やっつける

今日は出張のない出張日です。よほど休もうかと思ったけど、職場に行かなきゃできないことをやっつけようかなと。
てことで出勤。職場に着いたところで階段を上がる同僚から質問されました。
「あのGTR、誰のか知ってます?」
知らんがな。職員室に入ると同僚から質問されました。
「あのGTR、せんせいの?」
違うがな。まぁ、「湾岸ミッドナイト」の世界を知ってる人が、この職場にもいるってことですね。ちなみにわたしが知ってる世界はどちらかというと『ケンタウロスの伝説』です(笑)。
てことで、事務室から預かったGV-HUVCの動作テスト。ふむ、いい感じです。続いて放送部で買ったATEM MINIの動作テスト。なるほど。たぶん、ソフトで操作したら、もっとええんでしょうね。まぁ機材が足りないから、今日はこれくらいにしておいてあげましょう。ちなみに、数人の教員に見せたところ「なるほど」って言ってたので、たぶん活用するんじゃないかな。
これで昼前の少し前。ここからはこの間の研修会のときに出てきた川崎さんへの質問を川崎さんに送ってみたり。まぁ調べたらわかることとか、それではわからんにしても、わたしでもわかる事実関係のことはおいといて、「これは川崎さんからコメントしてほしいな」というのを選んでみました。どんなコメントが返ってくるか、楽しみです。
さてと、お次は…。
18日の「おべんきょ会」のことを少し考えましょうか。このあたりはほんとうは家のほうがはかどりそうなものですが、まぁよしとしましょう。なかなか家ではできないです。これもすぐに煮詰まります。なので、ペーパーへのコメントかな。なになに、「総評」を書けと。そんなのあったっけと思って、自分に対してきたコメントを見たら、書いてありました。続いて「コメント」を書けと。とにかく専門外ですからね。まぁただ、この手の仕事は専門と専門外のふたりでやるらしいので、素人の意見を書かせていただきましょう。
そんなこんなをしていたら、定時です。

これ、仕事なのかなぁと思われるかもしれないけど、教員の仕事って授業だけじゃなくて、その「だけじゃない」ところは定義しにくいんですよね。ペーパーを読むことと、それへのコメントを書くことも、内容がないようなだけに「教育をつかさどる」ことへとつながっていきます。「おべんきょ会」もそうです。なので、その定義はそれぞれの教員の裁量にまかされる。もちろん明らかにはずれた場合はアカンでしょうけど、そうではない場合はOKになったりします。なので、その裁量をどこまで広げるかですね。わたしはそうとう広げてきました。それを専門性というんだろうな。

平常運転

今日から時差登校&40分×6限(7限)になります。なんか、身体がすっかり40分授業になってます。まぁ50分でも40分でも変わりはないのですがね。
それにしても、なんかピリッとしません。まぁ、わたし自身ピリッとしてないのですが、子どもたちがなぁ。とにかく欠席が多い。担任さんに聞くと、みんな体調不良なんだとか。まぁそれならしかたないとも言えるけど、でも、明らかな体調不良はしかたなしとして、「ある体調を不良であると感じるかどうか」はメンタル的なところもないわけではないですからね。

ちなみに、わたしもけっして絶好調というわけではありません。じゃ、好調かというと、そういうわけでもない。なので「体調不良なので」って言って言えないことはないんだけど、そう言わないだけのことです。
てことで、授業がはじまるまで読まなきゃならないペーパーでも読みますか。読んでるうちに「あれ?」って引っかかりました。「性的逸脱行為」って言葉があります。「逸脱?」。こんな時はKうさんに聞くに限ります。
「性的逸脱行為って使います?」
「使うこともありますよ」
そうなんだ。逸脱かぁ。逸脱なんて、逸脱行為を定めることによって正常が構築されるわけで、そんなの社会的な問題じゃんって思うのですが、おそらく(精神)医療の世界では、そうやって構築された「正常」からはずれた行為を「逸脱」としてあつかってるんだろうな。ウロボロスです。
で、ピリッとしない授業をさっくり終えて、「そうだ!」と思い立って「ハンセン病問題の施策提言のための自主ゼミナール」の動画を見ようかなと。ちなみに、第1回のスピーカーは神父さんとこの間メッチャお世話になった太田さんです。
で、神父さんの話を聞きながら「ん?」ってなりました。むかーし「GIDしずおか」に呼んでいただいた時にお会いしてるんですよね。
いろいろ途中でジャマ(笑)がはいりながらも、おふたりの話を聞いて、いろいろ考えました。
「ハンセン病の隔離政策に加担したという意味では加害者。しかし加担させられたという意味では被害者。だから当事者であるという意識を持つ」
というのは、わたしにとっては新しい観点ですね。
2年生の人権学習のネタをひとつ増やさなきゃならんので、ハンセン病をやろうかなぁ。ただ、やるためには「なぜ」ってのを自分の中に落とし込まなきゃなりません。
しばし妄想をふくらまさなければ。
そんな感じで定時が来たので帰りましょうか。
帰りの電車でもペーパー読み。逸脱なぁ…。

なぜ書くんだろう

今日は完全に「何もない」日です。なので、ゲンコ書きです。何もない日くらい何もしなければいいのにと、自分でも思いますが、ゲンコがあるからしかたないです。
ちなみに、7月は来年度の仕事のための書類づくりでいっぱいいっぱいでした。で、4日ほどで連載の原稿を書きました。今やっているのは11日にある4人のおべんきょ会へ向けてのゲンコ書きです。これの最終〆切が今月末。そのあたりに連載のゲンコも仕上げなきゃなりません。このあたりがおわって、ようやく「おべんきょ成果」のリライトに移行できるかな。
それにしても、なんでこんなに書き続けないといけないんだろう…。
と思ったら、そもそもこのブログを書いている時点で毎日書き続けているじゃん…。まいったなぁ。

初訪問

朝、某国営放送の方からメールが来てました。web版が公開されたらしいです。

で、職場に行くと内線電話がかかってきました。なんでもわたしが副担任をしてるクラスの担任さんがしばらく休むことになったんだとか。
またかよ。
昨年度もそんなことがあったし、一昨年度もこんなことがありました。わたしが副担任をやると担任さんが長期の休みになるサイクルができてますね。
まぁでも時差登校だから少しは楽かな。
ちなみに、ロングホームルームはわたしは不可。その日、部落差別について話をしなきゃなりませんからね。まぁ「休まないことが前提」だとこうなるってことです。
で、ワクチン接種の予約をするなど。
いや、「生徒は若いから感染しない」とか言って、教員は若くないから感染リスクがあるのにエッセンシャルワーカーにしてるから、こんなことなら高校教員がワクチン接種するのは世界で最後かなと思ってたのですが、どうやら優先枠がまわってきたみたいです。で、予約サイトに行ったら、各枠が100人なんですけど、平日はガラガラですね。こりゃ優先枠がまわってくるわ。てことで、サッサと打つことにしました。
ここからわわわと授業を済ませて、午後は出張です。出張先は京都府国際センターです。ここ、基本的には「国際交流」とか「異文化交流」をやってるだけって聞いてたから、そういう目で見てたんですが、一昨年あたりにめっちゃすごい人がおられるって聞いて、これは行かなきゃアカンなと思ってました。が、とてもじゃないけど行ける状況になかったので延ばし延ばしになってましたが、ようやく行ける状況になったのでアボを入れました。ほんとは先週行くつもりだったけど、先週は本店の人が来たから。行けませんでした。
てことで、話しはじめたのですが、京都府ひどい。いや、たいがいひどいと思ってたけど、ほんとにひどい。なーんにも実践してない。
なかでも印象的だったのは「ベテラン教員が自信を持ってる」って話。なーんにもしてないのに、そしてなーんにも知らないのに、不思議と自信を持っていて、そのせいで外国人生徒がしんどい状態に追い込まれていくんだとか。
わたしは自信なんてないです。だって、かつて中国帰国生徒が指の間から砂が落ちるように、サラサラとやめていったのをどうしようもなく見ていることしかできなかった経験がありますからね。あの時わたしはなにができたんだろうと、今も思ってます。
きっと教員を踏みとどまらせるものは、失敗の経験なんだろな。そして、もしもわたしがあの子らとかかわっていなかったら、「失敗した」っていう認識が生まれなかったんだろな。
まぁそういうことです。
ということで、山のようにひどい話を聞かせてもらって、「すみません」しか言えないんだけど、それでも「なにかやらなきゃならないですね」って話をしてるときに、ふと思い出しました。
「京都府って指針を出してるやん!」
で、指針を見せたら
「ちゃんとしたのを出してますやん。でも、忘れてるんとちゃうかな」
と、厳しいお言葉。まぁでも、これをひとつのテコにして、いろんな形で働きかけていく以外方法はないですね。この動きを置土産にしよう。

てことで、すんごく興味深い話のあとは、角打ちです。ようやく長い長い禁酒令があけて、みなさんどうだろなと思ったら、オールスターがそろってました。で、わたしも認識してもらえて、メッチャうれしかったり。
うん。今日はいい1日だったな。

バラバラだから対応できる?

今日の午前は日教組の女性部長会議です。ほんとは終日だけど、午後から用事があるので午前のみの出席です。こういうことができるのもzoomのおかげなんだけど、zoomのおかげでこういうことができてしまうわけで、やはり一長一短ですね。
ちなみに、午前は情勢報告と先達の講演です。いろいろ示唆に富む内容でした。
午後は4人のおべんきょ会。こちらは安定の対面です。身体を前のおべんきょ場所まで持っていくのは気が重いけど、持っていったらおもしろい。これがオフラインなんですね。まぁそれを「古い人」っていうなら、それはそれでいいんだけど、やはりリアルに会うことが大切だなと。もちろん交際範囲は狭まるんだけど、時間と体力とお金を使ってつくる関係というのはたぶん大切なんだろな。
で、約2時間、あーでもないこーでもないと話しあって、なんとなく「筋」が出てきたような感じになりました。
まぁそれはそれでいいのですが、やはり義務制と高校は違うなってことをあらためて感じます。もちろん高校と言ってもひと口では語れないほど、高校によって差があるんだけど、そしてそれは制度的につくられた差でもあるんだけど、でも、その違いよりも義務制との差のほうが、たぶん大きいな。その差はひとことで言えば、教員のふるまいの多様性と言えるかもしれません。多様性はよく言い過ぎか。好き勝手やってるってことですね。
わたしは基本的には好き勝手やってますが、それを嫌う人がいたとしても、放置はしてくれる。なぜなら、嫌う人もまた好き勝手やってるからです。なので、衝突はあります。高校は、それを織り込み済みって感じかな。
そう言えばスクールバス・モデルに感じたすんごい違和感も、たぶんこのあたりにあるんですよね。端的に言うなら、高校はすべての教員が同じ方向を向かないことで幅ができる。幅ができることで、多様な生徒の多様なニーズに応えることができる。それをもっと進めると大学のようになる。逆に言えば、大学ほどバラバラではない。
そんなことを考えると、「学校」というアンブレラタームって、とてつもなく広いというか、すでにアンブレラからはみ出てるんじゃないのってほど、意味をなさない言葉というか。そんなことを感じますね。
で、それが4人のおべんきょ会のおもしろさです。
そんなこんなで、2時間半ばっかがんばって、「次は飲めるかな」と笑いながら解散です。
さてと。帰って飲もうかな。

人権学習ウィークス開始とか

今週と来週の水曜日、人権学習があります。今週は2年生。来週は1年生と3年生です。で、今日の人権学習は「ゆきみちゃん講演会」です。いつぐらいからやってるかなと思って検索したら、いっぱい出てきたな。
とりま、授業前に機材のセット。その後3発授業をやって、4時間目に準備をしたかったけど、体育館を使ってるから準備できません。まぁしゃーない。おべんと食べてひと息ついて。
駅まで迎えに行くと、向こうからオーラが(笑)。ゆきみちゃんの登場です。久しぶり!半年ぶりかな。
と、ゆきみちゃん曰く
「いつきちゃんと出会って10年。アニバーサリーですよ」
とのこと。そうか、寝言を韓国語で話してるのでビックリしてから10年か。他にもいろいろあるけど(笑)。
てことで、講演会スタート。
まずは「制度」「言葉」「心」の「3つの壁」の話から。ここはむずかしいですね。「心の問題にしちゃいけない」ってずっと言ってきましたからね。でも、ゆきみちゃんは「心」に焦点化して話を進めていかれます。はたしてどうなるんだろ。
でも、たぶんそうなんですね。「制度」や「言葉」は、ゆきみちゃんにとっての壁ではない。それはお母さんにとっての壁なんですね。だからこそ、自分の存在に正直になれば、そこに力点を置くのは欺瞞になります。さらに、ゆきみちゃんが経験してきたことは、まさに「心」が行為になった事象なんですね。だから、「心」に力点を置くのは、たぶん正直なんでしょうね。
そんなことを考えながら、話を聞いていました。で、最後の方で「ヘイトの三角形」を出す。なるほど。ここで、「心」と「制度」が結びつくんですね。つまり「心」の問題の延長に「制度」があるし、「制度」の底辺に「心」がある。そういうふうに制度や法律と「心」をつなげてるのかな。であれば、いいな。
てか、毎年毎回考えるのが、そこを補足するのが教員の仕事ってことです。

そんなこんなの最中に、某国営放送から連絡がありました。一週間くらいここから見られるんだとか。「あの子」の現実が、あちこちに伝わるかなぁ。それは「あの子たち」の現実でもあるんだよな。

「自分史を書く」ことにまつわって

この間、ずっと桜井厚本を読んでいます。まぁほんとうに「今ごろかよ」って話です。それは、インタビューをする側としては、完全にあたっています。が、インタビューをされる側としては、別の意味で「今ごろかよ」だったりするわけです。
最近でこそ減りましたが、わたしはかなりな回数、インタビューを受けてきました。その中には、例えばこんなのもあったりします(笑)。
そんな経験の中で「自分史を語ること」についてはずいぶんと考えてきました。だからこそ、例の本の冒頭に、以下のような内容を書いたわけです。

その時「自分史を書くしかないなぁ」と思いました。と同時に、「それってうさんくさいなぁ」とも思いました。なぜなら「ウソが混じるかも」と思ったからです。確かに「自分史」にウソはありません。しかし、そこからどんなエピソードを拾いあげ、それをどう表現するかということは、「現在のわたし」の評価を通してされる恣意的な作業になります。でも、逆に言うならば、自分史を書くことを通して、現在のわたしを書くことができるかもしれないと思い直しました。

ちなみに、こういうことを何度か「おべんきょの専門家」の人たちに話したことがあります。すると、みなさん「そんなん、当たり前や」と返してこられました。まぁそりゃ「おべんきょ」の世界では当たり前のことなんでしょうね。ただ、当時のわたしは「おべんきょ」は縁遠い世界だったし、どちらかというと「おべんきょのネタ」になっていたわけで、その「ネタ」側がこういうことを考えていたってことです。さらに言うと、はじめて「お座敷」をやったのは2003年頃だったかな。その時、すでにこういうことを考えていました。
で、なぜこんなことを考えていたかというと、たくさんの「被差別者」のみなさんの講演を聞いてきたからです。
みなさんの「被差別の人生」を聞くたびに「ほんとうにそうなの?」ってずっと思っていました。もちろん、「被差別の経験」はそうなんだろうと思います。が、「それだけなの?」ってずっと思っていました。だからこそ

ほとんどの人は、淡々とした日々の中に、小さな喜びや小さなしんどさを感じながら生きているんだろうと思います。わたしもそんなひとりです。

と書いたんですよね。そして、そういう人生って

とてもではないけど、波瀾万丈な人生とは言えないわたしの自分史をできる限り正直に書くと、おのずととても退屈な文章が続くと思います。

なんです。
いま振り返ると、あの本は、自問自答しながら書いていたし、言いかえるなら、「インタビューアー」と「インタビューイー」の両者をやってきたのかもしれないなと思ったりもします。そして、「自分史を書く」ってそういうことなんだろうなと思ったりもします。
まぁ、なにがなんていうこともないけど、少し思ったってことです。

レーゾンデートルについて考えてみたり、えいやとこなしたり

朝起きて、トイレに行って、ふと考えました。
わたしのレーゾンデートルは、もしかしたら京都で高校教員やってるってところにあるのかなと。そういや、オモニから「現場の人やろ」って言われたな。これが別の土地に行って別の仕事をしたら、たぶん変化があるんだろうな。
まぁ来年度以降の仕事がうまくいかなかったら「やむを得ず」今の仕事と思ってたけど「あえて」今の仕事というふうに考えるのもありかなというふうに思いました。
朝、職場に向かうべく歩きはじめたところで、来年度以降の仕事探しに必要なものを忘れてきたことに気づきました。しゃーない、今日はやらない。
今日は午後に出張があります。ただし午前はフリーです。さてとなにをするか。やらなきゃならないことは多々あります。なにより6月は人権学習月間で、16日に2年生のM木ゆきみちゃんの講演、23日は1年生の多様性ワークショップと3年生の部落差別のプレゼンがあります。ちなみに、準備が一番大変なのは多様性ワークショップです。担任さんに研修しなきゃならないし、その前にカードの準備をしなきゃなりません。
てことで、えいやとやってしまいましょう。
やることはわかっています。両面刷り40枚を14種類、色を変えた紙に印刷して、それを8等分するだけのことです。まぁ、3時間もあればできるでしょう。
てことで、出張のギリギリまでやって、電車に飛び乗りました。電車の中で卒業生とばったり会って、しばし話。
電車を乗り継いで、次の電車の中でおべんと食べて、少しおべんきょと思って本を読みはじめたら、やはり昼寝タイムになりました。
会議の方は、いつもの感じでつつがなく。わたしは会議中にあちこちと連絡をとりあいます。うーん、研修の日をずらすのは可能かなぁ。とにかく日を決めなきゃならんよなぁ。
そんなこんなで、少し無理筋かもしれないけど、いろいろ提起をしてみたり。今の会長さん、ほんとにわたしが言ってることを通してくれる。かつてはジャマしかされた経験しかなかったけど、いつの間にか「通してくれる」支店長が増えてきました。そういう経験がほとんどないので、ビビります(笑)。
帰り道は今年新しく事務局に入った人とおしゃべりしたり。
そうだ、今日は角打ちに行ってみよう。たぶん店内で飲めないけど、ビールを買って帰ろう。それもまた、角打ちにとってのわたしのレーゾンデートルとなるはずです。

Tシャツの評価→訃報

月曜の朝イチは会議です。まずは中間試験の結果の交換。担当クラス、赤点が多い(笑)。なんかでも慣れてきてます。思わず向かいに座ってた若手教員と苦笑い。まぁ先は長いです。最後に全員通ったら、それでいい。
ちなみに、今日のTシャツはふだんと違って趣味的なヤツです。こないだついポチってしまいました。で、いろんな人に
「これ、ええやろー」
と見せびらかしたんですが、反応は両極端ですね。もちろん数学の人間は爆笑です。理科の人間は「いいですねー」です。が、それ以外の人はポカンとしてるか「つまらん」って言うか。まぁあれか。枕草子Tシャツとか源氏物語Tシャツを見た時の数学教員の反応か(笑)。でも、「漂泊者の歌Tシャツ」があったら買うぞ(笑)。
で、授業に行って生徒に見せびらかすと、これまた反応がくっきりわかれました。進学系のクラスは興味津々だったりニコニコ笑ったり。フツークラスはポカンとしてる子が多かったなぁ。
ついでに雑談で昨日の話をしたけど、これは両方ともポカンとしてました。まぁええか。
授業が終わってひと息ついて、放課後は走りに行ったり。
「太り気味ですねん」
「そんな減らさなアカン感じには見えませんが」
「今日のビールのぶんを減らさなあきませんねん」
1kmを6分ちょい。今日は30分と決めてたので5km弱ですね。いいペースでした。

そうそう。放課後掃除カントクに行こうと思った時に、1本のメールが来ました。
「KSさんが亡くなられました」
そうか。とうとう。ガンが全身に転移してるって言っておられたからなぁ。
「わたしはwith コロナと違ごて、with ガンや」
とか笑っておられたけどなぁ。
考えてみたら、全外教大阪大会の生徒交流会が能勢でできたのはSさんのおかげだったなぁ。バランス感覚がすごくいい人なんだけど、そのバランス感覚はバランスを崩すところから生まれるバランス感覚だった気がします。さらに、当事者であることをどのように行使するかってことも、すごくわかっておられたな。わたしは切られたことは一度もなかったけど、切るべき人はバッサリとやっておられました。てか、わたし(たち)のためにバッサリとやってくださっていました。
ついおとついおもろいひとのことを思い出したばかりでした。また「おもろいひと」がひとりこの世を去って行かれた。
うん、おもろいひとになろう。

レーゾンデートル

朝、見事に寝坊です。しかも若干二日酔いっぽい。まぁでも納得です。なにより寝坊がうれしい。
今日は特に何かがあるわけじゃない日です。なので、昼間はゆらゆらしながら読書して、昼寝して。
でも、夕方になってむくりと起きて、文章を考えはじめました。
実は昨日突然お友だちからメールが来ました。
ーーー
LGBT法に反対し、トランス差別発言を繰り返す自民に抗議するため、当日行ける人以外の声がぜひ必要なようです。
いつきさんにぜひスピーチをお願いしたいと言ってます。
下記URL先のシットインについて、明日の19:00に地方から1〜2分ずつ、ズームでスピーチをぜひお願いできないか?というのが内容です。
ーーー
正直、なんでわたしやねんと思いました。だって、いわゆる「LGBT法」にかかわる話にはまったくかかわっていません。おそらくもっとふさわしい人がいるはずです。そんな疑問を投げると「法についてより、特に若い人へ希望を捨てないようメッセージを、そしてその声を聞くように政治に向けて、メッセージをお願いしたいです」との返事が返ってきました。
そういうことなら引き受けなきゃなりませんね。
てことで、7時からzoomで待機です。で、シットインがどんな感じかtwitterを見てると、実況中継してることが判明しました。まぁ当たり前ですね。見ていると、かなりの人があつまっているみたいです。こんな時代になったんだなぁ。
で、40分くらいたって、わたしにまわってきました。こんな話をしました。
ーーー
京都で高校教員をしているいつきと申します。あまりカミングアウトしてませんが、いちおうトランス女性です。バレてますね。
今回リレートークに声をかけてもらいましたが、わたしは法律の制定へ向けた活動をしてこなかったので、話す資格はないと思いました。ただ、「特に若い人へ希望を捨てないようメッセージを、そしてその声を聞くように政治に向けて、メッセージをお願いしたい」と言われたので、そんな話をします。
今回の自民党の一部の議員による発言は、わたしはヘイトスピーチであると考えています。最初に思ったのは、自民党内にもきっといるであろうセクシュアルマイノリティの人たちは、あの発言をどんな思いで聞いたんだろうということです。そして、ふと、新井将敬さんのことを思い出しました。
言葉や行為による傷は、一生忘れることはできません。それは、わたしにもあります。わたしはトランスジェンダーの子どもたちの交流会をしています。交流会に参加している子どもたちが、どんな思いであの発言を聞いただろう、報道で知っただろうと思うと、いたたまれない気持ちになります。
しかし、とも思います。なぜなら、たくさんの人が言っているように、あのような発言があることそのものが、セクシュアルマイノリティへの差別があることを証明しているのです。
そして、もうひとつ。かつてわたしたちは無視されるか笑いものにされるか。そんな存在でした。しかし、いまや政治の場で語られるようになりました。そして、その場においてあのような発言が出てきたということは、とりもなおさず、わたしたちの存在が無視できないところまで顕在化したということを示しています。
この社会の多様化の流れは、すでにとめることはできません。なぜなら、わたしたちが、すでに、今、ここにいて、そして声をあげているからです。
この流れをより確かなものにしていくために、ともにがんばりましょう。
ーーー
こんなのでいいのかなぁ。てか、新井将敬って、わからんか(笑)。
それにしても、あらためて、なぜわたしに声がかかったんだろう。わたしは強い言葉は持っていません。いや、持っているけど、それは出したくない。そんな人間のトークは、そんなに元気が出るものじゃない。
そういや、かつて路上でマイクがまわってきてこんなトークしたことがあったな。
どこにわたしのレーゾンデートルがあるんだろう。