一晩あけて…

なんか、「はぁ…」という感じです。むずかしいんだなぁ、テレビって。
いままでは、テレビに出る時って、たいてい「取材を受けて」という立場でした。だから、それなりの時間をかけてもらっていましたし、日常生活がそこで描かれていた(はず)です。
ところが、今回はどちらかというとコメントする立場です。すると、2時間かけた収録から10分間*1を切り取らなくちゃなりません。しかも、コメントする立場で参加したのは4人。そこに広美さんご本人と司会者団3人、計8人がいる。となると、一人当たり1分。で、やっぱり主役は広美さんだから、となると、わたしに割り振られる時間は30秒〜40秒程度と考えればちょうどいいわけです。となると、2時間の中でいろいろ話をした中の、ほんの一部、言ってみれば「結論だけ」が放映されるわけです。
実は、前の放送に対して、広美さんはNHKに手紙を出ておられたのですが、その中に「生活感がない」ということを書かれていたんです。ショックといえばショックです。でも、そうなってしまうんでしょうね。
あの収録は水曜日の夜にありました。これ、みなさんのスケジュール調整をすると、そこしかなかったわけです。でも、たとえばわたしはそのために授業に穴をあけるわけにはいきません。なので、そうとうに無理をしています。これは、もちろんわたしだけじゃなくて、あそこに出演していた人たちはみなさんそうです。仕事や生活をやりくりして、なんとかあのスタジオに集まっている。また、そういうふうに日常や仕事をやりくりできるようになるために、やっぱそれなりに、日々淡々と当たり前に生活をし、当たり前に仕事をしています。でも、そういう仕事や日常は、やっぱりあのスタジオでは出てきません。結果、どうしても「言葉だけのやりとり」になってしまう。
どうやれば伝わるんだろうか。もっともっと、ひとつひとつの言葉をていねいに自分の中に落とし、そこからわきあがってくる言葉を選びながら話をしなくちゃならないんだろうなぁ。むずかしいです…。

*1:今回は、28分の放送時間のうち、最初の17分はオープニング+田中広美さんのビデオで、エンディングで1分と考えると、残りは10分です

あきらめないこと

ところで、漫談の前に主催者の人と話をしていました。基本的には今のご時世、話せば話すほど暗くなってきます。でも、話ながら気づきました。
「彼ら」は、何回も「改正」しようとしてきたんですよね。でも、断念してきた。これを、戦後65年以上ずっと繰り返してきたわけです。そして、「彼ら」はあきらめなかった。だから、「今」というタイミングでそれを実現しようとしているわけです。
振り返って「われわれ」は、それだけのしつこさがあっただろうか。ものごとがうまくいかないたびに、すぐ挫折してきました。だからこそ、どんどん押し込まれてきたわけです。
今必要なこと。それは「あきらめない」ことだなぁ、と。

金と口

「金を出さずに口を出す」のか「金は出すけど口は出さない」のか、どちらがいいのかなんてことが世間ではよく言われますが、おそらく大切なのは「金と口の塩梅」てぇもんじゃないですかねぇ。

などと、自分の頭の中で考えがグルグルまわります。発端は、これ。まだきちんと読み込んではいないですが、端的に言うと

  1. 「とにかく変える」という結果ありきの会議
  2. そのために、自分が思うことを好き勝手に盛り込む
  3. 具体的な方法について疑問が出ても、「やらなきゃならんから」という展望のない話
  4. しかも、その内容たるや「いまさら」のことばかり
  5. 現状分析については、「木を見て森を見ず」&直感

他にもまだまだありそうですが…。
しかしねぇ、これほどまでに現職教員に対する不信感を世間に撒き散らかすことって「今学校にいる子どもたち」にとっていいことなんかねぇ。
子どもたちははっきりわかっていますよ。「いい先生もいる、悪い先生もいる」。で、ほとんどの教員は子どもたちにとっては「可もなし不可もなし」。これって、普通のこととちゃうかなぁ。ある企業のすべての構成員が「すげぇやつ!」ばっかりだったらへんでしょう。
「困った教員*1」が同じ職場にいると、同僚も困るわけで、これをどうにかしてほしいと思うのは、現場の人間も一緒です。でも、そんなのほんの一握りの人のことであって、そのごく少数の人を「排除」するために全教職員をふるいにかけるとかいうのは、あまりにもコストがかかりすぎると思いますがねぇ*2
教育を再生するのに最も簡単に道筋は、まずはクラスあたりの生徒数を減らすことじゃないかと思います。そのためには、教員数を増やさないといけない。となると、真っ先に必要になるのは予算です。で、その予算がないから教員数を増やせない。だから、そのあたりに手をつけず、他のことで間にあわせようとする。そんな魂胆が見え見えです。
教育が最重要課題というのは、ブレア*3も言っていたことらしいですが、そのための予算投下をしているわけで、「金を出さずに口を出す」という極端な態度ではアカンと思いますけどねぇ。あ、予算投下したっけ。タウンミーティングを請け負った業者に(笑)。

ドラッカーさんの本には、こんなことが書いてあるそうな。
「自分が何をしたいかではなく、何がなされるべきかを考える」という態度が重要。

*1:ちなみに、ここでいう「困った教員」は、思想性云々じゃなくて、仕事をするるかどうかとか、生徒ときちんと会話(一方的に人生訓を垂れるということじゃないです・笑)ができるかどうかとか、そのあたりのことですよ。

*2:てか、「困った教員」は「更新制」ではふるいにかからないと思いますが

*3:ここではサッチャーじゃなくてね

企業から学んでみた

ちょっと気になったことがあって、「無能な経営者」ってどんな人かネットで調べてみました。ところが案外「無能な経営者はこんな人」っていうのがないんですね。まぁ、そりゃそうか…。で、ふと気づいて「有能な経営者」でググるとけっこう出てきました。で、みつけたのが「ドラッカー」という人が書いた本からのリスト。
ちょっとコピペ。

  1. 「何をしなければならないのか」と自問自答していた。
  2. 「この企業にとって正しいことは何か」と自問自答していた。
  3. アクション・プランをきちんと策定していた。
  4. 意思決定に対して責任をまっとうしていた。
  5. コミュニケーションへの責任をまっとうしていた。
  6. 問題ではなくチャンスに焦点を当てていた。
  7. 会議を生産的に進行させていた。
  8. 「私」ではなく「我々」として、発言したり考えたりしていた。

ということは、これの逆が「無能な経営者」なわけですね。

  1. 「何をしたいのか」をひたすら主張する。
  2. 「わたしが正しいと考えることは何か」をひたすら主張する。
  3. 「どうすればできるか」というプランがなく、とりあえずやってみることにする。
  4. 決めたことのあとは、誰かに責任を負わせる。
  5. 人の話は聞かない。
  6. 悪かったことのあら探しをする。
  7. 会議の目的を明確化させず、議事を迷走させ、あらかじめ決まった結果に持っていく。
  8. 発言や考えの根拠は「私」。

なるほどなぁ。いるいる。あっちにもこっちにも。

サービスってなんだ?

通勤途中、バイクで走っていると他のことができないので、いろいろ考えてしまいます*1
で、ふと思ったこと。
たとえば、わたしがJRに求めることはいったい何かというと、安全に時間通りに目的地まで運んでくれることなんですよね。別に、駅員さんや車掌さんの笑顔じゃないんです。
たとえば、わたしがタクシーに求めることはいったい何かというと、どうしてもバスではダメな時に、安全に目的地まで運んでくれることなんですよね。別に、わざわざ運転席から降りて「どうぞ」ってドアを開けてくれなくてもいいんです。そんなことをしているヒマがあったら、抜け道の一本も覚えてほしいし、運転技術を磨いてほしい*2
たとえば、郵便業務になにを求めることはいったい何かというと、相手先に確実に郵便が届くことであって、郵便局でニコニコ接客をしてもらうことじゃないです。
もちろん、食事をしに行く時なんかは、お店の接客態度ってそれなりに重要な要素かもしれないです。これもケースバイケースですけどね。でも、「接客態度」が、それが第一義的に要求されないところでも要求されているような気がしてしかたがないんです。
笑顔があってJRの事故があったり、笑顔があって郵便の遅配があったとしたら、本当に必要なところに労力を注いでいないということになります。でも、そんな付加価値をもしかしたら要求してきたんじゃないだろうか。
「本当に大切にしなくちゃならないこと」が、なんとなく最近ゴチャゴチャになっているような気がするんですよね。

*1:って、あぶないか…

*2:マチュアのわたしが言うのもなんですが、バイクに乗っていると、「なんじゃ、こりゃ?」というプロドライバー(タクシー運転手)がいます。

教員も人間だ!

なんしか、うるさい。てか、「五月蠅い」という言葉がピッタリ。そんな子どもたちがいます。たぶん、授業の声、一番後ろの生徒に届いていません。で、声を張りあげると、前のほうはわたしの声がうるさいからますます大きな声でしゃべります。これ、いたちごっこですから、わたしはしないことにしています。
ところで、そういう「場」の雰囲気を読む子だったら、わたしが声を小さくしたらそれにつれてしゃべる声をコントロールするのですが、そういう子ははじめから授業中に私語はしません(笑)。てことで、声を大きくしたり小さくしたり。もう、1時間の授業が終わると、精神的にクタクタです。
さすがに今日はキレました。でも、絶対に怒鳴りたくありません。だって、「力」で屈服させられた人間は、どこかで必ずそれが噴出しますから。それがわたしに対してだったらいいんだけど、他の生徒に対してや他の授業に対して噴出したらえらいことになります。で、ふだんとは違う言葉。「せめて静かにしてくれ」。久しぶりです「せめて」なんていう言葉を使ったのは。
マジで疲れた。というか、本当に疲れるのは、こういう状態でも、生徒たちのことが嫌いになれないということ。一人ひとりの子どもたちは、ほんとうにいい子らなんですよ。みんな大好き。それが「層」として存在した時、一変する。そのギャップが疲れるんです。
授業終了後、後ろのほうの子に「声、聞こえた?」と聞くと「だいたい聞こえたけど、小さい声の時はしんどいかな」という答え。ジレンマです。
ところで、授業時数を多くしたら、これ、どうなるんだろう…。学力向上につながるの?

気づいたこと

…。今年、年賀状があんまりこない…。
まぁ、「いつきに出してもなぁ」というまっとうな評価で来ないんだったらいいんですけど、遅配だったら…。って、もしかしたら、民営化の影響?だとしたら、ここでまた「美しい日本」がひとつ姿を消すことになるんだろうね(笑)。

温故知新の続き

12月16日の日記で引用した文章の続きがわかりました。
やすいちさんから教えてもらったもう一冊の本をようやく見つけました。

今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗してじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分の野望をなんとか物にしようとするものが出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。

の続きです。
とりあえず、長くなりますが引用します。

それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は「国民のための政治」であるが、何が、「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。国民の一人ひとりが自分で考え、自分たちの意志で物事を決めて行く。
(中略)
だから、民主主義は独裁主義の正反対であるが、しかし、民主主義にも決して権威がないわけではない。ただ、民主主義では、権威は、賢明で自主的に行動する国民の側にある。それは、下から上への権威である。それは被政治者の承認による政治である。そこでは、すべての政治の機能が、社会を構成するすべての人々の意見に基づき、すべての人々の利益のために合理的に行われる。政治の上では、万事の調子が、「なんじ臣民」から「われら国民」に変わる。国民は、自由に選ばれた代表者を通して、国民自らを支配する。
(中略)
もちろん理論だけから言うと、独裁者や「情深い支配者」がその国民に対して、公共の福祉にかなった政治をするということは、ありうることであろう。しかし、独裁主義の制度の中に国民のための政治の保障を求めることは、常に失敗に終わったし、また、いつの時代にも必ずまちがいである。歴史の教えるところによれば、一部の者に政治上の権威の独占を許せば、その結果は必ず独裁主義になるし、独裁主義になると戦争になりやすい。だから、国民のための政治を実現するためのただ一つの確実な道は、政治を国民の政治たらしめ、国民による政治を行うことである。
(中略)
全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中で一番貴いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。国際車はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言い訳はいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう5年、いや、もう10年がまんすれば、万事うまく行く、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄にために犠牲にならなけれなばらないと言う。その間にも、独裁者達の権力欲は際限もなく広がっていく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者達の考えているとおりに運んで行った。
つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちを打って、元も子もなくしてしまう。
これに反して、民主主義は、国民が栄えるにつれて国家も栄えるという考え方の上に立つ。民主主義は、消して個人を無視したり、軽んじたりしない。それは、個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬をその根本としている。すべての個人が、その持っている最もよいものを、のびのびと発展させる平等の機会を与えられるにつれて、国民の全体としての知識も道徳も高まり、経済も盛んになり、その結果として必ず国家も栄える。つまるところ、国家の繁栄は主として国民の人間としての強さと高さとによってもたらされるのである。
(後略)

この箇所、Yちゃんと待ち合わせている四条河原町の角で座って読んでいたのですが、思わず泣きかけましたよ。
『民主主義』というのは、上巻と下巻にわかれていて、現在出ている本はその合本です。全部で379ページに及ぶ本ですが、これを1948年から1953年まで中学校・高校の社会科の教科書として使っていたんです。
なぜ1953年以降、この教科書が使われなくなったか。
まさに、それは日本の政治が大きく舵取りをする中で、邪魔になったからなんだと思います。1950年にできた警察予備隊は、1952年に保安隊になり、1954年に防衛庁自衛隊ができます。1952年には破防法も公布されています。そういう時期に、この教科書は使われなくなったんだということです。
すでに遅いのか、それともまだ間にあうのか。日本がさらに大きく舵取りをしている今、でも、小さな一歩からその舵を逆のほうに切っていきはじめないといけなんだと、あらためて感じます。

数学の授業で…

もちろん、冬休みですから、授業はありません。
単に、数学の授業をしながら、自分は何を伝えているのかなぁとボンヤリ振り返っているだけのことです。
現行のカリキュラムって、前後のつながりとかすごく少なくしてあるんです。たぶん、「一ヶ所つまずいても、他のところに影響を及ぼさないように」という配慮なんでしょうが、あきませんね。んなことやっていたら。
結局、すべての公式なり規則なりが「天から降ってきた」みたいな感じが出てしまうんです。やっぱり、「あのときあそこでやったことが、当時は「なんじゃ?」と思ったのに、ここで出てきたか」みたいな、そういうのがないと面白くないんです。
あと、演算の基礎みたいなものが、すごく脆弱な感じもします。例えば、足し算とかけ算の違いとか…。そのあたりをきちんと教え、定着させていないから、「2x=1」を解いたら「x=-1」なんていう答を出したり「x^3+2x^2+x」を因数分解したら「x(x^2+2x)」とかいう答を出したりするようになるんです。
特に後者はすごく多いですね。これ、係数で省略できるものが「1」であるということが、いまひとつわかっていないんです。あるいは、前者についていうならば、四則演算の記号で省略できるのが「×」であるということが、いまひとつわかっていないんです。
おそらく、「単位元*1」が演算によって異なるなんていう話をしていないわけですわ。だから「逆元*2」についても触れていない。だから、「移項」というのが、単にテクニックになってしまう*3
もちろん、実際の教科指導では、単純にテクニックでいいと思うんだけど、でも、どこかでこういうことに触れておかないと、すべてが「天から降ってきたテクニック」になりかねないと思うんです。
だから、最近は折にふれてこういう話をします。
そして、結論は

でもね、いいかい。
省略するのは簡単なんだ。大切なのは、省略されているものを見つけること。
いいかい。
語られていることだけを追っかけるのは簡単なんだ。でも、語られていないこと、隠されていることを見つけ、その言葉に耳を傾けることが大切なんだ。
そのためは、いつも耳を澄ましていること、アンテナを張りつづけていること。
いいかい?

しかし、こんな教科指導してていいのかなぁ(笑)。

*1:Aと演算した結果がAになる、みたいな。

*2:Aと演算した結果が単位元になる、みたいな。

*3:実際には、逆元を演算することで移項を実現しているんですよね。