昨日「マジか」となったおそらくは原因の「目撃!にっぽん」を視ました。
最初に感想を言うなら「いい番組やなぁ」です。
なにがいいか。
あったことを淡々と話されて、それが淡々と流される。なにより「被差別体験」を話されない。単に「あったこと」です。例えば会社を受けて「朝鮮人やろ」と言われて落とされたって話がありました。でも「差別された」とは言われない。そういう意味です。て、その「あったこと」を「被差別体験」と考えるのは「聞き手」の問題なんですよね。
例えば、「朝鮮人やろって言われて落とされた」という語りを聞いて「朝鮮人差別にあったんや、許せへんな」とか「朝鮮人やから当たり前やんか」とか「また差別差別言ってるわ」とか、いろんなことを考える。それは、その語りを解釈する「わたしたち」の問題だってことです。「わたしたち」がどういう「ことば」の中で生き、その「ことば」によってどういう「文脈」の中で生きてるか。それが「語り」によって顕在化するってことです。
つまり、顕在化するのは「わたし」なんですね。
で、わたしはどう思ったか。
「人は歴史とか国家に翻弄されて生きるもんなんだなぁ」
です。
ちょうど昼間に安昌林選手のオモニと話していて、「あの子、いま日本にいないんですよ」と。「帰ってこられる予定は?」と聞くと「たぶん当分無理」と。そこにあったのは、ひとつはcovid19なんですが、もうひとつは「在日」という存在ゆえでした。なぜ安選手が日本にいないのか、なぜ当分帰ってこられないのか。そこには歴史とさまざまな国家間にある関係性の中で生み出される思惑とが交差しています。
そして夜に「目撃!にっぽん」のハラボジの話を視た。
おそらくハラボジは「朝鮮人やろ」と言われて落とされた時、悔しかっただろうなとは思います。でも、それが当たり前の時代です。だから、法務省に行くとか、民族団体に行くとか、日本人と共闘して闘うとか、そういう選択肢は考えもつかない。仮にそういう方法を思いつくとすれば、それはそういう歴史をつくってきたからこそ可能になる。だから、例えば民闘連とか「すげぇ!」って思うわけです。
恵さんの話もおもしろかった。「結婚という節目があれば帰化を持ち出せるけど、朝鮮人がイヤというだけでは親が悲しむから帰化したいとは言えない」。考えようによっては「結婚とか関係ないやん」とも言えるかもです。あるいは「ジェンダーが」とか「異性愛規範が」とか言うことも、もちろんできます。でも、恵さんにとってはそうではなかった。そこから恵さん個人のことではなく、恵さんがいた/いる恵さんを取り巻く社会が浮き彫りになります。
それは今のわたしも同じことです。個人として「マジか」とか「当たり前」と感じるひとつひとつの出来事をそう考えるってのは、歴史や国の思惑に翻弄されているなかで、自分がそう解釈してるからなんですよね。だからこそ、そう考える自分を分析することがおもしろい。そこで不可欠なのが、やはり歴史です。
例えば、「番地のない町」に住む人たちは「不法占拠」と言われた。でも、極端な話、平安時代は河川法なんてないから「不法」という概念なんてなかった。ある行為がどう評価されるかってのは、歴史や国に翻弄される。では、なぜ「不法占拠」せざるを得なかったか。番組の中に「立ち退き」というひとことがありました。立ち退き?どこを立ち退かなければならなかったのか。なぜ立ち退かなければならなかったのか。さらに、立ち退く前に、なぜ立ち退かされるところに住んでいたのか。そういう歴史があるはずです。それを通して「不法占拠」という行為が必然的なものとして理解できるようになる。そして「不法占拠」という言葉を聞いた瞬間に感じた自分が置かれた文脈が理解できる。さらにそういう自分が置かれた文脈が歴史や国の思惑に翻弄されながらつくられてきたことが理解できる。
そして、それを理解できるからこそ、そういう歴史や国の思惑に翻弄される文脈を変えうることが可能となる。さらに歴史や国の思惑そのものも変えることが可能となる。
そしてその切り口はどこにでもある。
「番地のない町」に住んでいた人が誰であるか、「番地のない町」がどこであるかを探ることに意味はないです。あの番組は、たまたま「番地のない町」を切り口にしただけのことです。その切り口は、「わたし」のまわりにもある。その切り口をみつけられるかどうかは、わたしの問題である。
そんなことを感じました。
最後に、「番地のない町」と「そこに住んでいた人」という切り口をていねいに聞き取ってこられた村木さんですね。そこには長い時間をかけてつくってこられた信頼関係がある。そのとてつもない労力は、きっと「ものすごく旺盛な好奇心」の先にある「自分一人に留めてはならない」というところに依拠してるのかな。そんな村木さんに感謝です。
カテゴリー: 考え
マジか…→おべんきょ番外編
このブログで「マジか」で検索すると、かなりいっぱい出てきます。まぁそれだけ「マジか」なことが多いってことです。が、今日も「マジか」なわけです。
今日は出勤日です。なのでいつものように出勤。ただし、車を車検に出すので車です。いつもの時間に出るとメッチャ早い時間に着きます。
で、ゴチャゴチャ仕事。
と、勤務時間がはじまって間もなくメールが。読んでみると
「今週で在宅勤務は終了」
とのことです。
マジか…。
たしかに子どものことや学校の運営を考えると、早めの休校解除がいいでしょうね。なので前倒しになっていくのはわかります。が、個人的には予定がメチャクチャになります。
「予定ってなんやねん」
って話ですが、基本的には5月末まで今の勤務体制だろうと思ってたので、例えば肩のCTとか受診日も、ある程度安心して予約が入れられてました。それが一気に崩れました。
まぁ、病院の予約はいいけど、おべんきょがなぁ。
「そんなん個人的な話やないか」
ってことで、それはまったくそのとおりですが、通勤の時間がもったいない。その3時間だけでもかなり大きい。
教員たるもの「子どものいない学校はなにか物足りない」「子どもの声が響くのが学校」という感覚を持つべきなんだろうけど、ましてや人権やってる人間であれば身体レベルでそんな感覚が身についているべきなんだろうけど、「べき」からズレてるわたしは、悪い教員なんやろな。
そんなことをふと思ったけど、まぁしゃーないです。
気を取り直して、今日は「おべんきょ番外編」です。ターゲットは「学校の中のケータイ小説 : ケータイ小説をめぐる活動と成員カテゴリー化装置」です。こないだもらった宿題です。
はっきり言って、EMはむずかしい(笑)。なにがむずかしいって、言葉がむずかしい(笑)。「成員カテゴリー化装置」って、どんな機械やねんと思います。英語が「membership categorization device(MCD)」です。deviceとか言われたらdevice driverが浮かんでくるわたしにとって、あまりにもむずかしすぎます。
ただ、今回じっくり細かくと読んで、今まで知ってたMCDの理解よりも少し深まった気がしました。あと、なによりこの時のやりとりを思い出したのも収穫かな。
やはり責任持って読むもんやな。
さっぱりわからん
ここ数日、COVID-19の報道をチラチラ見ていますが、なんでも東京の感染者数が30人くらいになったとか。ちょいと調べると、例えば5月7日の新規感染者が96人です。が、検査数が1,103人。なので、10分の1弱です。数字だけ見ていると、収束の方向へ向かっている感じだけど、検査数がほとんど公開されていないし、公開されている検査数もどういう人が検査対象になっているかがわからないので、結局全体像がつかめない。つかめないままに、感染者数だけが発表される。これほど情報がないとはね。
そんな中、テレビに出てくるのは、O阪のY村さんです。「やってます」アピールがすごいけど、ほんとうにやってるのか?
自分の命令一下、人々が自粛をして、それで感染が抑えられていると思っているのか?そんなはずがないですよね。命令があろうがなかろうが、人々は感染を抑える方向に行動をしています。それも経済的な苦しさを覚悟の上でね。こういうやり方だと、感染を抑えられたら自分の命令のおかげ。抑えられなかったら自粛しなかった人々のせいってできます。てか、今までもO阪I新はそういうやり方をしてきた。さらに「大阪モデル」とか言ってるけど、それって単にネーミングして差別化しているだけのことです。
さらに、言ってることってできるのか?
例えば、授業のネット配信にお金を出すといってるけど、ポケットマネーを出すんじゃないからな。その予算はどこからどう算段するのか?算段のためにはさまざまな人が動かなきゃならんのだけど、そういう調整はしているのか?もしも人の動きなしに算段できたとしたら、その予算はどこにあったのかってことにもなります。
とにかく謎が多すぎる。その背景にあるのは、情報がないってことです。
テレビでは毎日放送していて、某大本営は画面にずっと情報を出しつづけている。そうやってあたかも情報があふれかえっているかのように見えながら、その実ほしい情報がまったく入ってこない。情報を出す背景には、隠された、あるいは出されていない情報がある。情報が多いように見えれば見えるほど、その背後には隠された情報がある。そんな気がしてなりません。
とにかくさっぱりわからん。
「こもる」こと
昼前、パートナーが「背中が痛い。口の中が血の味がする。頭がグアングアンする」と言いはじめたので、これは救急外来だなと。
病院に着くと、やはりものものしいです。まぁしかたないですけどね。玄関で「熱、測ります」と、非接触型の体温計を頭に向けられて、思わず「やられた!」と倒れるギャグをしようかと思ったけど、まぁそれはやめておきました。
で、結果は特になにもなく。前の肺炎が治るのに時間がかかってるのかもということでした。ちなみに、帰りの車の中で「グアングアンは偏頭痛かもね」とのこと。なるほど。
で、夜はちょぼやき会@Zoomです。みんなそれぞれこの1ヶ月の気づきを語りあいました。
わたしは…。
学校関係のことはこの間と同じことなんですが、それよりも個人的な気づきがおもしろい。
基本的に、わたしはバタバタと走りまわる毎日なので、おそらく誰もが、そして自分もが「動くのが好き」と思っているんですけど、案外そうではないのかも。別に昼間にテレビを見るわけでもなく、文章考えたり本を読んだり、そして少し筋トレしたり。ご飯時にはごはんをつくり、食べる。その繰り返しなんですけど、退屈しないです。というか、充実感すらあります。もちろん焦りもありますが。
緊急事態宣言が終了すると、こういう日常がなくなると思うと、ちょっと困るかも。
「こもる」ことが好きな自分に変化したのか、あるいはもとから好きだったんだけど、それを忘れていたのか。あるいは、家族がいるわたしの「こもり」は適度な「こもり」でしかなくて、例えばひとりきりの「こもり」こそが「真の「こもり」(笑)」だったりするのか。
そんなことを考えたりしました。
ただ、そういうことを考えていたら、「障害者と「こもり」」みたいな話が出てきて、なるほどなと。
わたしの場合、なんだかんだ言っても「選択としての「こもり」」です。障害者の場合、例えば施設での生活をしている場合「おしつけられた/る「こもり」」だったりする。そういう人の「こもり」は、わたしとはずいぶんと違うんだろうな。そういう人にとって、今の「強制された自粛(笑)」はどんなふうに感じられるんだろう。あるいは自立生活をしている人にとってはどうなんだろう。
なんか、いろいろ考えるちょぼやき会でした。おかげさまで、お酒もおいしかったな^^;;。
オンライン・カフェ「コロナと私と人権」とか
朝起きると、けっこうすっきり。なにより肩の凝りがありません。枕を変えた効果は絶大です。買ってくれたパートナーに感謝。
朝、散歩に行こうと思ったけど雨が降ってるので、のんびり朝ごはん。
午前は「オンライン・カフェ「コロナと私と人権」」があります。所用があったので、わたしは遅れての参加。遅れたからおとなしくしていましょう。なんか、メンバーを見たらそうそうたる人々です。なかでも、ハンセン病関係の人の「無癩県運動」にかかわる発言は「そうそうそう」と思いました。まぁHIVもそうなんですけど、感染症が流行するたびに同じことが繰り返されている。そしてそこには必ず排除と分断と差別がある。まったく歴史から学んでないよなぁと思います。
そんな感じで聞いていたら、いきなりK口くんが「いつきさん」と指名。「LGBT関連で」って、なにそれ…。おとなしくしていようと思ったから、まったく考えてないよ。てか、どちらかというと、今はガッコのことの方が大きいし、それも個人的にはおべんきょする時間ができているんだけどなぁ。ただ、なぜそうなっているかというと「何をしていいかわからない」からなんですよね。だからそっちで発言しようかなと。
「何をしていいかわからない」理由は2つあります。ひとつは先が読めないということ。もうひとつは生徒たちと個人的に連絡がとれないということです。特に後者は深刻です。だって、例えばオンライン授業しようにも、連絡がとれなければ生徒がアクセスしてくれるしか方法がないからです。で、なぜ連絡先を知らないかというと、例えばクラブなんかでセクハラ案件が起こった時に「生徒と直接連絡をとるな。そのために生徒のメールアドレスを知ってはならない」とやられちゃったからです。
基本的には学校は「うまくいっている」ことを前提に動いています。それは時間的にも人的にもです。今回のように12ヶ月のうち2ヶ月が吹っ飛ぶと、10ヶ月で12ヶ月分のことをしなくちゃならなくなってしまいます。必然的に、「休み」が削られてしまう。とあるO阪なんかだと「土曜授業」とか言いはじめているみたいです。が、土曜日は教員は勤務日ではありません。さて、どうする?土曜日を交代勤務でやったとして、どこかで代休を取らなきゃなりません。が、その代休を取る時間が平日にない。なぜなら、平日の勤務は土曜日が休みであることを前提に組まれているからです。例えば、クラスを半分にして同じ授業を2回とかするとします。すると、単純計算で持ち時間が2倍になる。うちの職場では週の授業が16コマを標準に組んでいるので、単純計算で32時間必要になります。ところが、週5日で1日6時間だと30時間。あふれてしまいます。それを回避するためには人を増やさないと行けないんだけど、それをしない。さらに誰かが休んだら、もう、ジャグリング状態になります。
すべては「うまくいっている」ことを前提にしているからなんですよね。
まぁそんな話をしたあと、やはりLGBT関連か。よくわからないけど、とりあえず、同性愛者に関しては「濃厚接触者」をとてもいいにくいと言うこと。トランスに関しては医療へのアプローチがしにくいこと、ふだんからそれはあるんだけど、それが顕在化するってことを指摘しておきました。
まぁそんなこんなで12時にカフェは終了。そこからビール片手にもう少し話をして、最後はK口くんとふたりになったりしてしまいました。
その後、必要火急な用事でホームセンターへ。メッチャ車が多い。みんな来るんだなぁ。換気とか全然やってないから、危ないぜ。さらに駅に行くと、その向こうにある公園へと歩いて行く人がいっぱいいて、結局ゴールデンウィークなんですね。まぁ人のことは言えんけどね。
分断と排除
この間のCOVID-19にかかわる報道を見ていて、とにかくいろいろ考えるところがあるんですけど、そのうちのひとつが、「なぜ感染者数を都道府県別にカウントするのか」ってことです。もっというと「国別」もそうなんですけどね。
言うまでもなく、ウィルスに国境はないです。もちろん、対策には故郷はあるし、なんなら都道府県境もあります。なので、そこに「差」が見られるのは当然です。でもそれは「人々の差」ではなくて「対策・施策」の差なはずです。ところが、「対策・施策」の差が「人々の差」へと転嫁されている。
具体的には、例えば徳島とか岡山の話です。
てか、これの発端って、兵庫と大阪が「県境をまたぐな」みたいな話があった時から出ていましたよね。「尼崎在住で大阪勤務の人間はどうするねん」って話があったし、「兵庫の人で玖伊屋に参加する時は福知山まわりで」みたいな話もありました。ただ、この頃はネタですんでいたけど、「徳島県在住ステッカー」とかいうのが出てきて、これはヤバイなと。だって、淡路島在住の人が鳴門で仕事なんて当たり前にあるだろうし、なんなら買い物で行くことだって当然ありますよね。ここで、「鳴門に来るな。兵庫県の人間は神戸に行け」とかいう話になると、どういうことになるかってことです。
てか、現在は、さまざまな生活上のリソースを都市に集中させてきた結果、特定地域で生活が完結するなんていうことを否定した社会なわけです。なので、人々が「境界」を越えて移動することを前提とした設計になっている。それを「stay home」とかいうって、それはムリだろうと。それは端的に言うと、都市部の発想です。
で、なんでこんなことを書いたかというと、それはCOVID-19への対策として必要なものは「協調」だと思うからです。もちろん、「盛大に移動せよ」と言っているわけじゃない。このあいだのETV特集でジャック・アタリさんが言っていた「利他主義は合理的利己主義」ってやつです。
しかし、いまや「排除と分断」でこの状況を乗り切ろうとする態度は、国家だけではなく、都道府県レベルにまできている。そしてそれを人々が担っている。そしてこれ、地域レベルの分断まで来た時、だれが「排除と分断」の対象となるのか。おそらくそれは「感染リスク」という名のもとに、もしかしたら障害者施設や病院などの医療施設、そして斎場もですね。さらにもしかしたら寄場や外国人多住地域や部落にも及ぶかもしれない。
なんか、そうした「排除と分断」の出発点を目の当たりにしている気がするのです。
もちろん、「おおまかな把握」のためには、地域ごとの感染者数が不必要であるとは思わない。でも、それは「都道府県別」では、たぶんない。実は、さっき書いたことと逆行するけど、もっと細かな単位での把握が必要なんだと思います。なぜなら、「感染リスクの高さに追い込まれた人々」がそこに生み出されているからです。そこにこそ、重点的に施策を打つべきだと思うし、そのための把握です。決して「分断と排除」ではなく「利他主義は合理的利己主義」のための把握です。
まぁしかし、自民党も大阪維新も、分断と排除を利用して勢力を拡大してきたし、支持する人々は「自分が分断と排除の対象になる」とは思っていないだろうからなぁ。すでに「分断と排除」されているのになぁ。
在宅勤務してみた
他府県でも在宅勤務はすでにされてますが、いろんなところがいろんな方法でやってるみたいです。もちろん「宅」で「勤務」に変わりはないのですが、それらの定義からはじまって、内容、さらに事後の報告にいたるまで、千差万別かな。
例えば、「宅」の定義として
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在宅勤務を実施する揚所は,在宅勤務を行う職員(以下の自宅(実施職員が現に居住している住居をいう)に限るものとする。
ーーー
なんていうところもあるみたいです。
業務の内容もこと細かに決められていたり、報告も成果物を出さなきゃならんところもあるというウワサを聞いたことがある気がします。
で、京都府はというと…。
まずは8時半にガッコに「今から在宅勤務しますよ」とメール。ちなみに、「宅」の定義はありません。そりゃそうです。だって、例えば京都府北部に自宅があって事情で南部に勤務してることもないわけじゃないです。あるいは、研究室を別途借りててそこに資料があるとか、美術系の人でアトリエ借りてるとか、現実はいろいろです。行政の人が「こうだろう」と想像するより実態ははるかに多様だってことです。だから、定義を厳密にすればするほど、そこからはずれてしまうことがあるってことです。ただ、なぜ厳密にするかというと、たぶん「不信感」があるからです。あるいは、外部からのツッコミに対して「きちんと指示してて、あれは違反」と切り捨てるためです。
ちなみに副支店長に「「宅」の定義は住民票のある場所?」って聞いたら「まぁ、そこは柔軟に」って言ったあと「公共の場所はダメ」って言ってたから、そういうことなんでしょうね。どうやら信頼関係がここにはあるようです。
で、勤務の中身はというと、場所によっては「これが勤務内容」として列記してあるところがあるようです。これ、めんどくさいです。というのは、例えば実際の授業の局面になると、生活のありとあらゆるところに「ネタ」が落ちてます。「生活にはネタが埋まってる」です。なので、それを掘り起こすこともまた教材研究であり教材開発です。ところが、内容を列記されると、そういうナマ物的な教材がつくりにくくなる。これも、おそらく「宅」のことと同じかな。が、京都府は「以下のようなことが考えられる」として、例が示してあるだけです。なので、柔軟に解釈できます。
で、途中45分の休憩をとって、17時に内容を列挙した勤務終了のメールを入れておしまいです。
ちなみに、勤務中は原則的には「宅」から出られません。が、通常勤務をしているときも、例えば郵便物を出しにポストまで行くときにいちいち出張や年休は出しません。その程度の柔軟さは在宅勤務でもあります。まぁ、常識の範囲内ってことです。
てことで、ジェンダー・セクシュアリティにかかわる「これからの人権教育」についての研究が少しできました(笑)。
さぁ、あとはビールだビール!
しかし、通勤時間がゼロだと、メッチャ有意義な生活が送れるなぁ。
バランス
この間、バランスを変えつつあったけど、今日決行。
とは言え、今日日のスキーのバランスはエッジは切り換えるものの基本両足荷重で、その割合が違うだけ。まぁそんな感じなんだろな。
せっかくなので
ほんとうは今日の朝一番に子どもたちに見せるつもりだった今年のリメイク部分、せっかくなのでここにあげておきましょう。
基本は最初のバージョンですが、それの前段にをスライド化したものを入れて、さらに「最初のバージョン」の「6」以降を下の内容に入れかえることで短縮させようと。で、入れかえた内容はこれ。
エレノア・ルーズベルトのいう「小さなところから」ってどういうことか。
キーワードはふたつある。
ひとつのキーワードは「助けて!」
「助けて」は負けの言葉じゃない。自分がしんどい場所に置かれてることをアピールする言葉。例えば、いじめられてても「仲間からいじられてるだけ」って思ったら「助けて」って言えない。これはいじめだと思うから「助けて」って言える。
つまり、なにが理不尽であるかということを見抜く力が必要。簡単に言えば「なにがあかんのか」を知ってないと言えない。そしてもうひとつは「あかんのちゃうん」
「助けて」っ言える社会は「あかんのちゃうん」という人がいる社会。
いじめの現場で「自分はやらない」ではなく「あかんのちゃうん」
「ガイジ」とか「ホモ」と言ってるとき「あかんのちゃうん」
外国人に「国に帰れ」と言ってるとき「あかんのちゃうん」
それは「人」に向くだけじゃない。例えば性暴力が許されたり女性にパンプスを強制する社会に対して、「あかんのちゃうん」
でも、なにが「あかん」かは、それを見抜く力が必要。例えば「ホームレス」を見たときに、どこに向かって「あかんのちゃうん」って言うかやね。本人に向かって「あんたの努力が足りんからあかんのちゃうん」というのか、ホームレスが生み出されてきた社会を知って、その社会に向かって「ホームレスがいる社会があかんのちゃうん」というのか。
そして「あかん」と言えるためには練習することが必要。「なにがあかんのか」。それを知るのが人権学習。そのために「あかん」と声を上げてきた歴史や人と出会う機会をつくる。そして高校3年間で「あかん」とどんどん声をあげていってほしい。ちなみに声をあげたからすぐに変わるわけじゃない。でも、へこたれたりあきらめたらアカンよ。
それはさっきのビデオにもあったよね。
まぁでも、休校措置があけたらやる機会をつくらなきゃね。
そういうふうに見えてるのか
今日は午前に始業式、午後に入学式のダブルヘッダーです。久しぶりに放送室がにぎわいました。
ちなみに、今年は他校で放送部の顧問してた人が顧問になってくれたので、もしかしたら引き継ぎができるかもしれません。だとしたらラッキーです。ただ、うちの放送部の活動は変やしなぁ(笑)。
てことで、放送セットやったけど、なんか動きが鈍いですね。みんな忘れてるのかなぁ。まぁ忘れるやろなぁ。PCから音が出ないと思ったら、ピンジャックを標準ジャックに入れてるというか置いてるというか。やれやれ。
でもまぁ、なんとかつつがなく両方とも終えて、片づけでのこと。
今日はクラブやってる子がいないので、教員だけで片づけなきゃなりません。まぁ放送部は手伝いますがね。で、ゴチャゴチャやってると、その場で指示をしてるある教員が
「男の先生〇〇やって。女の先生〇〇やって」
と言ってるのが聞こえました。瞬間、我が耳を疑いました。いや、こういう人がいるってうわさには聞いてたけど、目の前でこういう発言が出てくるとびっくりしますね。しかも、みんなそれに従ってるから、これまたびっくりします。
でも、たぶんあの教員には、生徒も教員もそう見えてるんでしょうね。すべては男女にわかれていて、しかもそれは絶対的な「違い」なんでしょうね。そうやって育ち、それを疑わない環境におり、そういう価値を内在化し、それを自分の価値観の原点に据える。
もちろんわたしも、なんらかの内面した価値観は持っているだろうと思います。が、幸いなことに、これまでいろんな人から修正をかけてもらったことで、そうした価値観は常に揺らぎ、絶対化してこなかった。もちろん今のわたしは価値観の原点はあるけど、それはおそらくそういう揺らぎののちに獲得したものだし、それはこれからも変わりうるとも思っています。
ちなみに、わたしは別の用事をしていて、一緒に用事をしていた副支店長に
「聞いた?」
って言ったら苦笑いしてたから、この副支店長に見えている風景は、けっこうわたしと近いのかな。
たぶんあの教員はよほどのことがなければ変わることはないだろうな。その「よほど」を起こすために必要なのは、あの出来事を他の教職員と話し合うことかなぁ。