今日は某研究会の会議で出張。
会議そのものは、それなりに終わって、と。最後に「視聴覚教材の研究」ということで、今回は「たかじんのそこまで言って委員会」を見ることにしました。
まずは、2008年11月16日放映分のもの。う〜ん、イマイチだなぁ。コメンテーターに「元ここの所長」が出てこられたんですが…。まぁ、いろいろ言いにくいんでしょうねぇ。すごくあいまいなビミョーな言い方に終始しておられたのがなんとも…。
にしても、スタジオの皆さん、ほとんどが「江戸幕府が」とか「士農工商」と「その下」とかいう話なんですね。というか、番組の最初にそういう話が出てきているし。あれ、なんとかしないといけない気がしますねぇ。
続いて見たのが、2008年12月28日放映分のもの。「年末SP“村崎太郎”部落差別」というやつですね。
前に読書感想文は書いたけど、実際本人の話を、テレビではあっても、聞くのははじめてです。
全体を通して感じたのは「村崎太郎さん、ええ感じやん!」ということ。やっぱり小説は小説なんですよね。だから、あれは「小説として読む」ことが大切なんですね。実際の村崎さんの話で、すごく「それ!」と思ったのが、「被差別者の心の中にある傷」のありようなんですね。「こんな傷があるんじゃい!」と出すんじゃなくて、これを淡々と語る。その内容に、すごく重なるものを感じたんです。
さらにこの回がよかったのが、朴一さんがいたことね。さすがです。随所に淡々としたネタをふりながらも、きちんとツボを押さえている。当たり前ですけどね。
で、「元所長」なんですけど、さりげなくカムアウトをされました。でも、なんというか、当事者性を極力排除した姿勢。これもまたおもしろいと言えばおもしろい。
で、スタジオの人たちの反応がまた…。
「元所長」に対しては研究者としての質問なんですね。で、これに対しては自分の経験でやりあおうとする。ところが、村崎さんに対しては、「やりあう」という態度はなく、ひたすら話を聞くだけです。これは、朴一三に対しても基本的に一緒。このあたりで「当事者」への態度と、そうではないスタンスの人への態度が見事に二分されるんだなぁと思いました。
で、もう一人の当事者「田嶋陽子さん」なんですが、これがまた当事者扱いされない(笑)。まぁ、田嶋さんの「キャラ」と言えばそれまでなんですが、ジェンダーというヤツがすごくやっかいもの扱いされているということをあらためて感じさせられましたね。
そうそう、カムアウトの話の中で「性同一性障害」という言葉が出てきた時は、ちょっとドキッとしました。なんちゅうか、「いきなりは心臓に悪い」みたいな(笑)。でも、田嶋さんが言っているのは「はるな愛」とか「椿姫彩菜」とかのことだろうなぁ(笑)。
カテゴリー: 考え
「先のことを考えようよ」とは思うけど
朝、職員朝礼が終わったら、授業を担当している1年生が職員室の前にいました。
S*1「先生、休校にならへんの?」
I「ならへん。そんなんなるかいな」
S「え〜、なんで〜」
I「あのな、インフルエンザのウィルスな、うちの学校の前で引き返しよんねん」
S「なんでやねん!」
兵庫→大阪ときて滋賀に飛んだ*2のは、どう考えてもおかしいなぁと思いながらも、ちょっとホッとしていたりします。やっぱり休校は困る。
なぜ休校をいやがるかというと、その分の授業を回復しなくちゃならなくなるからです。たいていは夏休みの開始日時を1日後ろへやる。
これがこれで終わればまだいいんですが、夏休みの初日から合宿を入れていたりするとことはややこしくなります。今頃日程変更をしようとしても、合宿崎のスケジュールは満タンだったりする。
あるいは、普段の平日はできないこと*3なんかを入れていたら、これまたたいへんなことになる。生徒もわたしたちも学校行事を基準に動いているので、それが変更になると、すべての予定が変更になります。そのことのリスクを考えると、「休校」の大小はあまりにも大きいわけです。
ただ、やむを得ない時は休校は避けられません。ところが、これが台風か何かで1日ぐらいならまだいいです。今回の兵庫・大阪のように1週間となると、おそらく行事予定は最初から組み直しになるんじゃないかと思います。
かつてのように7月20日あたりから夏休みがはじまって8月31日まであるなら*4、まぁそれでも夏休みでかなり回復できるでしょうが、今のように7月25日あたりまで授業をやって8月25日あたりから授業をスタートするような昨今の状況だとたいへんです。1学期の終了を1週間後ろにやると8月まで授業をしなくちゃなりません。2学期の開始を1週間前へやると、お盆から授業をすることになります。
ちなみに、最近は教室にクーラーがついていますが、あれ、学校としては使いたくないんです。なぜなら、電気代がかかる。当然予算の組み直しが起こります。あと、クーラーがついているのは普通教室だけで、特別教室にはない。となると、芸術なんかはクーラーがないところでやらないといけないわけです。さらに、絶対にクーラーがきかない「体育」なんかもあります。
机の上の計算であれば、「ここの一週間を、こことここへこうやって」ということは可能かもしれませんが、現場はそうはいかないことが多々あります。
てことで、そのあたりがわかって人は休校を避けたくなるんです。
今回に限らず、インフルエンザなんてものが出てきたら、ウィルスの温床の最大の場所はおそらく学校です。でも、休校は避けたい。結局感染予防のための休校はまずありません。ある程度感染が広まってからしか休校はできない。予防という意味では最悪だとは思いますがねぇ。その原因は、「回復措置が必要」ということなんだと、わたしは思っています。
あ、そうそう。休校になっても教員は当然休みじゃありません*5。
朝から吹いた
平日は朝はバタバタしているし、夜はダラダラしています。休日は、朝から遊んでいるし、昼からは飲んだくれています。
なので、郵便物をのんびり読む時間がありません(←変)。
今日は朝から遊ぶわけにもいかない天気だし、昼から呑む予定だから朝は飲まないということで(笑)、たまった郵便物をチラチラと読んでいました。と、いきなり吹いた…。
読んでいたのは、京都部落問題研究資料センターのセンター通信(pdfです)。2ページ目をペラリとめくると伊藤悦子さん@京都教育大学が『太郎が恋をするまでには』の書評を書いておられます。「これはおもしろい!」と興味津々で読みはじめました。
しばらく読んでいると「他者がどんな感想を持ったかが気になったので、事務局から紹介文もお借りした」とあります。どんな紹介文かなぁと思いながら読み進めていくと、
全国地域人権運動総連合の機関紙に掲載された、愛知人権連・甚目寺支部長丹波真理さんの「歴史の歯車は止められない―『太郎』とかかわって―(上)・(下)」(「地域と人権」一〇七一号・一〇七二号、二〇〇八年一二月一五日・二〇〇九年一月一五日)の記事、土肥いつきさんのブログのコメント、それと「アエラ」(二〇〇八年一一月三日号)の記事「歴史とたたかう結婚」などである。
おーい^^;;
あ、伊藤さんの書評はおもしろい!「カミングアウト・アイデンティティ」という見出しのついた「肝」の部分は「あぁ、それそれそれ…」という感じ。さらにアイデンティティの問題から続く「当事者性」の話は、「うん!」という感じでしょうか。この部分の「オチ」も「それ!」という感じ。
伊藤さんならではの辛口な結論もいいですねぇ。
排除の言葉
やっぱり気になります。
この間、新型インフルエンザにかかわってさまざまなニュースが飛び交っています。その中にちりばめられる「国民のみなさん」という言葉。
「国民」という言葉が、同時に「外国人」を排除する言葉であるという意識が、今ほんとうに希薄なんだなぁと思います。そして、そのことに強い危機感を持っています。
ちなみに、パートナーから「どう言えばいいと思うの?」って聞かれたんで「「みなさん」だけでええやん」と答えたのですが…。
メーデーかぁ
うちのポータブルCDMDカセット、毎日スイッチを入れると「今日は◯◯の日」って出てきます。もちろん、今日は「メーデー」*1。
にしても、いま日本国内で5月1日にメーデーの集会をしているところって、どこにあるんだろう。というか、「万国の労働者、団結せよ」という言葉が空虚になるほどに分断されてしまっていますね。いや、分断「され」というよりも、労働者自らが分断「し」ているのか。
「結集軸」なんていう言葉も、すでにないですからねぇ。
でも、それはもしかしたらしかたがないことかもしれない。
というか、かつてとは違う形で、さまざまなコミュニティをつくろうという動きは確実にあります。それらは、今はさまざまに異なる「要求」の中で集まっていますから、相互のつながりは希薄です。
かつてならば、それらを「一本化」というかたちで結集させていたんだしょうね。でも、いまはありえない。とするならばどうするか。
たぶん「思いを重ねる」ところからスタートするんじゃないかなぁ。もうちょっと下手な言い方をするならば「お互いさま」の精神?
「あの時助けてもらったし、今度は助けるわ」
というのはもちろん、
「ごめん、どうしても今日あかんねん」
もまたありという、ゆるやかな「お互いさま」。無理をしない「お互いさま」。でも、そういう相互乗り入れが拡がっていけば、あるいは今までとは違うなにかがうまれるかもしれない。
などと思いながら、淡々と日常の授業をしているんですけどね(笑)。
わたしは信じない、でも信じる
ここ数日髪の毛がうるさいので、右側でくくってます。
それを見た子どもたちの反応。
- 3年生
S「先生!最近メガネかけてんの!」
い「うん、メガネッ子でいこうかなと思ってな」
S「へー、今日はドジッ子のイメージなんやな(笑)」
- 2年生
S「今日はキュートやわぁ。めっちゃかわいい〜(笑)」
い「両方でくくったらこんなんやで、ほれ」
S「笑」
- 1年生
S[クスクスクス」
S「ヒソヒソヒソ」
ふとある一節が頭をよぎります。
そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
わたしは子どもたちの「差別なんてせーへんもん」という言葉は信じません。「人の世がどんなに冷たいものか」ということを、肌身にしみて感じますから。
でも、わたしは子どもたちが「変わる」ということは信じています。なぜなら2年生も3年生も、1年生の時は今の1年生と同じでしたから。その子どもたちが、いまわたしを支えてくれていることを知っていますから。
子どもたちが「変わる」ことを願い求めます。でも、それはわたしと子どもたちとの共同作業でしかあり得ない。だからこそ、変わった子どもたちをほめ讃える。そして、そういう関係をつくれた自分自身をほめ讃える。「変わりえた自分たち」に自信ができる。「必ず変わる」という自信ができる。
そこに「人生の熱と光」があるんだろうなぁ。
たまにはちょっと凹みそうになるけど、あしたからもがんばろう(笑)
境界はどこか?
昨日の夜、とても大切な友だちから、「自分はDVをしていたことに突然気がついた。恐怖で体が震える」というメールが入りました。
そういうことにとても敏感な人だからこそ、もしかしたら他の人なら気づかないような自分の内側のことに気づいてしまわれたのかなぁと思います。
なんと返したらいいんだろうと思いながら、簡単に返せるはずもなく、ダラダラと考えていました。
「愛」と「DV」の境界ってどこにあるんだろう。あるいは「愛」と「依存」の境界ってどこにあるんだろう。
「愛」が「DV」に変わる瞬間ってあるんだろうか。その逆はあるんだろうか?「愛」が「依存」に変わる瞬間ってあるんだろうか。その逆はあるんだろうか?
他者が見た時「愛」であっても、当事者にとっては「DV」なことってあるんだろうか。その逆は…。
考えれば考えるほど、どんどんわからなくなっていきます。
ただひとつ。わたしが考えたことは、「愛」「DV」「依存」にセンシティブになること。そのブラックホールから脱出し続けること。
「安定した「ない」状態」をつくることではなく、つねに「なくし続ける」姿勢を保ち続けることが大切なんじゃないかな。
この世知辛さはなんだろう・その2
そう言えば、失敗した人間をコテンパンにこき下ろす人には2種類いるのかもしれない。
ひとつのパターンは、ほんとうにものごとを注意深くすすめ、失敗をしないタイプの人。おそらく、なぜ失敗するのかわからないんでしょうねぇ。
もうひとつのパターンは、かつて失敗をこき下ろされた人。あるいは、自分が失敗したら許されないという危機感を持っている人。
後者がこわい。攻撃は最大の防御なり。もしかしたら、これを地でいっているのかもしれません。それだけに容赦がない。でもなぁ…。それって、悪循環やんかと思うのです。
願わくば、自分が許されなかったからこそ、そのつらい経験から他の人を許すというふうであってほしいし、少なくとも自分はそうありたいなぁ…。
てか、わたしは許された経験が多いから、そんなでもないか…。
この世知辛さはなんだろう
まぁ、公園で素っ裸になったら、それはアカンのでしょう。でもなぁ…。タイーホ→尿検査→結果が白でも家宅捜査→大臣名指しでイチャモン。
しかも、大臣は「言いすぎた」とか言っているらしい。
なんかここ数年感じているんだけど、最近って「失敗を許さない世間」になっているような気がしてならないんです。
かつてわたしが担任をしていた頃の生徒・保護者との会話はこんなんでした(P
親、Iはわたし、Sは生徒)。
- 1度目の停学*1
P「先生、ほんとうにすみません」
I「いやぁ、人間誰しもおイタはしますから。まぁええ勉強と思っておいたらいいと思いますよ」
- 2度目の謹慎
P「先生、前にも言ったのに、またこの子こんなことしてしもうて。すみません」
I「まぁ、ちょっとした出来心でしょう。(生徒に向かって)ええか。2度あることは3度あると言うけど、もう繰り返したらあかんで」
S「はい」
- 3度目の謹慎
P「先生、もう、この子、なんかい言うてもあきませんわ」
I「まぁそんなこと言わんと。(生徒に向かって)ええか、仏の顔も3度までっていうからな。これが最後やぞ」
S「はい」
- 4度目の謹慎
P「もう、これ以上迷惑かけられません。学校やめさせますわ」
I「こない言うてはるで、どないすんねん」
S「もうぜったいせぇへんし」
I「この子、こない言うてますわ。まぁ、親も教員もだまされるのが仕事ですし、もっかいだまされましょか」
そりゃぁ、許されない失敗はあると思います。でも、何が許され、何が許されないかを知るためには「練習」が必要なんじゃないかとも思います。怒られ許されを幾度か繰り返す中で、ほんとうに許されない失敗を回避する力が身につくんじゃないかなぁ。
一度の失敗でこてんぱんに叩かれたら、次から失敗をおそれて最小限のことしかしなくなるし、失敗したとしてもそれを隠すようになる。その方がよほどまずいと思うんだけどなぁ…。
なんていう考えは、単に自分に甘いだけかなぁ?
*1:正確には謹慎なので、以下「謹慎」。
まぁこんなもんでしょう
今日は職場の宴会。職場の宴会って「行かない」という選択もあるんですが、いちおうこういうのは顔を出すことにしているので、行くことにしました。
くじ引きをして、テーブルが決まって、同じテーブルの人たちと当たり障りのない話をする。「ご歓談の時」は、ビールビンを持ってきた人と適当に話をして、たまにしゃべりたい人がいたらビールビンも持たずに行って話をする。まぁそんなもんです。
で、宴会も終わり。
2次会に行く人、帰る人。しばらくすると誰もいなくなります。
どうしようかなぁ。このまま帰るのも寂しいけど、飲みに行くヤツらはみんなどっかに行ったからなぁ。まぁいいか。一人でちょびっと呑んで帰ることにしよう。
にしても、つくづく思ったけど、職場には友だちがいないなぁ(笑)。