大宜味村への遠足

朝6時に目が覚めました。7時からスタンディングのはずですが、まったく動きがありません。どうしたもんだろ。いちおう「スタンディング→琉大まで送ってもらう」って話だったけど、これはあぶないな。
てことで、7時半くらいに置き手紙だけして、こっそりと「そいそいハウス」を脱出しました。
そこからバス→タクシーを使って琉大へ。いろいろ探して、教室に潜り込めました。

てことで、「基礎演習」です。去年も参加させでもらいましたが、ほんとにおもしろいです。学生の発表は、やはり未熟です。でも、野入さんの仕掛けのおかげで質問が出ます。時として「それ、質問と違ごて意見やろ」みたいなのも出ます。それへの返しがおもしろい。
そして、野入さんからの臓腑をえぐるような質問。「わかりません」と打ちひしがれる学生さん。こうやって鍛えてもらえることって、すごく幸せなんだよな。
最後にコメントを求められたので、わたしからはふたつ。
ひとつは「発表者としての皆さんが知っておられることを、聞いている人が知っているとは限らないので、基礎情報は伝えてね」。もうひとつは「調べ学習から研究に移行してね」。
まぁ1年生だからしかたないかもしれないけど、逆になまじ小中高で「調べ学習」をやってきた子らだから、そこから抜け出られないのかなぁ。

「基礎演習」が終わったところで、恒例のフィールドワークです。車を出してくださるのはT村さん。3人で楽しくドライブです。車中で
「プレゼンの雛形みたいなのは出されないのですか?」
と聞くと
「出しちゃうとみんな同じ型になってしまうから、あえて出さない」
とのことでした。つまり、自分で調べろってことですね。

で、車は一昨日いた名護を通って、愛楽園を通って、さらに北上します。到着したのは「笑味の店」です。
大宜味村は長寿の村として知られていて、その長寿を支える食をだしてくださるのがこのお店です。お店で出す食材は、ほとんどが自分の畑でとれた野菜です。そのためは、火・水・木が定休日。おそらく畑仕事をしたり、仕込みをしたりしておられるのかな。
お店の裏は、ひたすら山です。山原ですね。

わたしがお願いしたのは「くふぁあじゅぅしぃランチ」です。

野入さんとT村さんは「まかちぃくみそうれランチ」。

うーん、失敗したかな。でも、たぶん多すぎるな。と思ったら、野入さんがタケノコの料理を、T村さんがテビチをわけてくださいました。ほんとにすみません。
なんかもう、どこまでも身体に優しいんですが、あまりにもおいしいです。くふぁあじゅぅしぃ」にシークヮーサーをしぼると、これがまたおいしい。食べることで身体が元気づくってよくわかります。こうやって、少量の野菜を、その代わり多品種を食べることが身体にいいんですね。
食後は散歩です。てか、畑への案内の地図が笑えます。

「海」「笑味の店」「畑」「山」しかありません。これが大宜味村なんですね。つまり、耕作地がほとんどない。それが大宜味村をつくっていくんですね。

続いて向かったのは「塩屋」です。ここは、世界ではじめて牡蠣の養殖をおこなったところです。ちなみに、牡蠣の養殖がはじめての養殖なので、つまり世界ではじめて「海を使って育てる」ことをしたところです。

ここから石巻なんかに牡蠣の養殖が引き継がれていきました。
それにしても、現在のバラエティはひたすら「日本、すごい!」ってやってますが、それは当然批判すべきことなんですが、なぜか塩屋が紹介されることはないです。それはいったいなぜなんだろうと思います。
そんなことを考えていたのですが、ふと山の方からひたすら「カンカンカン」という鳴き声が聞こえてきます。「あれなんですか?」と野入さんに聞くと「セミです」とのこと。へー、そういう鳴き声なんだ。と同時にもうひとつ気がついたのが、「蝉の鳴き声が聞こえる」という事実です。それをかき消す騒音がない。つまり、ヘリが飛んでない。これが北部なんですね。

お次に向かったのが、「大宜味村役場旧庁舎」です。

これが沖縄初のコンクリ住宅です。メッチャおしゃれです。

これをつくったのが「大宜味大工」たちです。
大宜味村は、とにかく耕作地がない。そこでどうしたか。男性は学力の高い子は医者。そうでなければ大工。女性は芭蕉布です。大宜味大工はすごく高い技術を持っていて、例えば那覇に行って役場の建築関係の仕事なんかも奪っていったとか。那覇大工と争いになることはもちろんありますが、ボコボコにやられても
「あの病院の前でやってくれ。あそこには同郷の医者がいて、助けてもらえるから」
とか言って那覇大工をビビらしていたとか。でも、そのネットワーク力はすごいです。
で、この旧大宜味村役場は、その大宜味大工の総力を結集してつくったものらしいです。ほんとにおしゃれだし、かわいい。
役場の前には、「琉球政府」の溝蓋が!

ガジュマルの木にはブナガヤーが!若干こわい^^;;

隣には慰霊碑があります。

憲法九条をメッチャ押してます。建てられたのは2017年。大宜味村の人々の気合いを感じます。
役場前の碑。

「人材を以って資源と為す」とあります。これが大宜味村なんですね。そういや、かつて日本もこうだったよな。でも、今は人材を使い捨てにする国になってしまった気がします。もう終わってるな。

続いて向かったのは、道の駅。パイナップルは露地物がおいしいんだそうです。

てか、露地物のパイナップルとか考えられません。実は、大宜味村は石垣にたくさんの人が移民に行っていて、台湾から伝わったパイナップルが、その移民の人たちを経由して大宜味村に入ってきたと言うことです。なので、パイナップルは当たり前にそのへんにあるっていうことです。

お次は「田嘉里酒造」です。ここは沖縄最北端の酒造ということです。予約をすれば蔵を見学させていただけるとのことで、T村さんが予約を入れて下さっていました。
ここがおもしろい!案内してくださったのは、若い女性。メッチャ詳しい。
使うお米はこれ。

思わず「インディカ米!」と口走ってしまいました。泡盛はインディカ米を使うんですね。れを山原の水で洗って、黒糀の菌をつける。で、放置して発酵させます。で、蔵の壁や天井が真っ黒です。

これ、どう考えても黒糀の菌とか酵母が住んでます。『もやしもん』の世界です。
で、発酵しはじめたお米をタンクに移して加水します。ここでアルコール発酵がはじまります。

タンクのあたりに行くと、ものすごく香ばしい酵母の香りがぷんとしてきます。それにしても、この香り、しょっちゅう嗅いでるなと思ったのですが、うちの子どもがパンをつくったりする時の香りです。まぁそりゃそうだなと。
お次は蒸留工程です。

最初に出てくるアルコールは、70度くらいなんだとか。その後出てくる水で少しずつ度数を下げていくらしいです。これを寝かせます。

他の酒造メーカーは4ヶ月ほど寝かせて出荷するところもあるらしいですが、ここは最低1年は寝かせるんだとか。そして、奥には古酒のタンクがあります。
そして瓶詰め工程を経て、ラベルが貼られて製品になります。

ということで、試飲タイムo(^^)o

左から20度・25度・30度・30度の3年古酒・40度の5年古酒・44度の5年古酒・10年古酒・17年古酒です。左から順に呑んでいくと、ほんとうに「差」がよくわかります。なにより、30度から30度の3年古酒になったとたんに明らかに味が変わりました。ここからはどんどん味が濃くなり、舌触りがまろやかになっていきます。おもしろい!
と、野入さんが石垣島に行った時の話をしたとたん、社長さんが出てこられました。そこからは、延々と大宜味村の歴史と石垣への移民の話です。なんか、すごい。
野入さん曰く「石垣に移民した人が大宜味の何が恋しいかというと、「水」って答えたそうです」。
車長さん「あー、水はね。向こうからひいていたんだよ」
みたいな。さらに社長さん曰く「「水」っていうのはね、たぶん泡盛のことだ」
マジか(笑)。
さっき書いたパイナップル畑の話も出てきます。なんでも、海の際から山のてっぺんまでパイナップルが植わっていたとか。子どももパイナップルの入ったカゴを運ばなきゃならなくて、頭のてっぺんにカゴの跡がついたそうな。
ところが、そのうちパイナップルの相場が暴落したらさっさとパイナップル畑をやめてしまう。さらにキューバ危機で(笑)砂糖の価格が高騰すると、すぐにサトウキビの栽培をはじめて、またまた海の際から山のてっぺんまでサトウキビを植えたんだとか。
社「大宜味の人は飽きっぽいからねー」
いやいや^^;;。
ちょうどこのころ社長さんは高校生で
「高校が終わったら、サトウキビをトラックに積んだよ。懸垂みたいな感じで投げ上げて、トラックいっぱいで50セントかな」
セント!そりゃそうだ。キューバ危機は返還前です。にしても、こんな話がシームレスに出てくるのがすごいです。
そんなこんなで、結局30分ほど、すごく濃いぃ話を聞かせてもらって、社長さんは退社です。で、「今の方が社長さん?」という野入さんの質問に対して、説明してくださった方が
「はい、そうです。わたしの父です。ショートリリーフなんです」
てことは、この方が次期社長!すごい!
なんでも、ここの酒造、大宜味の人々が共同出資してつくったらしいです。で、お酒ができたらみんなで呑んだと。すると、売る分がなくなったと。これではダメじゃんということで、酒蔵の建て直しをはかって、今の社長さんになったとか。なんかもう、大宜味の人はフリーダムすぎます。そんなことで、ほんとうに地元の人から愛されている酒蔵なので、ここの泡盛は80%は大宜味で消費され、那覇や首里に行くのは20%くらい。県外にはほとんど出まわっていないんだとか。
なので、30度の3年古酒を買って、ついでに次期社長さんが着ておられたポロシャツも買ってしまいました。で、最後に記念写真をパチリ。

次に向かったのは「芭蕉布会館」。
芭蕉布はバナナに似た糸芭蕉の茎の繊維を糸にして織ったものです。原料となる糸芭蕉。

この糸をつくるのがものすごくたいへんなんだとか。今、この糸をつくれる人は大宜味でもひとりしかおられなくて、その方は人間国宝らしいです。
記念館に着いて、作業場の2階に向かう階段で、向こうから白い長靴をぶら下げて降りてこられた98歳のおばあは、なんと人間国宝!しばし作業を見て、下に降りて製品を見て、紹介ビデオを見て、外に出ると、人間国宝が水をまいておられました(笑)。どんだけカジュアルな人間国宝やねん。
ちなみに、大宜味のエイサーは、沖縄県内でも数少ない女性のエイサーだとか。今度の日曜日、2年に1回の「喜如嘉まつり」があって、その時に見られるんだとか。うーん、それを見たら帰れない。残念!

今日の遠足最後のポイントは「共同売店」です。沖縄北部には共同売店があって、一度のぞいてみたいと思っていました。
共同売店の歴史は、日本が沖縄を植民地化した当時、本土から商人がやってきて、山原の木でウチナーの人がつくった炭をメッチャ安く買いたたいて、舟で那覇へ持っていき、帰りは舟で生活品を持ってきて高値で売るという、あこぎな商売をしていたところからはじまります。でも、生活品は買わなきゃしかたないから、やむを得ず買う。
ところが、大宜味の人たちは、自分たちで舟をつくります。さすがは大宜味大工の地です。そして、自分たちで炭を運んで売り、地元の人々から必要な生活用品を聞いて、それを仕入れて売るための共同売店を、自分たちでつくったんだとか。しかも、その共同売店は、本土の人がつくった共同売店の隣につくる。そうやって、本土の人の共同売店を駆逐していった。ほとんど、共産制です。
現在は、栃木から移住してこられたヤチムンをつくっておられる芸術家の方が共同売店を運営しておられるとのことです。ここでなにかを買おうかと思ったけど、考えてみたら地元の人の要望で仕入れてきたものなので、あまり買わない方がいいですね。なので、炭酸水を買うことにしました。で、裏にあったベンチでしばしゆんたく。ひと息ついたところで、さぁ帰りましょう。

野入さんの家に帰って、おいしい手料理をいただきます。

いつもびっくりしますが、チャチャチャとつくられます。そしてヘルシーでおいしい!
と、間もなく、Hでぼん登場。久しぶりです。てことで、またまたゆんたくしていると、Hでぼんが突然「いつきさん、マッサージしなくていいですか?」と、ありがたいお言葉を言ってくださいました。
てことで、少し脚を揉んでもらうなど。で、12時くらいにHでぼんは帰って、野入さんと1時くらいまで話をして、長い長い一日が終わりました。
あぁ、刺激的な一日だった。

今回の研修・国立療養所沖縄愛楽園

朝、7時45分にスタートだとか。早い(;_;)。
で、とりあえず名桜大学へ。カフェでモーニングです。食べ過ぎた(;_;)。
しばしメールへのお返事をした後、1回生のポスター発表の見学です。LGBT関連がふたつあって、関心の高さを感じました。が、参考文献がネットなのがさびしいなぁ。まぁ、しかたないか。
それ以外に、名護市営市場の発表もありましたが、市場のはじまりが内地の人のお店だったというのを知ってモヤっとしたり。あと、ハンセン病のポスターがあって、「正しい知識を持つことが排除せずにすむことにつながる」みたいなことが書いてあったので、これまたモヤっとしたり。なので、思わず「隔離政策を支えたのは一般の人々の善意なんだよ」ってツッコミを入れてしまいました。
てことで、ポスターセッションが終わったら、せっかくなので「愛楽園」に行くことにしました。なんでも名桜大学にはハンセン病を専門にしてる伊波せんせいって方がおられるとか。その方に紹介してもらおうと思ったら
「突然行っても大丈夫ですよ」
とのこと。なので、Yーいちの車で愛楽園へ。
事務所で「あのー」というと、「交流館に展示資料がある」とのこと。交流館に行くと、すんごい展示がありました。数々の詳細な証言や、写真など。そして米軍が撮影した動画とか。頭がクラクラします。
で、伊波せんせいに「園内の案内ってしてもらえるんですかねぇ」と尋ねると、「自治会に行けばやってもらえますよ」と。
「そんなん、飛び込みで行っていいんですか?」
「いいんじゃないですか」
どんなんやねん。というとこで、自治会へ。
「あのー、ここに来れば案内してもらえるって聞いたんですけど」
かなり怪訝な顔で見られながらも
「ちょっと待ってくださいね」
と奥に行かれて、別の人を連れてこられました。
「どこの案内をしてほしいんですか?」
「えーと、あのー」
「時間はどれくらいありますか」
「別に特には。せっかく京都から来たので」
と、驚きの発言が!
「もしかしたら、京都で、同和教育をしておられて、在日外国人教育もされてる高校の…」
「はいそうです。いつきです」
「あー、やっぱり!わたし神奈川で教員やってた時に、京都の全国在日外国人生徒交流会に生徒を連れて行きました」
「あー!」
1993年のことですね。Sずきさんという方でした。
するとさっきまで怪訝な顔をされていた方が、満面の笑みになって
「よかったねー」
と(笑)。
てことで、Sずきさんが案内してくださることになりました。ちなみに、Sずきさんのことは、伊波せんせいが「ハンセン病回復者の戸籍のことで博論書いてる人がいる」って聞いてたんですが、まさかそのSずきさんが知り合いだとはわかりませんでした。
てことで、最初に向かったのは小中学校の跡地です。

なんでも、他の療養所内にも小中学校はあるけど、それらはすべてどこかの学校の分校なんだとか。ところが、愛楽園では屋我地の小中学校の分校にすると、本校の人間も「らい病」と間違われるということで反対運動が起きたんだとか。そこで、当時の琉球政府は「じゃ、分校じゃない学校をつくる」ってことで、政府立の学校をつくったんだとか。そしてその英断をくだしたのが、屋良朝苗であると。サブイボ立ちました。
さらに中学校を卒業したら高校に行きたい。でも、高校は本土にしかない。当時の米軍統治下では、沖縄の中学校を卒業しても受験資格がない。そんな中、本土の高校に連絡をとって、パスポートをとって。ハンセン病の人は船には乗れないけど、それをなんとか乗って、降りられないけどなんとか降りて、そうやって療養所に行って診察を受けて「ハンセン病認定」されることで高校に行く。「赤いマフラーしてる人に会え」という情報ひとつで、とにかく高校に行く。でも、愛楽園のカルテには「逃亡」としか書かれなかったとか。
ほんとにすざまじいなかを生きておられたんだなと。
次に行ったのは防空壕あと。

入り口は貝の堆積物があります。

これで手を切って、化膿して、指を落としてしまった人が多数だとか。さらに、奥には通路と無数の穴があいてます。この穴を掘るために、座った状態でツルハシを振るう。ツルハシの跡が生々しいです。

落ちたゴロタ石を手ですくって外へ放り出す。そういう作業の中で、脚を切断することになったり手を切断することになったりする。
防空壕のおかげで、空襲で死んだ人はひとりだけだったけど、防空壕のせいで手足を失った人がたくさんいたとのことです。
そして、出ました貞明皇后の石碑。

そして納骨堂です。

Sずきさんの話をよく聞くと、死者の話や死にゆく人の話がほとんどです。それが療養所の置かれた現実なんですね。
愛楽園のお墓は、療養所内部にふたつ、そとにふたつあるんだとか。ひとつはこの「平安之苑」で、もうひとつは聖公会の納骨堂です。

さらにカトリックの納骨堂が療養所にあります。カトリックの納骨堂ができた時「死んでまで療養所にいたくない」という人たちが、聖公会からカトリックに変わったとか。そこで聖公会も外に納骨堂をつくったんだとか。
愛楽園の納骨堂には子どものお骨もあります。ハンセン病の人たちへの断種や堕胎は知られてることですが、そういう処置を拒否して、あるいはかいくぐって子どもを産んだ方もおられたとか。でも、堕胎させられた方が圧倒的多数でした。小さな子どもを浜辺に埋めて、後でそのお骨を拾う。でも、お骨を見失うこともある。そんな時は骨の代わりに石を入れたりサンゴを入れたりしたんだとか。
納骨堂の隣には「名もなき子どもの碑」があります。

この碑をつくるにあたっても賛否両論あったんだとか。それを象徴するのが、除幕式での当事者の方の「複雑な思い」というスピーチです。ここに祀られた子は幸せだけど、断種・堕胎が強要されることで子どもが持てなかった人がたくさんいるんですよね。そういう歴史が「なかったことにされる」ことへの怒りみたいなものが、その根底にあります。
ちなみに、この納骨堂は3代目だとか。初代は空襲でやられ、2代目は粗悪な材料でつくったために老朽化が激しく、現在の3代目は入所者の皆さんがお金を出しあってつくられたんだとか。
そして、旧面会所。

かつてはこの面会所を境に、「有菌者」と「無菌者」の居住区がわかれてたとか。そしてその間には壁があったとか。その壁は、物理的には越えようと思えば越えられるんだけど、越えられない。そういうものだったらしいです。
ただ、愛楽園は「外部」に行きやすい。具体的には脱走しやすくて、案外脱走してる人が多かったみたいです。が、もちろん見つかったら、翌日は処罰される。だから、職員が怖かったとか。また、職員も愛楽園で働いていることは人に知られなくなかったんだとか。
なんかもう、幾重にも囲まれた社会なんだなと。
でも、現在はゲートボールの名護市長杯をやったり、外部との交流が進んでるとか。あるいは、どこの療養所でも課題になってる「最後のひとり」問題を、外部の人も入所できるようにすることで乗り越えていこうということも考えておられるとか。
なんか、崇仁みたいな感じですね。
ここから再び戦争の時の話です。
機銃掃射を受けた水タンク。

機銃掃射を受けて穴があいた塀。

沖縄って比謝川に米軍が上陸して、そこから南下していったから、読谷村以南で地上戦があって、それより北の被害はまた別種なのかなと思ってたけど、そういう世界じゃないですね。
ここに書ききれないことが、まだまだあるけど、約2時間のすんごいフィールドワークをしてもらいました。Sずきさん、ありがとうございます!って読んでないだろうけど(笑)。
帰りの車から見た橋。これが「こっち」と「向こう」をわけてたのかな。

で、そこから「水車そば」で遅めの昼ごはんを食べました。テビチ、うまい。

にんにく入りのコーレーグースうまい。

その後、今日お世話になるN入さんのお家へ。「おべんきょ成果」の報告をしたり、あれやこれやと話をしながら、手料理をごちそうになり、ぁゃιぃお酒を呑んでと。

さてと、今日は早めに寝ましょう。明日が本番だ。

「洞村移転の真実」

今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。ただし朝は2時間ほど「隙間」があります。どうしたものかと思ったけど、同僚に「年休とろか」って言ったら「休み!休み!」って言われたので、朝は年休です。おかげさまで、少し片づけが少しできたかな。
で、畝傍御陵前へ。
昼ごはんを食べようと思ってた「きみちゃん」は定休日。失意の中ムラ中をさまよい歩くと、たこ焼き屋さんを発見!たこ焼きだけでなく、天ブラもあるので、フクとれんこんを頼みました。
フクでかい!

そして、たこ焼きうまい!

てことで、無事おなかの中にものが入ったので、「おおくぼまちづくり館」へ。
今日案内してくださるのはボランティアの吉住さん。外国人教育の関係で知り合いなので、いろいろやっておられるんですよね。さすがは奈良です。
ちなみに、わたしは洞村に来たのは3回目か4回目です。が、まだ一度も「山歩き」はしてません。今回はやっと行けるとのことで、楽しみです。
まずは前菜の講演「洞村移転の真実」です。「たいしたことない」とか謙遜されてたけど、さすがにすごいです。ところどころに「思想」が出てくる確信犯です。いいなぁ。
で、「山歩き」。今や、人が住んでた痕跡は、庭木にしていたシュロの木と井戸くらいしかありません。あたりは全国から持ってきて植樹した木に覆われてます。この「つくった感」こそが「神武」天皇陵なんですよね。
まぁしかし、この斜面で生活するのと、おおくぼの街で生活するのとどちらがいいかというと、そりゃおおくぼだろうなとは思います。でも、だからと言って、あとから来た「天皇陵」が「どけ」って言うのはアカンやろな。
そんなことを考えながら、しばしの山歩き終了。また探検したいな。
解散後、お友だちの車に乗せてもらうべくフラフラ歩いてると、灯籠発見。
「これなんやろ?」
って話してると、そこで植木を手入れしてたおじさまが
「おおくぼまちづくり館に行ってきたんか?」
と声をかけてくださいました。
い「はい」
お「これはな、踏切のところから持ってきたんや」
い「へー、そう言えば、近鉄はここ通ってなかったんですね?」
お「そうや。オレが小さい頃は向こうの国道の横を通ってた」
つまり、ムラの入り口にあった灯籠が近鉄が通ることで移転されたってことになるみたいです。確かに横を見ると「青年會」って書いてあります。
い「てことは、今は向こうとこっちは近鉄でわかれてるけど、もともとはわかれてなかったんですね?」
お「そうや」
い「ほな、あれも改良住宅ですか?」
お「そや」
なるほどなぁ。聞いてみるもんです。てか、よく声をかけてくださったなと。お友だちが「ブラタモリやな」って笑ってました。
さらに向こうには地図もあって、「大久保町」「四条町」って書いてあって、メッチャおもしろかったです。
案内されたあと、そういう知識を持って、もう少し歩いてみると、いろんなことがあるんだな。

変わっていく町

今日はパタパタする日ってのを覚悟して朝がはじまります。
まず玄関を出てひょいと横を見たら、猫の額ほどの庭の屋根が崩壊してます。崩壊するのはいいんです。基本的には風や雪の対策のために簡単に崩壊するようにつくってます。チキチキマシン状態なんです。が、直すのはめんどくさいのはめんどくさい。ま、日が長くなってきたから、帰ってやりますか。
で、午前は巡回とカントク。その後はこないだ入稿した本ができあがってきたので、それを配布用に仕分けです。それにしても、よくぞ20日でつくってくれたなぁ。ほんとに助かります。
で、午後はウトロのフィールドワーク。今回は新採の人なんかも一緒です。
まずは金秀煥さんの講演です。このご時世、韓日関係にかなりピリピリしておられるのが伝わってきます。具体的には、歴史をどうとらえるのかってことです。なにせ、日本政府そのものが韓日の歴史を政治的な問題と位置づけて、それをもって韓日の関係をつくろうとしてますからね。でも、本質はそこではない。なので、それをどう伝えるかってあたりを随分と考えておられるみたいです。
でも、とても簡単です。「人の生きざま」なんですね。「1965年に政治決着したから、もうすべてなし」ではない。戦争と植民地支配が、人の人生にどういう影響を与えたかってことが大切なんですよね。まぁでも、日本政府はそういうことは捨てるだろうな。だって、日本の原子力政策の中で生まれた福島第一原発の事故が、人の人生にどういう影響を与えているかってことすら捨ててますからね。そういう政府だってことです。
ま、そんなことを考えながら、やがてウトロの歴史に話は入ります。出てくるスライドに、知ってる人がチョコチョコいます。懐かしいなぁ。わたしがウトロをウロウロしはじめたのは1992年です。もう27年もたつんだ。
で、フィールドワーク。うわぁ。ほんとに町がない。西半分は前のままですが、東半分は、ほんとになくなりました。「こっちおいで」って肉を食べさせてもらったガレージもありません。さびしいなぁ。でも、しかたないです。いつ立ち退きか、いつ洪水かって生活ではなくなったんですよね。だからこれからも細く長くつきあいは続けさせてほしいな。
そんなことを感じながらフィールドワーク終了。

家に帰って屋根を直して。家の中に入ると「辛子蓮根来てるよ」。

熊本のY本さんが誕生日のプレゼントとしてくれたものです。うれしいなぁ。
みんなでパクパクというかシャクシャクというかいただきました。

洞部落のフィールドワーク

今日の午前は洞部落のフィールドワークです。とは言え、洞部落は厳密にはすでにありません。というのは、神武天皇陵が建設されるとき「天皇陵を見下ろす位置に部落があるのはけしからん」ということで強制移転させられたからです。これ、完全におかしな話です。そこに部落があるのがわかってて、わざわざ天皇陵をつくって「けしからん」は順番がおかしいです。でも、それがまかり通るのは、いつの時代も同じです。
そういや、今日は沖縄の県民投票だな。
ただ、これが単に「強制移転」と言われてたのは過去の話で、研究が進んだ現在はもう少し複雑です。そんなあたりを福西満さんからお聞きしました。
まぁとても簡単に言うと、今でこそ解放運動は「貴族あれば賤族あり」ってことで反天皇制の立場をとってます。でも、かつては「天皇が解放令を出してくれた」ってことで、例えば水平社の糾弾闘争でも「天皇の御心に背くのか」という論理がとられていたとか。
つまり、洞部落の人たちは「天皇陵をつくるならどうぞお使い下さい」と自分たちの土地をさしだし、そのことをもって差別を解消しようとしたという側面もあったと。さらに、もともとの洞部落は山の中腹にあって、人口に対して狭かったので、新たな土地を得て新たにまちづくりをしようという狙いもあったと。つまり、単なる権力からの横暴とか差別とかじゃなくて、部落の側の戦略もあったと。さらに、1940年に神武天皇陵の拡張工事があった時は、部落ではない村も移転させられていたことがわかって、そうなるとますます「差別」というひとくくりでは語れなくなってきます。でも歴史って、たぶんそういうものなんでしょうね。
それにしても、「移転」というと、「あまべの移転」も思い出すんですが、なぜ好き好んで部落の土地に移転するのかなぁ。もしかしたら、ずいぶんと「眼差し」が違ったのかなぁ。
で、話のあとはフィールドワーク。行ったのは「生國魂神社」と「洞部落跡の入口」です。後者がなぜ「入口」かというと、なんでも「即位30年祭」が行われるので立ち入らないでほしいと言われたんだとか。どこまでジャマするねん。
生国魂神社は中まで入れてもらっていろいろ見せてもらいました。例えばこんなんとか。

で、昔の洞部落の風景を教えてもらいました。なんか、のどかな風景なんですよね。
そんなこんなで、3時間弱のフィールドワーク終了。
それにしても、福西さん、なんでわたしのことを知ってたんだ^^;?

もっかい在日朝鮮人教育を

今日は朝から山口へ。組合の女性部長会議です。会議そのものは明日で、今日は研修会です。内容はは完全に在日朝鮮人のことです。楽しみです。
てことで、下関に到着。と、T部さんが!まぁ、あまりにも当たり前といえば当たり前なんですけど、でも会うんですよね。
と、いきなり「釜山門」の文字が。

そりゃそうですね。下関は釜関フェリーの乗り場があります。まぁそんな気持ちで集合場所へ行って、フィールドワーク開始。案内してくださるのは厳さん@2世と金さん@3世です。
まずは波止場跡。そうか、釜関フェリーじゃなくて、もともとは関釜連絡船だったんだ。強制連行・強制徴用の場所なんだ。

現在の港のところにもともと山陽本線が通ってたとのこと。なので線路がまだ残ってたり。

さらに特高警察とか水上警察とかがかつてあった場所とか。

で、タクシーで移動した先は関門トンネルの殉職碑。

ヤード内にあるので行けませんが、供えられた花がきれいなので、職員さんがお参りしてるのかな。ちなみに、これ、朝鮮人だけじゃなくて…。というより、朝鮮人も含めた殉職者の碑です。が、問題は、刻まれてる朝鮮人の数はあまりにも少ない。たぶん「一般の死者」はノーカウントなんでしょうね。
と、電車が来た!

続いて、友好の植樹跡。

なんで植樹が「跡」やねんと。
そんなもやもやを抱えながら、朝鮮初級中級学校へ。と、向こうにおられるのは、なんと山本崇記さんではないですか!てことで、ご一緒しながらあたりを散策(笑)。ちなみに、山本さんからお聞きしたところ、金さんってこの金さんのお姉さんだとか。
この公園、かつては焼き場だったそうな。

そして、この道路の先には刑務所があったとか。

下関は、もちろん拉致された朝鮮人が日本に到着した土地のうちのひとつです。が、逆に解放のあと朝鮮へ向けて帰るための出発点でもありました。が、敗戦当時、米軍が港に機雷を沈めて出港できなくした。そのために、朝鮮に帰ろうとしたたくさんの人々はやむを得ずに下関にとどまった。そこでとどまったのが「神田」の山だったとか。もともとは何もない山、町名もない山だったとか。
そうして朝鮮人の集住地ができました。

なんか、かつてのウトロを思い出します。いや、現在の紙屋川か…。
向こうの方には十字架が見えます。きっと大韓教会やな。

で、朝鮮学校の中で講演。
もちろん中身は「いつか聞いた気がする話」です。でも、それをあらためて聞いた時、自分が何もやってないことを、あらためて突きつけられます。たしかにやらなきゃならない課題は山のようにあります。その中で、在日朝鮮人はつい薄くなる。でも、それではアカンなぁと、あらためて思いました。なので、そんな思いとこないだあったできごとを返しました。

フィールドワークのあとは、ホテルにチェックインして、しばし休憩ののち、懇親会です。向かうは「焼肉 ソウル」です。

タン塩。うまいわ。これはあきません。ビールがすすむ。ワインもすすむ。
なんか、ほんとに久しぶりに「焼肉」を食べた気がします。
そのあとは部屋飲み。会場は、やはりわたしの部屋(笑)。そんなこんなで12時くらいまでダベって、さぁ寝ましょう。

すごい資料→アウトリーチのスピリッツ

今日は第2のふるさとの人々と一緒に「現地研修」です。なので、勤務先の駅で降りずにその先へ。降りると知りあいがウェットティッシュを配っておられました。そうか、人権週間か。こないだの香山リカさんの中止問題についてちょこっと話をして、でも迎えに来ていただいたので、そのまま集合場所へ。そしてマイクロバスに乗って、向かうは舳松人権資料館です。
到着したら、とりま舳松の歴史についてのレクチャーです。が、当然舳松オンリーになるわけもなく、部落史の講演になったりします。と、一緒に行ってた先輩と顔があって、思わず苦笑い。でも、舳松の解放運動史になると、とたんに顔つきが変わるのは当たり前。それを聞きに来たんですよね。
で、ひとわたり舳松の歴史について学んだら、次はフィールドワークです。
フィールドワークって、なにがおもしろいのかというと、歴史と今が結びつくこととか、そこに住んでた/る人の生活と触れあえることとか、さらにはそこにない歴史を想像することとか、そんなあたりかなぁ。ちなみにそれは「土地」とつながるので、例えばトランスというかセクマイ系でいうと、東京にはある。考えてみると、三橋さんに案内してもらった吉原から回向院とか新宿界隈とか、メッチャ豪勢なフィールドワークだったよなぁ。ほんとにおもしろかった。大阪は…。堂山はおもしろいけど、歴史的にはどうなんだろ。京都は…。ないか…。いや、セクシュアリティ系はありますけどね。
で、実際にもともとの「塩穴」と呼ばれていた頃の土地面積の狭さとか、坂田三吉の生家の狭さとか、いろいろおもしろかったです。
そのあとは大原さんの「啓発」にかかわる話。
大原さんとは一度?お会いしていて「お久しぶりです」なんですが、それはそれとして、とてもいい話を聞かせていただきました。やはり啓発がらみで語るのは当事者じゃなくて非当事者だなと。非当事者がどう変わりどう学び、いまどう生きているのかってのが大切なんですよね。なぜなら、他の非当事者にとって、そこにこそ自己変革の可能性を見出すからです。逆に言うなら、当事者の語りは自分の体験じゃだめってことです。そんなのは「理解と共感」でとどまってしまう可能性がとても大きい。仮に当事者が話すなら、非当事者並のことを話さなきゃならんってことです。
ま、そんなことを考えながら、舳松フィールドワークは終了。

バスに乗せてもらって帰ればいいものを、ちょいとおべんきょ場所で降ろしてもらって、おべんきょ会場に乱入。その後、Hがしさんに同行して「日本エイズ学会」に乱入。さらにDISTAへ。ここでSWASH主催のワークショップ&講演会「当事者活動の難しさ」の打ち合わせをしておられて、そこに乱入です。講師のティ二さんとSWASHのみなさんの話を聞いてたのですが、メッチャ勉強になりました。
テーマはアウトリーチについてのものでしたが、とてもおもしろかったです。もちろん、ここでのアウトリーチはセックスワーカー対象なんだけど、その手法とかスピリッツは、学校の中のマイノリティ生徒へのアウトリーチと似てるなって思いました。
わたしにとってのフィールドは教室なんですね。たいていの教員はセンター(職員室・保健室・図書室など)にいるけど、そこから撃って出る(アウトリーチ)んですよね。その時にどういうふうにアプローチするのかとか、心がけるべきことはどうかとか、どんな情報を伝えるのかとか、どうやってセンター(例えば交流会)につなぐのかとか、ヒントがいっぱいありました。
でも、そんなに長居はできなかったので、そのことをティ二さんに伝えたら、喜んでくれてました。
あと、帰りがけに4月1日のフェミニスト・フロートでコーラーしてたセックスワーカーの人が
「あの時「いつきさんがいる」って思ってすごくうれしかったけど、「女は最高」ってコールをどう聞いていたのかが気になって、終わってからみんなで話してた」
って言ってくれました。なので
「「おかまも最高」って言ってましたよ(笑)」
って言ったら、ホッとしたような笑顔で
「わたしも言ってました」
って言ってくれました。
てことで、記念写真になぜかわたしも入ってしまったり^^;

どうやらお茶大の件でフェミニストvsトランス女性が再燃したみたいだけど、少なくとも「ここ」ではそれはないなとあらためて思いました。
やはりそれは、「coming out story」でA久○さんとかRささんとかSっさんとかが言ってくれた「葛藤の共有」とつながるのかなって思いました。

てことで、ものすごく充実した1日でしたが、さすがに疲れた(笑)

「東九条『40番地』に生きた在日コリアンオモニたちの歴史といま」

今日は午後から出張です。が、午後からということは、午前は出勤ということです。まぁ、カントク1発、それも担当している講座なので楽勝です。が、そのご突発的な仕事が入って、スタートが30分遅れました。きついな。しかも、午後の出張はフィールドワークなのに、雨降ってきたし。やはり昨日がアカンかったんやな。
てことで、東九条に到着。とりまマダンセンターに行って、おべんとを温めました。だって、お米がベータ化してるから、食べにくいです。で、東松本団地へ。
とりま、準備です。準備しながらお昼ごはんです。機器をセットしてごはんを食べて、また機器のセットってやって、ようやく間に合いました。ふぅ。
で、今日の講師は村木美都子さん。実は、メッチャ前から知ってますが、あまり話をしたことがなかったんですよね。なにせ、村木さんは東九条の活動家で、わたしはいわばビジターですからね。ただ、6年前にお会いして再認識してもらってからは、ウトロなんかで会った時とかに、なんとなくチョコチョコ話をするようになりました。そんなつながりから去年の12月にフィールドワークをお願いしたんですが、わたしはもうひとつのコースのお世話をしなくちゃならなかったので聞くことができませんでした。でも、参加した人から聞いたところによると、ものすごくよかったとか。なので、ぜったいに話を聞きたいと思ってました。
まずはお話です。村木さんのライフストーリーからはじまります。そして東九条との出会いへ。このあたり、個人的にはなつかしいです。
わたしがはじめて東九条に足を踏み入れたのはいつ頃だろう。意識的に入ったのは1990年代になりますか。でも、やはり本格的にマダン文庫センターに出入りしはじめたのは1993年あたりかなと思います。この時が東九条マダンがはじまった年で、たぶんプンムル隊に参加してたはずです。でも、ウトロにも出入りしはじめたのが1992年かな。この頃、ガッツリと入っていった頃なんだなぁ。生徒交流会をはじめてからは、よく交流会が終わったら
「40番地行く?」
とか言って、散歩させてもらったなぁ。
村木さんの話を聞きながら「あー、だよなー」という感じで当時のことを思い出していました。
そんなあたりから、「堤防の町」や東九条の形成史へと話は移っていきます。このあたりは勉強になりますね。自分の聞きかじりの知識の検証にもなるし、新たな知識も得られるし。
そんなあたりから、さらに話は1世2世のオモニのことへとうつっていきます。ここからが村木さんのほんとうのフィールドです。個人的な出会いを個人のものとせずに歴史的な背景を加えながら話されます。基本はエピソードの連続ですが、だからこそリアリティがあります。そして、歴史的な背景はあるんだけど、やはりそこでの話は個人的な話なんですね。なんというか…。社会学ですね(笑)。いや、各個教会史みたいなものか。なんしか「個別」と「普遍性」の間を行きつ戻りつする話がおもしろい。
あと、なんと言っても、美化しない。よく「ほめられないこと」を「たくましさ」ってごまかすことがあるんだけど、ほめられないことはほめられないこととしておいておきながら、でもたくましさをたくましさとして語られます。そんなあたりがいいですね。でもそれができるのは、たぶん村木さんとオモニたちとの膨大なやりとりと、それに裏打ちされた信頼関係があるからなんでしょうね。
そして、1世と2世の対比がおもしろい。たしかに、1世は本国での「当たり前の自分」をどこかで経験してから渡日してきてるけど、2世は自己否定の中を生きてきた。なるほどなぁ。それって、在日だけじゃないですよね。新渡日の子らにも、あるいはダブルの子らにも共通することですよね。
その後、フィールドワーク。わたしはずっと村木さんと雑談しながら歩いたので、みなさんに悪いなと。まぁでも打ち合わせしてるフリです。それにしても、村木さん、地元に根ざしておられるのがよくわかります。例えば南部教会に行ったらモクサニムが説明して下さいます。エルファに行ったら理事長が説明して下さいます。そして、交流センターに行ったら「使うよ」のひとことでOK。その時に「あぁ、自分はしょせん風の人だな」と痛感しました。言い換えるなら、表面をなでてるだけです。地元に根ざして活動するって、こういうことなんだな。
と、質疑応答の録画中に電話がかかってきました。録画中なので出るわけにいきません。しかたないのでそのままやりすごして、あとで電話番号を検索。エルファ?なんで?なんかしたっけ?そういや、こないだお世話になったけど、あの時になにかしたっけ?いろいろ頭の中をかけめぐります。この時のビビリを思い出します。
てことで、帰り道にエルファに寄りました。すると出迎えてくれたのは鄭明愛さん。
「電話したの、わたしです。わざわざ来てくれはったんですかー」
お、向こうにおられるのは(笑)
「あ、さとうさんだぁ」
そういや、さとうさんの職場はここでした。職場では完全に気配を消しておられます。
てことで、電話の御用はエルファの研修依頼でした(笑)。なんか、1月には希望の家保育園からも頼まれてるし、わけわかりません。
帰り道でも知り合いにあったりして、まぁわたしも地域に根ざしてるわけじゃないけど、それなりに地域の人に顔は知られてるらしいですね^^;。

これまた恒例のフィールドワーク

朝、トイレに行きたくなって階段を降りようとしたら「まめた」が気づいたらしくメッチャ歓迎されて、きっと野入さん起きただろうなぁ…。
てことで、6時起床。まだ日が出てません。これぞ沖縄クオリティです。その代わり夕方が長い。なので今日も20分ばっか走って筋トレの朝です。
で、荷物を宅急便に出して、そのまま大学へ。今日は1年生の発表があります。ひとり4分の発表が10人。そこに質疑応答が入るから、なかなかなもんです。
でも、おもしろいですね。まだ興味が固まっていない1年生は、「〇〇地域について ー〇〇を中心にー」ってやるんだとか。おもしろいのは興味が固まってる学生のじゃなくてこっちです。もちろん、興味が固まってる学生さんのはおもしろいんです。興味が固まってるからこそ、いろいろ知ってるし、さらに調べてるし。でも、興味が固まってない人のは「興味がないこと」をしなくちゃなりません。その無理矢理感がいいです。
たいていの学生さんは自分の出身地について調べられます。単にそれだけならおもしろくなりません。そこに「〇〇を中心に」がつくからおもしろくなります。このサブタイトルを考えるためには、地域を掘り下げないといけない。そこで、かつて自分が疑問に思ったこと、そして放置していたことと出会うんです。そうやって「立てた問い」を掘り下げていく過程は、「興味が固まってる」人と何も変わりません。というか、かつて放置していたことと再び出会ったからこそおもしろい。
そして、質疑応答が、またおもしろい。実はここには野入さんの「仕掛け」があるんですね。でも、その「仕掛け」のおかげで、学生さんが「わからないまま適当に話したこと」とか「思いもよらなかった問い」なんかに出会わせてもらいます。そこへのレスポンスが発表の質を上げていきます。
そうしたやりとりの場にリアルタイムでいられた90分は、本当におもしろかったです。

で、ここからが毎年恒例のフィールドワークです。
思えばはじめて行ったのが「伊波普猷のお墓」でした。そこから「嘉数高台」とか「アメラジアンスクール」とか「ヒストリート」とか「不屈館」とか「シュガーリーフ」とか「クラブハウス」とか、ありとあらゆるところに連れて行ってもらいました。それがわたしの沖縄への眼差しにどれほどの変化をもたらし、ヤマトへの眼差しにどれほどの変化をもたらしたことか。
今年のテーマはひとつは「嘉手納」です。
てことで、さっそく道の駅へ。まずはイモを持ってこられた「野國總管」さんとご対面。

「もしもこの人がイモを持ってこなかったら沖縄はどうなってたんだろうねぇ」と野入さん。ほんとですね。
そしていよいよ道の駅へ。まずは3階の資料館。とても栄えていたかつての嘉手納の姿がそこにあります。基本的にわたしは沖縄のことを何も知りません。だからこそ、新しい知識がどんどん入ってきます。とはいえ、「かでな道の駅」には前にも来てます。ただ、今回はここがメインなので、それはそれで「心構え」が違ったりします。資料室の真ん中には、かつての嘉手納と今の嘉手納を重ねた地図があります。

そしてまわりには戦前の嘉手納の生活の写真があります。そこには嘉手納の人々の淡々とした日常があります。例えばそのひとコマが農林学校の学生たちです。みんなで比謝川にピクニックに行ったのかな、そんな写真の次に、残された門柱の写真が映されました。あのピクニックのメンバーの何人が生き残れたんだろう。戦争前の人々がどんなふうに日常を過ごしてたのかなということを、あらためて感じました。
「あした戦争がはじまる」なんて誰も思ってない。思っているのは「はじめよう」と決断した人だけです。でも、「思ってなかった人」も否応なく巻き込まれていく。それも、命まで。だからこそ、そういうシステムを変えようとしたはずなのに、でもそういうシステムを「国民」が選択していく。そんなことが「道の駅かでな」から伝わってきます。
そしてもうひとつ、そんな展示室から一歩出ると世界が変わります。展望室からは基地が見えます。戦闘機の離発着を待つ人がてんこ盛りです。そこにどんな思いが介在してるのかはわかりません。が、「いる」んです。そしてそこにわたしも「いる」。わたしはなぜいるんだろうと考えさせられることに、そこに「いる」ことの意味を考えさせられます。
やがて「道の駅かでな」をあとにして、「燃える井戸」に行きました。炎天下を歩いていると、轟音が鳴り響いて、横から聞こえているなと後ろを振り返ると飛び立つF15らしき後ろ姿が見えます。ちょうど12時のエーデルワイスのオルゴールも戦闘機の轟音で消されます。そして着いた井戸は、単なる井戸です。

でも、かつてこの井戸は、基地内で流出したジェット燃料が混ざった水が出てきてました。水を柄杓ですくってそこらにまいてマッチを放り込んだら燃えたんだとか。貴重な井戸水がそういう汚染をされるんですから、本当に生活に直接害を及ぼしているわけです。
ここからいわゆる「ロータリー」に向かいます。この「ロータリー」は米軍に接収された時大量の軍用車両がスムーズに走れるようにつくられました。

ちなみに、現在はこんな感じ。

でも、目的地はロータリー近くの嘉手納中学校です。ここに農林高校の門柱が立ってます。

資料室の写真ではわからなかった痕跡が間近で見るとわかります。それはこれ。

機銃掃射の玉のあとです。よくぞこの門が立ってたという思いと、やはりどれだけの人が殺されたんだろうという思いが、あらためてやってきます。
とはいえ、お腹は減る。なので、近場の定食屋さんへ。cannonicalな「煮込み定食」があったので、お願いしたら、メッチャおいしい。

これでワンコインですか…。ちなみに野入さんは中身そば。

食後、「ロータリー」に向かいます。なんか、象徴的な風景です。

「沖縄防衛局」「入国管理局」その上に「日の丸」。
で、バスに乗って浦添に向かいます。途中、軍用機が低空飛行をしています。

たぶん、嘉手納基地に着陸するのかな。それにしても、なぜ電柱ときれいにかぶるかなぁ。
で、向かったのは平敷兼七さんのフォトギャラリーがあります。


一歩入ると、息を呑む空気感です。でも、決してイヤな空気感ではありません。なんなんでしょうね。当たり前の日常を当たり前に写してる。単にそれだけなんだけど、それをよくしたよなと。だって、厳しいであろう現実の中にある当たり前の日常の表情を「撮る」なんて、ハンパないです。でも、この日常を撮ることを通して、「沖縄」を表現しなきゃならんと思われたんでしょうね。ほんとにジワジワくるものを感じながら、さんぽです。
平敷さんが愛した町並みを歩くと、ヒゲをたくわえた平敷さんがひょいと顔を出しそうです。こんな町並みがなぜ残ってるのかというと、そこにも「基地」があります。ここ、「58」が通っているので、交通量が多く渋滞箇所でもあります。しかも海岸の方は基地に押さえられているので、駐車場をつくるとかいうことができない。なので、米軍接収後の姿がそのまま残っているということなんですね。
それにしてもきれいな坂道です。

なんかサンフランシスコみたいです。
「東京美容室」

「すばやー」

「そば屋」をそのまま屋号にしているという。
そしてウガンジュ。

ラクラしそうに楽しい町並みを歩きながら、空港でのごはんをゲット。
ギャラリーに帰ると平敷さんの娘さんが帰ってきておられて、ひとしきり話。
さてと、でもそろそろ空港に向かわなきゃ。てことで、フォトギャラリーをおいとま。ここで野入さんともお別れです。3日間お世話になりました。来年もお世話になれたらうれしいな。
空港に着いてチェックイン。と、は?25分遅れ?てことは、到着も25分遅れ?
関西空港に着いたら、45分遅れに拡大。jetstarは奈良線かい!てことは、ラピートの最終まであと5分。jetstarの降り口から南海の改札まで走りました。ここで走れるのは、ふだんのランニングのおかげですね。さらに、新今宮から動物園までラン。てことで、なんとか今日の宿泊所にはたどりつけました。
まいった…。

ゆんたく→オーシッタイ

朝起きたけど、走れる時間じゃないので断念。そのまま朝ごはんを食べながらゆんたくです。テーマを決めて話するのも大切ですが、テーマを決めずに心のおもむくままにのんびり話をすることも大切ですね。てことで、昼前までのんびりしました。
が、ここからが問題です。なにせ車がない。沖縄は車がないとどうしようもありません。いや、歩けばいいのですが、なにせ暑いです。今年に関しては、たしかに「沖縄は関西の避暑地」状態ですが、それでも太陽のパワーはハンパないです。なので、レンタカーを探したり、知りあいに「貸して」と無茶ぶりしてみたり。そんなこんなでKんちゃんが来てくれました。すみませんすみません。

てことで、フィールドワーク開始です。
まずは腹ごしらえ。宮里そばをめざしましたが定休日。なので、玉家へ。おぉ!うまいわ!ダシがすごいです。
てことで、お腹もいっぱいになったので、とりまファーマーズマートでおみやげをゲットして、そのまま宅急便で送ってしまいました。
お次はオリオンビールの工場見学でしたが、予約してなかったので待ち時間が長い。なので断念です。
ということで、「オーシッタイ」に行くことになりました。
ここ、1982年に電話と電気が通じたというところです。めっちゃ秘境です。とにかくgoogle先生の言うとおりに走って行くと、カンバンがありました。

ここからが山道です。せまい!と、通れません(笑)。

がけ崩れでした。なので引き返して、他の道にチャレンジです。と、見逃しそうな道がありました。そこを走って行くと、再びカンバンが!

さらに細い道を延々とドライブです。まぁ、Kんちゃんはこんなの慣れてるみたいだし、実はわたしも慣れてます。なので、ワイワイ言いながら走っていると、目的地に着きました。

なんか、大草原の小さな家みたいなたたずまいです。
ここ、昔はカフェをしておられたらしいのですが、現在は閉店しておられます。その代わりと言ってはなんですが、蜂蜜を売っておられます。

中に入れてもらって、お茶を飲ませてもらったり、蜂蜜の試食をさせてもらったりしながら、いろいろ話を聞かせてもらいました。
なんでも、いまは12軒もおられるとか。さらに小さい子どももおられるとか。「へー」とは思いますが、ここに移住されるかたもけっこうおられて、近年では3.11をきっかけに来られた方もおられるとか。たしかにこんなところに住むのもいいなぁと、なんとなく思ったりもしますね。
ということで、パートナーのために蜂蜜をゲットして、オーシッタイを脱出。そのままバスに乗って、向かうは普天間です。ちなみに、あえての路線バスの77番。延々とバスに乗ったけど、キャンプ・シュワブの前を通ったりキャンプ・ハンセンの前を通ったり、さらにはコザ暴動の場所やクラブハウスの前を通るので、けっこう楽しかったかな。さらに普天間でバスを乗り換えて、真栄原到着。
ここで晩ごはんです。どこに入るかさんざん悩んで、入ったのは「みの家」です。お店情報無いですけど。ここがなかなかのいいお店です。地元の人が愛してる感じで、地元のちょいワルおじいの話す言葉がウチナーグチでさっぱりわからなかったりして、楽しい時間を過ごしました。
で、今日の最終目的地の野入さん家へ。
1年ぶりの再会を喜び、しばし積もる話をしているうにに、あっという間に0時です。いかんいかん、明日が本番ですがな。