人に伝えるということ

今日は、人権教育研究会の総会です。午後からは記念講演。今日のテーマは在日外国人、なかでも新渡日の子どもたちの話です。
講師の人の体験を語られるのですが、それはそれはまぁ、すざまじい経験をされています。知らない言語は、「聞いても意味がとれず、見ても記号にしか見えない」ということを、きわめてわかりやすく伝えて下さいました。
もっとも、これ、数学の授業をしていると、日常茶飯事に起こることなんですけどね。わたしたちにとって「lim h→0」みたいなことを書いたとしても、はじめて習った子どもたちには、まったくの異文化の記号だろうし、その時に「ちょっと待って、それって何が書いてあるの?」と聞いてくれる関係をつくっていなかったら、生徒たちが「わかっていない」事にすら無頓着になってしまう可能性があるわけです。そういう意味でも、すごく意味のある話でした。
しかし、ライフヒストリーがすごい。「いじめにあって」「がまんをして」「がまんできなくなって」「荒れて」「暴走族に入って」「そこではみんな立場こそ違えど、同じような経験をしていて」「心の安住すらすれども」「逆もどりできなくなって」「鑑別所に入って」「出てきたらヤクザ予備軍」。
パターンといえばパターンなんですけど、目の前の人が「そうであった」というのはまたぜんぜん違う迫力がありますね。で、必死に足抜けをしようとするのですが、なかなか許してもらえない。そのために、昼間はまじめなサラリーマン、夜はギンギンのヤクザという二重生活を余儀なくされてしまうという。そのころの写真を見せてもらいましたけど、聞いている人たち、爆笑でした。どんな感じかというと、わたしの10年前の写真*1と今の写真を並べて「昼と夜の顔です」というのの2倍以上のインパクトがあります(笑)。
そこからは、父親の死→更正→子どもたちのために働きはじめるという話になっていきます。このあたりは、う〜ん、ゴメンやけど、たんなるサクセスストーリーになってしまうんだな、これが…。「父親の死」が本人にすごくインパクトを与えたのはよくわかるし、「荒れ」からの脱出の糸口みたいなものがあるのはあるんだけど…。「結局特殊な事情だよな」みたいな感じになってしまう。
と、ここまで書いてふと我が身を振り返るわけです。自分とどの程度違うのだろう。わたしの話って、下手をすると*2サクセスストーリーととらえかねられない内容になりがちかな*3?でも、それが「いつきだから」ですんでしまったら、結局何も残らない。個人の体験に、いかにして普遍性を持たせるかということは、とても難しいけど、それをしないと「語る」意味がない。そんなことを感じさせられました。

*1:はじめての人のために

*2:下手をしなくても。つーか、話が下手やし(笑)

*3:ぜんぜんサクセスでもなんでもなくて、たんなる「クズ」のストーリーなのですが、実際は。

いずみちゃんとの話を思い出して

朝っぱらから4トロ2次会読んでました。「あぁ、そうか…」と思った言葉を転載。

長いあいだ我々を巻き込んで機能しているこの「社会」は過去のいろんな問題を抱えたまま、我々の意識までも支配しているところがある。男女差別やジェンダーの問題がそれなわけで、他にも沢山の差別や偏見の意識が常に我々に向かって「デンパ」となって押し寄せて来ている。この社会に住み続けるかぎり、こういう差別意識は我々の「無意識」に働きかけている。寝ても覚めても食事中でもテレビを観ててもいつも我々を「洗脳」している。

「左翼の原点」に戻りましょう。「左翼」とは他人の事を「思いやる」、平等を目指す運動です。だから差別・偏見・抑圧に満ちているこの社会を変革しようとするわけです。我々は「被抑圧者」であると同時に様々な面では「抑圧者」側にもいる。常にそれを誘いかける「洗脳デンパ」の充満する社会に埋没し洗脳されたまま「考えないでいる」方が「ラク」だと思います。しかしそれは「自由」から遠ざかる事でもある、と思う。

大切なことは、常に「自分は自分を変える力をもっている」と考え、それを実践することなんじゃないかなぁ。でも、それを実践するためには、根元的に自分への「愛」を持ちながら、常に批判的に自分をとらえ続けることが必要なんじゃないだろうか。

とりあえず原典にあたった

仕事の帰りにコンビニによって、件の「週間モーニング」を買いました。で、コンビニチェックをしたら、20代ブルー(笑)。そうかい、そうかい。
で、読んでみました。

で、感想。「折れない心」はいいなぁ…。あ、違うか^^;;。

なんというか…。「浅い」というのが第1印象。で、ういん太さんのコメントを読んで、かなり納得しました。この主人公、理解を求めようとしているわりに、理解を求めるための行動をぜんぜんしているように思えない。ひたすら「なんでわかってくれないんだ」という感じ。
いや、もちろん存在を否定されたことに対して、「存在しているんだ!」という主張はありだと思うし、そこに理由が必要であるとは、原則的には思いません。でも、戦略としてそれではアカンだろうと思います。でなければ、現実のトランス当事者が、紆余曲折を積み重ね、頭をぶつけ、さまざまな妥協をしながら生きている現実ってなんなんだろうと思うわけです。
あと、妙な違和感を感じたことについて、Anno Job Logを読んで、これもなるほどと思いました。てか、あのセックスにかかわる質問を読んで思い出したのは、たしか第6回のGID研究会で会場から出た質問*1と似ているなぁと。で、中島さん*2だったかが「そんなこと聞かれたんですか!」と憤っておられたような記憶があるのですが…。もちろん、必要に応じて聞くこともあるんでしょうけど、それはあくまでも「必要に応じて」でしかない。
あと、パートナーの同意にかかわることについても、なんだかなぁ…。わたしの事例で言うならば、ホルモン投与へのパートナーの反対に対して、中島さんが言われたことは「お二人で航海図のようなものをつくることが大切ですね」でした*3。そういうていねいさがぜんぜんないです。どちらかというと、「金八」の最終回に金八が言った「直はこれからホルモンをやり手術を受ける」という言葉に似ているかなぁ。あのとき「それはおまえが言うことじゃない!直が言うことだ!」と憤ったことを思い出しました。すんごく乱暴だし、今後どうするかということを本人を飛び越してパートナーに言うことって、アウティングに近い話だと思います。
総じて感じたことは、「結局ネタなんや」ということ。
もちろん、わたしみたいに「人生はネタ」と思っている人間には「だから?」程度ですむし、無視もできます。でも、そうじゃない人もいる。それが、うちの日記へのういん太さんのコメント*4なんだと思います。興味はそこかぃ!みたいな。

で、難しいなと思ったことは、このあたりのことを「抗議」なり「問題提起」なりで出すことって出版社へのインパクトになるんだろうか、ということでしょうか。

*1:精神科医から体位を聞かれたが、そのような質問は必要なのか」みたいなものだったと思うのですが…

*2:もちろん、県立岡山病院院長

*3:実は、第8回GID研究会のイブニングセミナー2で講師の方のプレゼンテーションの「(ピラミッドではなく)Voyage!」というのを見て、密かに感動していました

*4:自分の下半身が具体的にどういう状態になっているかなんて知られたくはない事なのですよ。

友達からの電話

いま、を騒がせている庄司陽子のG.I.D.ですが、「いつきさんも協力してくれないか?」という電話が、友だちからかかってきました。
で、わたしについていうならば、個人的には、もう、樹村さんのコメントの上の方の「・」なんですよね。たとえば、「MtFかどうかを判断するにはのど仏を見ろ」とか「あやしかったら手術した跡があるかどうかを見てみろ」とか、んなこと書かれても、別に「わはは」なわけです。さらに言うならば、スタンスとしては、「語れる社会をどうつくっていくか」なんですから、「この身を晒してなんぼ」というところなわけです。

ただね、ただ…。
友だちが困っているんですよ。その一点なんです。でも、その一点って大切なんですよ。
まだ原典(笑)にあたっていないので、どう対処していいのかわからないのですが…。
いまのところ読んだのは、
さとしさんのところくらいなんですけど…。ほか、どなたか資料とかお持ちだったりご存じの方、おられますか?

「変わる」ということ

夜、第7回GID研究会を一緒にやった人が、今度転勤で関東に行かれるということで、「送別会」という名目の宴会がありました。
で、その席上でのこと。
某O島さんから「いつきくん、だんだんと言うことが変わってきているよね」という指摘をされました。ふぅむ…。
たしかに、いろいろな人から指摘をされてきたことではあるし、たとえば1年ほどのスパンでものを考えると、自分でもたしかに変わってきていることは実感せざるを得ません。なぜなんだろう…。
自分の中の「軸」となるものは、そうそうずれてきてはいないと思うのです。基本的には「社会を変えていく」というスタンスに変化はない。そのために、いま・ここで何を発言し、行動するのか。それが、基本的な線です。
じゃぁ、何が変わったのか。おそらく、人間関係とそうした人間関係をとりまく情況の変化です。個人的には、いわゆるGIDと言われる場所に深く入り込むことになりました。当然、GIDと言われる人たちとのつきあいが増えてきます。その人たちが、いまなにを求めているのか。そのことと、自分が変えたいと思っている社会の方向との間に、どう折りあいをつけていくのか。それが、「現場」ということなんじゃないかと思うのです。

例えば、「同和対策特別措置法とその後の法律の延長による施策が、部落の人々の甘えを生みだし、腐敗をつくった。だから、そうした施策は間違っていた」という論を、述べる方もおられます。それは一面の正しさを持っているでしょう。わたしも決してすべてを否定はしないです。でも、大切なのは、部落解放という軸をぶらすことなく、そういう「今」をどう変えていくのかということであって、だれかを・なにかを悪者に仕立てあげ、遠くから断罪をすることが大切なんじゃないと思うのです。

「変わること」って、忌避すべきことなんだろうか。もしかしたら、開き直りかもしれないという恐怖を自分に対して持ちながら、それでも、迎合を拒否しつつ変わることを拒否しない自分である必要があるかと思ったりします。そのことが、「変えること」につながっていくんだというかすかな希望を持ちつつ。

「普通」ということ

きのうの晩、あるトランスの友だち(Aさん)から「自分は普通というアイデンティティ(も)持っています」というメールが来ました。これ、
***
Aさん
「『ドラグァ・クィーンと一緒にされたくない。』とか、『同性愛とGIDは違う』等のセリフ聞いてると、GIDというアィデンティは何なのか・・・・ですね。(苦笑)」
わたし
「う〜ん。でも、同性愛者の中にも「わたしたちは、性的指向が違うだけで、それ以外は「普通の」人」みたいな人もいるじゃないですか」
***
というやりとりの中から出てきた話なんですけど…。
このことを考えていて、ハタと気がついたことがあったんですよね。「普通」という言葉には2種類の使い方があるんじゃないか。
1、既存の「普通」に自分をおしこむニュアンス
2、既存の「普通」の意味を自分も含まれるように拡大していくニュアンス
たぶん、Aさんは2の用法で言ったんだろうなぁと。
まぁただそれだけのことなんですけど…。でも、きっと自分は「普通」とは言わないだろうなぁ。

問題…

某所に「ドーナッツ化現象」という記述があって、「ふぅむ…」となり、自分がなぜGID研究会に行くのか考えてみました*1
たぶん、遊びに行っている。もしくは同窓会気分。でも、とりあえず「自分のトランスの参考・実現のために行っている」とはとうてい考えられない。
このあたりで、お得意の在日の話に横滑りさせると…。
たとえば、某在日外国人教育関係の研究集会に、当然在日外国人も来ます。そのなかには、在留資格の問題などで、支援のアピールをしに来られる方もいます。あるいは、ひどい差別を受けてそのことを訴えに来られる方もいます。あるいは、中学生・高校生あたりだと、「仲間との出会い」を求めたり「アイデンティティ探し」に来たりという人もいます。まぁいうならば、「問題を抱えている人」が「自分のために」来ているということができるかもしれません。もちろん、それはそれですごく大切。
でも、「個人としてはきわめて「成功」した在日外国人」もまた、来られるんです。経済的にも安定した生活もし、まわりの人たちも理解をし、本名で生活し、精神的にも安定し…。たぶん、個人として問題は抱えていない。たぶん、わざわざ年1回、時として遠方まで時間とお金をさいて来る必然性はありません。その時間があるならば、他にやりたいことはたくさんあるはずです。でも、来られるんです。
それは、「自分のために」じゃないと思います。おそらく、「自分<たち>のために」なんです。そしてその「たち」に含まれているのは、在日外国人だけじゃなく、日本人も含めて、この社会全体をどうしていくのかということを、ともに闘う仲間たちから学び、一緒に考えるためになんだと思うのです。
まぁ、これはあくまでも某在日外国人教育関係の話ですけどね…。

で、わたしにとってのGID研究会。
う〜ん。なんだかんだ言って、楽しいから行っているらしい…。

*1:「司会をしに」というのはなしね(笑)

ある問いかけ

午後から家庭訪問。
その時のお母ちゃんとの会話。
「先生、いま、悩みあるか?」「う〜ん、あんまりないなぁ」「先生、いまやりたいことあるか?」「う〜ん、なんやろう…。手術かなぁ(笑)」「わたしはな、いまないねん。それが悩みやねん」
「先生、後悔ってあるか?」「う〜ん、昔はいっぱいしていたけど、最近はあんまりないなぁ」「それはあかんで。後悔をうやむやにしてるんとちゃうか?」
「先生、自分は好きか?」「そうやなぁ、2〜3年前までキライやったけど、最近「まぁええか」と思えるようになってきたなぁ」「わたしもそやねん」
波瀾万丈の、とてもしんどい中を生き抜いてきたお母ちゃん*1の言葉は、いつ果てるともなく続きます。でも、けっこうおもしろい…。
家庭訪問を切り上げたのは6時半。4時間半かぁ…。まぁこんなもんかなぁ(笑)。

*1:オモニ

Iメッセージ

「態度」の問題の根幹にかかわることは、今回は「Iメッセージ」についてでした。
「youメッセージ」ではなく「Iメッセージ」というのが、ここ数年人権教育の部分でよく言われています。つまり「あなたの考えは〜だ(だからまちがっている)」というふうに攻撃するのはなく、「わたしは〜と思う」というふうに、それを単に「違い」として交換しあうところから、「非攻撃的自己主張」という態度をとっていこうということのようです。
まぁ、これはこれでかなり眉唾なところがあるとは思うのです。他者を尊重するための「Iメッセージ」ならばそれはそれでいいのですが、自己防衛としてのこのやりかたは、結局逃げにしかつながらないと思うのですよ。
というのは、おいておきます。
で、今回パートナーとのやりとりで話になったのは、こうした「言い方」的なことより、もう少し深い「Iメッセージ」かな。「なにか「こと」が起こったときに、その原因がどこにあるかを考える態度」という感じでしょうか。その原因が「他者」にあるのか「自己」にあるのか。もちろん、たいていの場合、両者にあります。でも、そこで簡単に「両者」と言い切らない態度が、大切ではないかと思うのです。「両者」とまずはじめにたててしまうと、「他者」への原因追及がどうしても含まれてしまいます。それでは、多分「イーブンな論議」にならないんじゃないか。まずは、「自分のなかを(深く)くぐらせ」て、「自己の責任を追及する」ところからスタートをすることが必要なんじゃないかということなんです。
「Iメッセージ」というのは、その結果として出てくるメッセージのあり方なんじゃないかなぁ。

人間として・補足

トイレに入る瞬間ですね、なにかが生まれてくるのは。今朝、トイレに入ろうと思ったときに、ふと思い出しました。
そういえば、昔「わたしのことを「人間として」見てほしい」と愚痴っていたことがありました。あのころは、「◯◯をやっているいつき」としてしか評価がされていなかったという思いが強烈にありました。「担任をやっているいつき」「在日の子らにかかわっているいつき」「部落の子らとバタバタやっているいつき」etc,etc。そうじゃなくて、「「単なるいつき」じゃあかんのかい」、「「単なるいつき」には価値がないのかい」、「◯◯をやめたら価値がなくなるのかい」と思っていたんですよね。
「人間として」ということにこだわった、もう一つの深層心理は、そのへんにあるのかもしれない…。