授業をはじめる前に…。

授業をはじめる前に…。
どうやらいま、この国では「力」というものがまかり通っているようです。
ところで「力」には「権力」と「暴力」があります。いずれも、人を支配するための方法です。そうそう。この教室の中にも、実は君たち生徒とわたしたち教員の間に「権力関係」があります。そのことを忘れてはいけませんね。
では、「力」と対になる言葉は何でしょう?それは「言葉」です。そして、「言葉」と「言葉」をつなぐ営みが「対話」です。わたしは、君たちとの間に「権力関係」があることを意識しながらも、一緒のこの教室の中でできるだけ権力に頼らない「対話」をするように心がけているのですが、それはなかなか難しいものです。
ところで、昨日、「イラク特措法延長法」と「教育関連3法」が与党による強行採決で通りました。この「強行採決」という手法は、「対話」の対極にある方法、すなわち「暴力」であると、わたしは考えます。そして、こうした法律を通すことで、この国は着々と「戦争」への道を準備しています。この「戦争」も「対話」の対極にあるもの、すなわち「暴力」です。
では、「戦争」から何が生まれるのでしょうか?
「戦争」とは、限りない「消費」です。そこから「生産」されるものは何もありません。そして、その「消費」によって潤う一部の人たちがいます。では、その「一部」以外の人たちは?
「戦争」をするためには、莫大なお金が必要です。しかし、国家の総予算は決まっています。そうすると、なにかのお金をへつることで、戦争のための「予算」をつくりださなくちゃなりません。
そうそう、防衛庁が防衛「省」になりましたね。あれも、このための布石ですね。
この国では、「教育」と「福祉」のお金をへつって戦争へまわす選択をしました。
いま、「教育の再生」が叫ばれていますが、教育を再生(この言葉も変ですが…)するためにもっとも早い方法は、教員数を増やすことです。逆に言えば、一学級の人数を減らすことです。ところが、この国は、そういう方法をとりませんでした。できるだけお金をかけずに自分たちの意志を通すための「改革」を行いました。それが、「教育関連3法」です。
福祉については、もう言うまでもありませんね。
ところで、教育も福祉も、その対象となるのは、子どもや老人、そして障害のある人、さまざまな理由で貧困という状態に落とし込められた人。いわゆる、社会的「弱者」とされる人たちです。
いまから5年後、世の中はどうなっているでしょうか。おそらく「こんなはずじゃなかった」という世の中になっていることだと思います。たしかに、一部の人たちの消費によって、あたかも総消費はあがっているかのように見えることと思います。そして、それが「豊かさの象徴」であるかのような報道がされることと思います。しかし、それは社会的弱者との格差の拡大に他なりません。
そして、10年後、おそらく戦争の中にこの国はいると思います。
もしも君たちがそういう未来を迎えたくないならば、常にいまこの国で何が起こっているかということについて敏感である必要があります。そして、敏感であるためには、新聞やテレビといった報道に頼らないアンテナを、高く広くあげることが大切です。できれば、自分自身の力で情報にじかにふれること。それが無理でも、情報にじかにふれた人から情報を仕入れること。
昨日、わたしのある友だちは国会の前に座り込みをしに行きました。そして、参議院の傍聴をし、強行採決される様を自分自身の目で確かめました。そして、その情報がわたしのところにやってきました。
自分が動けない時は、自分とつながる人たちから情報を仕入れること。そして、そこから、「いま」「ここ」で自分が何ができるかを考えること。そして、それをすること。
いまわたしにできること・しなきゃならないことは、いま、ここで語ることです。やがて、こういうことができなくなる時が来るでしょう。でも、その時まで語り続けようと思っています。そして、もしも君たちの中でわたしと思いを同じくする人がいたら、仲間になってくれるとうれしいです。
10年後、わたしは教員をしているだろうか。わかりません。もしかしたら、居酒屋の女将をしているかもしれない。そんなときは、またなにかの方法で「店を開けたよ」という情報を流しますので、飲みに来て下さい。そして、語りあいましょう。
じゃぁ、授業をはじめましょう。教科書◯ページをあけて下さい。

いま、わたし(たち)は、強烈な不信感と憎悪の中に立たされています。そのことをひしひしと感じます。かつては真綿で首を絞める感じでした。しかし、いまは荒縄で首を絞められている気分です。
でも、今日も授業をしなくちゃ…。子どもたちと授業をきっかけにしながら対話を続けていくことが大切なんじゃないかなぁと思います。そうした淡々とした日常の営みから、反撃のチャンスを狙う以外、いまのわたしには方法がないような気もしています。
でも、これで負け続けてきたからなぁ…。

「研究授業」考

この時期、学校は「教育実習」の季節です。で、それに並行して、教員も授業を公開する、いわゆる「研究授業」があります。
これ、わたしはさほど抵抗がないのですが、いやがる人が多いんですよね。まぁたいていの場合は「見られるのが恥ずかしい」なんだと思います。で、「恥ずべき授業をしているか」というと、ぜんぜんそういうのじゃありません。それぞれの教員は、それぞれの経験にもとづいて自分の創意工夫をこらして授業をしています。あたりまえです。プロですから。たぶん、学校の中というより「美しい国(笑)」の「美しい価値観」として、そういうことは「一歩引いて…」というのがあるんでしょうね。で、「美しい価値観」を持っていないわたしみたいな人間が「抵抗ないけどなぁ…」と引き受けてしまうわけです。
ただ、いやがる気持ちがわからないわけではないです。というのは、めんどくさいんですよね。「授業展開案」というペーパーを印刷しないといけないんです。そこに「この教科の目的は〜」とか「この単元の目的は〜」とか「このクラスの生徒の情況は〜」とか、まぁさまざまなことを書かなくちゃなりません。たぶん、そんなの誰も読んでいないのにね(笑)。だって、同じ教科の人間だったらそんなもの書かなくてもわかるし、別の教科の人間だったらそんなもの書いてもわからない。さらに、「生徒の情況」なんて、同僚であれば書かなくても誰もが知っているわけです*1
たぶん、「展開案」というやつは、「お前書いてみ」みたいな感じのものであり、生徒の状況を知らない人に向けて書くものなんだと思います。つまり、「外部の人間に指導を仰ぐ*2」ためのものなんですね。まぁ、そういうのはわたしもキライです(笑)。
わたしが「ええやん」と思う研究授業(公開授業)は、そういう格式張ったものではなくて、互いに気軽に授業を見に行けるもの。他の人の持っているテクニックに学び、自分の持っているスキルを他の人にも公開するもの。そうすることによって、みんなのスキルアップがはかれると思うのです。で、もしも授業を批評するとするならば、生徒の「学びの状況」にもとづいて、それをどう引き出したか(あるいは、引き出すのに失敗したのか)というあたりを論議をする*3
わたしが考えるもっとも非効果的な研究授業のパターンはこういうのです。

  1. 授業案を書くためにたんまり時間をかける
  2. よそいきの教員とよそいきの生徒→よそいきの授業*4
  3. 終わってからの格式張った授業研
  4. 中身は、まずは担当者から一言
  5. 続いて沈黙(笑)→しかたないので順番にあてる→すると意見が出てくる*5
  6. 最後に指導主事からの「助言」

あー、時間がもったいない(笑)

*1:知らなければ、それは知らない教員のほうが問題

*2:たとえば、教育指導主事とかね

*3:このあたりは、佐藤学のパクリです(笑)

*4:お客さんがいるから、多少はしゃーないですけどね

*5:最初から意見を言おうよ!

歴史に残る日々

ぜったい変だと思います。今までだったら、とうてい考えられない。
この半年間で、いったいぜんたい何回「強行採決」をしてきたことか。
そりゃ、絶対的多数を与党がとっているんだから採決したら通るわな。でも、それって民主主義か?たんなる「議会制主義」でしかないんじゃないっすか?

この半年〜1年は、きっと「日本の戦史」に残ると思いますよ。

なんだかなぁ…

「人の死」にいろいろコメントをつけるのはあまり好きではないのですが…。それにしてもなんだかなぁ。
個人的には「政治的な殺人」だという気がしますねぇ。
でも、この死を利用しようとする勢力はきっとあるだろうな。
そうそう、I原ってどないかならんのか?「彼もやっぱり武士だった」っていう、あのコメント。

在日外国人教育セミナー

最近、いわゆる「新渡日」の人たちの状況や話を聞く機会が増えつつあるのですが、今日のセミナーは在日朝鮮人の人の話。
やっぱり、自分の出発点はここにあったよなぁと思うと同時に、20年前にはじめたころと何もかわっていない状況をあらためて感じさせられました。
話そのものは、まぁ「何度も聞いた」と言えば言える*1わけです。でも、帰り道に友だちと話をしていたのですが、「何度も聞くことが大切なんだよね」ということなんだと思います。それは、聞くわたし(たち)の態度の問題なんだと思います。「もう聞き飽きた」と受けとめるのか、「やっぱりそうなんだ」と受けとめるのか。日々の生活の中で、ともすれば薄れてしまいがちな思いを新たにしてくれる*2という意味で、「聞き続ける」ということが大切なんだろうな。
てことは、同時に、「語り続ける」こともまた、大切なんだろうな。

*1:もちろん、新しい話もいっぱいあるし「へ〜」と思うこともいっぱいあるのですが

*2:まぁ、そんなふうに搾取しちゃいけないんですけどね

「授業の達人」?

なんか、他の学校の授業を見に行ってもいいというプリントがまわってきて、ひょいと見ると「授業の達人」とか書いてあります。なんじゃこりゃ?で、ググって見ると、こんな記事がひっかかってきました。
そういえば、こんなの聞いたことがあるなぁ…。
で、「達人」の方々の所属校を見ると…。
「あ、こりゃ授業を見に行ってもしょーがないな」と直感。なにせ、すばらしい学校ばかりです(笑)。
でも、授業を見に行くのもひとつの手かもしれません。授業の後の授業研で「あの〜、どうやったらみんな座っているんですか?」とか「どうやったら教科書を机の上に出してくれるんですか?」とか、わたしの勤務校ならではの悩みを「達人」たちに聞いてみるのもいいかも(笑)*1
って、こういうの、人間としてダメだな。>自分

*1:あ、もちろん圧倒的多数の子どもたちは一生懸命勉強してくれていますよ。一部です、ここに書いているのは。いや、ほんとうですよ^^;;

流れといえば…

この間は、国民投票法が、さしたる論議もなくあっという間に通ってしまいました。
そして今日、教育関連3法が衆議院特別委員会で通りました。
今の政府・与党が、教員に対する露骨な嫌悪感と不信感を持っていることがよくわかります。そして、それが世間の学校への不信や風あたりの強さをあおってもいます。
自分たちは「教育を再生する」と言っているんだけど、いままでさんざん「制度」をいじくってきた。でも、1学級の人数は、基本的には40人のまま*1。一番投入しなくちゃならないところには金を出さずに、人を働かすための制度しかいじくってこなかった。なんとも安あがりなことです。で、そうした制度のいじりをしてきた張本人たちが、その総括もなしに、また同じこと、というより、より強烈な「いじり」をまたしてもしている。そして、その「いじり」の原因を他者*2に押しつけて。
今回の制度改悪は、さらに世間の不信感を学校に押しつけることにしかならないと思う。そして、その不信感の原因もまた、学校に押しつけることになるだろうと思う。学校は、無限に起こる責任をすべて背負っていくという、きわめて悲しい場所になる。
今、生徒たちに「先生になりたい?」と聞くと、だれも「やりたい」とは言わない。なぜなら「しんどそうだから」。これからも、生徒たちは教員になりたいとは思わないだろうな。なぜなら、もっとしんどい職場になるから。
自分たちがやっている「再生」が、実は「破壊」なんだということを、井戸端会議をしている人たちはわかっているんだろうか。あるいは、その「再生」を支持している世間はわかっているんだろうか。
そうそう。今日も新聞やニュースのトップは、「立てこもり」とか「会津若松の…」とか、世間をにぎわすセンセーションな「事件」ばかりです。そして、たぶんしたり顔で「教育が」と解説をする「有識者」が出てくるんだろうな。そうやって、学校は無限の責任をすべて負わされます。

それでも、教員は仕事してるんだけどな…。

*1:弾力性は持たせているけど、「金はそれぞれで持て」ということ

*2:親と教員と、自分たちがつくってきた教育委員会

スローライフ

といっても、いわゆる「スローライフ」じゃなくて、どちらかというと「ゆっくり走ろう」な話なんですが。
わたしの通勤距離は片道30kmほどです。車だと、1時間10分。バイクだとすり抜けができるので小一時間(笑)。
ところで気がついたことがあります。それは、バイクのスピード。「今日は急ぐぞ!」と頑張っても小一時間。「今日はのんびり行こう」と思っても小一時間。実は、スピードと時間ってあまり関係がない感じがします。逆に、アクセルをほんの少しもどすだけで、自分に余裕ができるし、まわりもよく見える。当然、白黒の車とか真っ白なバイクもよく見えます(笑)。
結局そういうことなんだな、と、ちょっと気づいたということで…。