いつも感じているのは、一番大切なのは「バランス」。
でも、そのバランスは静的にとることはできない。なので、「動き」の中でバランスをとり続ける必要がある。それを、村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」と言ったのかな。
でも、疲れてくると、「動き」が鈍る。すると、当然バランスがとれなくなる。それでもとり続けてきたんだけど…。
ちょっと疲れたかも。
カテゴリー: 考え
マスク
ここ数年、「すごいなぁ」と思う人に会う機会にすごく恵まれています。
すごい人って、やはりご自分のフィールドにおいてはすごく努力をしておられるし、それでいてそれを「なんともなくやっている」感じが漂っていて、ますます「すごいなぁ」と思うわけです。
その一方、そういう人に出会うと、わたしなんて「ぜんぜんやなぁ」と思うし、時として打ちのめされてしまうことすらあります。単に打ちのめされているだけだったらいいんですが、なんか、人間性まで否定されてしまうこともあるようです。
というのは、やはり「すごい人」って、それだけご自分のフィールドにかけておられるし、そこにその人の人間性が出てきます。そういうものに圧倒されてしまうんでしょうね。
でも、ふとした時に、「あれ?」と思うことがあるんです。というのは、その人の「すごいフィールド」以外のところではその人は「ぜんぜん」っていうこと、よくありますよね。その差がすごい時って、やっぱり「あれ?」以上に、混乱してしまうんですよね。たぶん、落差が激しすぎて、自分の中で整合性がとれなくなるんだと思うんです。
そんなことを繰り返しながら、最近少し考えていること。
「すごい!」と思った人を、「人間」として絶対視するのをやめること。でも、その人からそのフィールドにおいて教わったことには敬意を払うこと。そして、そこにいたるだけの「人間」であるということに対しても敬意を払うこと。
そして、自分は自分の早さで、ゆっくりとでいいから「教わったこと」を実践し続けること。
語る時・書く時・表現する時
今日は、職場の歓送迎会。のはずでしたが、2〜3日前に、年が明けてからしばらくかかわってしまった(笑)タスクの最終謀議が入るという連絡が入ったので、そちらに急遽スイッチ。実は、この春転勤された管理職にはすごく世話になったので、お礼の一言も言いたかったのですが、まぁ、同じ京都の教員ですし、ひとりはメルアドも教えてもらっているので、また機会もあるか、と。それよりも、やはり「謀議」の方は、ここで一段落という位置づけもあるので、やはり優先順位が高くなります。
集合時間はとうてい間にあわない時間なので、「遅れる」と連絡はしたものの、遅れを取りもどすべく駅から大阪市内の某所まで走り、事務所のドアを開けようとすると、いいにおいが…。って、みんなすでに呑んでるのか(笑)。ちなみに、「いいにおい」の正体はキムチでしたよ。
でも、呑みながらもいろんな話。例えば、昔話*1を聞いて「いい時代でしたね」という若い人に「それは違う」とクギをさす人とか、重信房子がどうとか、「実録 連合赤軍」がどうとか…。で、そのあたりから、最近凝っている「最大公約数か最小公倍数か」みたいな話に突入したり。いったいなんの会議だ、ここは(笑)。
てな話をしていたのですが、やがて、「タスク」の事後処理の話をめぐって、「当事者性とはなにか」みたいな話に突入していきます。
発端は、「経験を書物にあらわすこと」みたいなあたりなんですが、そのことから「当事者(被害者)が当事者(被害者)にとどまり続けることの危険性」という話が出てきました。これ、けっこう大切な話かなと思います。
なんというか…。自分自身のことを「歴史として語れる」って、とっても大切なんじゃないかと、わたしは思うのです。例えば、わたし自身のことについて言うならば、わたしが高座で話をしていることは、実は私にとっては、すでに「歴史」として評価が固まり、一定程度相対化できている部分なんですよね。でも、今この瞬間に起きていることは、おそらくは、質疑応答では話ができても、それをひとつの高座話にもっていくには、まだ早い気がしています*2。なぜ、そう思うのかというとですね…。
こんな言い方をしたら「あれ」ですが、わたしになんらかの「語り」を求める人は、わたしのに「当事者性」を求めるわけです。でも、わたしが当事者性を獲得した瞬間に、わたしは「当事者」としてそこにいる人たちから疎外され、「特殊な存在」に押し込められてしまいます。そして、それは「語られるわたし」が「わたしの実像」とズレはじめ、そこに「いつきという虚像」ができるはじまりにもなります。それが一番こわいんです。
わたしが、わたしの「歴史」として固まった部分を話しているうちは、わたしはわたし自身を相対化できているんですよね。なので、そこにいるのは、ある意味「生身の当事者」としての「わたし」ではないんです。そうすることによって、わたしは「当事者性」から逃れることができます。そうすることによって、わたしは同時に「いつきという虚像」からも逃れることができます。そして、そうすることによって、「生身」=「単なる人間のクズ」の「わたし」であり続けることができる。
じゃ、もしもわたしが「虚像のいつき」に安住したらどうなるか。きっとわたしのことですから、「虚像」に自分を移行させていくんだと思います。ただ、人々の求める「虚像」って新陳代謝が激しいと思います。「旬」の時は、まぁ言ってみれば一瞬です*3。すると、わたしはどうなるかというと、ちょうど「はしごをおろされた状態」になるわけです。でも、虚像に自分を移行させてしまうと、わたしは「そこ」でしか生きられなくなる。まぁ言ってみれば、依存ですわ(笑)。
とまぁ、むずかしいことを書いてみたけど、結局、「単なる呑んだくれのいつき」が一番居心地がいいってことですね(笑)。
あれ、なんの話だったっけ?
さっそくやっちまったorz
1年生の授業も、今日で3回目。
はじめのあたりって、ものすごく簡単な話ばかりです。
でも、その簡単な話の中にとても大切なことが含まれています。
たとえば、単項式と多項式の話って、実はわたしたちが「整式」をどうとらえるかということなんだと、わたしは思っています。あるいは、「同類項」っていうのは、何を基準に「同じ」と見るのかということを学んでいるんだと思っています。ここでそうした「整式のとらえ方」をきちんと学習しておくと、後々とても話が進めやすいと思っています。なので、わたしはそうとうゆっくりとすすむことにしています。
さらに、整式の扱い方に付随して必ず話をするのが、「足し算/引き算」と「かけ算/わり算」の違いの話です。
「四則演算をふたつのグループにわけてごらん」という質問をすると、よくあるのが「足し算/かけ算」と「引き算/わり算」というわけかたです。で、理由を聞くと「増えるものと減るもの」という答が返ってきます。これ、おそらくは足し算の計算からかけ算を導入していくことの弊害じゃないかと思っています。
元来、足し算とかけ算はまったく違う演算だとわたしは考えています。これは、単位を考えてみればすぐにわかる。足し算における「単位」は「たすもの/たされるもの/こたえ」すべてが同じになりますが、かけ算はそうはなりません。
それと、大切なことは、「単位元が違う」ということです。
最近は「単位元」を教科書では扱わないんですが、これ、すごく大切なんだと思うのです。というのは、単位元は、たいていの場合省略されているからなんです。
いや、省略するのは簡単なのですが、省略されているものを見つけることがたいへんなんですよね。
シチュエーションによって、「1」が省略されているのか「0」が省略されているのか。「×」が省略されているのか「+」が省略されているのか。それを見わけることができないと、えらいことが起こります。
こんなことは、実は数学の問題だけじゃないですよね。
社会の中にも「省略されていること」「隠されていること」がたくさんあります。それを見つけること。そのためには、ほんとうにアンテナを張り、その感度をあげないといけない。
てことで、ついつい黒板に
省略されているものを見つけることが大切!
って、でかでかと書いてしまいましたよ。
踏み絵を踏ますのは誰?
夜、ある本の出版記念パーティーの実行委員会がありました。
なかなか実務的な人が集まっていたので、非常に話は早く進み、あっというまに骨子が決まりました。よかったよかった。
で、そのあと呑み(笑)。
ギョーカイ裏事情(笑)なんかも話ながら、やっぱり普段思っていることが頭の中を行き来しはじめました。
それは、「踏み絵を踏ますのは誰の仕事か?」ということです。
例えばこんなことです。
「君がyo!」とかが鳴ったら、座る。で、あたりを見渡す。仲間だと思っていた人が立ったままだった。そしたら、その人に向かって「お前、なんで立ったままやねん!」と怒る。で、「そーゆーのは、戦線として後退してるぞ!」と糾弾モードに入っていく。
もちろん、これはあくまでも「例」です(笑)。
でも、こういうの、たくさんありますよね。
某公共機関に交渉に行く。窓口で対応した人の態度が悪い。なので、その対応した人に対して怒る。
とかいうのもよくあります。
でもね、例えば公共機関の人だって内面でどう思っているかはわかりません。もしかしたら、交渉に行った人たちにシンパシーを感じているかもしれない。でも、職務上、やむを得ずそういう態度をとらざるをえないのかもしれない。これは、「君がyo!」も同じこと。
座るか立つかは、個人の思想や生き方の問題ですが、それぞれの人々がその時にどういう行動をとるのかということについては「折りあいのつけかた」の問題だと、わたしは思っています。そこに対して「語りあう」ことはできるだろうけど、「批判」や「避難」を、そう軽々とできるのだろうか。そう思うのです。
ある物事について、どういう態度・行動をとるのかという「踏み絵」は、元来「向こうの側」がすることだと、わたしは思っています。にもかかわらず、「こちらの側」で「踏み絵」を設定し、それによって「こちらの側」が分断をされていくとすれば、それはあまりにもやりきれない。
最大公約数で闘うのではなく、最小公倍数で闘っていかなきゃ勝てないよ。
穴を埋めること
かつて、大学時代にこんなことを教えてくれた人がいました。
「愛とは不在を感じること」
いま、その言葉がよくわかります。
書類的にも「穴」があくわけですが、心にも「穴」があきます。そして、心の「穴」は、おそらくふさがることはありません。でも、いろんな人と語りあい、自分と父親の間にあったさまざまなことを振り返りながら、その「穴」を埋める作業をしていきます。それは、「不在」をかみしめながら受けいれていくことなのかなと思います。
ちょうど、傷口にかさぶたがはり、新しい皮がはっていくようなものなのかな。その皮は「もとの皮」ではない。そしてやっぱり「傷口の記憶」は残るけど、傷そのものは「癒される」。そんな感じのものなのかもしれません。
謀議の中で
最近、謀議続きです(笑)。まぁ、今回の謀議の内容は、そのうち明らかになるし、それよりもなによりも、「明るい謀議*1」なんで、まぁいいか、と。
で、いろいろ話をしたんだけど、なんとなく自分の問題意識が少しすっきりしたかなぁ、と。
- トランスと同性愛の共闘の可能性
わたしは前から「特例法の本丸は非婚要件」と思っていて、そこに「共闘の可能性」があると考えていたんですよね。その延長なんだけど、「トランス」という作業が仮に(笑)「性別のありよう」を揺るがすものだとすると、それを「ペアリング」という側面から揺るがすものが「同性愛」なのかなぁ、と。逆に、「同性愛」が「ペアリング」を揺るがすものであれば、「トランス」も「性別のありよう」を揺るがすことを通して、「ペアリング」を揺るがす可能性を持つんじゃないかなぁ、と。
まぁ、こんなこと「今頃気づいたの?」と言われそうだけど、自分で気づくことが大切なんだろうなと思うわけですよ。
- MTFとレズビアンの共闘の可能性
結局、互いに自分の内にある「優位性」と「劣位性*2」みたいなものを出しあわないといけないなぁ、と。少なくとも、わたしは「男性」として生まれ、育てられたことによって、「いま」があるわけです。それがよかったか悪かったかということを抜きにして、それは認めざるをえない。で、「わたし」の「いま」を考えた時、きっとこの社会の中で「男性を優位とする」ところに乗っかって生きてくることができたわけで、だから「いまのわたし」がある。だから、それを認めなくちゃならないし、その資源を使っていかなきゃならないんだと思うのです。
大切なのは、じゃぁ、「優位性だけ?」というと、そうじゃないというところ。そして「劣位性だけ?」というと、これまたそうじゃないというところ。そういうことをひとつひとつ検証しながら、互いに差し出しあう中で、「共闘の可能性*3」が出てくるということ。
まぁ、こんなこと「今頃気づいたの?」と言われそうだけど、自分で気づくことが大切なんだろうなと思うわけですよ。
- 「笑い」と「涙」から考える共闘の可能性
いろんな当事者の講演を聞きながら、「涙が出てくる瞬間」って、何度も経験しています。でも、いつもどこか自分の中に「冷めた」ところがあることに気づいていたんです。「これってなんだろう」「自分って、すごく冷たい人間かな」とずっと思っていました。でも、そのことがあったからこそ、わたしは「ウケ」を常に意識しながらしゃべるようになりました。
これ、「関西人だから」と処理されがちなんだけど、もしかしたら違うのかも。もしかしたら、それって「共感」のあり方なのかもしれないと思ったんです。
そう考えた時、「涙」による共感は「他者への共感」なんじゃないかなぁ。簡単に言うと「あぁ、かわいそうな人がいる」みたいな。それに対して「笑い」による共感は「自分への共感」なんじゃないかなぁ。簡単に言うと「あぁ、あるあるある!」みたいな。
ま、ただそれだけのことなんですけどね。でも、わたしは「高座」をするとき、「わたしのことを理解してほしいなんてこれっぽっちも思っていない」んです。じゃなくて、「心の相似形」を探るための「ネタ」を提供しているつもりなんです。で、「あるあるある!」となった時、その人がその人自身を見つめる手がかりが出てくる。その作業と、わたしがやってきた/いる作業は同じなんですよね。そういう共感を探りたい。
計算することと、計算することを放棄することと
この期に及んで、まだ危機感がないヤツがいます。「暴れてもいい?」と聞いて、5分後、暴れました(笑)。
まずは、手に持っていたチョークを思いきり床にたたきつけました。みんながシーンとなった次の瞬間、机の上にあった教科書を思いきり床にたたきつけました。さらに、教卓を一蹴り。ふた蹴り。なにが腹が立ったというと、歯がゆかったんです。この期に及んでも危機感がないヤツに、それよりもなによりも、怒られて静かになるヤツに。
お前らな、怒られたら従うんか。暴力には屈するんか。そんなヤツは最低や。いま、なにをするべきかを自分で考えて、ほんとうにやらなくちゃらないことを自分で選択しろ。そのためには、まず、人の話を聞け。それから判断しろ。必要な時には、暴力に対してこそ刃向かえ。
わたしはな、担任をしていた時、絶対にショートホームルームは休まなかった。それが一番大切やったからや。でもな、一回だけ休んだことがある。それは、朝鮮総連に対する不当弾圧に対する抗議行動をしにいった時や。「ホームルームよりも、抗議行動をすることの方が大切なんや」と言って、京都府警の前の抗議行動にいった。それがその時の自分の選択や。ニュースステーションにも抗議の電話をした。「しゃーないな」と練ればいいかもしれんけど、我慢できへんかった。いらん金と時間と労量を使こて抗議した。でも、その時それをしないといけないと思った。
支離滅裂です(笑)。
わたしはな、君たちに対しては権力者や。一見そうではないフリはしてるけど、40人の高校生をたったひとりで押さえつけられるのは、君たちに対して「評価する」という権力を持っているからや。
でもな、ホンマは、そんな形で君たちに数学の授業を聞いてほしいとは思ってへんね。たった一問解けた時に、「あ、気持ちいい」と思ってほしい。その気持ちの延長で、この役に立たん数学の授業を聞いてほしいと思ってるねん。
もう、なにがなんだかわかりません。
でも、いまなら切れてもいいと思いました。そのタイミングは計算をしていました。でも、その先は感情にまかせることにしました。支離滅裂であろうが、わけがわからなかろうが、そういう姿を、学年末の今出すことが大切だと思いました。だから、感情のおもむくままに語りました。そして、10分ほどたったら…。
普通に積分の授業をしていました(笑)。
ダイエットからえた教訓
わたしは、今から20年ほど前、一念発起して大ダイエットをしました。
発端は簡単。
単純に職場の宴会で飲み過ぎて、次の日胸焼けがしてものが食べられなかったというだけのことです。当時、グラウンドを20分ほど走るのが日課だったので、走って体重計に乗ってみたら1kg減っていた。さらに、その日も胸焼けがしていたので(笑)何も食べずに、次の日も走って体重計に乗ってみたら、またまた1kg落ちていた。
てことで、「1日1kgなら3日で3kgだな」と思ったわけです。で、どこまで落ちるか、極限までやってみようと思いました。
食生活はその日を境にひじきやおからやキノコ類。米は食べない。外食もしない。どうしても肉を食べなきゃならない時は、脂身をすべてはずす。で、カロリー源はエビスビールのみ(笑)。
この食生活で、毎日10km走ったら、半年で20kg落ちました。
てことで、ダイエットってとっても簡単でした(笑)。
それから10年後。
ヒゲをはやしたお兄さんが、気がついたら変貌を遂げていた。
てことで、ダイエットとトランスからえた教訓。
人間は変わりうる存在である。
変わりうるからこそ、おもしろい。変わりうるからこそ、可能性がある。
変わるから堕落することもあるけど、変わるから向上することもある。そして、堕落も向上も、実はそんなに区別がつくものではないんじゃないかなぁ。
だから、変わりうる自分が好きだし、「変わりうる」ことを前提に人とつきあいます。すると、そう簡単に「人」をひとつのパターンに決めつけられなくなります。なので、常に評価はベンディング。
まぁ、そういうわたしって、単に優柔不断とか、一本線が通っていないとか、首尾一貫していないとか、まぁそういうだけのことかもしれませんけどね(笑)。
心のざわめき
今日は昼から組合の女性部の学習会に行って来ました。講師は三輪敦子さんという方です。
今日の話はきわめて初歩的だったので、ちょっとものたりなかったかなぁ。ただ、「ジェンダーという概念が根本的に抱えている問題点として、性別2元制をその考え方の基本においている。なので、多様な性という観点が抜け落ちやすい」「「個別」ということを大切にあるので、「平均」というとらえかたと相反することがある」といった提示をされたのは、ある意味新鮮でした。なんというか、いままでジェンダーに関する話を聞くたびに頭では納得しながらも自分が「外」におかれている気がしてならなかったのですが、その理由がある程度鮮明になったかなぁという感じです。まぁもちろんこれだけじゃないですが…。
三輪さんのお話の後、小学校・中学校の「男女共生教育*1」の実践例を提示されたのですが…。
まずは、直感的に思ったのは、「男女共生教育」と「性教育」と「生殖の教育」がすごく混同されてしまいがちなのではないかということです。もちろん、それぞれに不可分なところがあるのは当然なんですが、「切りわけ」をきちんとこちら側が意識をしていないとゴチャゴチャになっていく可能性があるなぁという感じがしました。
それから、2つほど疑問がわきました。
- ひとつは、「違うのは「生物的な差」だけ」という言説は、身体の性別の絶対化・固定化を招くのではないか?
- もうひとつは、例えば「ランドセルの色」みたいな学習が、はたして「労働観」「家族観」に結びつくのか?
ということです。
ま、このあたり、掘り下げがないので自分の疑問をメモっておく程度で終わっておきます。
そうそう、おもしろかったのが、ジェンダーと階層のとらえ方の2つの観点です。
ひとつの立場が「「ジェンダー」には階層という概念が含まれている」とする考え方*2。もうひとつは「「ジェンダー」はもともとは単なる役割分担で、階層はない。そこに男性が優位であるという価値観が持ち込まれることで階層という概念が発生した」とする考え方。後者の方は、発展途上国におけるジェンダーのとらえ方によくみられる考え方とのことです。
これまた、自分の中での掘り下げがないので、メモっておく程度にしておきます。