安倍、総理をやめるってよ

てことで、安倍、総理、やめるってよってことです。
「やっとかよ」って気持ちはありますね。ただ、不思議なほどに高揚感はない。たぶん誰もがわかってるんだけど、安倍政権によってつぶされた、あまりにも多くのことをどうすれば復興できるのかってことすね。
例えば、教員ってことを考えただけでも、教育基本法改悪からはじまり、免許更新制とか、学習指導要領とか、教育予算とか、もう、ありとあらゆることが壊されてきました。これ、元にもどせばいいってことではあるけど、すべての制度を元にもどしたとしても、復興まではすんごい時間がかかります。
それだけじゃなくて、そもそもモラルとか道徳心とか、そういうものを根こそぎつぶされました。
なんか、瓦礫の山を前にしてる感じですね。
まぁでもここから立ち上がるしかないです。
もっとも、「安倍政権的なもの」は支配層にとってはやりやすいから、さらにひどくなる可能性も充分あるわけです。それをどう阻止するかですね。

それにしても、安倍政権ってなんだったんだろう。どうしても「羊つき」としか思えないんだよなぁ。

あらためて、トランス排除の言説はヘイトスピーチだな

朝、身体が重いです。当たり前か。とにかく、この暑さでガッコが溶けてしまえばいいと思いながら、出勤です。で、職場に着いたけど、溶けてませんでした。
メールチェックをして、いろいろ見てたら、Woman’s action networkのサイトへ。岡野八代さんによるエッセイを読んで、じんわりときました。なんというか、「闘ってくださってるな」という感じですね。ともに闘う人がいるってことが、これほど心強いのかと。
直接の発端はこのエッセイです。これについては、新しいことはまったくと言っていいほどありません。ただ、昨日の講演を聞きながら、ずっと「これ、TERFのことやんか」と思ってました。

TERFの人々は、おそらく差別してるなんて思ってない。逆に自分は被害者だと思ってる。それは例えば在特会もそうです。在日の「特権」によって自分たちは差別されてるというのが、あの人たちの認識です。ただ、その「特権」はもちろんフェイクニュースです。これ、例えば、関東大震災の時もそうです。朝鮮人が井戸に毒を入れるというデマが流れ、自分たちを「護る」ために朝鮮人を虐殺した。熊本大地震の時も「中国人の窃盗団に注意」というデマが流れました。
トランス女性とトイレの問題もそうです。小さい子どもを公衆トイレに行かせたら暴行されたという「情報」が流れ、それがトランス女性排除とリンクさせて語られる。
ちなみに、「なぜかTERFと呼ばれてる」もまたヘイトスピーチと同じです。ヘイトスピーチやってる人たちを「わたしたちカウンター」は「ヘイター」と呼ぶことがあります。でも、ヘイトスピーチやってる人は、自分たちがヘイトをしてるとは思ってない。だから、「なぜかヘイターと呼ばれてる」んだと思います。
だから「差別じゃない」し、「差別されてるのは自分」だし「そういう危険から自分を守る合理的な行動」と思ってる。そしてそれを信じてるから揺らがない。
ちなみに、トランス女性がターゲットになるもうひとつの理由は「線引き」なんだと思ってます。「誰が女性か」という時に、「トランス女性は女性でない」という線引きをすることによって「女性」を定義づけることが可能になる。なぜそうしなくちゃならないかというと、それは多様なセクシュアリティが現実になったからです。例えばお茶の水女子大学がトランス女性の受験を認めるというふうな形で。
仮に「女性/男性」というふたつの性別しかなければ、「男性ではない」=「女性」なので、「男は女の専用スペースに入るな」と言えば済むし、それはほとんど言わなくてもいいくらい合意されてる。ところが、多様なセクシュアリティが現実になると、「非女性」を設定しないと「女性」が定義できない。その時に、トランス女性を「非女性」と設定し、排除することで「女性」を定義する。そうすることで「差別されてる女性」を定義し、「守る」ことが可能となる。
そして、その「トランス女性」というくくりを設定することで、トランス女性内の多様性を消し去る。それは「よい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」と同じです。つまり「よいトランス女性も悪いトランス女性も排除しろ」ということです。
トランス女性の多様性を消し去るということは、ペニスのあるなしではないです。それは、トランス女性が考えたり感じたりすることを通してなされるさまざまな言説を「ないことにする」ということです。それは相手を人間として見ないということでもあります。だからこそ、「表現の自由/人間の尊厳」は「人間の尊厳」に天秤が傾くのです。
そして、この線引きは同時に「よい/悪い」を不問にする。そのことで、「女性」内の「よい/悪い」もまた不問にされる。そのことで「女性」内の多様性もまた問われなくてすむようになる。そういう「女性」を守るためにトランス女性を排除するという具体的行為で、線引きを可視化する。
なんのためにそれをするかというと、自分は被害者で、その被害者が誰なのか「=女性」を確定しなきゃならんからというところにもどる。
まぁ何が言いたいかというと、「この間のトランス排除の言説はヘイトスピーチだ」ってことです。で、それはお互いに議論を闘わす場を保障するとか、そういう話ではないってことです。
てなことを書いても、誰も読んでないわな(笑)。

なぜにその相関か?とか固いなぁとか

今日は午後から前のおべんきょ場所で「伊藤悦子門下生研究発表会」です。ちなみに、去年は「中の人」に脅しをかけて、最後はひと吠えして飲みに行きましたが、ことしはどうなるかな。
今年の発表は「情報と人権」です。問題意識としては、どうやら子どもたちがどのように情報に触れ、その情報とどのように向き合い、疑問があったり間違いかもしれないと思ったときにどのように対処するのかってことを明らかにしたいという感じでした。まぁそれを基礎資料として、「情報」にかかわる人権教育を組んで生きたいという思いがあるようです。
発表そのものはおもしろかったのですが、なんかひっかかることが。それは「性別との相関」を調べられたってところです。ちなみに質問用紙の性別欄には「男・女・その他」があり、「その他」を選択した子が複数人いたのはおもしろかったですけどね。
データを見ると、情報の入口としては「会話」と「本」が優位に女子が高いんですよね。そして、インターネットの使用の仕方も「コミュニケーション」「音楽視聴」が高い。これをどう見るかですね。
わたしの頭の中にとっさに浮かんだのはこの時のおべんきょでした。レジュメをつくったのは、そのちょっと前かな。
つまり、女の子の特性として会話とか本とかコミュニケーションなんかをすると考えるのか、会話とか本とかコミュニケーションをMCDとして使用して、女の子カテゴリーをその場で構築してるのかってことなんです。もしも前者であれば、会話とか本とかコミュニケーションのしかたに危険性があるならそれを指摘してしかたを変えればいい。でも、後者だと、そのしかたを変更するということはカテゴリーの構築のしかたをかえることになるし、女の子カテゴリーのありようが変わってしまう。問題は、後者の可能性があることを理解した上で前者の立場をとるのか、その理解なしにとるのかってところかな。
まぁそんなことを考えたので発言したのですが、まぁわからんやろな。すんません。伊藤さんにも軽く流されてしまいました。
後半の発表はおとついもあった「人権教育に関する教職員の意識調査」の結果報告です。まぁいろいろ考えたことがあったけど、やはり気になるのが「人権学習をする上での課題」として「間違ったことを教えるのではないか」という不安があるってところですね。「中の人」は「だからきちんとした知識を得るために研修をして、安心して教えられるように」って結論してたけど、なんでそんなに固いんだろ。あえて間違ったことを教えるのはアカンけど、間違ってしまうのはかまわないと思うのですよね。で、間違ってたことに気づいたら、それを修正することをきっかけにして子どもたちとさらに話しこめばいい。つまり「間違っちゃってもいいよ」っていう安心感があるほうが大切なんじゃないかなと思うんですが、伝わったかなぁ。
てなことで、3時からはじまった研究発表会、4時半に終わるかと思ってたけど、6時までやってました。疲れたけど楽しかったな。吠えずにすんだし、それもよし。今年は飲み会がないから帰りましょう。

突破口やな

今日は第2のふるさとで恒例の会議です。なので、駅から山登り。いつも思うけど、こんなところに図書館つくっても子どもは来られないです。ちなみに、今度こちらに役場も来るとか。せめて駅からシャトルバスを出さなきゃ、メッチャ不便ですよ。まぁみんな車で来るんだろうけど、高齢者の免許返納はますます遠のくな。
で、会議。
なんか、みなさん、絶好調ですね。日の丸・君が代のこととか元号のこととか。まぁ、わたしにとっては、あるいはわたしたちにとっては当たり前のことも、仕事で人権教育に入った人には当たり前ではないってことなのかな。でもまぁ、こういうところで知ることは大切なことかもしれません。
そんな話から、議論は部落の「告知問題」へ。
今どきの親は、自分が部落であることを知っているかって話です。高校生の親なら世代的には知ってる可能性が高いかな。でも、小学生になると知らない可能性が高くなるかな。
めんどくさいのは、本人が知っているかどうかは関係なく、差別は平等に降り掛かってくるってことです。知ってない人は差別されてることに気づかないだけなんですよね。ところが知らなかったら差別されないと勘違いしてしまう。これ、たぶん、差別とイジメを同列に扱ってることが問題なんじゃないかな。あとは差別を「心の問題」としてるところか。要は、個人に対して差別する心が向けられるってことです。
ちなみに、仮にそうだとしても、本人が知ってるかどうかは関係なく差別される可能性はあったりします。なぜなら、知らないのは本人だけだったりするからです。
てことで、ぜったいに自分の出自は知ってたほうがいいと思うんだけど、なぜか「伝えない」という信念を持っておられる方がいて、そういう人が子どもに伝えなかったら、孫の世代になると伝えようがなくなってしまう。そういう状況で、伝えられるのは誰かというと、教員だったりします(笑)。まぁ、この時もそうでしたが、なんでやねんというと「そういうことやねん」としか言いようがない。でも、これはなかなか難しい。
で、今日の論議は「それをしなきゃならん」って話です。これを当事者から言われると、そうとうきついです。てか、「お前やれ」って思ってしまう。
そんな中で、ひとつの提案があって、それは「家庭訪問時に、すべての家で「部落問題をどう伝えてるか」と聞く」ってやつでした。つまり、部落の家だけ部落の話をするんじゃなくて、どの家でも部落の話をすればいい。そうすれば突破口ができる。
そこなんですよね。突破口なんです。その突破口は、オイタでもいい。そこをとらえて、とにかく飛び込んでいく。そうすれば、たいがい風通しのいい広い世界が待っている。
あー、でも、その広い世界で話題がないと、これまたきついな。その話題、勉強しただけでは身につかんからなぁ…。

案外好評だった

今日の午後は人権教育担当者の会議です。今回はうちの職場が会場なので、準備でパタパタ。
で、会議です。とにかく今年はメンバーがガラリと変わりました。残留してるのは14人中5人かな。しかも「人権教育担当、はじめてです」って人がほとんどです。まぁでも、それはとてもいいことです。もっともベテランの域に入ってて「はじめて」ってのは、これまでどういう人事体制でやってきたんやとも思いますけど、比較的若い人が多いのがいいです。ちなみに、女性も多い。とてもいいことです。
で、みなさん好奇心が旺盛というか、研究心が高いというか。ほんとに積極的に参加されてる感じが伝わってきます。
会議ではそれぞれのガッコの状況を交換したあと、人権学習の紹介をしたりします。今回はちょいと出しゃばって「世界人権宣言」のプレゼンを見せてみたり。
で、いろいろディスカッションをしてたらあっという間に終了時間。
と、ある参加者の方が「あの…」って来られました。
「さっきのプレゼンのデータをいただけませんか?」
「いいですよ(^^)」
「えっ!いいんですか!」
と、
「わたしも」
「わたしも」
ってことで、みなさんにデータをおわけすることに。
たぶんわかりやすかったんでしょうね。ある方が
「生徒になった気分で「うんうん」って聞いてました」
って言っておられましたが、子どもにわかりやすい教材は教員にもわかりやすいってことです。

ディスカッションの中で、あるベテラン教員の方が「理解したか?」みたいな話をされたのですが、理解はいらないと思うんですよね。ましてや「定着」なんてするはずがない。でも、1年生の1学期にやることに意味がある。いろんなことを感じてくれたらいい。
例えば2年生になって
「去年やったの覚えてる?」
って話たら
「ラップのやつやろ」
って返ってくることがあります。それで充分にうれしいです。

人権教育担当のおもしろさを通して、反差別を生きる人との出会いの豊かさへとつながっていけば、きっと仲間ができていく。
そんなことを感じさせられたひとときでした。

やる気スイッチ強制ON

やる気スイッチが入らない理由はいろいろあります。が、最大の理由は、やはり肩のケガですね。ガッコだとキーボードやマウスの高さがあわない。家だと寝転がって作業ができない。
でも、とりあえず金曜日にやる気スイッチに手を伸ばしたおかげで、仕事のうちのひとつが90%できました。そして昨日、前のおべんきょ場所に行く前に、ほとんどデッドラインに来ている来週土曜日のスライドに着手して、40%くらいまでもってきてありました。
なので、今日は残り60%をやっつけます。まぁ、最後まではいかなくても、ピバーク地点までいければよしとしましょう。
スライドづくりに欠かせないのは妄想です(笑)。あることを話すために、それとはとうていつながりそうにない「なにか」を見つけられるかどうかが勝負です。いや、それは必要ないだろという話はもちろんあるのですが、それならスライドなんていりません。レジュメとしゃべりで充分です。映像にするのは「ネタ」を見てもらうためです。ただ、その「ネタ」はやる気スイッチが入らないと見つからない。
てことで、今日はとにかくこれまで書いたものをいろいろ読み込んで考えることにしました。これまで、同じテーマで3回書きました。まずは『女人禁制Q&A』です。この時はQのうちのひとつを担当させていただきました。お次は『現代の「女人禁制」―性差別の根源を探る―』です。この時はひとつの章を書かせていただきました。で、今回は『いつまで続く「女人禁制」: 排除と差別の日本社会をたどる』に書かせていただいて、土曜日はその出版をきっかけに企画されたものです。

これまで書いてきたものを読み比べると、なんか「書き散らかした」感があります。なのに、なぜかシンポジウムでしゃべれと言われて、うれしいものの「なんでわたしやねん」という感覚は否めません。まぁ、ずっと前のシンポは別の人がやったし、今回はわたしにまわってきたのかなと思わないわけでもないですが。
で、書き散らかしてきたんだけど、どこか共通するものがある。それを抽出すれば、自ずとスライドはできるはずです。さらに前の本から9年たっていて、その間に「おべんきょ」の世界に突入もしています。共通するものを分厚くしてなきゃダメダメです。
そんなことを考えながら、これまでつくったスライドも流用して、ようやく「骨」になるところができました。あとは「つなぎ」と「オチ」というところまできて、時間切れ。でも、まぁなんとかなるかな。

社会の教員であること

今日はとある大学で社会科教科教育法を教えてるお友だちのIさんがうちの職場まで授業見学に来られました。ちなみにIさん、社会科の授業をしたことがないどころか、免許も持っておられないとか(笑)。まぁでも、おそらくは「それとこれ」は別なんですよね。ただ、Iさんはマジメな方なので、やはり授業は見ておきたいとのことで、それならうちのガッコに来てもらえばええかと。
事前にいろんな人に頼んだら、みなさん「参考になるかなぁ」などと謙遜されながらも、快く引き受けてくださいました。副支店長も「ええよ」と。「文書いりますか?」と聞くと「いらんよ」と。いい職場です。

もちろんわたしは見学してないから授業の様子はわからなかったけど、見学から帰ってこられたIさんの言葉の端々から、つくづく社会科の教員ってすごいなと思いました。
例えば、「歴史は資料をつなぎあわせるものだから、結局はわからない」とかつぶやいてる人がおられたとか。なるほどなと思うけど、それでも教えなきゃなりません。ついでに言うと、そのひとことのためにどれくらい勉強してるんだろうと思うと、不良数学教員としては頭が下がります。
さらに、休み時間に「どれくらい勉強しておられますか?」と聞くと「ずっとやってる」と。なんでも、毎年プリントをつくりかえてるんだとか。これも不良数学教員としては頭が下がります。
「歴史は変わらない」という人もいれば「歴史は変わり続ける」という人もいます。後者の人は「わたしらが知ってる世界は「最先端」が数十年たって本になったことですからね。そして教科書になるのはそれからまた数十年たってからのことですよ」と。

そんなこんなで圧倒されまくった1日でした。いい勉強になりました。

教員の仕事の特殊性

今日は午前に3時間授業があります。ここまで授業が固まると、それはそれで楽です。なにせ他のことをやらなくていい。てか、できませんからね。逆に午後は授業はなし。これはこれで楽です。なにせ授業のことを気にしなくていい。
そんな半日を過ごして、前のおべんきょ場所へ。今日も4人の研究会で当事者研究です。
ここで考えてるのは、教員の仕事の特殊性なんですよね。もちろん、他の仕事もそれぞれの特殊性があるってのは当たり前なんですけど、それをさしおいてもそこにある特殊性について考えるんです。
ただ、これ、案外難しい。というのは、他の仕事を知らない(笑)。こういうことを書くと「教員は世間知らず」とかいう弾が飛んできたりするんだけど、どれほどの人が自分の仕事以外の仕事について知っているかって考えると、たいていの人は知らないんじゃないかな。それと同じ程度に、わたしは他の仕事を知らないし、教員以外の人は教員という仕事を知らない、そういう中で「教員の仕事の特殊性」を考えるんだから、なかなか困難です。
まぁでも、冒頭に書いた時間の割り振りとか特殊なんじゃないかなと。
たぶん特殊なのは「授業」という最優先の仕事があって、これは「ちょっと待って、あとでやるから」とか言うことができない仕事です。それの隙間に授業以外のデスクワークをしてる。ということは、そもそも仕事はダブルワークだってことです。さらに、デスクワークを円滑に進めようとしても「ジャマ(笑)」が入る。具体的には生徒です。元来デスクワークは生徒がいないことが前提で進められます。が、教員の本来の仕事は「生徒の相手をする」ことなんですよね。つまり、ダブルワークの中身は「生徒がいる」ことが前提のものと「生徒がいない」ことが前提のものとふたつであるってことです。
こういう引き裂かれた仕事の内容が、これまた独特の時間の流れの中で運営されている。他の仕事で1日あたり20回近くチャイムが鳴る仕事ってあるかな。せいぜいが始業・終業・休憩あたりの4回くらい?ものすごく細切れの時間で動いてます。
まぁ他にも「教員あるある」的なへんちくりんなことはいっぱいあります。例えば昼休みがないとかね。「あるじゃん」って思われがちだけど、あの昼休みは生徒のためにあるんですよね。つまり、勤務がはじまったら終わるまでずっと仕事が続く。だから、学校から一歩も外に出ないとかね。他にも施設的なこともあるかな。生徒を7時間くらい校内に拘束するから、それに耐える施設をつくっておかなきゃならない。その維持管理を誰がするのかとか。なんか、こういうことを考えはじめると、ハンセン病の療養所みたいな感じすらしてきたり。
これはグチでもなんでもなくて、そういうあたりが特殊性なんじゃないかなってことです。なんでこんな特殊性を探すかというと、もちろん教員という仕事を理解するためです。理解すると、うまくつきあえる。
そんななかなか脳みそを使う1時間半を過ごしたら、ほんとにビールが恋しくなるな。さぁ、帰ってビールビール。

マスクから考える

朝、職場で同僚の机の上を見ると、昨日の放課後、たぶんうちの子らが帰り道にマスクをしてなくて、近所の人からひどい注意の受け方をしたらしいです。その注意のしかたがあまりにもひどいので、「マスクよりそっちやろ」と思ったのですが、それはおいておきます。
で、職員室で論議になったのは「マスクをつけるよう指導するか否か」です。
こんなしょーもないことが論議になるってのも「なんだかな」なんですが、「ひどい注意」をされてしまう状況があるのも一方であるので、しかたないんですよね。

ちなみに、わたしはどうしてるかというと、往復の電車の中と授業時はマスクをしてます。が、それ以外ではマスクはしない。特に駅と職場の間の歩きの時は、途中ではずします。理由は息がきつくなるのと、そもそも誰もいないからです(笑)。まぁ「誰もいない」は言いすぎですが、黙ってうつむき加減で歩いてるので、仮に向こうから人が来ても飛沫をとばす可能性は限りなく低いです。

そもそも、なんのためにマスクをしてるのかというと、自他を守るためです。ただし、そんなものは限界がある。だって、家族でごはんを食べるときはマスクはしない。じゃ、家族は守らなくていいと考えてるのかというと、もちろんそうじゃない。そこは「しゃーないな」と考えてるってことです。
あるいはマスクをすることで肌が荒れる人がいる。肌が荒れてもマスクをするって人もいるだろうし、「しゃーないな」と思ってしない人もいる。ただ、いつでもどこでもしないわけじゃなくて、「ここではしよう」と思ったりもする。
つまり「しゃーない」と「しゃーなくない」の線引きをどこかでしてるってことです。そしてそれは誰もがやってる。誰もがやってるからこそ、線の位置にズレがある。マスクをつけるように指導するか否かは、そのズレの存在を認めるのか認めないのかってことです。
もちろんわたしの答えは「ズレの存在を認める」です。もちろん、モラルとかエチケットってことは含みこんでの話ですが、その上で「ズレはある」っていうあたりまえのことを引き受けるってことです。
てことは、仮に他者にマスクをしてほしければ、それは「するべき」ではなく「自分がしてほしい」というって話になる。例えば「基礎疾患があるからわたしの前ではマスクしてね」って感じです。そうすれば「ひどい注意」にはならない。
でも、「ひどい注意」をする人がいる。たぶん、その人にとっては、マスクをすることそのものが自己目的化してるんじゃないかな。あるいは「マスクの有無」が「人格」や「知性」と結びついてるのかもしれません。そしてそれはその人ひとりの問題じゃなくて、社会の中に蔓延してる。それが「自粛ポリス」=「自警団」です。線の位置のズレの存在を認めないどころか、その位置を自分にあわせ、そのことに無自覚で疑うことを知らない。それこそが「無知性」なんだけどな。
で、少なくともうちの職場はそうなってほしくない。ただ、学校という体制は「自警団体質」を持ってるんですよね。その理由のひとつは「ひどい注意」をされないようにするというリスク回避。もうひとつは生徒と教員の権力関係の存在です。例えばマスクをしてない子に
「マスクすべきかどうか、自分で考えようね」
と教員が言葉をかけたら、そこにはすでに
「マスクはすべき」
という価値観が内包されていて、生徒はそれに従う。あたかも自分で判断したかのように見えるけど、実は権力関係の中で強いられてるんですよね。
それを避けるためには「指導しない」以外ない。あるいはせめて「教員個々の考えに任せる」ところに留める。そうしないと、結局は「自警団」になってしまう。

まぁそんなことを考えながら、家に帰って筋トレしてビールを飲んで1日が終わるわけです。
アカンな。おべんきょができない。

めんどくさい

職員朝礼で、いきなり思い出させられました。今日は被曝の日した。
毎年、どこの業者が被曝車を搬入するかは落札で決まるらしいですが、今年度ははじめてのところみたいです。なにせ、事前の問診票を配布されましたからね。これは子どもたちも配布されてるみたいで、そこに堂々と性別欄がある。
実は今年番頭さんが変わったので、その人が勝手につくった問診票かと思ったのですが、それは誤解で、業者がつくったものだとか。もちろん、本店を通して申し入れをするようには話しました。
で、わたしはもちろん空欄です。
時間が来たので受付に行くと、とりあえず名簿の名前をチェック。さすがに名簿には性別は書いてありませんでした。が、問診票を見て、ごていねいに「ここ、記入しますね」と女性に○。まぁええけどね。よくないけど。
問題はここからです。なんでも被曝車にはふたりずつ入るんだとか。ほぅ。まぁええけどね。よくないけど。教職員は基本ひとりずつで、ふたりってのはここ20回のうち、たぶん2回目じゃないかな。ちなみに被曝車には「車内は3人」って書いてあります。とにかく効率重視です。
てことは、わたしも誰かと一緒にならなきゃアカンわけです。あー、めんどくさい。わたしはめんどくさくないけど、相手のことを考えるのがめんどくさい。ちなみに、当然のことながら壁を向いて着替えるので、相手の姿は1mmも見ません。なので、相手がわたしを見てるかどうかもわからない。でも、いろいろめんどくさい。
ただ、このめんどくささは「わたしのせい」なのか?それは違いますよね。効率を重視して複数人を着替えさせる被曝車の体制のせいですよね。そしてその無神経さは、問診票に性別を書かせるというところに如実にあらわれてるってことです。
てことで、明日番頭さんに話をして、本店に持っていってもらって、入札の時の条件として提示してもらうくらいのことはしてもらわなくちゃね。
めんどくさい。
でも、このめんどくさを通過しないと、めんどくさくない社会はこないってことだな。