「お礼」のしかた

朝起きてトイレに行くと、大丈夫でした(笑)。
まぁ、あたってものたうちまわるようなのじゃないから、別にそれはそれで大丈夫なんですけどね。
職場に着いたら、まずは「おべんきょ経過報告」です。センセから「2019年度のことが書いてない」って言われて「ありゃ」ってなりました。あらためて振り返ると、2017年11月に出して、最初の返事が2018年5月。再提出は8月かな。それの返事が11月。そこからは12月に出して2019年2月に返事、3月に出して4月に返事、5月に出して6月に返事、7月に出して8月に決定でした。
てことは、2019年の前半は2ヶ月に1回「おべんきょ成果」とつきあってたんですね。あらためて「慌ただしかったなぁ」と。
で、再提出したら「2019年度の努力が反映されました」とのお返事。ちょっとうれしかったです。

今日の授業は午前に2時間。ゆったりペースです。片方のクラスは単なる授業。ただ、今年も授業のやり方を変えました。直接的な原因は肩のせいなんだけど、もともとやりたかった方法でした。まだまだ改善の余地はあるけど、たぶん有効です。
もうひとつのクラスはプリント学習。同じクラスを担当しておられる方が見に来られました。もちろん「ひとりでやろうとするな!」って言ってやったんですが、ほんとうにみんなよく勉強しますね。質問もどんどん出てきます。いつもの通り質問には質問で返します。そしたらちゃんと気づいてくれる。苦手な子もセンセイ役をやってるし、いい姿が見られました。
午後は少し資料をあさってみたり。

放課後は、Hがしさんと電話。
「いつきさんならあのデータから何を引き出す?」
って言われて
「うーん」
ってなるなど。
いや、とてもおもしろいんです。いいデータです。生データは見てないけど、たぶんいろんなことが示されてるはずです。そんなデータと向き合うと、いろんなことが浮かび上がってくるはずです。ただし、それが浮かび上がってくるためには、一度自分を「無」にしなきゃダメです。なぜなら、「自分」はデータから浮かび上がってくるものをフタしちゃうからです。データから浮かび上がってくるものに「すげー!」って感動し、そこから読み取れるものをより鮮明にするために、さらにデータを読む。そうやって出てきた「ストーリー」こそが、実は「自分」なのかな。つまり、そこに「ストーリーを見出す」って作業が、「自分」のやることなんでしょうね。
例えばこのpdfのAさん、はじめにとれるだろうと思ってたデータとはまったく違うデータでした。「うーん」と思ったけど、何度も読むうちに、少しずつ「そんなことやってたんだ!」って思って「すげー!」ってなって、それで書けました。2019年度のやりとりはデータについてはほとんど変更しませんでした。それは、たぶん「返事」を書いてくださったおふたりも「すげー!」って思われたからなんだと思います。で、おふたりは「お前の書き方では「すげー!」は伝えられないよ」って、必死でアドバイスしてくださったんですよね。わたしの「慌ただしさ」は、とりもなおさず「おふたりの慌ただしさ」でもあるわけですからね。
あのデータの魅力を引き出してほしいなぁ。わからないことがあれば、「もう少し教えて」って言えば教えてくれるはずです。そうやって引き出した魅力を適切な手法で伝えてほしいなぁ。そうすれば、自ずと結果が出るんだけどなぁ。その結果こそがデータを提供してくれた人への「お礼」なんだよなぁ。

電話のあとは、放送部に乱入して「合宿やるぞ!」と口走るなど(笑)。ほんとのほんとに今年はやめようかと思ったけど、「続ける」ことの大切さを考えると、やはりやったほうがいいってことです。
てなことをやってると、定時です。
さぁ、家に帰って筋トレやって、ビールだビール!

影響を受けた本

今日は午前にふたコマ。今日も肩があがりません。きついな。しかも午前にキーボード打ったら、あとは痛くて動かない。でも、歴史を学ぶべくいろいろ検索。ちなみに、検索するのは英文サイトなので、脳みそ的にもクタクタです。疲れた。
で、夜は「ちょぼやき会@zoom」です。やはりひとりの話をじっくり聞くのは難しいということで、「これまでの人生で「これ」と思った本」という、これまたむずかしいお題です。なににしようか、帰りの電車で考えても思いつきません。最近本を読んでないからですね。
いや、読んでます。が、読み方が違う。今は「使える場所」を探すために読んでいて、自分の人生を豊かにするためには読んでないです。
どうしようかと思いながら、家に帰って、ぬか床からにんじんを取り出して、ビールを取り出して、準備完了。さてと、zoomです。
みなさん、いろいろ読んでおられるなと思いながら、ふと「これにしよう」と思いあたった本がありました。『男でもなく女でもなく』です。
たぶん、あの本は荒野の中に「獣道」の存在を教えてくれた本でした。もちろん
「ここを歩けばいけるよ」
なんて話じゃないです。
「道はつくれるよ」
って教えてくれたんです。だから、自分の道をつくろうと思ったし、自分の道をつくれた。そういう意味では、今のわたしがいるのは蔦森さんという存在のおかげかもしれません。
そうそう、だから『にじ色の本棚』にも「感想文」を書いたんですよね。
さらに蔦森さんとはじっさいお会いして、いろんなことを話しました。はじめてお会いしたのは2000年11月5日ですね。「多様性」をめぐって少し話をしてますね。次にお会いしたのは2001年か2002年、大阪でのセミナーですが、その時の日記はないな。でも、交わした会話はこの日にあります。「強さ/弱さ」をめぐる話でした。そして最近では2014年か。「マジョリティは油断してる」という名言をいただいたのち、
「いつきさん、あなた変な人ね」
という過分なお言葉をいただきました(笑)。
そんな話をちらりちらりと話をしてみました。
小1時間のそれぞれの話のあとは、フリーディスカッション。さらに『同和はこわい考』をぶっこんでみたり。
そんなこんなで、9時過ぎまでいろんな話をして終了。3時間は疲れたな。
それにしても、にんじんのぬか漬け、うまいわ。もう少し飲んで寝ましょうか。

肩がちぎれそうになったけど

今日はこの時のの2次校正を終わらせるぞと固く決意して出勤です。
講演を冊子にするために、わたしはトランスクリプト作成→1次校正→2次校正→講師チェック→組版というプロセスをふんでます。
トランスクリプトを作成する人、めっちゃ大変です。が、基本的には話した内容に忠実に作成してほしい。なぜなら、削除したものはもどせないからです。だだ、忠実に作成したものは、メッチャメチャ可読性が低いです。場合によっては改行すらない。それをとにかく読めるようにするために、上の子どもに1次校正をしてもらってます。ここでかなり読みやすくなります。そのうえで、わたしが2次校正をする。
わたしがやることは、トランスクリプトのミスの修正と見出しつけです。
トランスクリプトのミスって、あります。簡単に言えば聞き間違いです。これの修正は、音声データを聞きながらじゃないと無理です。なので、わたしは音声データを聞きながらチェックをし、さらに可読性を高めるための改行や修正をします。
なので、とても簡単に言うと、音声情報と文字情報を同時に見てるので、内容がメッチャメチャよくわかります。
で、今回それをやって、この間よりも深く理解したかも。
とても大切なのは「いじめと差別との違い」なんですね。差別の中にある「社会全体からの幾世代にもわたる歴史的な痛み、そして将来への絶望という痛み」が、おそらくキーワードなのかな。それこそがvulnerabilityというヤツなのかな。で、これは個々の人間に対してというよりも、それらの痛みを強いられる「カテゴリー」の問題なんですね。で、わたしがこの時に話した「傷つく資格」というのは、そのようなカテゴリーの話を個人の話にスライドさせてたんですね。だからうまく噛み合わなかった。
ただ、自分がなぜ「傷つく資格」にこだわるのかな。
それはたぶん、アイデンティティの話とからまる気がします。
例えば、部落出身である人がそうと知らずに部落へのヘイトを受けた時と、そうと知って受けた時と、傷つきは異なるのかってことです。まぁたぶん異なりますよね。ただ、異なるということは、「部落出身」というカテゴリーではなく「部落出身であるというアイデンティティ」というカテゴリーで考えなきゃならんのではないかと。ただ、ヘイトを加える側は、アイデンティティとか無関係なんですよね。そういうビミョーかズレにこだわってるのかな。
で、なぜそこにこだわるかというと、当然のことながら「傷つく資格がない」と思っていた「トランスいうカテゴリーを知らず」「自分を変態と思い」「変態への忌避感があった」「わたし」がいるわけです。同じトランスのわたしであるにもかかわらず「変態アイデンティティ」であれば「傷つく資格」がないと考え、「トランスアイデンティ」というカテゴリーに入れられた瞬間「傷つく資格」を他者から付与されたという感じなんですね。なんでそんなことにこだわるかというと「vulnerabilityはあるカテゴリーの成員であるというアイデンティティに付随して存在するものなのか、あるカテゴリーに対して他者から付与されるものなのか」ってことなんです。
本来的にはアイデンティティに付随すると思ってるんですよね。でも、Aというカテゴリーが「幾世代にもわたる痛み」を加えられていたとしても、Aが「カテゴリー」として社会から承認されていなければ、それは「幾世代」にはならずに「個人」になってしまう。そうなると「カテゴリーとして承認される」ことを通して「他者から付与される」ことになってしまう。
つまりvulnerabilityが前提とするカテゴリーは、そんなには自明ではないよなったことなんです。
マイクロ・アグレッションって、人種差別の文脈からスタートして、民族差別とか部落差別、女性差別・障害者差別へと概念を拡大させているのかな。ただ、それらのカテゴリーはカテゴリーそのものが「すでにある」ものです。が、いまだカテゴリーとして承認されていないものへは適用しにくい。そこがたぶんメッチャひっかかってるんだと思います。
まぁでも、自分のモヤモヤのありかがわかってたのはよかったし、それは「2次校正」という読み方をしたからこそなんだな。キーボードと半日つきあって肩がちぎれそうになったけど、やってよかった。

継承

今日はなにもないけど出勤です。いつもの電車に乗ろうと思ったら、安定の大遅延。てか、とまってるのかよ。振替輸送はめんどくさいなと思ったら、なぜか電車がやってきました。なんでも1時間遅れのだとか。なので、結局ふだんよりも早く出勤できました。
午前の後半はzoomをつかったおべんきょタイム。この間つくったレジュメを使っての発表です。「こんなんでいいのかな」とドキドキしながら発表したあとは、センセのコメント。よかった、案外うまくいってたらしいです。
ここからコメントとかディスカッションとか。勉強になりますね。なんとなくおぼろげだったMCDの利用の観察って、そういうことだったんだと。ずっと「MCDを利用して分析する」って思ってたけど、「人々が知らず知らずのうちに使ってるMCDの利用のしかたを分析する」んですね。それって、具体的には「わたしたち」が日常的におこなってるカテゴリー化の実践を顕在化させるってことなんですね。で、そのカテゴリー化は「ことば」をつかっておこなってる。なので、その「ことば」の使い方に注目をする。
まさに「発話は行為」ってことです。
ちなみに、センセによるとこないだの「おべんきょ成果」はEM的なものらしいです。自分でも気がついてなかったけど、たしかにそうかもしれません。おそらく「EM的なものの見方」が好きなのかな。

で、夕方は恒例の会議。2ヶ月ぶりの大阪です。新快速はガラガラでした。
会議の前にセルフブランチ。

会議そのものは「フィジカル・ディスタンス」をとっての進行です。ただ、会議のあとのひとときは、あまりディスタンスはとらなかったり(笑)。
そんな中、突然電話がなりました。21年前の卒業生からです。当時はやんちゃくれだったけど、今は社長をしてます。なんでも、いま、いろんなことがわかってきたんだとか。
卒「せんせ、おれな、いま毎朝3km歩いて出勤してるねん」
い「原チャとちゃうんや(笑)」
卒「こないだ「お金ないねん、めぐんで」っいう人がおってな、3000円持ってたから2000円渡したら、すぐにコンビニに行きやったわ」
い「へー」
卒「おれがやで。2000円もらうんと違ごて、やったんやで」
なるほど。カツアゲしとったからな(笑)。
卒「今の子らはどうや?義理人情わかる子おるか?」
い「減ったなぁ」
卒「熱血もおらんやろ」
い「それはおるで」
卒「そうか。せんせ、飲んでるんやろ。じゃましたな。切るわ」
い「うん、またな」
ふと思い出して電話してくれたのかな。すごくうれしかった。
それからもうひとつ。「熱血もおらんやろ」と言われたときに、暑い教員の顔が何人か浮かんだのがうれしかったです。
別にみんな同和教育をやってるわけじゃない。というか、そんなことは意識してないと思います。でも、やってることは同和教育に近いものがあったりします。
なんか「同和教育の継承」って言ってたけど、継承しなきゃならんのは、そういう「形」じゃなくて、「暑さ」なのかもしれません。「暑さ」が伝われば、子どもたちを見る目が変わり、子どもたちの姿を通して見る社会の見方が変わる。そして社会への接し方も変わる。
そんなもんかもしれないな。

てことで、視た

昨日「マジか」となったおそらくは原因の「目撃!にっぽん」を視ました。
最初に感想を言うなら「いい番組やなぁ」です。
なにがいいか。
あったことを淡々と話されて、それが淡々と流される。なにより「被差別体験」を話されない。単に「あったこと」です。例えば会社を受けて「朝鮮人やろ」と言われて落とされたって話がありました。でも「差別された」とは言われない。そういう意味です。て、その「あったこと」を「被差別体験」と考えるのは「聞き手」の問題なんですよね。
例えば、「朝鮮人やろって言われて落とされた」という語りを聞いて「朝鮮人差別にあったんや、許せへんな」とか「朝鮮人やから当たり前やんか」とか「また差別差別言ってるわ」とか、いろんなことを考える。それは、その語りを解釈する「わたしたち」の問題だってことです。「わたしたち」がどういう「ことば」の中で生き、その「ことば」によってどういう「文脈」の中で生きてるか。それが「語り」によって顕在化するってことです。
つまり、顕在化するのは「わたし」なんですね。
で、わたしはどう思ったか。
「人は歴史とか国家に翻弄されて生きるもんなんだなぁ」
です。
ちょうど昼間に安昌林選手のオモニと話していて、「あの子、いま日本にいないんですよ」と。「帰ってこられる予定は?」と聞くと「たぶん当分無理」と。そこにあったのは、ひとつはcovid19なんですが、もうひとつは「在日」という存在ゆえでした。なぜ安選手が日本にいないのか、なぜ当分帰ってこられないのか。そこには歴史とさまざまな国家間にある関係性の中で生み出される思惑とが交差しています。
そして夜に「目撃!にっぽん」のハラボジの話を視た。
おそらくハラボジは「朝鮮人やろ」と言われて落とされた時、悔しかっただろうなとは思います。でも、それが当たり前の時代です。だから、法務省に行くとか、民族団体に行くとか、日本人と共闘して闘うとか、そういう選択肢は考えもつかない。仮にそういう方法を思いつくとすれば、それはそういう歴史をつくってきたからこそ可能になる。だから、例えば民闘連とか「すげぇ!」って思うわけです。
恵さんの話もおもしろかった。「結婚という節目があれば帰化を持ち出せるけど、朝鮮人がイヤというだけでは親が悲しむから帰化したいとは言えない」。考えようによっては「結婚とか関係ないやん」とも言えるかもです。あるいは「ジェンダーが」とか「異性愛規範が」とか言うことも、もちろんできます。でも、恵さんにとってはそうではなかった。そこから恵さん個人のことではなく、恵さんがいた/いる恵さんを取り巻く社会が浮き彫りになります。
それは今のわたしも同じことです。個人として「マジか」とか「当たり前」と感じるひとつひとつの出来事をそう考えるってのは、歴史や国の思惑に翻弄されているなかで、自分がそう解釈してるからなんですよね。だからこそ、そう考える自分を分析することがおもしろい。そこで不可欠なのが、やはり歴史です。
例えば、「番地のない町」に住む人たちは「不法占拠」と言われた。でも、極端な話、平安時代は河川法なんてないから「不法」という概念なんてなかった。ある行為がどう評価されるかってのは、歴史や国に翻弄される。では、なぜ「不法占拠」せざるを得なかったか。番組の中に「立ち退き」というひとことがありました。立ち退き?どこを立ち退かなければならなかったのか。なぜ立ち退かなければならなかったのか。さらに、立ち退く前に、なぜ立ち退かされるところに住んでいたのか。そういう歴史があるはずです。それを通して「不法占拠」という行為が必然的なものとして理解できるようになる。そして「不法占拠」という言葉を聞いた瞬間に感じた自分が置かれた文脈が理解できる。さらにそういう自分が置かれた文脈が歴史や国の思惑に翻弄されながらつくられてきたことが理解できる。
そして、それを理解できるからこそ、そういう歴史や国の思惑に翻弄される文脈を変えうることが可能となる。さらに歴史や国の思惑そのものも変えることが可能となる。
そしてその切り口はどこにでもある。
「番地のない町」に住んでいた人が誰であるか、「番地のない町」がどこであるかを探ることに意味はないです。あの番組は、たまたま「番地のない町」を切り口にしただけのことです。その切り口は、「わたし」のまわりにもある。その切り口をみつけられるかどうかは、わたしの問題である。
そんなことを感じました。
最後に、「番地のない町」と「そこに住んでいた人」という切り口をていねいに聞き取ってこられた村木さんですね。そこには長い時間をかけてつくってこられた信頼関係がある。そのとてつもない労力は、きっと「ものすごく旺盛な好奇心」の先にある「自分一人に留めてはならない」というところに依拠してるのかな。そんな村木さんに感謝です。

マジか…→おべんきょ番外編

このブログで「マジか」で検索すると、かなりいっぱい出てきます。まぁそれだけ「マジか」なことが多いってことです。が、今日も「マジか」なわけです。
今日は出勤日です。なのでいつものように出勤。ただし、車を車検に出すので車です。いつもの時間に出るとメッチャ早い時間に着きます。
で、ゴチャゴチャ仕事。
と、勤務時間がはじまって間もなくメールが。読んでみると
「今週で在宅勤務は終了」
とのことです。
マジか…。
たしかに子どものことや学校の運営を考えると、早めの休校解除がいいでしょうね。なので前倒しになっていくのはわかります。が、個人的には予定がメチャクチャになります。
「予定ってなんやねん」
って話ですが、基本的には5月末まで今の勤務体制だろうと思ってたので、例えば肩のCTとか受診日も、ある程度安心して予約が入れられてました。それが一気に崩れました。
まぁ、病院の予約はいいけど、おべんきょがなぁ。
「そんなん個人的な話やないか」
ってことで、それはまったくそのとおりですが、通勤の時間がもったいない。その3時間だけでもかなり大きい。
教員たるもの「子どものいない学校はなにか物足りない」「子どもの声が響くのが学校」という感覚を持つべきなんだろうけど、ましてや人権やってる人間であれば身体レベルでそんな感覚が身についているべきなんだろうけど、「べき」からズレてるわたしは、悪い教員なんやろな。

そんなことをふと思ったけど、まぁしゃーないです。
気を取り直して、今日は「おべんきょ番外編」です。ターゲットは「学校の中のケータイ小説 : ケータイ小説をめぐる活動と成員カテゴリー化装置」です。こないだもらった宿題です。
はっきり言って、EMはむずかしい(笑)。なにがむずかしいって、言葉がむずかしい(笑)。「成員カテゴリー化装置」って、どんな機械やねんと思います。英語が「membership categorization device(MCD)」です。deviceとか言われたらdevice driverが浮かんでくるわたしにとって、あまりにもむずかしすぎます。
ただ、今回じっくり細かくと読んで、今まで知ってたMCDの理解よりも少し深まった気がしました。あと、なによりこの時のやりとりを思い出したのも収穫かな。
やはり責任持って読むもんやな。

さっぱりわからん

ここ数日、COVID-19の報道をチラチラ見ていますが、なんでも東京の感染者数が30人くらいになったとか。ちょいと調べると、例えば5月7日の新規感染者が96人です。が、検査数が1,103人。なので、10分の1弱です。数字だけ見ていると、収束の方向へ向かっている感じだけど、検査数がほとんど公開されていないし、公開されている検査数もどういう人が検査対象になっているかがわからないので、結局全体像がつかめない。つかめないままに、感染者数だけが発表される。これほど情報がないとはね。
そんな中、テレビに出てくるのは、O阪のY村さんです。「やってます」アピールがすごいけど、ほんとうにやってるのか?
自分の命令一下、人々が自粛をして、それで感染が抑えられていると思っているのか?そんなはずがないですよね。命令があろうがなかろうが、人々は感染を抑える方向に行動をしています。それも経済的な苦しさを覚悟の上でね。こういうやり方だと、感染を抑えられたら自分の命令のおかげ。抑えられなかったら自粛しなかった人々のせいってできます。てか、今までもO阪I新はそういうやり方をしてきた。さらに「大阪モデル」とか言ってるけど、それって単にネーミングして差別化しているだけのことです。
さらに、言ってることってできるのか?
例えば、授業のネット配信にお金を出すといってるけど、ポケットマネーを出すんじゃないからな。その予算はどこからどう算段するのか?算段のためにはさまざまな人が動かなきゃならんのだけど、そういう調整はしているのか?もしも人の動きなしに算段できたとしたら、その予算はどこにあったのかってことにもなります。
とにかく謎が多すぎる。その背景にあるのは、情報がないってことです。
テレビでは毎日放送していて、某大本営は画面にずっと情報を出しつづけている。そうやってあたかも情報があふれかえっているかのように見えながら、その実ほしい情報がまったく入ってこない。情報を出す背景には、隠された、あるいは出されていない情報がある。情報が多いように見えれば見えるほど、その背後には隠された情報がある。そんな気がしてなりません。
とにかくさっぱりわからん。

「こもる」こと

昼前、パートナーが「背中が痛い。口の中が血の味がする。頭がグアングアンする」と言いはじめたので、これは救急外来だなと。
病院に着くと、やはりものものしいです。まぁしかたないですけどね。玄関で「熱、測ります」と、非接触型の体温計を頭に向けられて、思わず「やられた!」と倒れるギャグをしようかと思ったけど、まぁそれはやめておきました。
で、結果は特になにもなく。前の肺炎が治るのに時間がかかってるのかもということでした。ちなみに、帰りの車の中で「グアングアンは偏頭痛かもね」とのこと。なるほど。

で、夜はちょぼやき会@Zoomです。みんなそれぞれこの1ヶ月の気づきを語りあいました。
わたしは…。
学校関係のことはこの間と同じことなんですが、それよりも個人的な気づきがおもしろい。
基本的に、わたしはバタバタと走りまわる毎日なので、おそらく誰もが、そして自分もが「動くのが好き」と思っているんですけど、案外そうではないのかも。別に昼間にテレビを見るわけでもなく、文章考えたり本を読んだり、そして少し筋トレしたり。ご飯時にはごはんをつくり、食べる。その繰り返しなんですけど、退屈しないです。というか、充実感すらあります。もちろん焦りもありますが。
緊急事態宣言が終了すると、こういう日常がなくなると思うと、ちょっと困るかも。
「こもる」ことが好きな自分に変化したのか、あるいはもとから好きだったんだけど、それを忘れていたのか。あるいは、家族がいるわたしの「こもり」は適度な「こもり」でしかなくて、例えばひとりきりの「こもり」こそが「真の「こもり」(笑)」だったりするのか。
そんなことを考えたりしました。
ただ、そういうことを考えていたら、「障害者と「こもり」」みたいな話が出てきて、なるほどなと。
わたしの場合、なんだかんだ言っても「選択としての「こもり」」です。障害者の場合、例えば施設での生活をしている場合「おしつけられた/る「こもり」」だったりする。そういう人の「こもり」は、わたしとはずいぶんと違うんだろうな。そういう人にとって、今の「強制された自粛(笑)」はどんなふうに感じられるんだろう。あるいは自立生活をしている人にとってはどうなんだろう。
なんか、いろいろ考えるちょぼやき会でした。おかげさまで、お酒もおいしかったな^^;;。

オンライン・カフェ「コロナと私と人権」とか

朝起きると、けっこうすっきり。なにより肩の凝りがありません。枕を変えた効果は絶大です。買ってくれたパートナーに感謝。
朝、散歩に行こうと思ったけど雨が降ってるので、のんびり朝ごはん。

午前は「オンライン・カフェ「コロナと私と人権」」があります。所用があったので、わたしは遅れての参加。遅れたからおとなしくしていましょう。なんか、メンバーを見たらそうそうたる人々です。なかでも、ハンセン病関係の人の「無癩県運動」にかかわる発言は「そうそうそう」と思いました。まぁHIVもそうなんですけど、感染症が流行するたびに同じことが繰り返されている。そしてそこには必ず排除と分断と差別がある。まったく歴史から学んでないよなぁと思います。
そんな感じで聞いていたら、いきなりK口くんが「いつきさん」と指名。「LGBT関連で」って、なにそれ…。おとなしくしていようと思ったから、まったく考えてないよ。てか、どちらかというと、今はガッコのことの方が大きいし、それも個人的にはおべんきょする時間ができているんだけどなぁ。ただ、なぜそうなっているかというと「何をしていいかわからない」からなんですよね。だからそっちで発言しようかなと。
「何をしていいかわからない」理由は2つあります。ひとつは先が読めないということ。もうひとつは生徒たちと個人的に連絡がとれないということです。特に後者は深刻です。だって、例えばオンライン授業しようにも、連絡がとれなければ生徒がアクセスしてくれるしか方法がないからです。で、なぜ連絡先を知らないかというと、例えばクラブなんかでセクハラ案件が起こった時に「生徒と直接連絡をとるな。そのために生徒のメールアドレスを知ってはならない」とやられちゃったからです。
基本的には学校は「うまくいっている」ことを前提に動いています。それは時間的にも人的にもです。今回のように12ヶ月のうち2ヶ月が吹っ飛ぶと、10ヶ月で12ヶ月分のことをしなくちゃならなくなってしまいます。必然的に、「休み」が削られてしまう。とあるO阪なんかだと「土曜授業」とか言いはじめているみたいです。が、土曜日は教員は勤務日ではありません。さて、どうする?土曜日を交代勤務でやったとして、どこかで代休を取らなきゃなりません。が、その代休を取る時間が平日にない。なぜなら、平日の勤務は土曜日が休みであることを前提に組まれているからです。例えば、クラスを半分にして同じ授業を2回とかするとします。すると、単純計算で持ち時間が2倍になる。うちの職場では週の授業が16コマを標準に組んでいるので、単純計算で32時間必要になります。ところが、週5日で1日6時間だと30時間。あふれてしまいます。それを回避するためには人を増やさないと行けないんだけど、それをしない。さらに誰かが休んだら、もう、ジャグリング状態になります。
すべては「うまくいっている」ことを前提にしているからなんですよね。
まぁそんな話をしたあと、やはりLGBT関連か。よくわからないけど、とりあえず、同性愛者に関しては「濃厚接触者」をとてもいいにくいと言うこと。トランスに関しては医療へのアプローチがしにくいこと、ふだんからそれはあるんだけど、それが顕在化するってことを指摘しておきました。
まぁそんなこんなで12時にカフェは終了。そこからビール片手にもう少し話をして、最後はK口くんとふたりになったりしてしまいました。

その後、必要火急な用事でホームセンターへ。メッチャ車が多い。みんな来るんだなぁ。換気とか全然やってないから、危ないぜ。さらに駅に行くと、その向こうにある公園へと歩いて行く人がいっぱいいて、結局ゴールデンウィークなんですね。まぁ人のことは言えんけどね。

分断と排除

この間のCOVID-19にかかわる報道を見ていて、とにかくいろいろ考えるところがあるんですけど、そのうちのひとつが、「なぜ感染者数を都道府県別にカウントするのか」ってことです。もっというと「国別」もそうなんですけどね。
言うまでもなく、ウィルスに国境はないです。もちろん、対策には故郷はあるし、なんなら都道府県境もあります。なので、そこに「差」が見られるのは当然です。でもそれは「人々の差」ではなくて「対策・施策」の差なはずです。ところが、「対策・施策」の差が「人々の差」へと転嫁されている。
具体的には、例えば徳島とか岡山の話です。
てか、これの発端って、兵庫と大阪が「県境をまたぐな」みたいな話があった時から出ていましたよね。「尼崎在住で大阪勤務の人間はどうするねん」って話があったし、「兵庫の人で玖伊屋に参加する時は福知山まわりで」みたいな話もありました。ただ、この頃はネタですんでいたけど、「徳島県在住ステッカー」とかいうのが出てきて、これはヤバイなと。だって、淡路島在住の人が鳴門で仕事なんて当たり前にあるだろうし、なんなら買い物で行くことだって当然ありますよね。ここで、「鳴門に来るな。兵庫県の人間は神戸に行け」とかいう話になると、どういうことになるかってことです。
てか、現在は、さまざまな生活上のリソースを都市に集中させてきた結果、特定地域で生活が完結するなんていうことを否定した社会なわけです。なので、人々が「境界」を越えて移動することを前提とした設計になっている。それを「stay home」とかいうって、それはムリだろうと。それは端的に言うと、都市部の発想です。
で、なんでこんなことを書いたかというと、それはCOVID-19への対策として必要なものは「協調」だと思うからです。もちろん、「盛大に移動せよ」と言っているわけじゃない。このあいだのETV特集でジャック・アタリさんが言っていた「利他主義は合理的利己主義」ってやつです。
しかし、いまや「排除と分断」でこの状況を乗り切ろうとする態度は、国家だけではなく、都道府県レベルにまできている。そしてそれを人々が担っている。そしてこれ、地域レベルの分断まで来た時、だれが「排除と分断」の対象となるのか。おそらくそれは「感染リスク」という名のもとに、もしかしたら障害者施設や病院などの医療施設、そして斎場もですね。さらにもしかしたら寄場や外国人多住地域や部落にも及ぶかもしれない。
なんか、そうした「排除と分断」の出発点を目の当たりにしている気がするのです。

もちろん、「おおまかな把握」のためには、地域ごとの感染者数が不必要であるとは思わない。でも、それは「都道府県別」では、たぶんない。実は、さっき書いたことと逆行するけど、もっと細かな単位での把握が必要なんだと思います。なぜなら、「感染リスクの高さに追い込まれた人々」がそこに生み出されているからです。そこにこそ、重点的に施策を打つべきだと思うし、そのための把握です。決して「分断と排除」ではなく「利他主義は合理的利己主義」のための把握です。

まぁしかし、自民党も大阪維新も、分断と排除を利用して勢力を拡大してきたし、支持する人々は「自分が分断と排除の対象になる」とは思っていないだろうからなぁ。すでに「分断と排除」されているのになぁ。