朝、寒いです。久しぶりにお湯をかけた車のウィンドウが再凍結します。通勤途中も手が痛い。でも、これが普段の冬なんですよね。
電車の中から自分宛てにトドリストをメールします。職場に着いたら、トドリストに従ってサクサク仕事。
授業は2発。合間に生徒の走りにつきあってみたり。
それにしても、タイムは一緒に走る人に左右されるもんですね。今日は約4kmのコースをいいペースで走れました。
これ、ここ数年で一番早いペースかもしれません。
そんなこんなで、いろいろしてたら、あっという間に定時です。さっさと職場をあとにして、崇仁へ。今日は久しぶりのちょぼやき会です。会の前はいつもの通り、軽く燃料補給。今日は昨日角打ちで教えてもらった「おでん」を食べようかな。
うまい!味噌味がたまりません。一味をかけると、またおいしい。味噌味をビールで洗い流して、お店を出ました。
で、ちょぼやき会。今日の担当はYもぎ田さんです。現在リビングライブラリで本としてお世話になってる方です。今日の話はうちのガッコで話されてる内容+αを話してくださいました。
Yもぎ田さんの話を聞くと、仕事だけの人間がいかに狭い世界に生きているのかがよくわかります。たとえその職場がどれだけ大企業であってもです。話の中で「同じ話題しかない」みたいなことを言っておられましたが、そうなんですよね。結局仕事のグチがメインの話題になるんですよね。同質集団ってそういうことなんです。
そんなYもぎ田さんが、いろんなことがあって、仕事100%の生活がガラリと変わる。ここからがYもぎ田さんのおもしろいところなんですね。たぶんもともと興味をたくさん持つ方なのかな。そういうYもぎ田さんの特性が発揮される人生がはじまります。ただ、単に興味を持つだけじゃなくて、その興味を少し引いたところから観察したり、あるいは寄ったところから共感したり。そんなひとつが、例えば水俣病。そして水俣病から原発のことを問い直されます。
おもしろいなと思ったのは「被害者・当事者」となった時に、じぶんの「加害者性」へと思いを巡らせる。その加害者性は「他の問題」ではなく、自分自身の被害者性である原発へと向かうんですね。
ご本人は「考えるのが好き」って言っておられたけど、「考えながら生きる」ということがいかに大切か、そしてそれがいかに自分が生きる世界を広げてくれるかが、とてもよくわかる話でした。
うちの子ら、この話を聞いてるんですよね。伝わってるかな。というか、伝えるのはわたしたちの仕事か。
ちょぼやき会のあとは、今日は「中光園」に行きました。ここ、この間来たところです。ここでお腹いっぱいになるまで食べて、崇仁新町に行こうかと思ったけど、これは無理だなと。
てことで、いつものようにUりんちゃんに送ってもらって帰りました。家に帰ると10時過ぎ。よかった。10時半には寝られる…。
カテゴリー: 考え
新年のあいさつ
今日は午前も午後も出張です。なので、朝は少しゆっくりめ。電車に乗って第2のふるさとへ。保小中高の合同会議です。
なんというか、保育園ってすごいなとあらためて思いました。職員一人ひとりが部落問題について自分のテーマを決めて調べて、それを互いに発表しあうとかやっておられるんですよ。すごいわ。それを聞いた小学校の教員は「うちの学校、かつては同じようなことを合宿してやってました」とか。
そういうのを聞くと、ほんとに高校ってのはチームワークとしてはダメだなって思います。まぁわたしもそのチームワークを乱す人間ではあるんですけどね。そして、その自由さが大切だってこともわかってるんですけどね。ただ、教職員の人数が多いということと、仕事が分担されることで専門化されてることのメリットも大いにあるしなぁ。そして、大学はもっとダメなんてしょうね(笑)。
午後の会議の前に隣のガッコの食堂へ。てか、食堂のあるガッコはいいなぁ。もちろん、温かいごはんを安くで食べられるってのもメリットなんですけど、それだけじゃなくて、みんなで食卓を囲んで食事ができるので、そういうところでムダ話ができるんですよね。それがいい。もっとも、ひとりでごはんを食べることになる人もいたりするってのもあるわけですが。てか、かつておべんとを持っていくことで、そういう「輪」を壊したわたしが言うことでもないか(笑)。
で、午後の会議。ここで話題になったのが「マイクロアグレッション」をめぐる話です。
どうやらきむうじゃさんの「「日本語おじょうずですね」は差別か」という問いにいまだに捕まっておられる方がいる。それはとてもいいことだと思います。簡単に答えを出したりあきらめたりするんじゃなくて、考え続ける。
ただ、考える時の立場が違う。つまり、言葉を発する側にとって、それは差別と「される」のかということにこだわっておられる。もちろん大切な観点です。が、おそらくマイクロアグレッションはそういうのではない。被差別の側が「なんとも言えない居心地の悪さ」に出会った時に、「マイクロアグレッション」という概念を手に入れることで、その居心地の悪さに名前をつけることが可能となり、説明することが可能となる。
例えば「日本語おじょうずですね」の中に込められているのは、「日本語ネイティブスピーカー=日本人」というステレオタイプなんだけど、そのステレオタイプは同時に「在日」という存在をそこから排除することによって成立している。そこに在日は反応する。で、なぜ反応するかというと、在日という存在がカテゴリー集団として与えられてきたトラウマなんですよね。それがvulnelabilityへとつながり、マイクロアグレッションへとつながっていく。それは言葉を受けとる側のことなんですよね。つまり、マイクロアグレッションがマイクロアグレッションとして存在するのは、あるカテゴリー集団に対して与えられたトラウマとの関係なんだってことを、この間考えたんです。
ま、そんな話をするのですが、言葉を発する側としては「何も言えなくなる」「コミュニケーションがとれなくなる」となってしまうんですよね。
まぁ、継続論議だな(笑)。
で、少し早く会議が終わって、少し早く京都駅に着いたので、久しぶりに角打ちに行こうかなと。考えてみたら、今年になってまだ行ってません。
「あけましておめでとうございます」
と扉を開けたら、みなさん
「おー、来た」「久しぶりやな」
と声をかけてくださいました。うれしいな。たぶんたまに来る常連としてカウントしてもらってるんだろな。てことで、いつものを注文。
せっかくなので、「主」のようなおじさまに身の上話を聞いてみたり。果たしてこの行為はカミングアウトなのかアウティングなのか(笑)。でも、カミングアウトを迫る問いに答えてくださるわけで、やはりそこにはケン・プラマーの『セクシュアルストーリーの時代』的なものがあるのかなと思ったり。
そんなこんなで小一時間で帰ろうとしたら、いつもにぎやかなおじさまがお酒をおごってくださってたらしいです。マジっすか。お代は280円!
てことで、家に帰ってお風呂→ビールだな。
と思って家族でワイワイごはんを食べているうちに、いつの間にやらデッサンの話になりました。わたし以外の家族というか、うちの母親もパートナーの母親も、メッチャデッサンがうまいんです。
「わたしは絵が苦手」
と言ったら、上の子どもが
「そんなことはない」
と言って出してきたのがこれ(笑)。
そういや、昔こんなの書いてたな^^;
実存を問い直す場としてのカフェ・ド・まきぐち
朝、センターに行くと、すでに朝がはじまってました。みんなすごいな。朝ごはんを食べさせてもらって、しばしうだうだ。やがてIずみちゃんが散歩から帰ってきたり、Sゅんすけが起きてきたりして、台所でワイワイ。ちなみに、台所の采配はYもちゃんがやってくれて、ほんとうにありがたい。と、久しぶりのKうたさんがやってきて、びっくりするなど。
それにしても「心配しました?」って聞かれて「心配なんてするはずがない」と答えるなど。だって、心配な子じゃないからなぁ。
てことで、11時前から片づけ開始。わたしは着替えに出て、帰ってきたら片づけすんでました。ありがとー。
そこから枚方へ移動開始。今日はカフェ・ド・まきぐちの日です。なんか今回は荒れそうな感じです。
それでもはじめは和やかに乾杯。そして和やかに自己紹介。そして和やかにおいしいイタリアンをいただきます。が、連日の呑み会とか夜ふかしで、完全に身体がまいってます。なので、床の上にごろり。しばし睡眠です。と、なにやら空気がすごいことになってます。
そうか。発話権の問題が起こったか。しかもそこにジェンダーが絡んでる。問題提起されたのはSゃ納さんだから、的確です。そこから、それぞれが実存を問い直される時間がスタートしました。
ただ、わたしは眠い。再び床の上に横になると、優しいシェフがタオルケットをかけてくださったり。
そんなこんなで、最後はちくわぶをいただいて、今回のカフェ・ド・まきぐちも終了です。疲れた…。帰りのバスでいろいろ振り返りをしてたら、運転手さんに怒られてしまいました。うーん。
家に帰ると12時前。明日大丈夫か?
人権意識を育む学級集団づくり ー子どもとつながり、子どもをつなぐー
今日は午後から出張です。ただ、担当者の方が今日の試験カントクをはずしてくれてたので、それに甘えて休みをとりました。なので、少しゆっくり。
で、昼前に出張先へスタート。途中は本を読みましょう。前はよくわからなかったところもあったけど、今回はなかなかよくわかる。
で、出張先に到着。今日の出張も某人権教育研究会の総会です。
まずは実践報告ということで、小学校教員のレポートです。んー。ていねいではある。が、人権教育のレポートかどうかはわかりません。なんか、モヤモヤしてたけど、今日は黙ってるつもりだったので、何も動かず。すぐに実践報告の時間は終了です。
そのあとはお待ちかね、記念講演です。講師は磯野雅治さんです。
実は磯野さんの話を聞くのははじめてではありません。8年半ほど前にうちの職場にお呼びして話を聞かせでもらいました。あのときの印象は「メッチャそうそうそう!」でした。磯野さんは中学校、わたしは高校という違いはありますが、考えてることややってることにかなりの共通点がありました。なので、今日の講演も楽しみです。
話の内容は、タイトル通り「学級づくり」です。磯野さんの話のおもしろいというか、特徴的なところは、磯野さんはムラを校区にもたない学校における実践であるところかなと思っています。というのは、いわゆる「地域との連携」とかは望むべくもないってことです。でも、もちろんしんどい学校だからこそ「学級づくり」が必要になります。つまり、純粋に「担任力」でやりきるしかないということになります。
で、結論的に言うなら、今回も「メッチャそうそうそう!」でした。例えば「〇〇ということがあって、それを」と聞いたところで「あぁ、学級通信だな」と思ったら、そのまま「学級通信に載せる」って言われる。で、わたしとしては「ですよねー」ってなる。
もちろん、小中の教員にとってはあたりまえのことかもしれませんが、高校で定期的に学級通信を出す担任はあまりいませんから、やはり「ですよねー」です。そうそう「生徒に用事があるときに放送を使わない」も同じですね。
やはり担任をやるってことは、校種の違いを超えてるんでしょうね。そんなことを考えてるうちに講演終了。うん、おもしろかった。
てことで、帰りの電車でも読書です。とても有意義な1日でした。
倫理学からのアプローチ
今日は某人権教育研究会の総会です。
午前はまぁ総会です。楽しみなのは午後の記念講演です。今回は「差別と倫理」の話を聞くことができました。
そう言えば高校の頃に「奴隷制度があったから哲学や科学は発展してきた。だから、奴隷制度は必要なんだ」って言ってた同級生がいて、もちろんそれはアカンのではあるんだけど、そこへの反論をしきれなかったという思い出があったりするわけです。つまり「アカンに決まってるやん」は答えにならない。かと言って「キミはそういう立場なのね。上等やんか」も答えにならない。
もちろんそれに対する答えとして「差別の現実に深く学ぶ」ってアプローチがあるんだけど、それもまた心許ない。
そんな中この日に堀田さんが倫理学からのアプローチをされていたのが、ずっと小骨が喉に刺さるような形で頭の中にありました。なので、今回の話はすごく楽しみでした。
結論的には「〇〇だから差別はアカン」という明確な解答はもらえませんでした。たぶん(笑)。ただ、すごくなるほどと思ったのは「トラウマ」という観点を提示されたことです。トラウマとvulnerabilityが結びついたとき、その具体例としてあげられるのがヘイトスピーチになります。つまり、ヘイトスピーチは肉体へのダメージになりうるということ。そしてそこにトラウマがあるということ。だからこそそこにvulnerabilityがあるということ。そのvulnerabilityはマイクロアグレッションで日常的にダメージを与えられ続けることによって強化されている。こうしたことが結びついたときに「差別とはなにか」ということが具体化される。つまり差別は具体的には「個」に加えられるものではあるけど、その個はvulnerabilityを持つカテゴリー集団と結びついている。そのカテゴリー集団を「被差別者」ということができるのかな。
こう考えると「差別はアカン」と単純に結果だけを言うのではなく、少なくとも差別の構造を心理学とも社会学とも違うアプローチで説明できるようになる。
別に倫理学でなきゃならないということではなくて、差別を論じるときに多様なアプローチがあるということに意味があるのかな、そんなことを、話を聞きながら考えてました。
うん、よかった!
気づく、つながる、築く・日教組教研3日目
朝起きると、7時。余裕です。ゆっくり朝ごはんを食べて、出発準備しましょう。ちなみに、体調は昨日よりはるかにマシです。でも、しんどいのはしんどい。
Aっちゃんとロビーで合流して、今日は市電で行きましょう。
会場に着いたら、ロビーでA井さんに腰を押してもらいました。あー、アカンのはそこだったんだ!
会場に入ろうとしたら、全国の女性部長がやってこられて「頼みたいことが…」とのこと。はぁ、わたしのでいいんですか。でも、ちょっとうれしい。
で、今日は総括討論です。テーマは「気づく、つながる、築く」です。さて、何を話そうか。
やはり、今考えてることはこの時話した内容ですね。それをいかに伝えるか。
たぶん「気づく」って、ワクワクすることなんです。そしてそれを教員はよく知ってる。知的好奇心ってのを持ってるんです。だから、新しい知識と出会うとワクワクする。
例えばその典型が、「部落史の見直し」でした。「えー!」って思ったし、「おもしろい!」って思った。そして、このおもしろい部落史をどうやって伝えようかと工夫し、授業した。で、どうだったか。ごく一部の子には伝わったけど、圧倒的多数の子どもたちにとっては「だから?」だったんです。それはなぜか。伝えようとしたことが「ワクワク」だったからです。ワクワクしない子にとっては伝わらないし、そもそもワクワクを伝えてもその先に行かなきゃダメなんです。
同じことが「性の多様性」でも起こってる。教員は「えー!」「おもしろい!」と思って、「性の多様性」を一生懸命勉強して、そのおもしろさを伝える。でも、そこで起こることは「部落史の見直し」と同じことです。
「部落史の見直し」のときにわたしたちが考えたことは、「部落史「を」教える」ことから「部落史を「で」教える」ことへの転換でした。そしてそこから伝えようとしたことは、部落差別は民衆の中にあって、政治権力はそれを利用し助長したってことでした。つまり政治を変えることだけではだめで、社会を変えること、そしてその社会はわたしたちによってつくられてるってことがわかったんです。だからこそ、「政治の問題」から「わたしの問題」へと転換したんです。
同じように、「性の多様性「を」教える」ことから「性の多様性「で」教える」ことへの転換がなにをもたらすか。それは、わたしのレポートが伝えようとした「多様性の中に権利の不平等がある」ということ。そして、その不平等を通して、わたしたちが「あたりまえ」と考える社会が実は当たり前なのではないということ。つまり、この社会がどのような「規範」でてきているかを明らかにするということです。
まぁ、そんなあたりを中心に発言して、午前で今年の日教組教研もおしまい。
終了後、またまたロビーでA井さんに腰を押してもらいました。やはり腰ですね^^;。
お昼ごはんはもちろんお好み焼きです。うーん、「かっくんスペシャル」を思い出して、少しさびしさを感じたり。
あとは新幹線に乗って帰るだけです。Aっちゃんと一緒にお酒を買い込んで、しばし宴会。京都駅で余ったお酒を片づけて、お家に帰ったら5時。あかん、限界です。寝よう。7時に起きて晩ごはんを食べて、でもまた寝よう。明日は日常だ。
いろいろ決断
今朝もふとももの裏が痛いです。とてもじゃないけど走れません。やはり筋トレが必要なようです。やらなきゃ。でも、体調はそんなに悪くないです。もしかしたら「人間ドック」と思ったから、身体が反応したのかなぁ。まぁ飲み会がさほどひどいのじゃなかった&朝ゆっくりできる日があったってことなのかな。要は、休まなきゃならんってことです。
今日の1・2時間目は6人講座。4人しかいなかったけどね(笑)。今日はユークリッドの互除法です。整数問題は、せめてここまではやっとかないとね。ほんとは1次不定方程式までいきたかったけど、先週の授業がなかったので断念です。逆に言うと、時間に余裕ができたので、今日も雑談。
はじめは「法として合同」って話を前のおべんきょ場所での経験と照らしあわせて話してみたり。そこから脱線して、レポートを出す難しさと、レポートの採点のたいへんさの話をして、気がつくと障害学の社会モデルの話をしてました(笑)。
で、「なんの話してたっけ?」から授業再開。
2時間の授業を終えて、「1年間ありがとうございました。メッチャ楽しかった」って言われました。ですよね。今日が最後の授業だったんですよね。最後くらい全員来いよな(笑)。
2年生は会議室学習です。
とにかくトコトン数学が苦手なんですね。0の足し算ができない。いや、0だとそのまんまやんって話なんだけど、それが混乱するとできなくなるんですよ。なので、2次方程式なんて、遠い彼方の話です。どうしよう。なんとか因数分解させるか、解の公式に走るか。前者は考えなきゃならんし後者は計算しなきゃならん。そんな子らに教えてるのは増減表です。
つまり、増減表のつくり方がわかったとしても、増減表をつくるための「導関数=0」からxを求められない。だから増減表がつくれない。現行の数学の学習指導要領は「積立型」ではないと言われてるけど、0の足し算とか2次方程式とか、最低限の積立は必要なんですよ。「そんなのはできて当たり前」って感覚の人が「積立型ではない」って言うんです。悔しかったら、「x=1と3で導関数が0になる。増減表を書け」みたいな問題を教科書に書いてみろ(笑)。
とまぁ、それはそれでいいのですが、気になるクラスの気になる子、どうするかなぁ。今年度はほぼ毎日考えてきたけどなぁ。教員人生ではじめての決断をしなくちゃならんのかなぁ。もちろん、これまでも頭の中をよぎったことはありました。でも、なんとかしてきました。まぁでも、自分の限界は子どもたちに助けられてたんだなってことを、あらためて感じますね。
まぁでも定時が来たから帰りましょう。
家に帰ってビールを飲んでお風呂に浸かりながら、これからの人生を考えてみたり。こちらもこちらでたいへんだなぁ。今考えてること、やはり非現実的だよなぁ。うーん。
まぁ、悩んでも仕方ないから、さっさと寝ましょうか。
訃報と「おもろい人」
学校からの帰りに阿久澤さんからメールが来ました。
「柏葉さんが亡くなりました」
え…。
びっくりしたけど、「とうとうか」という思いもありました。過酷な仕事で身体にガタがきてるってことはずっと言っておられましたからね。
御着にはじめて行ったのは2009年のことでした。この時は全キリで行ったんですね。一緒にごはんを食べたのはこの時だけかな。きっとお酒好きなんだろなと思ってたんだけど、そうじゃないことが後にわかりました。
2回目は2010年ですね。この時は府高人研の山城ブロックのフィールドワークかな。なんか、一緒に昼ごはんは食べたのか。この時はじめて「いつき」って名前で呼んでもらったみたいです。
3回目は2011年。この時は府高人研全体で行きました。当日の記録がない^^;。でも、柏葉さんのお宅におじゃましてしまった日です。この時はほんとうに柏葉さんの魅力に触れた気がしました。
そして4回目は2018年。この時はうちの上の子どもが参加した日でした。わたしの性別について、わかってるのかわかってないのか、よくわからなかったんだけど、たぶんわかってて、それでも女性としてつきあってくださってたんだな。それが昨日今日の話じゃなくて、10年前からそうなわけで、それがすごいな。
そういや、この4回以外にも、電話でいろいろ用事をお願いしたことがありました。いつも
「柏葉さんのお宅ですか」
「はいそうですが」←メッチャローテンション
「あの、いつきです」←機嫌悪いのかなとおそるおそる
「おお、いつきちゃんか」←一気にテンションあがる
みたいな会話からスタートしてました。
やっぱ気に入られてたのかな。
それにしても、「おもろい人」が、またひとりこの世から去って行かれました。年上だからしかたないし、年下で「おもろい人」は、まだまだ少ないし、いても死にそうにないから、去って行かれるのは「年上のおもろい人」なのはあたりまえなんですけどね。
でも、さびしいな。
と、阿久澤さんから
「おもろいひとに、なろう」
と返事がありました。
「うん、なろう」
と返しました。次はわたしたちの世代の番ですね。
そして
「久しぶりに飲みましょうか」
と書くと
「飲みましょう」
ということになりました。
まずは飲むところからだな。
「統制」をめぐる一考察
4日間授業をしないとやり方を忘れそうです(笑)。そんな時のプリント学習です。ちなみに、学期はじめのややこしい時間割の関係で、気になるクラスのほうが1時間少ないです。なので進度が揃ってない。
進度が揃わないのはいいのか悪いのか。てか、気になるクラスが早いほうがいいのか遅いほうがいいのか。早ければ余裕ができるけど、遅いともうひとつのクラスで試したことを修正できます。
まぁそんなこんなで、片方のクラスは予定通り「アクティブ的ラーニング」です。具体的には、金曜日に「みんなで考えて」って言った増減表の解答を書いて、あまり説明せずにそのままプリント学習です。みんなワヤワヤやってます。
さてと。気になるクラスは…。その1時間前の内容です。曲線外から引いた接線の方程式をやってからの増減表。これ、流れが悪いです。なんで接線をあとにしないのかなと思うけど、つい教科書通りに進めたわたしの失敗です(笑)。
それにしても、気になるクラスの気になる子が気になる行動をする。まぁ簡単に言うと、遊ぶか寝るか休むか。これどうするかなぁ。とにかく勉強の方を向くということができない。もうひとつのクラスと比較すると、ひとことで言うなら統制がとれてない。
もちろん、わたしの基本スタンスとしては「統制なんてクソ喰らえ」です。が、今の学校制度は統制がとれていることを暗黙の了解としたうえで成り立ってる。皮肉なのは「主体的・対話的で深い学び」もまた、統制がとれた上での「主体的」なんですよね(笑)。もちろんその統制は「右向け右」に従うというものではないけど、数学やるときに英語やるとか、数学やるときにウノをやるとかいうことがないという程度の統制です。あるいは「対話」の内容が数学であって今晩の遊びのアポではないという程度の統制です。
その程度の統制であっても、それが前提でなりたってるってことです。そしてその程度の統制がとれてないと、突然「学校制度が求めること」ができなくなる。だからこそ、統制がとれない学校は統制をとろうとする。あるいは、統制がとれなくなることを恐れて、過剰に統制をとろうとする。それが例えば過剰な校則です。
もちろんそれを肯定するつもりはないです。が、統制をとろうとする気持ちはわかる。あるいは、あやういバランスで統制がとれている時に、統制がとれなくなることへの不安があることもわかります。
問題は、そのような統制をとろうとする時の過剰なあり方への批判が学校にのみ行くことです。だって、学校のまわりの住民だって統制がとれてない学校よりも統制がとれてる学校のほうがいいと思ってますからね。それを求めてる。あるいは某府県だって「全国学テ最下位脱出」とか言って統制を強めることを暗に指示してる。そういうプレッシャーの中で、学校も統制を強めざるを得ない。
ほんとうに子どもたちが教科書から離れて教科も離れて主体的に学びたい内容を学ぶために、学校の塀を乗り越えて自由に動きはじめたらどうなるかって考えたら、わたしはワクワクするけど、地域も保護者も「なんだこの学校は」ってなることは、わたしは経験的に知ってます(笑)。
何が言いたいかというと、ある種の統制が効いた「枠」の中でのみ学びが成立するという前提があって、統制を批判する場合、それそのものを問わなきゃならんということです。
てことで、実際にクラスを運営する時は統制が必要なわけです。そして「統制」がキライなわたしは、ジレンマを感じつつも、それを暴力的ではない方法で実現しようと試行錯誤するわけです。
だから、気になるクラスが「気になる」んですよね。
それにしても、今年はこの手の内容が多いな(笑)。
3連休の翌日に今後のことを考える
今日は3連休の翌日です。メッチャしんどい日です。が、今日は火曜日。しかも午前も午後も出張です。なので、いつもよりも少し遅目に出勤できます。これはラッキーとしかいいようがないです。
まぁ、朝が早いのは、家から職場まで1時間半もかかるからなんですけどね。自業自得です。
てことで、第2のふるさとへ。まずは授業参観。ここのガッコもほんとに変わりました。20年前は空席だらけ。昼前にマッ金金の髪の毛の子がグラウンドをのんびり歩いてくるみたいな学校でした。それが、今はとても楽しそうに勉強してます。たぶん、教職員だけでなく教育委員会や他の学校や地域や、いろんな人たちが変えてきたんでしょうね。でもだからと言って「課題は解決した。変える努力はもう必要ない」とはなりません。なぜなら解決してるわけではないからです。だって、かつて「解決」って言われた時はぜんぜん解決してなかったし、その後ずいぶんと変化した「現状」を維持するためにも努力が必要です。
そう考えると、某時限法が失効した時「失効したから解決」って言った人たちは、ほんとに何を考えてたんだろなって思います。
その後みんなで各学校の情報交換。変える努力はこういう地道な積み重ねの上にあるんですよね。
で、午後の出張場所である京都府中部の町へ向けて移動開始。まずは最寄り駅で30分待ち。電車を1時間半乗り継いで、15分山越えをして、ようやく到着。車だったらもっと早いけど、やはり電車移動がいいです。
午後の会議は総括の準備です。昨今の人権教育のあり方への危機感を、みんなが持ってることがヒシヒシと伝わります。ということは、みんな本気だってことです。
ただ、わたしはというと、スマホでメールチェック。と、友だちから来たwordのファイルをあけて、あり?となりました。どうやらEMOTETに感染したファイルだったようです。これはヤバイのか?
会議のあとは、他支店の支店長から呼ばれて密談(笑)。とは言え、これまた今後のことです。
まぁ簡単に言えば、これまでのテクニカルタームを繰り返しても、若手教員は理解できないってことです。ちなみにそういう状況をつくりだしたのは、教育委員会であり文科省であり財務省なんだけど、そういうところは責任をとってくれません。尻拭いするのは現場です。テクニカルタームを捨てて、でもエッセンスが伝わる「スローガン」をつくること。これが、わたしの最後のミッションなのかな。
そんなことを考えながら、京都駅まで仲間に車に乗せてもらって、飲みに行きたい誘惑を断ち切って(笑)、さぁ帰りましょう。帰り道にEMOTETについていろいろ探してるとこんなところを見つけました。あり?EMOTETってwindows限定?こんな時はIずみちゃんに頼ります。すると電光石火で「PowerShellを使うから大丈夫です」とのお答え。すばらしい!
夜は夜でパートナーと今後のことをしみじみ相談。まぁ「今後」を考えなきゃならんのは仕事だけじゃないんだなぁ。