学会としてそれは必要なのか?・GID学会2日目

朝、7時に目覚ましをかけてたのが幸いして、遅れずに会場に到着。
第1会場のプラグラムは…。当事者のワークショップらしいです。ごめんやけど、ええわ。
てことで、第2会場へ。
まずはトランスとフツーの人の心理検査の結果の比較。結論は「トランスもフツーの人でした」でした(笑)。そりゃそうだ。
続いて、MMPIを使った心理検査の結果。こちらは「当事者はたいへん」だったんですけど、「比較群がなかったらダメじゃん」という指摘をくらっておられました。そりゃそうだ。
おもしろかったのは、MMPIを各種採用試験に使ってることへの批判の演題かな。まぁ、わたしも心理検査をはじめて受けたとき「これは答えられへんわ」と思ったけど、あれを採用試験で使ったら、そらあきませんわ。
あと、岡山の「封じ込め」の演題は、これまたデータがおもしろかった。
にしても、いつも思うんですけど、例えば小学生にとって身近なところにいる大人って、親と教員くらいなんですよね。なので、「支援してほしい人」とかいうことになると、その2者しか出てこない。でも、これ、リスキーだと思うんですよね。だって、小学生にとっての教員って、基本担任だから、ひとり。で、仮に両親がそろっていたとしても、大人は3人。で、この3人が理解がある可能性は、やはり低い。てか、そもそも親とか論外という話もあるから、教員一人しかいない。「だから教員は研修して」とかいう話になるんでしょうけど、やはりリスキーだと思います。じゃどうするかというと、リスクは分散させる。具体的には、いろんな大人がかかわれるようにする。それも、教員だけじゃなく、例えば少年野球チームの監督とか、塾の教員とか。そうすれば、どこかにひっかかる可能性がたかくなる。でも、なかなかそうはならない。なぜか?それは教員以外の大人は「研修」の対象としにくいからなんじゃないかな。でも、それは責任の転嫁のような気もしますね。
なんてことを考えたのですが発言したら、小学校の教員が正反対の意見を述べられたりするわけです。どころか、「クラスにひとりからふたりいる。自分も今まで何人もの性別に違和を持つ子どもを担任してきた」という発言まで飛び出して、思わず隣にいたUいんたとわたしが同時に「違うよ」とツッコミを入れたにもかかわらず「いたんです!」と反撃。
もうね。
理解があるのはわかる。正義感にあふれてるのもわかる。そして、少しは知識を身につけたのもわかる。でも、GID学会という、ある種のプロパーが集まるところで複数の人間から「違うよ!」というツッコミが入ったら、そこにはなにかあるんですよね。そこについては謙虚にならなきゃならんと思うんですよ。
ま、こういう教員がGIDの子どもをつくりだし育てるんだよな。

で、お次は「中年期・老年期の性同一性障害」。我がことながら、もう、笑いっぱなしです(笑)。石丸さんからは詳細なデータから「中高年におけるトランス女性とトランス男性のあり方の違いに」みたいなのが提示され、松本さんは「意地悪ばあさん」を使いながら中高年のジェンダーのあり方に切り込み、針間さんは予想される問題点をていねいに列挙されました。で、鶴田さんが、これまたエスノメソドロジストの面目躍如といったところです。ちなみに、S倉さんからの「サンプルの偏り」みたいな質問に対して、「理解可能なんだからコミュニティの成員」とかいう返事をしていて、ここがまた爆笑でした。
で、血まみれ映像はしんどいので、次のシンポジウムは休憩タイム。テンガの販売をしておられる人と鶴田さんとわたしの3人で社会がくトークでもりあがってました。
最後のシンポジウム「哲学との対話」は、あまりにも話が高度すぎてついていけない感じではありましたが、松永さんのDSMの変遷や思想の話は、とてもわかりやすかったです。
てことで、今年のGID学会もおしまい!

残りは打ち上げです。なんか、20人くらい集まって、中華料理屋→中華料理屋→居酒屋→カラオケで、終わったのが4時。
アカンやん。

にしても、今回の学会で不可解だったのは、当事者のワークショップやシンポジウムがあったことですね。
んー
まぁ、啓発のための場であれば必要なのかもしれないけど、学会のプログラムとして必要なのかなぁ…。

「期待と不満がひとつにーなってー」♪・GID学会1日目

朝、新幹線に乗ってKうさんと合流。そのまま東京へ。今日〜明日、第18回GID学会です。
はじめての参加が第3回で、そこからはずっと参加し続けているので、気がつけばもしかしたらそれなりの古株になっちゃったのかも。
とりあえずホテルにチェックインしてプラプラ歩いて会場へ。しかし「日本教育会館」を使うか(笑)。
で、学会がはじまりました。
まずは松永さんの講演です。
性同一性障害を「身体の性別と性自認の不一致」ととらえるのではなく、「性同一性と自我同一性の統合がはかられていない状態」ととらえるという松永さんの考え方。なるほどなと思いました。さらに、松永さんの「語る」ことを通した「自己物語の再構築」という診察の方針も、これまたなるほどなでした。
続いて、今回注目しているシンポのうちのひとつ。「児童期・の性同一性障害」それにしても、シンポジスト4人のうちの3人が関西か…。
中山さんの話は、それそのものはおもしろくはなかったんだけど、関東の医療関係者がなにを考えているかがわかるという意味では貴重でした。ちなみに、「考えられる連携先」としてあげられていたのが文科省通知と一致していたのは「アレ」やなぁと。
S藤さんが「交流会」のことを少し話してくださって、これはかなりうれしかったですね。ちなみに、紹介された3人は、最後まで聞いたところで全員特定できてしまいました。交流会にかかわるって、そういうことなんですよね。と同時に、交流会ではわからないことを医療関係者は知っている。当たり前のことだけど、子どもは単独では存在してなくて、家庭や学校の中で人に囲まれながら生きています。そこにはダイナミックな変化が常に起こっている。でも、医療も交流会も学校もそれらのうちの一部しかわからない。だから、医療と敵対するのではなく、相互に補完しあいながら子どもにかかわっていかなきゃならないんですよね。
続いて文科省の役人さんの講演。通知を出すにあたっての裏事情的なところがほんの少しあったので、ま、それは収穫かな。でも、「調査」の中身をいろいろ話しておられましたが、それはプレスリリースにあるので、そこを見りゃわかるかなと。
で、質問。まずは感謝を述べた上で「ピアサポートをどう考えるか?校則に言及した意見はあったのか?同性愛についてもっとやらなきゃならんと思うけど、どない?」みたいな。まぁ、どれもこれも文科省としては何とも言えない話なんだろうけど、あえて出す必然性はあると思うのです。で、答えは「各学校で」です。たぶん、そのあたりがあったのかな、N島さん@岡山から「現場に丸投げで無責任」のいう発言があったりして、なかなか萌えました。やはりN島さん、すごいなぁ。
続いて、「青年期・成人期のGID」。これも気になってたんですけど、休憩なしはきつい。とりあえずトイレに行って、ロビーにいる人と雑談して、会場の中に入ったのですが、完全に乗り遅れてしまっていました。
で、懇親会。食べられなかった。
で、二次会。30人くらいの宴会は、なんか、混沌としてました(^^)。
で、3次会。Kうさんは、やっぱり呑み友達やなと。

にしても、たぶんわたしはもう登壇することはないんやろな。第7回のGID研究会ではじめて「トランスの高校生の進路保障」のシンポジウムを組んで以来、それなりに問題提起もし、自分なりには実践も研究もし、たぶん「学齢期のトランスジェンダー」という分野では、まぁそれなりには専門的な人間になってきたとは思うのですが、それと「学齢期の「GID」」とは違うんでしょうね。シンポジウムで質問した時に指名されなかったのはショックやなぁ…。質問すらさせてもらえないのかと。
あ、服と背景の色が一緒で見えなかったのか(笑)。

偲ぶ会

で、大阪市内に移動して、恒例の某会議。その後、いつものお店で呑み会です。
今日はいつも一緒に呑んでいた大島さんを偲ぶ会です。大島さんがいつも座っていた席に蔭膳です。

しばし大島さんの思い出話でもりあがったあとは、いつもの話題に突入。ま、そんな感じです。
でもま、「呑んだら死ぬよ」ってストップかけられてたらしいんだけど、もうストップしなくていいから、きっと一緒に呑んでたよね(^^)。

女子会の謎

今日は職場の同僚と私的女子会です。と言っても、わかばで肉を喰らう会でもあるんですけどね(笑)。
てことで、夕方京都駅に集合して、わかばへ。
で、おいしいお肉を食べたわけですが…。
んー
たぶん、女子会は、わたしには無理だな。うまく話せない。なんだろ…。うまく話せないんですよね。というか、話題を転がせない。なので、まぁないと思うのですが、たとえ女子会に誘われたとしても、行かないほうが身のためですね。それがよくわかりました。
ふだん一緒に呑みに行くのは、不思議なほど女性です。そして、とても楽しい時間が過ごせています。そういう女性たちと昨日の人たちは違うんだろうか。それとも、わたしと呑む時の女性たちはモードを切り替えているんだろうか。
もっとも、昨日のみなさんが、わたしが感じたようにわたしのことを見たかどうかはわかりませんけどね。

あ、でも、とても楽しい時間が過ごせたのは確かです。問題は、わたしが楽しかったように、他の人も楽しんでくれたかどうかってことです。

立ち続けること

今日は「京都・在日外国人生徒交流会」です。が、待てど暮らせど、誰も来ない。ま、理由はわかってます。広報が遅れたからです。てか、いつものリマインダメールも忘れてたし。
なんか、ダメですね。いろんなことがあるから、頭から飛んでしまってます。
てことで、2時間近く待って誰も来ないので、本日は閉店。こんな日もあります。てか、過去経験ないわけじゃない。こんな日があれば、いっぱい来る日もある。とにかく「場」を絶やさないこと。これは、大学時代に学生聖歌隊の先輩の姿から学んだことです。

てことで、おにぎりを仕入れて大阪へ。御堂筋線の中で激しく葛藤をしましたが、大国町で下車。「関西性教育セミナー第20回記念イベント「押されても、揺らいでも、立ち続けることの意味を問う」」に参加です。
到着すると、みなさんメッチャ驚いてはりました。まぁ「呑み会だけになるし」って言ってたのに、そりゃおどろきますわな(笑)。
会場に入ると池上千寿子さんがおられます。あいさつすると、「あたしの話、終わっちゃったのよ」とのこと。うぇーん(;_;)。
で、ひょいと前を見ると、なんと長谷川博史さんの姿が!メッチャ久しぶりです。
なので、こんなスリーショット。

で、セミナー再開。
ここからの3人の話がおもしろかった!
おかっちさんの名言「逆風があるから立ってられた」はなかなか沁みるものがありますね。野坂さんの学校にかかわる話もとても示唆に富むものでした。そして、ワールドワイドな東さんの話は、やはり元気が出ます。で、まさにこの3人にバトンを渡したのは、やはり池上さんなわけです。
てことで、懇親会。

なんかもう、ほんとに明日からの元気がもらえるひとときを過ごすことができました。
でもま、だからこそ、飲み過ぎなんだな(笑)。

しんみり?

今日は朝昼は某在日外国人教育関係の会議です。
ほんとうにここでわたしができることってなんだろうと、いつも考え込んでしまいます。なんの実践もないし、情報もないし、できることと言えば事務仕事。そんな事務局次長でいいのかと思うのですが、まぁ、人手不足だからわたしみたいなのでもいられるんでしょうね。
てことで、みなさんの圧倒的な実践と情報量に溺れながら(笑)、そこに座っていました。

で、夜は「全国在日外国人生徒交流会卒業生の会」。ところが、なんでも暴走機関車がぎっくり腰とやらで、なんかすごく静かな会になりそうな予感です。で、フタを開けると、やっぱり静か。
途中まで一対一で話。やがて何人か来たけど、なんかもう、静かです。
でも、こういうしっとりとした会もたまにはいいかもです。マジで「たまに」ですけどね^^;;。
てことだ、ワインを飲んでるうちに爆睡です。

笑いをのみこまなくても(;_;)

今日は大阪にある医療系の学校の教職員研修です。
にしても眠いです。行きの電車の中で爆睡してしまいました。そんな体調なので、とにかくテンションあげなきゃ。というよりも、時間が…。

そもそも2時間かかる話を「1時間半で」って言われるんですが、実は無理なんですよね。「いや、講演なんて1時間半やろ」って言われたら、そりゃそうなんですが、無理なものは無理なんです。
だって、例えば部落問題であれば「当事者ばなし」「結婚差別」「部落史」「A地区の実態調査より」みたいに、自分のフィールドに特化した話ができるし、例えば「部落史」の話の時に「当事者ばなし」は要求されない。同様のことは、在日でも障害でも、まぁ言えるかと。
でも、セクシュアリティの話になると、とたんに「基礎的な話をしていただいて、ご自身の話も、あ、できれば子どもたちのことも」って、幕の内弁当みたいなことを頼まれるんですよね。同じことを部落問題に置き換えると「あの人あの人あの人」の話を合体したような話にならざるを得ません。となると、単純に考えて4時間半〜6時間かかります。それを2時間に圧縮してるわけで、そこからさらに30分削るのは無理です。てか、30分削ると、中身がなくなるとかいう話もあるわけで。
まぁ、単純に知識の獲得だけであれば、本を読めばすむ話です。てか、そのほうが豊かで正確な内容が書いてあります*1でも、わたしに依頼されるということは+αを考えておられるんだろうし、わたしもそこしか話せない。それが「削れない30分」の中にあるんですよね。

なんてことを考えるヒマもなく、今日も2時間の内容を1時間半でしゃべるべく1.3倍速くらいのスピードで話し続けました。
いや、「笑い」には「間」というものが…。わかってるんですけど、そんなヒマはないです。なので、笑いが少ない。いや、そもそも「笑いのレベル」が低すぎるのか?そんなことはないです。笑っておられる。なのに、飲み込んでおられる。もしや…。
話し終えて、謎が解けました。笑っておられたのは京都出身者でした(笑)。たぶん、大阪出身者が笑わないところで笑ってしまう自分がわかっていて、なんか、遠慮しながらも、笑いがとめられなかったんでしょうねぇ。
最後は地元ネタで和やかに話あって、今日のお座敷も終了。

そのあと、友だちと合流して呑み。もちろん1軒ですむはずもなく、2軒目では1時間しかないのにワインボトルを頼んでしまう暴挙に出たり。
それでもなんとか終電には間に合って、無事帰宅。

*1:もちろん「ノウハウ本」を除く

玖伊屋からのおたふく

朝起きると、まだ誰も起きていません。しかたないので、寝ました(笑)。
でも、そうこうするうちに起きて来た人もいるので、合流。これまたしかたないので、スクリュードライバーあたりを呑んだりして。にしても、しんどいというか、眠いというか。ダラダラしているうちに、どんどん時間が過ぎていきます。でも、みんなおたふくに行く気満々です。
てことで、12時ぐらいから片づけをして、1時ぐらいにようやくおたふくへ。
ここで、いつもの「月見とろろ」をすすりながら、いつもの「焼酎お湯割り濃い目梅干し入り」をすすります。
実は、今日は大阪に行きたいのですが、大阪はあまりに遠い。今の体調で大阪に行くと、帰ってこられるかどうか、帰ってきたとしてもどんな状態で帰ってくるのか、はたまた、帰るつもりがどこか遠いところへ行ってしまうことも考えられます。ということで、大阪行きは断念。
5時過ぎにおたふくはおひらき。バスに乗って家に帰ったのが6時過ぎ。そのまま着替えて布団の上に倒れたら、見事に寝てしまいました。

昼呑みからの玖伊屋

今日は昼から組合の特殊業務。でも、そんなものはサックリ終わります。
その後、来年度、ひとつしでかそうと思っている悪だくみへ向けた謀議です。
い「どこにしましょう?」
F「どこでも」
ということで、なぜかわかばへ。肉を食べながら、少しだけ謀議。でも、途中から謀議よりも呑み会になるのは必然です。で、呑み会になると「ハイボール濃い目」になるのも必然です。で、注文したら
「ごめん、炭酸ないし、これ呑んどいて」
って出てきたのがこれ。

これは、ハイボールとは言いません。ロックです。しかも、この量か…。まぁ呑みましたけどね。

その後、あたりを簡単にフィールドワーク。閉館時間ギリギリだけど電気がついている「柳原銀行資料館」をのぞくと、Y内さんが中から手招きされます。ラッキー。ということで、特別展の案内をしてもらったり。ちなみに、今やっている特別展は崇仁小学校の教員にスポットをあててます。これがすごくおもしろい!必見ですね。

で、そのままFさんと玖伊屋の会場へ。一息ついて、買い出しです。今日は…。チーズフォンディ的ななにかと、トマト鍋的ななにかをつくることにしました。
で、買い出しをして、わっさわっさと準備をしているうちに、続々と人がやってこられて、えらい盛況になりました。
で、玖伊屋の〆は映画上映会。にしても、「人間みな兄弟」「忘れられた皇軍」「絞死刑」の3本立てはダメですね。全部見終わったらぐったり疲れて、あとはいつもの台所前に布団を敷いて撃沈です。

やさぐれの翌々日(笑)

今日は「かつての生徒」と呑み。ひとりは5年前の放送部の卒業生です。こちらはまぁいい(笑)。もうひとりは、なんと28年前の卒業生。しかも担任したわけでもなく教科担当だったわけでもない。でも、とても印象的だった生徒のうちのひとりでした。
行ったのは鉄板焼き&お好み焼きの有名店。とてもおいしかった。でも、それよりもなによりも、楽しかった。
なんか、ふたりの卒業生で共通してたのは「わたしは生徒をひとりの人として見てた」ってことでした。
で、それを聞いたわたしは「へ?」って思った。だって、それって当たり前のことです。高校生ともなれば、15年なり18年なりの人生を過ごしています。その人生をどう見るかなんですよね。
教員が見ることができるのは「麸」みたいなもんです。中身はスカスカ。でも、その子の人生はそうじゃない。「生麩」のようにぎっちりと詰まっている。で、大切なのは「自分が見ることができるのは、たかが「麸」程度」ということを認識することと「「麸」から「生麩」を想像すること」だと思っています。だから、いろんな話をしたり、家庭訪問したりしながら「麸」を「生麩」へと近づけていく。そして、そうやって見ていくと、それぞれの子どもには、それぞれの人生があること、そしてその人生をつくってきた背景なんかが立ち上がってくる。そうした時、その子へのリスペクトってのは自然とわきあがってくる。だから、当たり前のこととして「ひとりの人」として対面せざるを得ない。いや、逆かな。そういうふうに対面したいから「ひとりの人」として向きあうところからはじめるのかな。まぁ、そのあたりは、ほとんど鶏・卵です。
で、そうやって見ていくと、その子の「悪いところ(笑)」はその子の背景に原因があり、その子の「いいところ」はそのご自身の力だと思うようになる。もちろん、ここで「悪い/いい」なんてあたりがすでにダメダメなんですけどね。でも、とりあえずそれをおいといて、そういうふうに見えちゃうんです。
でも、そういうふうに子どもと向きあう教員って少ないらしいです。だって、ふたりとも「そういうわたし」を覚えてくれていたということは、「他の教員とは違う」ってことですから。さらに言うならば、今回一緒に飲んだうちのひとりは、わたしが教員になった年の入学生です。つまり、なんの経験もない、青二才のわたしでした。そして、もうひとりは5年前の卒業生。で、そこに変化がないということは、もとからわたしはそういう教員だったということです。
びっくりです。だって、教員たるもの、そうやって向きあうのが当たり前だと思っているからです。当たり前のことが少数であるなら、わたしは教員らしくない教員なのか。
なんか、教員ってなんだろう。学校ってなんだろうと思ってしまいます。

まぁ、もしかしたら、学校とか教員とかって、わたしが考えているようなものじゃないのかもしれませんね。
その子の表面を見て、自分の価値観にあっていれば「いい生徒」。あわない振る舞いをする生徒は「悪い生徒」。そうやって断罪する。そして「いい振る舞い」は学校や教員の成果で、「悪い振る舞い」はその子のせい。だから自己責任。

わたしはそれは教育ではないと思うのですが、「わたし」が印象に残るのであれば、「わたし」は少数であり、「わたしではない」が多数で、それが教員であり学校である。少なくとも、それが「今」なんですよね。
わかんないです。

学校ってなんだろう。教員ってなんだろう。教育ってなんだろう。
わからなくなります。
でも、少なくとも、今日飲んだふたりが、わたしのことを覚えててくれて、しかもそれを肯定的に感じてくれていたってことは、「こんなわたしでも教員やっててもいいんだ」っていうこと。そう思わせてくれた。
それはとてもとてもありがたいなぁ。