まぁ呑む前に、毎年2回行っている某所におじゃましたんですけどね。
その後、某所の受講生の方々と呑み。しばし呑んでいると事務局の友だちが合流。で、呑みが一段落したところで、友だちとわたしの二人で呑むべく移動を開始したのですが…。受講生の方々がはやすはやす。まぁ、めんどくさいので、ふたりで腕を組んで退場したのですが…。今日の受講内容、反映されてない希ガス。
カテゴリー: 考え
生産点の闘い
「生産点の闘い」というのは、かつて学生だった頃に、先輩から言われた言葉。結局「学生」にとっての生産点がどこなのかは、とうとうわかりませんでした。
今はさすがにちょっとはわかります。
イベントを打つのもよし。イベントではねるのもよし。イベントに呼ばれるのもよし。マッチポンプは戦略的にはありだと思うけど、あんまりスキじゃない。まぁいいか。
でも、そんなものは闘いでもなんでもないと、わたしは思っています。いや、それは言い過ぎか。闘いの一端でしかないという感じですか。
じゃぁ、闘いはどこにあるのか。それは、生活の中にあるんだと思います。日々の淡々とした営みの中に、小さな小さな闘いがある。勢いなんてよくないし、とりたててなにがどうということもない、たいした闘いじゃないけど、その積み重ねが大切なんだと思います。そういう闘いをしている「ピン」と「ピン」がつながった時、少し世界が広がりを持つ。
そこにある言葉は、きっと静かな、もしかしたら一見「情けなく」聞こえるかもしれない、でも力のある言葉なんだろうな。
某所からのメール
にしても、我ながら小器用だなぁ…
そんな中で、ふと思いついた例え。
例えば、シーソーが一番安定しているのは、片方が下がって地面についている状態。社会も同じで、強者と弱者がいる状態が一番安定している。でも、それが「望ましい状態」であるかというと、強者にとってはそうかもしれないが、弱者にとってはそうではない。
シーソーが水平を保とうと思うと、その水平を保ち続けるために、いろいろな力をそこに加え続けないといけない。社会も同じ。
フラットな社会を実現するためには、その状態をつくり、保ち続けるために、いろいろな人がそこに力を加え続けないといけない。
今度、授業で使ったろ(笑)。
終わってない…
朝、出がけのニュースでひとこと。「停戦?」
よかった。
と瞬間思いました。とにかく、爆弾で死ぬ危険性が、そうとう回避できたわけですからね。でも、ガザの置かれた状況は、実はなにひとつ変わっていないんですよね。
なにが怖いかというと、ニュースって「目新しいもの」にしか価値がないというところです。爆弾が雨あられと降り注いでいる間はニュースとしての価値があるかもしれないけど、停戦となると価値が下がる可能性がある。そのことによって、「今も続いている」にもかかわらず「過去のもの」とされてしまう。
少なくとも、これからもずっと観察しよう。そして、伝え続けよう。
ポチッとな
友達からまわってきたので、ポチッとしました。
最近のガザ情勢に対してavaazは署名を集めています。
お知り合い、ご友人にも転送して署名の輪を拡げて下さい。
協力よろしくお願いしますhttp://www.avaaz.org/en/gaza_time_for_peace/?cl=162271996&v=2608
とのことです。
わたしにできること・その2
amlへのおかさんからの投稿で
そこで・・・
色のついた厚紙でパレスチナの旗のミニチュアを作って、胸などにつけましょう。
色紙とはさみと糊(テープ)さえあれば、誰でも作れます。
わたしにできること
昨日のニュースでは、ヨーロッパでイスラエル政府のガザ虐殺に対する大規模なデモがあったという報道がされていました。でも、日本国内での集会・デモについてはほとんど報道されていないように思います。
aml経由でパレスチナに関する情報がいろいろ入ってきています。なかでも、おかまりさんが出される情報や行動提起はとても貴重です。
そんなこんなを読みながら、自分に何ができるだろうと考えてみました。
で、そのうちのひとつかなと思って、当分このブログの先頭にバナーを貼ることにしました。
http://browse.deviantart.com/?qh=§ion=&q=gaza
↑ここからいただきました。
「たったそれだけかい!」
と自分でも情けなくなります。でも、なにもしないよりも、簡単なことであっても、できることをひとつでもする方がいいということを、ここ数年学んできました。
てことで…。
感想文もいろいろ
今、2学期の人権学習の感想文をまとめているのですが…。なんか疲れてくる。
1年生も2年生も、すごい強烈な体験をした人が講演者なんです*1。
こういう人の講演って、感想文が3通りにわかれます。
- あまりの強烈さに「自分の悩みなんてちっぽけだ」というふうに書くパターン。
- 強烈さに触発されて「自分にもこんなのがある」というふうに書くパターン。
- 単に「感動した。がんばって下さい」というふうに書くパターン。
う〜ん。
1のパターンは、それはそれでいいんだけど、忘れてしまわないかなぁと思うんですよね。
2のパターンも、それはそれでいいんだけど、「ない」という子にとっては書きようがない。まぁ、人を選ぶという感じですか。
で、3のパターン。自分の中にある「しんどさ」に気づいていなかったり、あるけど出せなかったり、あるいはほんとうに別に何もなかったりする子かな。でも、こういう子が、実は一番多いんじゃないかなぁと思うのです。でも、こういう子どもたちの「気づき」や「変革」を促すことが一番大切なんじゃないかなぁと思うのです。そういうことができる話ができるようになりたいなぁ。
などと思いながら、感想文を打つんですよね。あーしんどい…。
トランスってなんだ?
最近「トランスって何だろう?」と考えることがよくあります。
わたしはトランスをしているのかしていないのか。
確かに、ヒゲは脱毛しました。パーマをあてるのもやめました。髪を伸ばしました。服もレディスを着るようになりました。ホルモンもはじめました。でもそれがトランスか?少なくともわたしは違うと、いつも感じています。
じゃぁ、トランスっていったいなんだろう。
それはもしかしたら友達関係というか人間関係の中にあるのかもしれないと、最近思うのです。わたしの友達や家族が、わたしをわたしの望む性別で受け入れてくれているかどうか。そこにトランスの本質があるんじゃないかなぁと思ったりもするのです。
極論すれば、ヒゲ面のくちゃくちゃ頭の「わたし」を、わたしの望む性別で受け入れてくれる人間関係があれば、そこにトランスはあるんじゃないだろうか。
じゃぁ、なんのために脱毛をし、髪を伸ばし、レディスを着るのか。
簡単に言えば、「自己満足」なんだと思うのです。だって、自分にとって楽な姿になるというだけのことですから、それは「自己満足」と言えるのではないかと思うのです。で、その内容はというと、極めてジェンダライズされた「自己認識」に、自分をあわせているだけのことです。もちろん、「できること」「できないこと」はある程度は考えていますし、「あわせる」のは「受け入れてもらいやすくする」というところも含みこんではいるのですが…。
ということは、もしかしたら、「フルタイムのトランス」って、「いつも自分の望む姿でいる」ということじゃなくて、自分の望む性別で受け入れてくれる人間関係を、日常の場においてつくること、ということなんじゃないのかな。
でもね、そういう人間関係をつくっていくと、中には、自分自身のありようを問い直してくれる人が出てくるんだよね。いや、こういう言い方はよくないですね。おそらくは、もともと自分自身のありようを問い続けている人が、「トランス」という事象と触れることによって、ひとつのきっかけを手に入れるという方がいいのかもしれない。そういう「既得権益としての性別」を問い直す人は、おそらくは「トランスの仲間」なんじゃないかなぁ。