微分と積分

まえに、id:annojoさんのところで、微分積分の話がちょろっと出ていました。
性同一性障害の苦痛は変化に対してである」という3日間(翌日分がこれで、最終回がこれ)の連載がそれです。
あの時は、すごくおもしろいなぁと思ったのですが…。

変化が急激であっても、その変化を受容できるキャパシティがあれば、それはそれなりになんとかなるんじゃないかなぁと、あの時思っていたんですよね。もちろん、そのキャパシティは個人差があるし、時代や社会のありようによっても差があるんですけど。
で、そのキャパシティって、よく「コップ」に例えられるんじゃないかな。で、「コップの水がこぼれた時云々」という言説が出てきて、それが「積分」的なとらえられ方と結びついていく。
でも、キャパシティって、もしかしたら「風船」のようなものかもしれないと思うのです。あるいは、「シャボン玉」とか「ゴム」かな。
中に入っているものが少ない量だったら、それなりに急激な変化であっても持ちこたえられる。ゆっくりとした変化には耐えられるし、その状態だったらそこそこの量まで持ちこたえられる。でも、キャパシティすれすれになった時、それがゆっくりの変化だったらそれでもまだまだ持ちこたえられるのかもしれないけど、少量であっても急激な変化(負荷)が加わった時、キャパシティを越えてしまう。
つまり、前提として、それなりの「受容量(積分)」があり、その先に「変化(微分)」があるのかな、と。

前を向くということ

そんなたいしたことじゃないんですけどね。
いや、「ノーベル賞受賞」のニュースを発信している人たちと、受賞した人たちのあまりのギャップに笑っているだけのことです。
とにかくインタビューアーは「うれしい」というひとことを引き出したいんだけど、受賞した人たちは「うれしかったのは実験で確認された時」とか「過去のこと」と淡々としていました。さらに「すげぇ!」と思ったのは、「あれは、まぁ発表した時点で、ほぼ正しいとわかっていましたから、もう決着のついたことなんですよ。それからまた新たなことにとりくもうと思っていますから」みたいなことを聞いた時です。
インタビューアーは「どんなことにとりくもうと思っておられるんですか?」と、これまたピントはずれな質問。そんなん、やってる最中に決まってますやん。

なんちゅうか。「やったなぁ」と思った瞬間、それを過去のことにするという生き方。はたして自分にできているだろうか。できてないよなぁ。

延命の道を見つけたか?

昨日、ニュースを見ていたら、「
補正予算あげたら、解散よりは景気対策に、もっと関心を持つべきだというのが世論だと思う
」という発言があったそうな。まぁ、世論を自分が誘導できるみたいな自信には吐き気が出てくるけど、それはおいといて…。
記事には「解散のタイミングをはかる」って書いてあったけど、もしかしたら「うまくいかないのは民主党のせい」とか言いながら、解散せずにずるずるいく道もあるのかなぁ、と。
なにせ、強行採決を繰り返しながら、「参議院強行採決するのは云々」とか言う党の話だからなぁ。

思えば遠くに来たもんだ

新聞を見たらすでに8時をまわっていたので見ませんでしたが…。
そうか、NHKもLGBT特集をするんだ。
そういえば、昔、ひとり「トランスジェンダー」と言い続けた人がいたけど、そんな人がいたことを覚えているのもその人だけだろうな(笑)。

にしてもさぁ…。
「特設サイト」の「相談窓口」にあるの、基本的には全部東京のグループやんか。

美しい日本の習慣・再び(笑)

で、ホテルでニュースを見てびっくり。
それにしても、政府の人間が、ひとつの労働組合に対して「つぶす」って言っていいの?
もちろん、日教組は、いわゆる労基法に定められている労働団体とは違います。でもね、だからといって、「つぶす」って言って、ほんとうにいいの?その組合・団体の主張が自分の考えと違うからといって、一閣僚個人の思想によって、権力を持って「つぶす」というなら、それは、ファシズムだとわたしは思うけど。それがまかり通る政府って、わたしは許せない。

だけどきっとしあわせなんだよ、みんな

で、午後から講演開始。はじまってしまえばこっちのもんです。あとはついでなので興味のある話を聞かせてもらいます。今日は、保健部関係の講演会だったので、性教育あり健康教育ありで、けっこうおもしろいです。でも、なかでもやっぱり聞きたいのは「薬物依存」の話。だって、DARCの人が来てくれて*1、自分の話も含めて聞かせてくれるんですよ。この方、毎年来て下さっているんだけど、なかなか聞けなかったんですよね。
へんに「薬はこんなに危険で、やっちゃいけない」とは言わないんですね。あと、薬の「害」ばかりを言うんじゃなくて、「やったらその時はほんとうにいい気持ちになるんだよ」という話をされるんですよね。でも、それと引き換えに失うものがたくさんある。それを経験した者として「やるなとは言えないけど、やらない方がいいと思う」という話をされるんです。
単なる「否定」は、ヘタすると「道徳話」になるんだけど、こうやって語られると「自分を大切にするために」という気持ちになるから不思議なものです。やはり、これがサバイバーの持つ力であり、それ以上にDARCというところでサバイヴの活動をされている人の持つ力なんでしょうね。

それにしても、うちの生徒は幸せだと思います。3年間の間にどれほど多くの当事者の話が聞けるんだろう。このDARCのひとはもちろん、部落や在日外国人の当事者から毎年講演を聞くことができます。そんな3年間は、おそらくは自ら望まなければ決して得られないと思います。だからこそ、一回一回の講演を、そこで語られるひとことひとことを大切にしてほしいなぁ。

*1:どうやら直接この人を呼ぶことができないみたいなので、名目上は保護司の人が講演者で、その補助という位置づけらしいですが、当然主役はDARCの人です。

美しい日本の慣習(笑)

例えば、教員の前で堂々とタバコを吸う生徒がいたら、どういう反応をするかなぁ。
もちろん、その生徒ごとに対応は違います。でもね、心の奥底で考えるのは、「なんで堂々と…」なんでうしょね。
あるいは、制服・半キャップで校区内をバイクで走りまわる生徒がいたら、どういう反応をするかなぁ。
これまた、その生徒ごとに反応は違うだろうけど、やっぱり「なんで堂々と…」って考えると思います。
基本的に「悪いこと」って認識していたら、隠れてコソコソやろうよ。逆に「堂々と」っていうのは「悪いと思っていない」わけで、そこから話をしなくちゃならないんですよね。
「あの子、よくなったよ。前はトイレだったけど、最近は校舎の裏で吸うようになったんだ」みたいな話がたまにあります。笑い話みたいなものだけど、一片の真実(?)がそこにはあると思うんですよね。「引け目の美学」ってヤツかなぁ。

米原子力空母G・ワシントン、横須賀配備」のニュースを見て、ふと思ったんですがね…。

やっぱ慣れない

「慣れ」っていうことについて、ちょこっとだけこの間書きました。
これ、あくまでも「伝える」という行為についてだけなんですよね。
個々の「出来事」については、おそらく慣れることは一生ないんじゃないかと思います。ひとつひとつの「出来事」は鮮明に覚えているし、それがフラッシュバックすることもある。ましてや、最近の出来事については、まだ「生の感触」なんですよね。
今日、その「生の感触」に触れることがありまして…。やっぱしんどいですね。だんだん気分が悪くなってきて、その場所から出て行きたくなりました。でも、出るわけにもいかないわけで、いろんな人がいろんなことを話しているのを遠くの方のこととして聞き流し続けたんですが…。

それでも、そういうことを言える人がいるっていうのは、まだマシなのかもしれない…。

「人は見かけによらない」というけど…

夏に講演していただいた人のテープおこしの校正を反映する作業*1をしながら、「あぁ、こんなこと言ってはったなぁ」と思い出しました。
なかでも「そうそうそう!」と思ったのが、次の言葉。

人は見かけによらないが、人は見かけで判断する。

そうなんですよね*2
「人は見かけによらない」っていうのは、それはそうなんだけど、まぁ言ってみたらキレイゴトなわけで。で、そこで子どもたちといろんな話をしても、実はまったく有効性がない。実際は「人は見かけで判断している」んですからね。それが社会というもので。
一斉服装頭髪点検って、ウチの学校もご多分に漏れずやっているんですけど。というか、毎月決まった日にやってます(笑)。
わたし、担任をやっていた頃はけっこうこの日を楽しんでいたんですよね。ここで、いろんな話ができるんです。
よくいます。こんなこと言う生徒。
「昨日、先生注意せぇへんかったやんか!」
「昨日は昨日で、今日は今日や」
「そんなん、ええ加減や」
「ええ加減に決まってるやんか」
大切なのは、注意するかしないかは、日によって差があるし、人によっても差がある。そのブレを見越して注意されないところに持っていくということなんだと、わたしは思っています。じゃないと、明度計*3とか持ち出していろいろしなくちゃならなくなります。でも実際は、「見かけで判断している」わけで、そこに基準を持ってこなくちゃならないんだと思っています。そういうトレーニングを積んでいくのが社会性なわけで。それを繰り返すことで、
「あぁ、ここではこういうかっこうはしちゃいけないなぁ」
とか、
「ここだったらOK」
とかいうスキルを身につけるんだと思います。

てなこと書きながら、これ、かなり自爆ネタになりそうだなぁ_| ̄|◯

*1:つまり、パソコン上の訂正作業

*2:まぁ、耳の痛いところもあるけど、それはそれということで…

*3:「メイド系」と変換されてしまった_| ̄|◯

変わったなぁ<自分

某A新聞の昨日の記事。「橋下知事は教育介入を」府内市長から共感、賛同
そりゃまぁ、「首長」ってある意味同じ立場だから、「自分はこうしたい!」と思っている人にとっては同じ思いでしょうよ。そこで「切り込み隊長になってくれ」みたいな話なんだと思います。
記事の中には、

教育委員会は戦後、政治からの中立性を保つため、首長から独立した行政委員会として創設された。

とありますが、まさにその通りなわけで。それをあらわした条文が、「(旧)教育基本法」の

(教育行政)第10条
1 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

という条文ですよね。

それに対して、

「選挙公約で教育問題を掲げても、首長ができることは校舎のトイレの修繕ぐらい。隔靴掻痒の思いだ」(岡本泰明・柏原市長)などの発言が続いた。

という発言をする人がいるそうな。別にトイレの修繕だけじゃなくて、他にもいっぱいできることがあるんだけど、あるいはやっていることがあるんだけど、こういう物言いはかなり恣意的なデフォルメだと思います。
ちなみに、「新・教育基本法」の「教育行政」の個所は

(教育行政) 第十六条
(1)教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならないこと。

(2)国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならないこと。

(3)地方公共団体は、当該地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならないこと。

(4)国および地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならないこと。

となっていて、ここでも「適切な役割分担及び相互の協力」となっていたり、「必要な財政上の措置」となっていたりするわけで。まぁ、ここで「適切な役割分担及び相互の協力は、首長が介入することなんだ」とか、「必要な財政上の措置は全国一斉テストの結果の公開のためのお金なんだ」とか言う「理屈」を出すことが可能になったあたりで、この「新」の問題点が浮き彫りにされるのですが…。
にしても、今のところ、自分が言っていることが「不当な支配」をしようとすることであることがわからんか?

などと考えながら…。
かつて「教育委員会は敵」と目標を定めていたわたしが、今は養護する側にまわっているって、笑ってしまいますよ。