「自分らしく生きる」?

朝起きるとすっきりしてます。birth効果なのか、単に早く寝たからなのか。まぁ全部ひっくるめてでしょうね。やはりこういう日が大切です。
てことで、今日は朝から3時間連続です。本来は2時間しかないんですけど、来週出張なので、それの振替授業です。きつい。
とにかく何も考えずに授業をこなして、ようやくひといき。ちょっと自炊でもしますか。
午後は「おいた」をした子の相手をしてみたり。なかなか飲み込みが早いから助かります。放課後は文句のある子の相手をしてみたり。
「なんでわたしだけ。それって運なん?」
「そやで、運やで。交通違反と一緒やで」
「T先生も同じこと言ってたわ」
まぁそんなもんですよ。あきらめなされ(笑)。

てことで、1時間休みをとって退勤。向かうは豊中です。今日はこんなのがあります。

一歩くんと出会ったのは、ちょうど10年前ですね。あれからいろんなことがあって、今はお互いに人前で話をするようになりました。ちなみに、一歩くんもわたしも共通してるのは「自分「を」語る」のではなく「自分「で」語る」ところです。たぶんふたりとも「自分のことをわかってほしい」とか思ってません。自分のライフヒストリーを触媒にして、そこに起こる化学反応を期待しているんだと思います。
そんな一歩くんとわたしに「自分らしく生きる」というテーマで対談をしろというオファーが来たんですよね。おもしろいなと思ったけど「自分らしく生きてるのか?」というか「自分らしく」ってなんだ?ってふたりにそれを頼むか?と(笑)。でも、頼まれたことは断れません。それは一歩くんも同じだったみたいで、やることになりました。
ちなみに打ち合わせはしましたが、ぜんぜん打ち合わせていませんでした。その後、いちおうLINEで話す項目は決めたけど、一歩くん、よほど不安だったのか、おとついも「打ち合わせしよ」って言ってくれたけど、結局「なんとかなるで」ということで、やっぱり何も決めず。でもいちおうスライドだけ準備することにしました。でも、やっぱり不安なんでしょうね。豊中に向かう電車の中で、再びLINEで打ち合わせ。ここでようやく意思一致ができたかな。
てことで、会場に着いてセッティング。ところが音声が出ない。まいったな。まぁええか。てか、なんで画面の色が真っ黒になったんだ?でも、そんなことも言ってられないので、プロジェクタとつないで二人会開始です。

今回の二人会ではひとつのチャレンジをしようと思いました。それは、徹底的にライフヒストリーにこだわるってことです。用語説明もしないし、社会への発信もしない。ひたすらそれぞれがそれぞれのライフヒストリーを話す。社会化をするとすれば、それは聞く人に委ねる。そのためには、過去あったことへの今の自分の評価を徹底的に排除する。楽しかったことは掛け値なく楽しく話す。
てことで、普段は話さない親のところから話をスタートさせました。すると一歩くんもそれに応えるように親のところから話をスタート。へー、そんな子ども時代を過ごしたんだ(笑)。
歴史が重層的であるのと同じようにライフヒストリーも重層的です。そして、親や友だちや教員や、その他さまざまな人との相互作用の中にライフヒストリーがある。そして、内面はそこにはほとんどあらわれない。というより、内面は「あとになって言葉化される」。なので、言葉化される以前の内面は、ライフヒストリーには含めない。それがチャレンジでした。
そうやって語っていった時、ふたりのライフヒストリーは、あたりまだなんだけど、まったく違うんですよね。そういうライフヒストリーが、後になって言葉化された内面へと話が進んでいった時に、共通の体験へと変化していく。おそらくそんな二人会だったんじゃないかな。
そして最後に「自分らしく生きる」ってなに?という問いにふたりで答えました。
一「みんなから自分らしく生きたらいいんだよって言われたけど、その「らしさ」に自分はなかった」
い「「ありのまま」なんていうものは永遠に変化し続けつくり続けるものなので、そんなものはない」
まぁそういう結論しかないよなぁ(笑)。
終わってからいろんな人が来てるのがわかりました。みんな「おもしろかった」とか「斬新だった」とか言ってくれました。よかった(^^)。でも、グッタリと疲れました。
なので、打ち上げでははじめはしゃべれませんでした。もちろん燃料補給をしたらしゃべれるようになったけどね(笑)。
でもま、こんな機会はきっと二度とないだろうし、あったとしても二度はできないな。

「語る」ということ

朝、メッチャしんどいです。あたりまえです。昨日の今日です。それでも朝にシャワーを浴びて出勤です。
とりま授業の最初に昨日のできごとを話してみると、案外みんな食いついてきました。半年かけて、やっと雑談聞くようになってきたのかな。まぁ、今日も夜に飲むから、明日も雑談からのスタートだな。
空き時間は2次校正。相変わらずおもしろい。なんか、エスノメソドロジーの教科書のようです。もっとも、あの話をそう聞く人は、もしかしたら少ないかも。逆に「それ、考えすぎやろ」とか言われそう(笑)。なにしろ、ところどころに「あたりまえっちゃああたりまえなんですけど、でも」というフレーズがあって、これがしびれます。だって、まさにその「あたりまえ」を解読してるんですからね。

放課後は20分のラン。最初の1kmが7分以上かかってしまって、いかに体調が悪いかわかるというものです。でも、あとの2kmは6分30秒くらいだったのでホッとしました。

で、定時に退勤して、向かうは「生きセン」です。
が、その前に「Kっちゃん」へ。今回もビールをいっぱい飲んでからにしましょう。昨日も「行く」って言いましたからね。ちなみに角打ちの常連さんがふたり来ておられました(笑)。こっちを見て笑顔になられたので、これがまたうれしい。
「昨日はどうも」
「あんた、よう呑むなぁ」
みたいな会話。
で、「ちょぼやき会」の例会です。ちなみに第1回はこの時で、第2回はこの時。第3回は藤尾さんの話を聞く会でした。ここまでは会には名前がなかったんですが、こないだ「ちょぼやき会」になりました。で、今日は4回目。今日の話題提供者は「カフェ・ド・マキグチ」のシェフです。もともと牧口さんはご自分の人権学習の実践を話そうと思っておられたようですが、そうじゃない。「√ 」を話してほしいんです。なので、そういうオファーを出してみました。無茶振りですけどね。
考えてみると、わたしの友だちって、自分のことを話しはじめたら何時間でも話をする/できる人たちです。なので、そういう人ばっかりだと思い込んでました。そしてきっと牧口さんの友だちもそんな人ばっかりなんだろなと思うんです。ところがそんな友だちをいっぱい持っておられる牧口さん自身はそういう人ではないみたいなんですね。いや、はじめは「あえて語ってないのかな」と思って「語った裏には実は語らない/語れないことがある気がするんですが、普段語らないことってなんですか?」って質問をしたんだけど「なんだろ。考えたことがない」って返事でした。
牧口さん、きっとおもしろい人生を送っておられるんだろなと思うんだけど、もったいないなぁ。でも、そういう牧口さんの一面を知ることができたのはよかったです。
「ちょぼやき会」は実践報告の場ではなく、叙述的自己表現の場なんですよねo(^^)o。

てことで、会が終わるといつもの通り「やきやき」へ。今日の話を振り返ったり、次の話題提供者を考えてみたり、はたまた「変態が世界を変える」話をしてみたり。
とにかく、互いが互いへ向けて延々と語る。その延長線上に「今」の選択がある。それをひたすら聞く。おもしろい。

ヤバイ

昨日、「20日〆切のゲンコがあったな」と思い出して、「落とそうか」と思っていました(笑)。で、どんなゲンコだったっけと思って過去ログ見たら、落とせるゲンコじゃなかったことが判明しました。
ヤバイ。
てことで、その場で思いついたことを少し書きはじめたのですが、なんだかなと考えなおし、放課後の職員会議にタブレット持ち込んで少し書いていました(笑)。
で、今日、さらに書きはじめたのですが…。
まぁ、与えられたテーマはこの間ずっと主張してきたことだし、個人的には「今ごろなにを」って内容です。でも、あらためて文章にしようと思うと引っかかりが出てきます。まぁそれだけ自分の中でこなれてなかったし、検証もしてこなかったってことなのかな。
それにしても、あらためていろいろ検証するとおもしろいし腹も立ちますね。わたしなりの観点とデータを使って書きますか。
ちなみに放課後、掃除カントクしながら検証すべくペーパーを読んでると、生徒が寄ってきて
「せんせい、いつもここでなにか読んでるな」
って言ったのは笑いました。そうか、いつもペーパー読んでるんだ。
〆切りは明日か…(笑)。

でも、今年度はこれで「書く」のはやめよう。他のは全部断ろう。なにせ、大きな山の縦走がある。

地域に生きる

今日の午後は出張です。それまでにやらなきゃならんことを片づけなくちゃ。いらん仕事をひとつ、大切な仕事をひとつ。あとはあれやこれや。頭の痛いメールのやりとりもしたりして。
午後一番はロープ張り。今年は来年のことも見通して、クリップをつけるところにマークしておきましょう。
い「まず舞台の端と端のところにマークしてな」
放「はい」
い「マークとマークの間の長さを測ろか。7m36か。半分だと何m?」
放「3m68です」
い「ほな、そこにマーク。あとは、それぞれ4等分したところにマークして」
と、ここで混乱をはじめる部員。
放「あれ?あれ?」
まぁ、はじめに長さを測ったのがアカンのでしょうね。でも、マークがやたら多くて、どれがほんとうのマークかわからなくなりました。なにしてんねん。
迫る出張の時間。赤マジックを持ってきて
い「ロープを半分に折ってマーク。また半分に折ってマーク」
放「両方ですか?」
い「そうや(笑)もう一回折って4カ所マーク」
終了です(笑)。
あわてて職員室にもどって、片づけして、駅までランニングです。
なんとか電車に間にあって、京都府最南端あたりの駅で待ちあわせです。
天井が美しい。

で、車に乗せてもらってとある山間の町へ。
「時間があるし、公民館にあいさつに行きましょか」
ということで、公民館へ。館長さん、いつもの感じです。今日は地域の保育園・小学校・中学校、さらに福祉関係の人たちも集まってケース会議をやっておられたみたいです。分厚い実践を町ぐるみでしておられます。
その後、今度は保小中高の会議です。
小さな町だと高校がなかったりします。すると、高校進学は「町を出ること」とイコールになります。だからこそ、送り出す地域と迎え入れる高校のこういう連携が必要になります。わたしの第2のふるさとはそれをしてきたし、いまこの町でもそれがはじまった。
しかも、メンバーのうちのひとりが、うちのガッコの卒業生であることが判明。わたしのことがよくわからなかったみたいなので、昔の写真を見せるなど。
「あ!いたいた。この人、いました」
「わたしやがな」
みたいな会話。
そうなんだよな。こういう世界で生きてきたし、いまも生きてるんだよな。あまりにも違う世界も生きてるから、脳みそが混乱します。まぁでもスレッドをわければいいのか。
少しのんびりした気分になって、最寄りの駅まで送ってもらって、電車に乗りました。さて、ここから約1時間の旅行です。考えてみれば、終着駅から始発駅までの鈍行の旅かo(^^)o。でも、寝ちゃいました。家に帰ると、向こうを出てから2時間たってました。
さてと。お風呂に入ってからビールだな。

ひっくり返る

今日は普段より1本遅い電車で行こうと、少しゆっくり家を出たけど、なぜか間に合ってしまいました。どうしようかと思ったけど、まぁええかと乗ったおかげでいつもの時間に出勤です。おかげさまで、仕事ははかどります。
今日の午前は職員会議。その前に部長会があるから、2時間ほど余裕があります。なので、昨日の松永さんの講演への感想を音声入力しました。なかなかみなさん考えてくれはったんやなぁ。ただ、「はじめて知った」はないやろう。わたしもずっと言い続けてる話なんやけどね。でもま、日常の中で話をしても埋もれてしまうけど、特別な時間に話を聞くと顕在化するんですよね。昨日は「人権は特別な場の特別な時間になってしまってる」って話があったけど、「特別な場の特別な時間」にも意味があるってことです。大切なのは、それを日常化するってことなんですね。
そんなことを考えながら、あっという間に入力し終えました。やはり音声入力いいな。わたしはしゃべることで考えをまとめる傾向があるから、そういう使い方もありかもね。
で、職員会議。なんか、どんどん生きにくい社会になっていくなぁ。いや、職場そのものは悪くないです。支店長も副支店長も頭取も番頭も、みんないい人です。でも、わたしたちをとりまく社会がどんどん生きにくくなっていってるなと。
お昼はおべんと食べながら、「おべんきょ成果」を少しいじるなど。今のセクションは少しずつ形になってきたのはホッとするけど、まだまだ全然ダメです。夏の前半の過ごし方の間違いに落ち込みます。

午後は進路指導研修です。元予備校のできる人で、現独立して講演とかしてはる人みたいです。中身は高大接続の中で変化する大学入試にかかわることです。
まずは時代背景の説明から。出ました。「教育再生会議」!
「グローバル社会へと変化する中で生産性の高い若者の育成が求められるようになってるんです」
ひっくり返りました。
まさに昨日松永さんが
「国会議員が生産性とかいうこの日本ですよ」
と言われた、その真逆のことを、翌日の同じ場所の同じ時間帯に聞くとは。まぁでも、これで鮮明になりました。
つまり、障害者解放運動と教育再生会議が言ってることは真逆で、そして今の日本は権力を持つ教育再生会議が言ってる方向に向かってるってことです。言い換えるなら、そういう社会に障害者解放運動は立ち向かってるってことです。そしてなにより大切なのは、「わたしたちはどちらを向くのか」ってことです。
そのあともひどい話です。例えば「コミュニケーション力が重視される社会になる」とか「大学も3つに分類される」とか。もちろん講師の人にはなんの罪もありません。現状を言っておられるだけです。でも、ものすごい勢いでもやもやが広がっていきます。
と、質疑応答である教員が発言。
「コミュニケーション力がなかったり、少し引きこもりがちだったり、これといってとりたててとりえのない子はどうしたらいいんですか?」
講師の答えは
「スモールステップで少しずつほめて伸ばしていく」
そこじゃないんですよね。
終わってから、いろんな教員に「昨日と真逆だったね」って話をしたら、みんな「思った!」って言ってくれました。それだけじゃなくて
「わたし、子どもたちにああいうことを言ってきたのかなぁ。子どもたちを傷つけてきたのかなぁ」
って相談に来られる方もおられたり。「自分たちはなんのために教員やってるのか」ってことを自問自答する方があちこちにおられました。
松永さんの講演を「昨日」やったことの意味があったなって思いました。こうやって、日常化していくことなんだろな。
子どもたちは、たしかに今日の講師が話された現実の中にいます。そして、わたしたちもその現実の中にいます。ただ、その現実を無自覚に生きるのではなく、意識的に生きること。そして、小さくとも抗い続けること。あるいは疑問ももち疑問を提出し続けること。
そこからはじめることですね。

ブログの不思議

沖縄に行くたびに、というか、どこかでフィールドワークしてもらうたびに困るのがブログの更新です。
そもそもわたしは短期記憶がすごく苦手です。とにかくワーキングメモリが貧弱です。だから、電話がとても苦手です。
なのに、ブログを書かなきゃなりません(笑)。いつも「どうしたものか」と途方に暮れてます。なにせ、フィールドワークのブログは長い!今回とか、都合ふたつあったから、どうしようかと思いました。なので、「大宜味村への遠足」に行く前に「愛楽園」をアッブしたんです。だって、後者は「研修報告」をしなきゃならんですからね。
ところが、とにかく覚えるのが苦手なのに、なぜか書けている。フィールドワークだけでなく、例えば「心理検査の項目」なんかも覚えて記録をしています。
まぁ、短期記憶と長期記憶が違うのは知ってます。たぶん、短期記憶をさっさと長期記憶化してるんでしょうね。
そうやって考えてみると、フィールドワークって雑音がないんですね。かつて姐さんが「聴覚が過敏というより、話声を脳内でどう処理しているかという問題ではないでしょうか。私は集中すると周囲の話声は気にならなくなるので」ってコメントされたことを思い出します。あと、やはり視覚と結びつけた記憶が得意なんでしょうね。だから、電話で聞いた名前が覚えられない。でも、フィールドワークの「説明」は聴覚です。覚えられないはずです。それはたぶん、フィールドワークは視覚から入ってくる情報がすごく多い。そういう風景や造形と説明を結びつけることで、記憶してるのかな。
まぁ別に何がどうということもないんだけど、沖縄から帰ってきてフィールドワークのブログを書かなきゃならんのだけど、なぜ書けるんだろうと不思議に思って、なんとなく考えてみただけのことです。

相談

今日、授業中に、とある軽微な「おイタ」をした子どもがいて、放課後に話をする時間がありました。
い「今のクラスどない思う?」
生「集めるからやん」
そのとおりです。
生「ひとりでは何もできひん子を、わざわざ集めるからやん」
そのとおりです。まさに「同質集団」をつくるからです。
い「そやんな。でも、勉強したい子とか、勉強せなアカンと思ってる子もいるやろ?」
生「わたしもせなアカンと思ってるよ」
い「なんでやらへんの?」
生「だって」
おそらく、同質集団は同質であることを続けるために、それなりの労力を払わなくちゃならないようです。
生「でも、数学はマシやで」
い「マジか…」
生「他の授業はみんな寝てるし、先生も範囲が進んだらええと思ってる」
まぁ、わたしもそう思うことも多々あるんだけど、それはそれですわ。
生「4月に先生見た時に「ただものじゃない」って思った」
い「まぁ、ただものではないな(笑)」
生「前に「ほっとくことは見捨てること」って言ってたやん」
覚えてるんやo(^^)o
い「明日の授業で、みんなに1学期を振り返って、ほんとはどうしたいのか、作文を書いてもらおうと思うんやけど、どう思う?」
生「書くかなぁ」
い「なんで?マジメに書いてるところを見られたらまずいの?」
生「うん」
い「こわい?」
生「うん」
なるほどなぁ。これが「同質であること」を維持するための労力なんだな。
やはり、個々の子どもの思いを聞かなきゃな。
い「やっぱ書いてもらうわ。書いてくれる?」
生「今の話と同じことしか書けへんで」
い「かまへんよ。ほな長いことありがとう。反省文、書こか」
生「うん」

かつて先輩教員に「どうしたらいいんですか?」って聞きに行ったら
「話し込むしかないな」
としか言ってもらえませんでした。たぶん、それしかないんです。でも、それをするところからはじまるんです。
あした、みんな、書いてくれるかな。

sortの順番

朝、同僚に「放課後出す資料だけど、例年通りでいい?」と聞くと、「成績を上から並べたのも出してほしい」と言われました。「全員分?」と聞くと「全員分」とのことでした。ふーん。
なので、
い「全員分出すけど、成績は下から並べるね」
同「上から」
い「下から」
同「そんなん、ソートしたらええやん」
い「いや、下から」
と押し問答をしてみたり。
なんでも上からじゃないと見にくいそうな。でも、そんなの「慣れ」です。
わたしはその「慣れ」が別のところに向かうほうが怖い。それは、子どもたちを「成績が上の子から見る」ことへの「慣れ」です。

例えば、教室の後ろに大学の偏差値一覧が貼ってあります。その順番は、偏差値上位が上です。必然的に、偏差値上位の学校は「見上げる」ことになります。そして偏差値下位の学校は「見下ろす」ことになる。
同じことが「壁に貼る」わけではないけど、子どもたちの成績を見るときに起こる。成績上位者を見上げ、成績下位者を見下ろす。そのことに慣れることが怖い。
そんなことを思って、ふたりばっかに「どっちから並べる?」って聞いたら、ふたりとも「上から」ってことでした。ただ、理由を聞くと、excelのsortが降順がデフォルトだとか。あり?わたしのは昇順だけどな。よくわからんけど。
ただ、クラス順名簿順なら昇順になるはずです。よくわからん。
わからんけど、どうやら成績下位者を上にする並べ方は少数らしいということがわかりました。

久々にアクセル踏んだわ

朝、メールチェックをすると、メッチャメールが来てます。てことは、メールの返事祭り?てことで、ひたすら返事を書いたのですが、返事を書くと返事が来るのがメールというものです。アカンやん(笑)。
あとは夏休みの宿題をつくったり、なんだかんだとやってたのですが…。

問題は授業だな。
そもそも、なんでこんな時期に授業があるねん。進学校は知らんけど、そうじゃないところも進学校にならって授業がある。というか、わけのわからん「授業時数確保」とかで授業がある。だって「内容的な必然」でやるなら意味があるけど「確保」のためなら、単なる穴埋めですよ。
そもそも、わたしが教員になった頃は、「試験休み」なるものがあって、期末試験と長期休業の間は成績処理のために授業がなかった。ところが「試験返しをせんとあかん」という理由で「休み」がなくなった。そこからなし崩し的に試験返し→授業になって、すると採点の時間を確保しなくちゃならなくなって、試験が前倒しになって…。すると試験前の期間が短くなって単元を終えるのがきつくなる。ほとんど本末転倒です。
さらに言うなら、授業時数を確保してたくさん授業をやったら学力があがるのかというと、そんなevidenceはどこにもない。てか、PISAあたりのことを鑑みると、日本は授業時数が多い割に、授業時数が少ない国よりも点数が低い。じゃ、なんのための「授業時数確保」なんだと。
ほとんどかつての「スポコン」の世界です。ちなみに、スポーツの最先端は「根性」ではないですよね。科学的なevidenceに基づいてトレーニングをしている。スポコンがまかり通ってるのは授業くらいですよ。
さらに、大学までも「半期15コマ」が厳守だとか。なので、土曜に振替をやる。でも、そんなんイレギュラーだから、例えば土曜日に定期的に用事を入れてる学生は出られない。もっと言えば「学生ローン大国」の日本では働かなきゃ大学に行けないわけで、なのに「半期15コマ厳守」とか、ムリじゃん。必然的に振替の日は出席率は低くなる。言い換えるなら学生の学習権が侵害される。でも「自己責任」となる。
構造を問わずにこの責任にしたら楽ですよね。
で、誰がこんな世界にしたかというと、おそらくは制度と現場が相互反映的にやっていったんだろうとは思うど、その最初の「言い出しっぺ」はいるわけです。それは、おそらくは「教育の素人」だろうと思われるわけです。
誰が教育の玄人かというと、ひとつは教育学者です。あとは、現場にどっぷりと浸かり込んでいない教員です。ちなみに、現場にどっぷりと浸かりこんでる教員は、「舵取り」はできません。「考え」ではなく「感覚」で判断してるからです。
てことで、教育の素人が口を出すなと。

まぁそんなことを考えざるを得ない、週末に1日たりない木曜日なので、思わず子どもたちに
「なんでこんな日に授業やねんと思わへんか?」
とグチモード。すると子どもたちはポカンとしてます。そりゃそうだな。子どもたちはこれが当たり前だから、自分の置かれてる状況を疑いようもないよな。
てことで、一席ぶったあと、しかたないので授業です。
単元は「不等式のあらわす領域」です。

まぁ、社会もふたつにわけたがるよね。例えば、この出席簿に書いてある君たちも、ある記号でふたつにわけられてるんですよ。なにかわかる?「性別」です。
そんなん、当たり前やんと思ってるやろ?じゃ、女って何?男って何?「そんなん、チンコがあるのが男で、マンコがあるのが女やん」と思ってるやろ?でも、実際には身体の性はスッパリと二分できないんだよ。「だって、書類に書いてあるやん」と思ってるやろ?でも、世界の中には「X」っていうのがある国があるねん。実は、そんなに簡単なことじゃない。
そもそも、「男とは何か、女とは何か。誰が男と言われ、誰が女と言われるのか。男とは誰で、女とは誰か」ってことを考えるのが、わたしが大学で研究しているテーマなんですよ。
人間をわけるのは、他のことでもいい。例えば、アメリカでは肌の色でわけてきたし、今もわけてる。日本でも部落か部落外かでわけてきたし、今もわけてる。あるいは、日本国籍を持ってるかどうかでわけてる。いろんなわけかたがあるのに、なぜ「性別」でわけるのか。
それは、この社会は「異性愛」だからですよ。だから、ふたつの性別が必要となる。
例えば君たちは、制服を着ている。制服はふたつの性別でわかれてる。君たちは制服によってふたつの性別にわけられてるんですよ。髪型は自由意志?でも、だれかモデルになるものがあって、そのモデルにしたがってわけられてるんですよ。
そうやってふたつの性別にわけたうえで、男性中心の社会をつくってる。そういう社会をつくるために女性を利用する。
だから、「性別」があるんですよ。
まぁ、領域も同じようなもんでね。ある直線を境にふたつにわけるんだよ。じゃ、例23を見てみようか。

久々にアクセル踏んだわ。
でも、ポカンとしながら、必死でこっちを見てる子がいたのがうれしかった、夏休み前の授業のひとときでした。

見捨てない

昨日の放課後、なにやら廊下で「反省文」を書いてる(「書かされている」とも言う」子がいて、その隣で課題をやってる子がいて。たいていこういう時は「なにやってんの」と、適当にからむことにしています。まぁそれはそれでいいんですけどね。
その「課題をやってる子」は、今一番手を焼きながらも心配しているAという子の友だちBです。で、
い「あんな、図書室学習やることにしたの、Aのためやねん。Aは、クラスやったら私のことキライやから勉強せーへんやろ?でも、図書室やったらするやん」
A「うん、今日はフツーにやってた」
い「うん、知ってる。そやし、頼むわな」
みたいな会話がありました。
ほんとうに、ちょっとやんちゃな子がいる学校だったら、全国どこにでもある、少し離れてみるとクッサイ会話です。でも、クッサイけど、大切な会話なんだろうなと思っています。なぜなら、大切だからこそ、全国どこででもそういう会話がされているんです。

で、今日、心配しているAは欠席。しかたないです。でも、昨日は質問しなかったBが質問してくれました。たぶん、Aを見捨てたくないと思っていることがBに伝わったのかもしれません。そのあとで休んでいるAのところにも行きました。みんなの前ではわたしに反発しているAも、1対1ならいい子です。これも、少しやんちゃな子がいる学校では、全国どこにでもある風景です。
い「これ、プリントな」
A「持ってる。きのうやった」
い「知ってるよ。でも、もう一枚。勉強してほしいねん。あと、これな、公式集。これ使ったらぜったいできるし」
A「ありがとう。これ、Cに渡してくれる?」
い「ええよ。渡しとく。ほな、頼むで」
これまた、全国どこにでもあるクッサイ会話です。
でも、こんなことを少しずつ繰り返していくことが、笑って年度末を迎えるために大切なことなんだと思います。

でも、別の子Dとの授業中の会話。
さらに別の子が「こじき」という言葉を使ったのに対して、
「その言い方、あまり好きとちゃうなぁ」
というわたしに対して、「今はホームレスっていうんやで」みたいな会話があって、そこに
D「あれは自己責任や」
という発言がありました。なので
い「ちゃうで、社会のしくみを知らんとアカンで」
と返したのですが、
D「でも、オレはそう思う」
い「「思う」ではあかんな。社会のしくみを知る必要がある」
D「知らんでもええ、オレは思う」
みたいな会話。最後は「からんでくるな」と。いや、からんできたのはキミですわ(笑)。

まぁでもこいつも見捨てずに、これからの長い長い1年の中でいろいろやっていくしかないだろうな。