オンライン・カフェ「コロナと私と人権」とか

朝起きると、けっこうすっきり。なにより肩の凝りがありません。枕を変えた効果は絶大です。買ってくれたパートナーに感謝。
朝、散歩に行こうと思ったけど雨が降ってるので、のんびり朝ごはん。

午前は「オンライン・カフェ「コロナと私と人権」」があります。所用があったので、わたしは遅れての参加。遅れたからおとなしくしていましょう。なんか、メンバーを見たらそうそうたる人々です。なかでも、ハンセン病関係の人の「無癩県運動」にかかわる発言は「そうそうそう」と思いました。まぁHIVもそうなんですけど、感染症が流行するたびに同じことが繰り返されている。そしてそこには必ず排除と分断と差別がある。まったく歴史から学んでないよなぁと思います。
そんな感じで聞いていたら、いきなりK口くんが「いつきさん」と指名。「LGBT関連で」って、なにそれ…。おとなしくしていようと思ったから、まったく考えてないよ。てか、どちらかというと、今はガッコのことの方が大きいし、それも個人的にはおべんきょする時間ができているんだけどなぁ。ただ、なぜそうなっているかというと「何をしていいかわからない」からなんですよね。だからそっちで発言しようかなと。
「何をしていいかわからない」理由は2つあります。ひとつは先が読めないということ。もうひとつは生徒たちと個人的に連絡がとれないということです。特に後者は深刻です。だって、例えばオンライン授業しようにも、連絡がとれなければ生徒がアクセスしてくれるしか方法がないからです。で、なぜ連絡先を知らないかというと、例えばクラブなんかでセクハラ案件が起こった時に「生徒と直接連絡をとるな。そのために生徒のメールアドレスを知ってはならない」とやられちゃったからです。
基本的には学校は「うまくいっている」ことを前提に動いています。それは時間的にも人的にもです。今回のように12ヶ月のうち2ヶ月が吹っ飛ぶと、10ヶ月で12ヶ月分のことをしなくちゃならなくなってしまいます。必然的に、「休み」が削られてしまう。とあるO阪なんかだと「土曜授業」とか言いはじめているみたいです。が、土曜日は教員は勤務日ではありません。さて、どうする?土曜日を交代勤務でやったとして、どこかで代休を取らなきゃなりません。が、その代休を取る時間が平日にない。なぜなら、平日の勤務は土曜日が休みであることを前提に組まれているからです。例えば、クラスを半分にして同じ授業を2回とかするとします。すると、単純計算で持ち時間が2倍になる。うちの職場では週の授業が16コマを標準に組んでいるので、単純計算で32時間必要になります。ところが、週5日で1日6時間だと30時間。あふれてしまいます。それを回避するためには人を増やさないと行けないんだけど、それをしない。さらに誰かが休んだら、もう、ジャグリング状態になります。
すべては「うまくいっている」ことを前提にしているからなんですよね。
まぁそんな話をしたあと、やはりLGBT関連か。よくわからないけど、とりあえず、同性愛者に関しては「濃厚接触者」をとてもいいにくいと言うこと。トランスに関しては医療へのアプローチがしにくいこと、ふだんからそれはあるんだけど、それが顕在化するってことを指摘しておきました。
まぁそんなこんなで12時にカフェは終了。そこからビール片手にもう少し話をして、最後はK口くんとふたりになったりしてしまいました。

その後、必要火急な用事でホームセンターへ。メッチャ車が多い。みんな来るんだなぁ。換気とか全然やってないから、危ないぜ。さらに駅に行くと、その向こうにある公園へと歩いて行く人がいっぱいいて、結局ゴールデンウィークなんですね。まぁ人のことは言えんけどね。

分断と排除

この間のCOVID-19にかかわる報道を見ていて、とにかくいろいろ考えるところがあるんですけど、そのうちのひとつが、「なぜ感染者数を都道府県別にカウントするのか」ってことです。もっというと「国別」もそうなんですけどね。
言うまでもなく、ウィルスに国境はないです。もちろん、対策には故郷はあるし、なんなら都道府県境もあります。なので、そこに「差」が見られるのは当然です。でもそれは「人々の差」ではなくて「対策・施策」の差なはずです。ところが、「対策・施策」の差が「人々の差」へと転嫁されている。
具体的には、例えば徳島とか岡山の話です。
てか、これの発端って、兵庫と大阪が「県境をまたぐな」みたいな話があった時から出ていましたよね。「尼崎在住で大阪勤務の人間はどうするねん」って話があったし、「兵庫の人で玖伊屋に参加する時は福知山まわりで」みたいな話もありました。ただ、この頃はネタですんでいたけど、「徳島県在住ステッカー」とかいうのが出てきて、これはヤバイなと。だって、淡路島在住の人が鳴門で仕事なんて当たり前にあるだろうし、なんなら買い物で行くことだって当然ありますよね。ここで、「鳴門に来るな。兵庫県の人間は神戸に行け」とかいう話になると、どういうことになるかってことです。
てか、現在は、さまざまな生活上のリソースを都市に集中させてきた結果、特定地域で生活が完結するなんていうことを否定した社会なわけです。なので、人々が「境界」を越えて移動することを前提とした設計になっている。それを「stay home」とかいうって、それはムリだろうと。それは端的に言うと、都市部の発想です。
で、なんでこんなことを書いたかというと、それはCOVID-19への対策として必要なものは「協調」だと思うからです。もちろん、「盛大に移動せよ」と言っているわけじゃない。このあいだのETV特集でジャック・アタリさんが言っていた「利他主義は合理的利己主義」ってやつです。
しかし、いまや「排除と分断」でこの状況を乗り切ろうとする態度は、国家だけではなく、都道府県レベルにまできている。そしてそれを人々が担っている。そしてこれ、地域レベルの分断まで来た時、だれが「排除と分断」の対象となるのか。おそらくそれは「感染リスク」という名のもとに、もしかしたら障害者施設や病院などの医療施設、そして斎場もですね。さらにもしかしたら寄場や外国人多住地域や部落にも及ぶかもしれない。
なんか、そうした「排除と分断」の出発点を目の当たりにしている気がするのです。

もちろん、「おおまかな把握」のためには、地域ごとの感染者数が不必要であるとは思わない。でも、それは「都道府県別」では、たぶんない。実は、さっき書いたことと逆行するけど、もっと細かな単位での把握が必要なんだと思います。なぜなら、「感染リスクの高さに追い込まれた人々」がそこに生み出されているからです。そこにこそ、重点的に施策を打つべきだと思うし、そのための把握です。決して「分断と排除」ではなく「利他主義は合理的利己主義」のための把握です。

まぁしかし、自民党も大阪維新も、分断と排除を利用して勢力を拡大してきたし、支持する人々は「自分が分断と排除の対象になる」とは思っていないだろうからなぁ。すでに「分断と排除」されているのになぁ。

在宅勤務してみた

他府県でも在宅勤務はすでにされてますが、いろんなところがいろんな方法でやってるみたいです。もちろん「宅」で「勤務」に変わりはないのですが、それらの定義からはじまって、内容、さらに事後の報告にいたるまで、千差万別かな。
例えば、「宅」の定義として
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在宅勤務を実施する揚所は,在宅勤務を行う職員(以下の自宅(実施職員が現に居住している住居をいう)に限るものとする。
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なんていうところもあるみたいです。
業務の内容もこと細かに決められていたり、報告も成果物を出さなきゃならんところもあるというウワサを聞いたことがある気がします。
で、京都府はというと…。
まずは8時半にガッコに「今から在宅勤務しますよ」とメール。ちなみに、「宅」の定義はありません。そりゃそうです。だって、例えば京都府北部に自宅があって事情で南部に勤務してることもないわけじゃないです。あるいは、研究室を別途借りててそこに資料があるとか、美術系の人でアトリエ借りてるとか、現実はいろいろです。行政の人が「こうだろう」と想像するより実態ははるかに多様だってことです。だから、定義を厳密にすればするほど、そこからはずれてしまうことがあるってことです。ただ、なぜ厳密にするかというと、たぶん「不信感」があるからです。あるいは、外部からのツッコミに対して「きちんと指示してて、あれは違反」と切り捨てるためです。
ちなみに副支店長に「「宅」の定義は住民票のある場所?」って聞いたら「まぁ、そこは柔軟に」って言ったあと「公共の場所はダメ」って言ってたから、そういうことなんでしょうね。どうやら信頼関係がここにはあるようです。
で、勤務の中身はというと、場所によっては「これが勤務内容」として列記してあるところがあるようです。これ、めんどくさいです。というのは、例えば実際の授業の局面になると、生活のありとあらゆるところに「ネタ」が落ちてます。「生活にはネタが埋まってる」です。なので、それを掘り起こすこともまた教材研究であり教材開発です。ところが、内容を列記されると、そういうナマ物的な教材がつくりにくくなる。これも、おそらく「宅」のことと同じかな。が、京都府は「以下のようなことが考えられる」として、例が示してあるだけです。なので、柔軟に解釈できます。
で、途中45分の休憩をとって、17時に内容を列挙した勤務終了のメールを入れておしまいです。
ちなみに、勤務中は原則的には「宅」から出られません。が、通常勤務をしているときも、例えば郵便物を出しにポストまで行くときにいちいち出張や年休は出しません。その程度の柔軟さは在宅勤務でもあります。まぁ、常識の範囲内ってことです。
てことで、ジェンダー・セクシュアリティにかかわる「これからの人権教育」についての研究が少しできました(笑)。

さぁ、あとはビールだビール!
しかし、通勤時間がゼロだと、メッチャ有意義な生活が送れるなぁ。

せっかくなので

ほんとうは今日の朝一番に子どもたちに見せるつもりだった今年のリメイク部分、せっかくなのでここにあげておきましょう。
基本は最初のバージョンですが、それの前段にをスライド化したものを入れて、さらに「最初のバージョン」の「6」以降を下の内容に入れかえることで短縮させようと。で、入れかえた内容はこれ。

エレノア・ルーズベルトのいう「小さなところから」ってどういうことか。

キーワードはふたつある。

ひとつのキーワードは「助けて!」
「助けて」は負けの言葉じゃない。自分がしんどい場所に置かれてることをアピールする言葉。例えば、いじめられてても「仲間からいじられてるだけ」って思ったら「助けて」って言えない。これはいじめだと思うから「助けて」って言える。
つまり、なにが理不尽であるかということを見抜く力が必要。簡単に言えば「なにがあかんのか」を知ってないと言えない。

そしてもうひとつは「あかんのちゃうん」
「助けて」っ言える社会は「あかんのちゃうん」という人がいる社会。
いじめの現場で「自分はやらない」ではなく「あかんのちゃうん」
「ガイジ」とか「ホモ」と言ってるとき「あかんのちゃうん」
外国人に「国に帰れ」と言ってるとき「あかんのちゃうん」
それは「人」に向くだけじゃない。例えば性暴力が許されたり女性にパンプスを強制する社会に対して、「あかんのちゃうん」
でも、なにが「あかん」かは、それを見抜く力が必要。例えば「ホームレス」を見たときに、どこに向かって「あかんのちゃうん」って言うかやね。本人に向かって「あんたの努力が足りんからあかんのちゃうん」というのか、ホームレスが生み出されてきた社会を知って、その社会に向かって「ホームレスがいる社会があかんのちゃうん」というのか。
そして「あかん」と言えるためには練習することが必要。

「なにがあかんのか」。それを知るのが人権学習。そのために「あかん」と声を上げてきた歴史や人と出会う機会をつくる。そして高校3年間で「あかん」とどんどん声をあげていってほしい。ちなみに声をあげたからすぐに変わるわけじゃない。でも、へこたれたりあきらめたらアカンよ。
それはさっきのビデオにもあったよね。

まぁでも、休校措置があけたらやる機会をつくらなきゃね。

そういうふうに見えてるのか

今日は午前に始業式、午後に入学式のダブルヘッダーです。久しぶりに放送室がにぎわいました。
ちなみに、今年は他校で放送部の顧問してた人が顧問になってくれたので、もしかしたら引き継ぎができるかもしれません。だとしたらラッキーです。ただ、うちの放送部の活動は変やしなぁ(笑)。
てことで、放送セットやったけど、なんか動きが鈍いですね。みんな忘れてるのかなぁ。まぁ忘れるやろなぁ。PCから音が出ないと思ったら、ピンジャックを標準ジャックに入れてるというか置いてるというか。やれやれ。
でもまぁ、なんとかつつがなく両方とも終えて、片づけでのこと。
今日はクラブやってる子がいないので、教員だけで片づけなきゃなりません。まぁ放送部は手伝いますがね。で、ゴチャゴチャやってると、その場で指示をしてるある教員が
「男の先生〇〇やって。女の先生〇〇やって」
と言ってるのが聞こえました。瞬間、我が耳を疑いました。いや、こういう人がいるってうわさには聞いてたけど、目の前でこういう発言が出てくるとびっくりしますね。しかも、みんなそれに従ってるから、これまたびっくりします。
でも、たぶんあの教員には、生徒も教員もそう見えてるんでしょうね。すべては男女にわかれていて、しかもそれは絶対的な「違い」なんでしょうね。そうやって育ち、それを疑わない環境におり、そういう価値を内在化し、それを自分の価値観の原点に据える。
もちろんわたしも、なんらかの内面した価値観は持っているだろうと思います。が、幸いなことに、これまでいろんな人から修正をかけてもらったことで、そうした価値観は常に揺らぎ、絶対化してこなかった。もちろん今のわたしは価値観の原点はあるけど、それはおそらくそういう揺らぎののちに獲得したものだし、それはこれからも変わりうるとも思っています。
ちなみに、わたしは別の用事をしていて、一緒に用事をしていた副支店長に
「聞いた?」
って言ったら苦笑いしてたから、この副支店長に見えている風景は、けっこうわたしと近いのかな。
たぶんあの教員はよほどのことがなければ変わることはないだろうな。その「よほど」を起こすために必要なのは、あの出来事を他の教職員と話し合うことかなぁ。

いろいろ格差が広がるな

今日は所要で車出勤です。ふだんより10分早く家を出たのに、職場に着いたのは40分早かった。道がすいてるってのはあるんだけど、電車通勤はあまりにも時間がかかりすぎだな。まぁそれと引き換えに安全ですけどね。いろんな意味で。
そういや、昨日の夜に「明日の夜に緊急事態宣言を出す」って言ってたけど、それは緊急やないやろ。まぁそういう話なんですね。
で、朝いろいろ話をしていると、校内放送が。なんでも8時30分から職員集合だとか。てことは休校だな。
そもそも昨日京都市教委が休校を言った時点でわかってた話です。というのは、京都市内にある高校は市立より府立のほうがはるかに多い。もしも府教委が休校と言わなかったら「なんで」ってなりますからね。
てことで、午前からはじまる会議はすべて午後からになりました。ぽっかりあいた時間は、それはそれなりにやることがあるので、ダラダラ仕事。
午後の職員会議では、今後のことについて話。
とにかくゴールデンウィークあけまで休校。ただし、適宜登校日を設けて、そこで課題を渡すとのこと。なるほど。
しかしこれ、教育格差が広がるな。だって、課題なんてできる子しかできない。できる子はやるからできるだろうけど、できない子はできないからやらない。これが5週間続くと、かなりな差になりそうです。
じゃあオンラインで授業する?無理ですね。まずはトラフィックの問題がある。さらに家にネット環境があるかどうかも大きい。もしもなければパケ死です。それを避けるためにwifiスポットに行くのは本末転倒。てか、オンライン授業で「できない子」がなんとかなるとは思えない。
もう、いっそAIに家庭教師してもらうか(笑)。いやだって、高校教員は代替不可能な仕事に入ってなかったしね(笑)。
と、大学教員の方からメール。教育実習関係がズタズタらしいです。いやでも、ここで規定通りにやったら教員免許とれない新卒が大量発生するぞ。さらにN入さんから「夏のチケットとるのは待ってね」メール。夏の講義がオンラインになるかもとのこと。となると、免許更新講習がどうなるかやね。下手すると、免許失効者が続出かも。てことは、来年はえらいことになるぞ。
そもそも、日本の制度ってどんどんガチガチにしていくからこんなことになるんです。こういう事態になったときになんとかする能力をつけようとしたのが「PISA型学力」なわけで、それを推進しようとしてる人が一方でガチガチにしちゃうってことは「PISA型学力」を持ってないってことなわけで、まずお前らから(笑)。
てなことを大学教員の方にメールしたら「おっしゃるとおり!まったく同感」とのお返事。まぁそういうことですね。
そんなことを考えながら、とりあえず明々後日配布する分の課題をサクッと作成。とにかくこのあと印刷機の奪い合いが予想されるので、その混雑に巻き込まれる前にやってしまうのが吉です。

それにしてもと思います。
子どもたちは休校措置で感染リスクが下がるからいいです。が、教員はどうする?教員だって感染リスクがあるし、教員だってだれかと同居してる人が多いです。教員の感染は教員の感染にとどまらず、地域の感染でもあります。
「それは教員だけじゃない」
って話をしたいわけじゃなくて、教員「も」って話なんです。「学校」というと、つい「生徒」ってなりがちだけど、教員もまた学校にいること、そして教員もまた公共交通機関で通勤してることが忘れられがちであるってことです。ちなみに、京都の高校は自家用車での出勤は大丈夫ですが、大阪は「教職員が学校の中に車を置くのはダメ。近くに駐車場を借りろ」とかいうわけわからんことを言ってて、ほとんどの人が公共交通機関を使って通勤してるんですよね。
なんでも時差出勤を認めるとのことですが、その出勤時間、ふだんの出勤時間やし(笑)。
ロックダウンしても、感染リスクが高いままの人はもちろんいます。そういう格差はたしかに残る。が、社会全体を見渡したときに、全体的な感染リスクを下げることが、感染リスクが高い人のリスクを下げることにつながる。つまり格差を縮小することにつながると思うんですよね。

迷うなぁ

今日から学校は本格始動です。問題は通勤手段です。
電車は運転しなくていいから楽です。今の時間で動く限り確実に座れます。駅から職場までの歩きも「軽い運動」と考えたら問題ないです。リュックを背負うのもリハビリです。定期があるからお金もかからない。そしてブログ書いたりネットを見たりする時間もある。帰りは定時に出ると快速があって、そこからの接続もいいから6時過ぎに家に帰れます。メリットはたくさんあります。デメリットは出勤は時間がかかることくらいです。
そんな感じだったんだけど、ここに来て車で行こうかと悩む状況になってます。それは、わたしにとっての不特定多数との接触場面が通勤時だからです。
考えてみると車出勤はものすごいぜいたくです。なにせひとりのためにエネルギーや場所を専有するわけです。もちろん車でないと出勤できない場所の場合は「当然の手段」ですが、少なくともわたしは公共交通機関を使って簡単に出勤できます。そういう人間にとってはぜいたくってことです。
で、この状況になると、そのぜいたくさは「安全」につながるなと。だって、自分が専有する場所のまま職場まで行けるということは、通勤途中の感染の可能性はゼロってことですからね。
てことで、出勤前に子どもと相談してたのですが、子どもがひとこと
「移動オービスに気をつけや」
と言ったところで電車出勤に決めました(笑)。

さっき書いたように、通勤途中は情報発信、つまりブログ書きと情報収集、つまりtwitterの時間です。で、なんでサザエさん一家が出てきたりキングギドラが出てきたりするのかと思ったら、
「各家庭に布製マスク2枚配布」
とか言ってるわけね。アホかと。ほんとに勘弁してくれと。まぁ、これを決めてる人らは通勤手段で悩むこともないだろうし、ましてや「仕事がない」とかいうすんごい状況にないからわからんのやろうな。わからん人がわからんままに施策を決めたらアカンと思います。少なくとも人々の意見を聞かなきゃならんと思うんだけど、それもしない。あまりにもひどすぎます。
COVID-19にかかわる問題は医学的な問題というより社会的な問題というのがわたしの考えだし、この社会の問題点、さらに言うなら政府の問題点を顕在化させてると思っているんだけどな。それは、これまで隠蔽と改竄にまみれてきた現政権が言うことは何も信じられないというより、信じてはいけないということにつきるかな。

暗澹たる気持ちで職場に到着。
あとは会議会議な1日です。てか、うちの支店長、また後輩です。しかも前の支店長と同期だったりします。ちなみに、わたしもわたしの同期もヒラ教員です。後輩たちはえらいってことです。

と、1本のメールが。
「前のおべんきょ場所と今のおべんきょ場所に入ったのはいつ?」
なんか、その情報が必要らしいです。ドキドキ。

そんなこんなで退勤時間になったけど、みんなまだ仕事をしています。うーん、退勤しにくい(笑)。なのでそのまま職場に残って、みんなが部屋に帰ってきたところで退勤です。普段より30分遅く退勤したら、家に帰れる時間は小一時間遅くなります。それが退勤時間のあやというものです。
でも、家に帰ってお風呂に入ってビールを飲んでリハビリして。さぁ寝ましょう。明日も電車出勤だ(笑)。

定型をはずす

ちまたで小堀さんの謝辞が話題になっているようです。まぁ、定型をはずすという話はキライではないです。ただ、多くの人が指摘しているように、そのあとの「自分に感謝」のくだりが、新自由主義での定型にみごとにはまっているというのが悲しいです。
てか、定型をはずすのはほんとうに難しいです。大学の話なので、研究に引きつけるなら、論文って定型を維持したまま新規性を追求するわけです。定型をはずしたら論文じゃなくなってしまう。もちろん、その定型を崩すのはかまわないけど、論文じゃなくなるので、エッセイとかルポになるんですよね。
ふと思い出したのが、うちのある卒業生の卒業式における答辞です。高校の答辞は数人でつくるし教員のチェックも入るので、そんなに自由にはならない。でも、その子は「ぜったいに同和学習について入れる」と言い続け、同和学習のことと、自らの部落民宣言やそこでできた友だちとの出会い直しの話を入れました。さらにその子は答辞を読む担当で、当日
「せんせい、最後のところ、読み間違えるしな」
と言ってきました。なんのことかわかったので
「わかった」
と答えました。読み間違えた箇所は日付の箇所で、元号を読み間違えて西暦で読んじゃいました。
わたしはこれも立派な「定型はずし」だと思っています。
個人的には「定型はずし」という意味では上野千鶴子さんの方が好きだなぁ。

やっかいなもの

朝起きていつもの通りコーヒーを淹れて。少しずつできることが増えてきたので、朝も余裕ができます。久しぶりの5分だけの二度寝。おふとんは気持ちいい。
でも、いつもの電車で出勤です。20分あとので行ってもいいはずなんですけど、なんとなくかな。
今日は昨日よりもキーボードが叩きやすいです。それだけ肩が動いてるってことですね。それと、指も広がってるのかな。考えてみると、もともとenterキーはかなり遠いから、手を動かして打ってたんですね。
しまったな、早まったなと思ったけど、昨日思わずポチッてしまったのが到着しました。なるほど。これはいいわ。こんな感じでキーボードが使えます。

ベストポジションです(笑)。
午後は会議。会議中に座り直そうと思った時にバランスを崩して上半身を右腕一本で支えてしまう事態に!うぐぐ。支えきれない。てか、ヤバイ!イヤな痛みがなかったから、大丈夫かな。大丈夫であってほしいな。

夜はちょぼやき会です。
今日、話をしてくれるのはM波さん。障害にかかわる話は聞いたことがあるけど、ご自身の話は個人的に断片を聞かせてもらったことはあるにしろ、まとまった話を聞くのははじめてです。楽しみです。
会場に着くとすでにおられます。なんかナーバスになっておられます。自分の話をするってそういうことなんですよね。それを越えて話をしてくださるということは、たぶん「ちょぼやき会」という「場」だからこそなのかな。
で、話の中身は…。テーマをひとことで言うなら「キリスト教」です。
自分の話をしようとするなら、親の話からしなくちゃできない。それは「パラムの会」でもそうだったし、この時もそうでした。
部落や在日に生まれることは選べないといいますが、実は宗教もそうだったりします。ただ、日本においてはそれを意識せずにすむ人が多数を占めています。だから「そんなことはないだろう」と思われがちです。なぜなら、宗教を意識する人は、たいていは「1世」だからです。でも、生まれながらに宗教を意識せざるを得ない人も少数ながらいる。そんな人はたいていは「2世」だったりします。そういう人にとっては選べないことなんです。それに対しては「そこに差別はない」という話はあるかもしれない。でも、そこじゃないんだな。葛藤なんです。
かつてパラムの会がやっていたことは、その葛藤を語るということでした。日本籍朝鮮人として生まれることは、国籍では差別されない生まれであるということなんです。すでにその時点で被差別者としての「資格」を失っている。でも、葛藤は残ります。つまり日本人として生きるのか、朝鮮人として生きるのか。そんな二者択一を迫られました/ます。かつて「朝鮮名を名のらない」ことはクローゼットとみなされてきました。しかし、金田智之さんが明らかにされたように、クローゼットとカミングアウトは排反ではないんです。つまり「朝鮮名を名のらない」が、そのまま日本人として生きること「ではない」ということです。金田さんの言うバレバレという生き方を、パラムの会では「叙述的自己表現」と言いました。その叙述的自己表現を通して、パラムの会の人たちは自らの当事者性を獲得していきました。そうやって、「当事者性」と「被差別者としての資格」を切り離していったんです。そこでキーとなるのは「葛藤」だったんだと思います。
てことで、M波さんの話を聞きながら、ずっと「あのときの自分はどうだったんだろう」ということを考えていました。
M波さんもわたしもキリスト教の2世です。そのことはずいぶん前に教えてもらっていました。ただ、当時はおそらくはとても深い葛藤の中におられた/おられるんだろうなということは伝わってきていました。というのは、わたしにも葛藤はなかったわけじゃないけど、そういうわたしの葛藤とは異なるというか、重ならないというか、そういう感じがあったんですね。あるいは、もっというならば、共感を拒絶するくらいの感じがあったような気がします。
でも、今日の話はまったく違いました。なによりすごいなと思ったのは、「かつての自分はNPOと出会った頃から現在までを「ええやん」と思ってたけど、今はすべての自分を「ええやん」と思っている」という言葉でした。じゃぁ、そういうM波さんになったのは、M波さんがその葛藤とひとりで対峙し続けたか。それは違うんですね。やはり、M波さんの葛藤と向きあう他者の存在があった。そしてそれは、決してM波さんにとって近くはあれ、完全にピアな存在ではなかった。そのことがもうひとつのキーになるんじゃないかなと思いました。
ただ、そういうM波さんの変化の背景にあるのは、やはり障害者解放運動なのかなとも思います。つまり「ひとりでがんばらなくていい」ということです。そういう意味では、過去が今の自分をつくるだけでなく、今の自分が過去を再構築し直すのかなとも思いました。
そしてもうひとつ、冒頭に言われた「ここだから話せる」ということ。つまり、安心して話せる場所であることと、なにより「聞く」人がいるってことです。プラマーじゃないけど、語りは相互行為なんだなってことです。
なんか、ほんとうに今日来てよかったなというか、この場にいてよかったなというか、この場があってよかったなというか、そんなことを思いました。
ただ、それにしてもキリスト教ってのはやっかいだな。葛藤を感じない人はそうでもないけど、なんらかの葛藤を抱えると、メッチャめんどくさい。

で、ちょぼやき会のあとは、いつもの崇仁新町です。今日はA久○さんも来ておられて、なかなか盛り上がったのですが、阿○Zさん、肩を叩くクセがあるのを忘れてました。きっちり骨折箇所を叩かれました。てか、三角巾で腕吊ってるのに2回も叩かれて、それも2回目のほうが強かったという。まぁええか。ガラスの破片入りの日本酒飲む人もいたからなぁ(笑)。
そんなこんなでUりんちゃんが帰るタイミングでわたしもバイバイ。
家に帰ると10時過ぎ。さぁ寝ましょう。というか、入院以来、寝るのが早いわ。