数千万かけることには誰も文句を言いませんが、「私的」に数百円かけることには文句を言われる可能性がある。でも「数百円」の悪いことをするのは楽しい!これを子どもたちと共有したい。これらは、すべては習熟度で切られた子らのためです。
さぁ。年度末への長い闘いがはじまりました。

でもね。
こうやって闘って、全員数学をパスしたら、「ほら、やっぱりこの方がよかったでしょ」ってなるんですよね。ちゃうねん。どんな状況でもベストパフォーマンスは出すさ。それは制度とは無関係なんですよ。そして、よりよい制度の模索は、子どもを実験台にしないことからはじまるんです。

そして、いまの日本の学校制度がさまざまな改革を繰り返してきた壮大な実験が、結局トータルとして失敗に終わってることは、すでにわかってるんです。それでもなお、子どもたちを実験台につかってることへの怒りは、「われわれを「ガーベイジ」コレクターにするな!」という言葉とともに、ガチで「実験してるヤツ」につきつけなきゃな。
「一寸の虫にも五分の魂」ってヤツです。

一周まわってここにきたか

かつて、京都府立高校でもっとも早く「習熟度授業」を導入したのは、Y田高校でした。そこで習熟度授業を導入した教員がうちのガッコに転勤してきて、うちのガッコでも導入したので、うちのガッコはその次くらいかな。
当時、習熟度授業は「差別選別の授業」と批判されていました。それに対して、「反差別」を旗印にしている人たち(わたしたち(笑))は「そもそも学校制度が差別的で、そこで差別されてる子に力をつける」と主張して、習熟度授業を導入していきました。
ところが、習熟度授業が効果?をあげるにつれ、高校現場に習熟度授業が受け入れられるようになり、いまや教育委員会も積極的に習熟度授業を推進するようになっています。というよりも、京都府全体で習熟度授業をやってる(笑)。つまり、入試制度を変え、学校間格差をつくってるってことです。
それだけじゃなくて、「習熟度神話」は学校間格差によって輪切りされたそれぞれの学校でも習熟度を導入するところまで来ています。
で、わたしはというと、20年くらい前から「習熟度に反対」の立場をとってます。習熟度を導入したわたしがです。「習熟度をしろ」という管理職に対して「イヤ!」といい、「少人数ならいいけどね」と言い続けてきました。
なぜそう考えるのか。
それは簡単です。「差別選別の授業」だからです(笑)。
かつてわたしたちが導入した習熟度は「差別選別の学校」の中で置いてきぼりにされた子どもたちに焦点化していました。でも、今はまったく違います。
「個々の力にあった指導をするのが子どものため」
ってなってます。でも、それはほんとうに子どものためか。たぶん違います。ほんとうは
「個々の力にあった指導をするためには学力で子どもをわけるほうが効率的である」
という理屈です。だから同質集団をつくろうとする。
で、この発想はどこから来ているのかというと、競技スポーツから来ているように思われてしかたない。つまり「勝つ」ためです。では、なにに勝つのか。それは他の高校です。その時の指標は大学進学率と国公立大学への進学者数です。
でも、高校で必要なのはそれなのか?わたしたちは試合やコンクールのあるクラブ指導をしているんじゃないです。授業をしています。そこで必要なのは、「生涯スポーツ」の観点だと思ってます。学ぶことの楽しさを知り、生涯にわたって学ぶことを楽しむ、そのきっかけづくりです。そのために必要なのが、今の時流にならっていうなら
「主体的で対話的な深い学び」
です。そこにあるのは「学び」であって「指導」ではない。
つまり
「個々の力にあった指導をするのが子どものため」
は、授業のあり方や学校のあり方、さらには学校制度のあり方として根本的に間違ってるってことです。
同質集団の中には「対話」なんてない。だって「対話しなくてもわかりあえる」のが同質集団だからです。多様な人間がいるからこそ、そしてそこに「暴力による支配」を許さないからこそ、対話が生まれると思ってます。
だから、習熟度に反対しているんです。
が、どうやら、習熟度神話は学校の隅々まで浸透しているようです。そんな中、かつてわたしたちが導入した習熟度授業を知らずに習熟度神話に触れた若い世代の教員は、「それでいい」と思ってしまうでしょうね。

「多様な学校」をつくって「その子のニーズにあった選択」が叫ばれる昨今です。普通科高校を変えていこうという論議もなされています。それは「同質集団」をつくることに他ならない。そこには「主体的で対話的な深い学び」はない。そこにあるのは「効率的な指導」です。
なぜそんなこともわからんのかと思います。なぜわからんのかさっぱりわからない。
でもまぁ、たぶんこういう考え方は、ほんとに少数なんだろうな。
それにしても「差別選別の学校」に抗して「習熟度授業」を導入したわたしが、「習熟度学校体制」を「差別選別の学校体制」と批判する日が来るとはなぁ。

呑むとあらわれる

「あらわれる」って書くと「現れる」のか「表れる」のか「洗われる」のかよくわからないんだなと、あらためて思ったり。
てのはおいといて…。
午前はとにかく雑務をガシガシこなして、やらなきゃならんことはほぼ終了です。
午後は第2のふるさとに出張です。内容は、某人権教育研究会の総会です。考えてみると、人権教育研究会の総会って春に3つ、冬に3つ、合計6つ出てるんですね。よーわからん。
ちなみに記念講演は、某人権教育研究会の元会長です。かつては「元会長?ケッ」とか思ってましたが、いつの頃からか、そう思わなくなりました。たぶん、そういう人が会長になるようになったんでしょうね。京都の事情を考えると、まぁそういうことなんです。
で、話を聞くと、わたしらみたいな人にとっては「いまさら」な話なんですが、若い人には必要な話だなと思いました。
まぁ簡単に言えば、京都の南部における同和教育の歴史を、中学校教員の観点から振り返るみたいな話です。これ、そこにいた人にしかできないです。たぶん、クッチャンクチャンに荒れてた学校で、日々生徒指導に追われながら、それでも前を向いて実践をし続けた人にしかできないし、わからない。でも、それを若い人に伝えなきゃならんのです。
もちろん、いま、クッチャンクチャンに荒れてる学校なんて京都にはないです。じゃあ参考にならんかというと、そうじゃない。大切なのは「生徒観」であり「社会観」なんですよね。それは伝えなきゃなりません。

そんなことを考えながら、夜は数学の飲み会です。
なんか、この間ガラスを割った話とか、この間朝からキレてガラスを割りたくなった話とかしてたんですけどね。新転任の人に
「ガラス、割りたくなりませんか?」
って聞いたら
「たまに腹が立つ生徒が」
とか言われたんで
「へ?」
ってなりました。ないわ。子どもに腹が立つこと、ほとんどないわ。困ることはもちろんあるし、たまに腹が立つことはもちろんあるんだけど、ガラス割りたくなるほど腹が立つことはないわ。
もちろん骨折したことはあるけど、もう10年も前の話です。なので
「生徒には腹が立ちませんわ。腹が立つのは教員やね」
って話したんですけど、考えたみたら、この発言は同僚に対してはヤバイ発言ですね(笑)。
と、いつも一緒に駅から歩いてた仲よしの同僚が横にやってきて、スミノフ呑んでるわたしに
「飲んでないじゃないですか」
と、日本酒をドボドボドボと注いでくださったり。
なつかしいなぁ。もうないだろうなぁ。
でも、呑むと人間が出てくるなぁ。
いまにはじまったことじゃないけどね(笑)。