めんどくささを楽しむ

今日は朝イチ「身だしなみ点検」です。イマドキそんなことをしてるのかと思われそうですが、やってます。まぁでも、のどかなものです。かつては脱走する生徒や帰宅指導でギャーギャーなってたんですけど、そんなことはまったくありません。ちなみに、帰宅指導でギャーギャー言ってた子、帰りたくなかったんだよな。学校好きだったんだよな。あ、友だちと遊べるからか。でも、そういう「場」であることは大切かもです。
ちなみに副支店長の最初の職場はうちのガッコだったので
「昔とぜんぜんちがうでしょ?」
というと
「もの足りないでしょう」
とか言われたので、それは違うぞと。
ただ、担任時代にメッチャ化粧してる子がいて、ある日の服装頭髪点検の日に
「どないしたんや?メッチャ顔色悪いで。体調悪いんか?」
って聞いたら
「センセのためにスッピンで来たんやんか!」
って言ってくれたことがあって、それはそれでおもしろかったなぁ。
そんなこんなで、ダラダラ授業をしたり、ダラダラ調べ物をしたり、ダラダラした1日でした。

そう言えば、先日「性的マイノリティに関する教職員意識調査」ってのが来たんだけど、その中に「これまで勤務してきた学校で、トランスジェンダー/性同一性障害(性別違和)の教職員に出会ったことがありますか?」という設問がありまして。
どう答えたらいいのかわからず、結局「自分と出会い、他者と出会い、社会と出会う」ってことで「はい」にしました。ついでに「打ちあけられたことは?」ってあったので、「自分へのカミングアウト」ってことで「はい」にしました。まぁそれはいいんだけど、うちの職場の教職員、この設問の「はい」率がメッチャ高いぞと思っていました。が、昨日だったか、ある新採教員に
「メッチャ高いで」
って言ったら、その教員
「へ?」
って言ってたので、これがまたややこしい。あの教員、わたしのことをどう思ってるんだろう。これを聞くとカミングアウトになるしなぁ。ノンカム・フルバレはめんどくさい(笑)。

コロナの影響の中の不平等

今日は1日出張だったはずですが、午前の出張は中止。午後の出張はオンラインになりました。
まぁ、楽といえば楽ですが、寂しいといえば寂しいです。ようやくいろいろ話ができる感じになったんですけどね。また来年度新しいメンバーになったら、はじめは話がはずまないのかな。
てことで、午前は午後のための準備をしますか。いや、別に準備しなくてもzoomは使えるのですが、大きなベッドセットを使うのはイヤで、ワイアレスのイヤホンを使いたい。ところが、職場のネットワークにつながってるPCはbluetoothのアダプタをつけると怒られるんですよね。なので、使えない。しかたないので、放送部のPCを担ぎ出すことにしました。
そうそう、職員会議の資料をプリントアウトしなくちゃ。と思ってプリントアウトしようとしたら、A4縦とA3横が混在したpdfになってました。気になる。しかたないので、A3を抽出→回転→リサイズ→結合ですべてA4縦にそろえてやりました。気持ちいいけど、なんでこんなことをやってるんだろう。まぁええか。
ちょこっとおべんきょしたら、もう昼です。
午後の会議は恒例の会議。
いろんな話を聞いていましたが、ふと気になったことがあったので質問。
「コロナが二年目になりましたが、支援学校の生徒さん、メンタル的なことってなにかありますか?」
すると、いっぱい出てきました。
支援学校って、いろんな交流事業をしておられるんですよね。例えば、近くの中学校や高校との交流とか、地域の人との交流とか。さらに職場実習なんかもあります。校内でもひとクラスが少人数なので他のクラスとか他の学年・校種との交流もあります。そういうのが軒並みアウトになってしまった。すると、学校の中に、あるいはクラスの中に閉じこもることになる。さらに給食は黙食とか言って、クラスの中でもひとりになる。もちろん黙ってられない子もいるけど、それを黙らせなくちゃならないから、黙らせる。そりゃ、フラストレーションたまります。メンタルにきますよね。
これ、支援学校の子どもたちが悪いわけじゃないです。そういう対応しかできない医療体制や、そういう体制しかできない社会的な問題です。
なので、感想をひとこと。
「社会的にヴァルネラブルな立場に置かれた子に、コロナはより強く影響するということが、あらためてわかりました」
こんなの、支援学校の教員がなにかできることじゃないです。メッチャ工夫してなんとかしようとしてるのに、どうしようもないほどの壁が立ちふさがっていて、その前でもがいている子どもたちを、なすすべもなく見続けるしかできない。ほんとうに忸怩たる思いなんだろうな。
頭が下がります。
で、会議は終わり。終了ボタンを押すと、いきなりうちの職場の現実です。慣れてきたとはいえ、なんか変な感じです。
まだ定時まで少しあるので、ゲンコを少し進めましょう。とにかく結論部まできた。あと少し。

目的は変わる

今日も朝からゲンコ書き。違う、今日こそ朝からゲンコ書きですね。なかなか朝からとりくめない。
昨日のおべんきょの部分はいったんペンディング。今日は本筋のところをやりましょう。
もともとやろうと思ってたことは、「新しい概念の導入」のつもりでした。でも、そういうことをやってる人はすでにいるわけで。そうすると、「なぜその新しい概念を使わなず、他の新しい概念を使うの?」ってなる。もちろん、そこに正当な理由があればいいんだけど、単に「新しい概念を持ち込みました!」ってなったんではイマイチです。どうするか?
まぁそこでやらなきゃならんなと気づいたのは、歴史を踏まえることでした。具体的には「反差別の教育」の歴史です。
これ、別に「日本には日本のやり方がある!」って主張したいわけじゃないです。逆です。これまでの反差別の教育も、さまざまな国外の反差別の教育の理論なり実践なりを導入してきた、あるいは導入しようとしてきました。それが根づいたり根づかなかったりはするんですけどね。そのあたりを批判的に検証するところまでは、とてもじゃないけどできないです。でも、おそらく読む人はあまりよくご存知ない方々だと思うので、紹介くらいはできるかなと。
何がやりたいかというと、そして何を大切かと思っているかというと、ある新たなテーマを扱うときに、それのための「新しい概念」を使ってスクラッチからはじめるのか、それともこれまでの概念を継承してリメイクしながらやるのかってことです。これまでは前者を選ぶ人が多かったように思います。が、わたしは後者を選びたい。もちろん、読んだ人がどちらを選択するかは、その人の自由です。が、少なくとも選択肢がないと選択できない。だから、その選択肢を提示する。それでいいんじゃないかと思うのです。
というふう考えながらゲンコを書き進めていたのですが、最初の一文を振り返ると「本稿の目的は○○である」と書いてある。うーん…。違うな。この一文を書いた時から、今はずいぶんトーンダウンしたな(笑)。でも、それでいいです。まずは尖る。でも、書いていくうちに少しずつ落ち着いてくる。できることはたかが知れてる。でも、そこで出てきたものがちょうどいい。
「本稿の目的」は最後に書く。

なんかあっさり感が…・日教組教研(2日目)

1日明けて、またまた日教組教研です。今日の討議の柱は「性の教育」です。福岡のK代さん、熱いです。東京のM永さん、クールだけど、その向こうに炎が見えます。てか、M永さんのお父さん、あの人なのか?
てことで、燃料補給をして、討議へ。
そもそも「両性の自立と平等をめざす教育」分科会は、もともとは「女子教育問題」の分科会でした。そこに、あらたにセクシュアルマイノリティのことが加わったのは2000年になるかと思います。わたしが両性の分科会に参加したのは2003年から。その年はセクシュアルマイノリティをあつかったレポートは2本でした。そんな感じだったのが2014年頃から突然変化をします。そのあたりは「おべんきょ成果」の中にあるこのpdfを見れば書いてあります。で、今年はというと、21本中「性の多様性」そのものを扱ったものが6本、レポートの中で触れているものが5本でした。てことは1/3から1/2が性の多様性に関連したレポートになります。
これは、あまりにも多い。
わたしがはじめて参加した頃は「女子教育問題」という母屋のひさしを借りてやっているつもりでした。が、いまや母屋を乗っ取りかねない。これはまずいです。なので「女子教育問題分科会にもどしたらいいと思っている」と暴言を吐いてしまいました。
もうひとつ、昨日から気になっていたのが「LGBTに該当する生徒がうちの学校にもいる」という発言がけっこうあったということです。
なぜわかるのか、よくわからない。LGBの子はパッと見ただけではわからないと思うし、わかるとしたら、よほど観察をしないとダメだと思うのです。ちなみに、トランスの子は、本来はメッチャ少ないです。なので、「うちの学校に数人いる」なんていうはずがない。
ここにはふたつの原因があるんじゃないかと。ひとつは、学校は「逸脱」のハードルが低い。これは、「逸脱してもかまわない」という安心感があるということではなくて、「正常」があまりにも強固に存在しているから、ほんの少しそこからそれただけで「逸脱してしまう」ということです。そしてもうひとつが、そういう強固な「正常」を正常とする教員の価値観が、ほんの少しの「それ」を「逸脱」と認識してしまうということです。そして、その「逸脱」をカテゴライズするためのかっこうの言葉を知ってしまった。それがいまや「性同一性障害」でもなく「トランスジェンダー」でもなく「LGBT」であるということかな。
つまり、LGBTをつくりだす学校・教員であるということです。
が、それを認識しないままに「LGBTに該当する生徒がうちの学校にもいる」と発言するということは、そういう学校・教員であることを認識していないということになる。これは、メッチャやばいです。だって、その子の本質的なところに届かないところでカテゴライズし、納得し、へたすれば「理解」し「受け入れ」「認め」「対応」するわけですからね。
なので、そんな話をしました。それからもうひとつ、忘れていたので、最後に発言。
「教室の中にいるということは、職員室の中にもいるということを忘れてはいけない」
ということです。
そんな感じで分科会終了。
今日はもともとやる予定がなかったけど、昨日やってよかったから、zoom交流会を開催しました。ここでM永さんのお父さんが「あの人」であることが判明。すごい人ですよ。
まぁそんなこんなで、いつの日か、リアルで会ってしゃべって呑む日をつくることを約束して、今年の教研も終了です。
zoomから退出したらすぐ終わるという意味ではあっさりしていたけど、それでもやっぱり長くて濃いぃ2日間でした。

1年あけて、今年も来た・日教組教研(1日目)

今日明日と日教組教研です。ちなみに、去年は参加しませんでした。あたりまえです。参加してたらおべんきょ成果が出せませんでした。とはいえ、今年もzoomです。しかたないです。まぁおかげさまで、いろんなことが楽ではあります。
てことで、朝イチ母親のところに頼まれものを持って行って、帰ってきたらボチボチ準備をはじめましょう。zoomが困るのは背景なんですよね。もちろんバーチャル背景を使ってもいいんだけど、なんかしっくりきません。なので、リアル背景をつくりました。

てことで、10時30分ちょうどに開始。ギャラリービューなので、久しぶりな顔が並んでいます。
本日の柱は午前が「労働・家族」で午後が「意識・慣習の見直し」です。
「労働・家族」は苦手なので、パス。てか、S渡さんの実践は、本当にいつもすごいな。わたしはひとことだけ「教員が勤務時間を守るロールモデルにならないとダブルスタンダードになる。なので、勤務時間外ストライキをしないといけないと思う」とだけ言っておきました。で、昼ごはんで燃料補給(笑)。

午後の「意識・慣習の見直し」からが本番です。
うーん、なんだかモヤモヤする。もちろん、自分は実践してないから偉そうなことは言えませんが、モヤモヤする。
まずは、「意識・慣習の見直し」なのに、なぜに「多様な性」を扱ったレポートが多いのか。しかも、「認める」「受け入れる」です。でも、そこでそれをまともにぶつけたらアカンなと思ったら常連メンバーのS渡さんが「上から目線」とバッサリ(笑)。
ちなみに、分科会中ずっとラインでメッセージが飛び交いまくってました(笑)。
しかし「体の性」はなんとかならんかなぁ。なので、わたしも意地悪な質問。
「すんません。生徒さんの「体の性」はチェックされたんですか?」
レポーターの方、キョトンとした顔で
「してません」
と(笑)。あたりまえです。
討論では
「「男らしさ・女らしさ・自分らしさ」でとランスを扱わないでほしい」
と暴言をはきました。いや、そんなこと言うから「性別によらず好きなものを選択していい」→「男の子がかわいい服を着ていい」→「男子生徒のスカート」ってなって、トランス女性が「本来は男」ってされてしまうんですよ。ちなみに、制服のスラックス問題も多目的トイレ問題も、トランスジェンダーのすべての人にとっての解決策じゃないです。少なくともうちの交流会に来てる子どもたちの多くは「オルタナティブな性」ではないです。もちろん「X・Q・ノンバイナリー」はここではおいておきます。「オルタナティブな性」ではないトランスジェンダーにとって、極論すれば「ジェンダー・バイナリーな社会」であっても、実はそんなに困らない。というより「オルタナティブな性」で扱われると苦痛ですらある。
で、そういう話と切り離したうえで多様性を論じる必要がある。
そんなあたりから、多様性の話へと展開。今回は共同研究者も司会も発言しまくりです。おもしろい。
多様性を伝える時に、授業では多様って言ってるけど、授業以外では多様でないってのは学校あるあるです。そんな時になにができるか。少なくとも、ひとりの教員としてできることは、自分の発言が誰かを排除してないかってことに、常に意識的になることなんじゃないかと。そしてそれは、窮屈になることではなく、豊かなこと・楽しいことなんだと。そんな発言をしました。
結局、ムチャクチャしゃべりすぎて1日目終了。やってもた感満載です。
分科会終了後、ふだんは飲みに行くけど、今回はzoomで交流会。でも、わたしは日本酒飲みながらの参加。てか、これは飲み会か。ここで傍聴者の人の感想を聞いたり近況報告をしたり。このあたりzoomのいいところであり、でもベストではない感があるところですね。

これからの人権教育のあり方を考える

今日は、某人権教育研究会の総会です。とは言え、このご時世なのでネット開催です。わたしの役まわりはもちろんホスト。ホステスではないんだな。
てことで、昼前に他校の司会の教員がやってきて、ボチボチzoomを立ちあげましょうか。いちおう職員室のPCがホストマシンで、これに毎度おなじみのGV-HUVCをかませてビデオカメラを接続→司会の教員を写すという段取りにしました。
ところが、テストした時はOKだったビデオカメラを認識しません。GV-HUVCは認識しているけどなぁ。PCを再起動したりしたけどダメ。断念してipadを渡して「これでやってね」と。
てことで、総会開始。午前の部はつつがなく終了。
午後の部は記念講演です。講師は濱元伸彦さん。そうか、角岡さんと名前が同じなんだ。どうでもいいけど。演題は「これからの人権教育のあり方を考える――探究的・問題解決的な学習とエージェンシー」です。楽しみです。
まずは自己紹介から。これが長い(笑)。でも、この長さが大切です。おそらく、放っておいたら2時間でも自己紹介を話すことができるんでしょうね。というか、本来は誰もがそうなんです。でも、「そんなに話すことはできない」と、よく言われる。それはおそらく「自己開示」とつながるんじゃないかなぁ。
お次はイントロダクション。ベラスケスの話です。これがまたおもしろい。そして長い。でも退屈しません。さらに人権教育への示唆として「自分の中にあるマジョリティ性とマイノリティ性の葛藤を見つめる」と、真ん真ん中へと突っ込んで行かれます。すごいな。一見つながらなそうなものをつなげていくって、おそらくいろんなものごとを「人権」というまなざしで捉え続ける日常を送っていないと、なかなか難しいんじゃないかと思います。てか、たぶん24時間365日、人権のことを考えておられるんでしょうね。わたしもだけど。
そしていよいよ本論です。
まずは、豊中市人権意識調査報告書の分析結果です。日本国憲法に関する知識と人権の観点をクロスさせると相関があると。そこから「知的理解の大切さ」がもちろん出てくるんですけど、もうひとつ「学びに向かう力」が重要であるという指摘がなされます。このあたり、高校の弱いところかなぁ。それは教員の資質というか指向の問題もあるけど、構造的な問題があるように思いますね。なんというか、学年が進行するにつれて、学びに向かう力を削いでいくみたいなのがあるのかもしれないです。もうひとつ、教員間の意思一致みたいなのも、高校は弱い。それが居心地のよさをつくってもいるんだけど、いざという時はジャマになる。そういう意味では、同和教育というのは、少なくとも同推校なんかだと「意思一致」の要というか、名目というか、そんなのになっていたのかもしれませんね。
ここから教育改革の話になりますが、はっきり言って文科省の言ってることは、そこそこいいことなんですよね。さらに「人権教育の指導方法等の在り方について 第3次とりまとめ」が出てきますが、これもまたいいこと言ってるんですよね。ただ、それを現場で実践しようとすると、これが難しい。
というところで、高知県の農業高校とか松原高校が出てくるんですけど、「それ出すか」状態です(笑)。
農業高校って、やはりすんごい特色があるんですよね。それは「銀のさじ」を見てもわかります。あるいは、松高は松高です(笑)。ちなみに、大阪には他にも長吉とか桃谷とか西成とか柴島とか、かなり特色のある学校があります。特色のある学校って、自分の学校に来ている生徒にあわせてミッションを設定する。大阪にはそういう文化というか実態というか、そういうのがあるんですよね。ところが京都って、小学区制だったころを引きずっていて、実態にあわせたミッションにならない。結果、「特色」とか言いながら、みんな一緒になってしまう。あるいは、学力が高い学校に特色が出て、そうではない学校はどことも同じみたいになる。何が言いたいかというと、「特色がなくなった学校」にとって文科省が言ってることは理想論にしか聞こえなくなってしまう。もちろん理想を追い求めたらいいんですけど、そのあたりがきついです。
それにしても「エージェンシー」って言葉がキーワードなんですが、頭の中には「行為体」が出てきて、わけがわからなくなったのはここだけの話です。ちなみに『未来へすすむ ――エージェンシー」というマンガ』を紹介されました。なるほど…。
ここからは「地域」との協働の話へと移っていきます。なぜなら「地域」にはさまざまな課題があり、それを解決するための探究的な学びが人権教育へとつながっていくからです。事例として大熊中学校の「ふるさと創造学」や戸波中学校のとりくみをあげられました。中学校かぁ。さっきの『未来へすすむ』も主人公は中学生だなぁ(笑)。
うちの学校も、地域とつながりがないわけじゃないです。が、それがある教科のある教員のとりくみで終わってしまう。なぜなら、教科の独立性が高いとともに、教員の独立性も高いからです。だから、ジャマされずにできるけど広がらない。このあたりをどうするかって、ほんとうに課題ですね。
でも、「探究と人権教育」のつながりが、なんとなくわかった講演でした。
が、消化するのは時間がかかりそうですね。人のこと言えんか(笑)。

いろいろ思う

朝、なぜか4時半に目が覚めました。そこからぐるくる考えがまわりはじめて寝られません。うーん、自分の未来がわからんなぁ。1年後なにをしてるかもわからないし、ましてや5年後とか10年後とか生きてられるんだろうか。
まぁ、これ、半分は自業自得ですが、半分はそういう社会だからです。
それでもいつもどおり出勤。朝イチ代講です。しかし、隣同士のクラスなのにぜんぜん違うなぁ。おもしろいなぁ。
代講から帰ってきたらF川さんからラインが入ってました。そうか、そのとおりやなと思い、一昨日亡くなられたK畑さんに弔電を打つことにしました。ちなみに、今は電報じゃなくてwebで打てるんですね。
文面をさんざん考えて、フォントサイズを15pまで落として、ようやく完成しました。もしかしたら、送っても読めないかも。
K畑さんとはじめて会ったのは、1993年の全同教大阪大会でした。同じ分科会でレポーターとしての参加でした。わたしは社研の活動を通して本名を名のったSのことをレポートしました。K畑さんはキジャという在日の生徒のことをレポートされました。
わたしの持ち味は軽薄さです。重みがない。一方、K畑さんのレポートは重い。対象的でした。で、はじめてのレポートだったので、K畑さんのレポートに飲まれて、わたしも重いレポートをしてしまいました。すると、当然のことながら鋭い質問がやってくる。それに答えきれませんでした。トドメを刺したのはキジャのアボジでした。
「お前は一生Sとつきあえるのか?」
今のわたしなら
「自分で立てばいい」
と言いますが、当時のわたしは
「はい」
と答えてしまいました。まぁ負けですね。そこからこてんぱんにやられました。
その経験がバネになって、今のわたしがあります。とは言え、アボジ連れてくるのは反則やろうとは思いますがね。それも今だから言えることです。
その後、なぜかK畑さんとは親しくつきあうことになりました。なんか、わたしがK畑さんを覚えてるのは当たり前だけど、向こうもわたしのことを覚えてくださってて、わたしは
「都同教クライ」
とかディスってるのに、なぜか声をかけてくださる関係になりました。年に1回か2回、全同教や日教組教研で会うだけだけど、会えばいろいろ話をしてました。
そういやこの時はふたりで代わる代わる発言して、えらいことになりましたねぇ。この時は飲み屋でばったり会ってビビったなぁ。
いろんなことを思い出します。
実践に対しては厳しい口調で語られるけど、目はいつもものすごく優しい眼差しでした。

おもろい人が、またひとりいなくなったなぁ。
おもろいひとに、なろう
まずは授業からか。さてと、午後は自分の授業だ。ダラダラやるか。

当事者の主体性をうばわない活動とは?

今日は朝からパタパタです。やはり1日出張をした翌朝はせわしないです。そんな中、支店長に頼みごとと報告された事項。頼みごとはすんなり通って、報告事項については激怒です。本店に対してどうすべきか考えるなど。まぁ、仕掛けて報復されたらそれまでのことです。その引き換えに本店が失うものもある。
で、授業を3発。
片方のクラスは数学が苦手な進学系なので、授業の時は問題が解けるんですよね。でも、テストの時に点がとれない。たぶん、根本的に授業時の問題の解き方が違うんだと思います。概念の把握をせずに字面で解いている。できれば1年かけて概念の把握ってのを身につけてほしいな。
もうひとつのクラスは、まぁフツーのクラスです。もっとも、うちのフツーですけどね(笑)。ただ、今日の内容はハードです。ハードだから、さっくり終わりましょう。ほんとはプリントやりたかったけど、流れが悪かったんですよね。まぁ明日プリントやって、来週には復習に入れるでしょう。
午後は6時間目の放送なんかのセット。目下の課題はスクリーンをしまう場所です。これまでは人海戦術でなんとかしてきたけど、人海戦術は人が多いからできることです。少人数ではきつい。まぁでも、久しぶりに生徒と一緒に汗をかくのも悪くないです。新採の頃の気分を思い出します。
放課後、1時間労働者の権利を行使して帰宅。今日は「ダイバーシティカフェ30/当事者の主体性をうばわない活動とは?」なるイベントがあります。登壇者は、なほさんりりぃちゃんわたし(笑)です。
まずはzoomで打ち合わせ。と思ったら、うまくつぬがらない。つながっても音声デバイスを認識しません。うーん。PCを再起動だな。つながりました。が、しばらくすると、なほさんが退出してしまいました。なんでもネットが落ちたんだとか。前途多難です。
それでも、6時になったので、イベント開始。まずは自己紹介。わたしは「学校教育労働者です」からスタート。が、りりぃちゃんの「一応トランスジェンダー当事者です」を聞いて、それを言うのを忘れてたなと(笑)。やはり忘れるんですよ。
その後、トランスジェンダー生徒交流会の話へと至る話。
わたしのグループワークの源流はどこにあるんだろうと思ったけど、やはりキャンプリーダーですね。それも「やまびこキャンプ」でやった2回のカウンセラー経験です。1回はわたし中心のグループ。もう1回はバラバラのキャンプ。結論的にはどちらも違った。
そして、それをもとにしたクラスづくり。1対1✕49を目指したけど、それも違った。結局、わたしはコーディネーターであり、ハブである。それが結論でした。そのためにクラスを観察する。あたかも
「教室は劇場!教壇は舞台!主役はわたし!」
ってやってるように見せながら、実際は違うんですよね。そうやって、数学を媒体としたクラスづくりを、今もやっている。
交流会もやっぱりそうですね。ニーズを持ってるのは子どもたちだから、そのニーズを出せる場であること。その一点のために、壮大なムダをやる。そんなのが好きなんですね。
でも、どうやらニーズの捉え方が違うらしいなと。グループとしてのニーズみたいな話が出てきて、「あ、交流会にはそれはないわ」となりました。なんなんだろ…。
あとはおべんきょの話か。搾取をめぐって、なにが搾取かと。「調査対象者が搾取と思えば搾取」なんですけど、では、どういう時に搾取と感じるのか。りりぃちゃんがうまく言いました。「データをとっただけ」。それですね。
あと、おもしろかったのは「当事者だからわかることがある」という言葉をめぐる話かな。わたしは基本的には「んなことはない」って思ってます。が、イベントが終わって、「いや、あるか」と思いました。
たぶん、リサーチクェスチョンです。自分の感じる居心地の悪さから思いつくリサーチクェスチョン。でも、そこからは当事者であることはジャマになる。なぜなら、ついついバイアスをかけてしまうから。そのバイアスは自分の主張を立証するためにデータを使うというところに結びつきかねないから。だから、当事者であるからこそ気づいたリサーチクェスチョンを立てたら、すみやかに当事者性を捨て去る。そんなのが大切かなぁ。みたいなことを、イベントが終わってから話してたのですが、それを聞いたなほさんが
「なんでさっき、最後にその話をしなかったん」
って言われて、ごめんなさい。

その後、ビールを飲みながらいろいろ考えてたけど、今後のことについて少しずつ落ち着いた気持ちになってきました。まぁ、新たなチャレンジもするし、そんなのが影響してるのかも。

今年も→久々にお酒を楽しむ

今日は1月17日です。やはり語らなければならないでしょう。その思いはかつて防災教育についての講演を聞いた時に、より強く感じました。なので、毎年毎年繰り返し語ります。
もちろん、内容は15年前と同じ話です。それでいいんです。でも去年から少し変わったのはサルベージしたところから見つけたこのpdfを配るようになったことかな。
ひとつのクラスは真剣に読んでくれました。もうひとつのクラスでは「こんな長い学級通信出してたん!」ってびっくりしてました。この号だけなんだけどね(笑)。
午後はY新聞の記者さんが来られて取材です。内容は野洲市の制服のことです。なんでも、当初「男子がスカートを選択できる」ことにびっくりされたらしいです。
てことで、わたしが伝えたのは
1.選択肢を広げただけのことなのに、なぜそんなに反応するのか
2.それは反対する人の中にある女装への固定観念があるからで、それを「選択したい子」にぶつけるのはおかしい
3.女装への固定観念は家父長制の問題
ここまでは一般論で、その上でトランスのこととして
4.誰もが「この子、女/男です」と他人から勝手に性別を決められる。多くの人は、その見立てと一致してるけど、たまに「ちゃうで」という人がいて、それがトランスジェンダー。だから、「ちゃうで」の方で扱うべき。例えばトランス女性がスカートを履くのは「男子がスカート」ではなく「女子がスカート」と捉えるべき
5.ちなみに、トランスジェンダーは見てわからない
てことで、サンプルとして、報道特集の見逃し配信を見てもらいました。記者さん、口をあんぐり開けてました。なので、さらに追い打ちをかけるために
6.スカートはいて冷たい目で見られるかもしれないというリスクを一番強く感じてるのは当事者
という話もしておきました。つい鶴田論文を口走りそうになったけど、そこはガマン(笑)。
そんなこんなで取材終了。
さてと、定時が来たから帰りましょう。
と、パートナーから「やさぐれて京都駅にいる」との連絡が。なので
い「合流しようか?」
パ「お酒おごってくれるなら」
い「ええよ(笑)」
ということで合流。向かったのはHUB。久しぶりです。カードを見たら2年ぶりでした。簡単なつまみとお酒でしばし話。なんか、久しぶりにお酒を楽しいだって感じです。楽しすぎて、「天国への階段」を頼んでしまったり。

そんな感じのまったりとした夜を過ごしました。

減塩食

土曜日の朝は猫の額。

今日も寒いです。ストーブ、ほとんど役に立ちません。朝ごはんを食べたら、猫の額の上にある屋根に積もった雪下ろしです。といっても、柱を寝かせて屋根の傾斜を急にするだけのことです。ドカンと落ちて気持ちいい。
今日の午前はipadにeSIMを導入しなきゃなりません。でもまぁ、あちこちのサイトを見ながらやればすぐにできそうです。PCを見ながらセットして、最後、ipadに表示されたQRコードをipadに読ませるの、どうするか悩んだけど、スマホで撮影して、それを読ませばいいことに気づいて、一件落着。あとはipadのトリセツをつくって母親のところに持っていきました。
が、帰りにひとつやり忘れていたことを思いだしたので、昼ごはんの後に再び母親のところに行ったのですが…。いらないらしい。てか、使えないらしい。えーと、ipadが使えなかったら、世界中の情報機器が使えないってことになるはずですね。まぁまた時間ができたら使い方を教えに行きますか。
午後はzoomのおべんきょ会。講師は石川准さん。前半は遅れたので聞けなかったけど、質疑応答から参加です。
おもしろいのはタイトルです。「アイデンティティを立ちあげない」。講演の中ではあまり触れられなかったので、当然質疑応答で出てきました。
これ、いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」を否定しているように思われるけど、おそらく違いますね。石川さんは「自分が見えないことを、ふだんは忘れている」と言われます。「別に、ふだんは困っていない」とも言われます。そして、たまに思い出す。「将棋で負けると悔しい。盤面が見えないので、30秒で打てといわれると、合理的配慮で1分にしてくれと言いたくなる」。
ある属性においてマイノリティとされる人は、常にその属性のことを考え続け、その属性で自分をアイデンティファイしていると、マジョリティは思いがちです。それは、うちの学校に来てくれた講師の人に対する生徒の感想を見ればわかります。でも、実際にはそうじゃない。その属性は、時に思い出すもの。で、それを思い出すのはどういう時かというと、その属性が「問題とされた」時なんですよね。
例えば、トランスの場合で言うなら、選挙や病院、あるいはパスポートの取得時みたいな時ってことになりますか。でも、ふだんはそんなことを意識しているわけじゃない。ただ、なぜ意識しなくていいかというのは、ここの状況によって異なります。同じ属性を持っていると周囲から見なされていても、ある人は意識しながら生きざるを得ないし、ある人は意識する必要がなかったりする。それは、その人とまわりの社会の関係性の中で差が生じる。ただ、その違いの原因を「その人」に求めるのは違う。きっと、「その人とまわりの社会の関係性」に原因がある。
となると、アイデンティティを意識せざるを得ないのは、「社会との関係において」ということになる。だからこそ、「アイデンティティを立ちあげさせる社会」に対して、「立ちあげない」「引き受けない」という対抗軸を設定する。
石川さんはこんなことは言っておられませんでしたが、なんとなくそういうふうに考えました。というか、聞いた瞬間は「めっちゃわかるわー」と思いました。
おべんきょ会のあとは、ワークマンに行ってみたり。ダウンがほしいんですよね。でも、限定商品なので、売り切れ。3軒はしごしてやっと手に入れたけど、手に入れたお店は昨日職場からの帰りに寄って買わなかったお店なので、なにをやっていたんだと。
で、家に帰って晩ごはん。今日はひとりで食べるので、減塩食です。スキレットにダシを少し張って、そぎ切りにした鶏肉と、「洗わなくていい野菜」を放り込んで、しゃぶしゃぶにします。それを溶き卵につけて食べる。これがおいしい。もしかしたら、ダシのもとの中に塩が入ってるかもしれないけど、それだけでじゅうぶんです。
おなかいっぱいになったので、もう少し呑んで寝ましょうか。