今日のおべんきょは、結論から言ってしまうと、「驚き→疑問(問い)→哲学(学び)」という流れをどうつくるかみたいな。特に、「問い→学び」のところに断絶がある。
もちろん、ノウハウの伝達の場ではないので、それをどうするかについてはここにまかされるんですが、ひとつの提言は「what」ではなく「how」で問うてみたら?ってことでした。その真意は、「what」は「答え」を要求するけど、「how」はそうではないということでした。
んー。
日常の仕事にひきつけて考えると、たぶんそういうことを試行錯誤しながらもやってはいるつもり。でも、なかなかできていない。
子どもたちは、「問い」を欲しているのではなく「答え」を欲している。あるいは、「学び」とは「how」ではなく「how to」であると思っている。
わかりやすさから、少しずつ「わかりにくさ」に移行させていくことも大切なのかもしれない。もちろん、意図的に。
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うれしさがあふれてる?
たぶん、環境の変化がある時って、そしてそれが自分にとって「プラスである」とかんじる時、ものすごい高揚感があるんでしょうね。それこそ、
「自分は万能!」
くらいのものすらあるのかもしれません。
でも、それをあとから振り返った時、そこからボタンの掛け違えがすでにはじまっていたみたいな評価もまたあるのかもしれません。
いや、単に18世紀から19世紀にかけての話なんですが…。
でも、どうボタンをかけても、どこかで掛け違えはあるのかもしれない。あとの評価を気にしてボタンをかけることは、結局、ボタンをかけられなくなるようになることにつながるのかもしれませんねぇ。
まぁ、本論とは違う雑感でした。
おだやかな時間
この間グダグダやったけど、とりあえず今日もおべんきょ。
教室に入っていつものメンバーと会うと、不思議とおだやかな気持ちになりました。たぶん、職場とは全然ちがう空気なんですよね。
で、読書会に没頭。
時間はおだやかに過ぎていきました。
サンタ問題へのプラグマティズムからの解法
いろんな文章を読んでいると、たまに
「それはあまりにもプラグマティックじゃないか」
みたいな批判めいたことが書いてあることがあります。でも、プラグマティズムについてきちんと勉強していなくて、いままで
「んー、わからん(笑)」
と読み飛ばしていました。
それが、ここにきて、いきなり月曜日も木曜日もプラグマティズムで、まぁ、ちょうどいい機会だなと。
にしても「教えてもらう」って、楽ですねぇ。言葉がシャワーのように降ってきて、それをできるだけこぼさないように受けとめるだけで「知」が手に入る。
今日もまさにそんな感じでした。やめられんな、こりゃ(笑)。
で、1時間ちょいの話を聞いて感じたことは、
「プラグマティズムって、ご都合主義じゃん(笑)」
ってこと。と、同時に
「あたしゃ、プラグマティックなやり方してるなぁ」
ってこと。考えてみると、いつも「理想的な解」ではなく「現実的な解」を求めているし、石橋はとりあえず渡ってみないとわからへんと考えているし。いつも
「なんでこんなやり方してるんやろ」
と、いつも考えていたんですが、
「これが、あの昔批判的に書かれていたプラグマティック*1ってやつか!」
とわかった瞬間、すごくクリアになりました。
でも、たぶんわたしはこんなやり方を続けるんでしょうね。なぜなら、今、現実に生きているやところからしか、わたしは出発できないからです。
*1:「「チック」じゃない、「ティック」だ」っつっても、わけわからんわな(笑)
文章を書くということ
いままで自分が書き散らかしてきた文章って、どれくらいあるだろうと、ふと考えることがあります。
まぁ、子どもの頃の作文はともかく、高校の頃に行っていた塾では任意で論文添削なんていうのがあって、そこにしょーもない文章を書いて出していました。それでも、塾の人はガチで添削してくださってたみたいで、今思うとすまなかったなぁと。
大学の頃は、クリスマス礼拝をやる時に「趣旨文」みたいなのを書いたり、頼まれた文章に好きなことを書いたりしていました。この間、本棚を整理していたら、そんなもののうちのひとつが出てきて、読んだ瞬間「キャッ」っと言って、布団をかぶりたくなりました。
教員になってからは、どちらかと言うと、実践報告がメインでした。はじめのうちは好きなことを書いていたけど、全国の研究集会に出さなきゃならなくなった頃から、あきらかに文章が変わりはじめました。まぁ、トレーニングをうけたってこともありますね。最近はそんなレポートを書くことが減って、今度はオファーがあって書くことが増えてきています。
なんか、そんな文章遍歴を見ていると、自分が書きたいものから、少しずつ「読み手」を意識しはじめて、さらに「読まれること」を前提にするようになって、いまや「読まれるための文章」に変わっていってるなぁと思うのです。
で、今日、「おべんきょ」のあと、「おべんきょ仲間」で呑もうと思ったら、きょうの「おべんきょ先生」も混じって下さって、なんかいろいろ話をしました。すると、先生、なんの話からか
「M論文は、読み手のことを考えず、評価を考えず、とにかく自分が納得することを書かなきゃダメ!そうでないと、自分の軸がぶれてしまう。すると、その先論文が書けなくなる。M論文は、人の評価を気にせずに、本当に書きたいことを書く経験をするためにあるの!」
と力説されました。
いや、身のすくむ思いがしました。果たして自分にそんな文章が書けるだろうか。それ以上に、今の自分に本当に書きたいことがあるんだろうか。
まぁ、でも、今って、それを自分の中から見つけ出し、熟成させるまたとない時間なんでしょうね。
「サンタさんはいるんですか?」
今日の「おべんきょ」はディスカッション。
でも、その前に、ちょいとEせんせのところに顔を出しました。なんか、パソコンをゴソゴソしておられるので
「なにやってんですか?」
とたずねると、
「スキャナがつながらない」
とのこと。ふむ…。認識してるな。メッセージを読むと、なになに「本体のモードがちがう」って書いてある。本体見たら、モード切り替えがあって、切り替えたらすぐ動きました(笑)。
人の役に立つってうれしいなぁ(^O^)
で、ディスカッション。もちもん元ネタはこれです。で、「あなたならどう答えるか?」。
わたしのグループは3人だったんですが、
「でも、サンタはいない。やはり真理を伝えないといけない」
という意見もあったり。わたしは…。
「別に正しいことを教えなくてもいいんじゃないですかぁ」
みたいな、反論というよりボヤキ。さらに
「サンタさんはいるよ。12月25日の朝、いまでもわたしの枕元にプレゼントあるもん」
と、爆弾発言。するとふたりから
「いつきさんの家、メルヘン〜」
と、喝采を浴びてしまいました。たしかにメルヘンやわ(笑)。
でも、こういう「問い」に対して、真剣にどう答えるか論議するっておもしろいですね。
で、来週はプラグマティズムの立場からこの問いを分析するとか。デューイキタ━(゚∀゚)━!
本、読も(笑)。
「問い」の構造分析
今日のおべんきょのネタはハイデッガー。にしても、「ハイデッガー」と聞くと「どんなバスや?」と思ってしまうわたしは、根本的にダメですね。
で、話の方はタイトルにもあるように、「問い」の構造分析をされたのですが、すごいおもしろかった。
話の中身そのものは、考えようによっては言葉は難しいけど、日々の教室でのやりとりを考えるとなんとなくわかる感じなんですよね。
例えば、ひとつの問題を生徒に提示するとき、表面上は「個別の問題」を問うているわけなんだけど、その問題を通して、もう少し包括的というか、まぁ簡単にザックリ言うと「数学の学力」を問うているわけです。でも、そんなザックリした話ではなんの意味もないわけで、実際には、その問を通して必要とされる「概念(操作)」みたいなところができるかどうかを試しているわけです。できればokだし、できなければ、別の問を発することでそれを身につけられるように試してみる。
でも、そのやりかたというか、「意図の持ちよう」みたいなのは、もちろん担当者ごとにおそらくはぜんぜん違います。*1ですから、出てくる答えは数学の場合は同じですが、その評価という解釈というか、そういうものは、担当者ごとに変わります。
大切なのは、こんなことを漠然と感じるのではなく、分析をして意識化するというところにあるんじゃないかと思います。そうすることによって、「意図」が、より意識化→吟味できる。
そんなことを感じた70分間でした。
*1:というか、人によっては、そういう「意図」を意識せずに問を発している人もいるかもされません。
ラディカルはラディッシュからきているのか…
そろそろいま読んでいる章もおしまいです。いよいよ著者の考えが色濃く出てきます。
読書会では、直接本そのものについて考えたり解説を聞いたりするのもおもしろいのですが、そこに付随した「余計な」を聞くのがまたおもしろい。
今日は、ヘーゲルの時代のことにからめながら
「政治が乱れてくると、「こうあるべき」という人が出てくる」
というひとこと。
思わず、
「その人についていく人もまた出てきますよね」
とツッコミを入れてしまいました。
でも、だからこそラディカルにものごとを考え、行動しないといけないんだろうな…。
こちらも静か
なんだかんだで3人欠席で、学生は5人。こちらは静かに、でもスリリングに進んでいきます。
終わってからは学生同士でしばらく雑談。あ、お腹減った…。
「問うこと」は人間存在であるらしい
きょうの話もめっちゃおもしろかった。
とにかく「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」というテーゼのもとにすべてを考えていこうと。いや、このテーゼそのものを壊してもいいんだけど、あとがたいへんだよと。なぜなら、ぼうだいな作業をしなくまたゃならない。なので、簡単に言うなら「新築ではなく、リフォームで」らしいです。
わかりやすいわぁ(笑)。
ただ、リフォームといっても、そんなに牧歌的なものではなくて、「修理しながら走る潜水艦」みたいなものらしいです*1。なぜか?すでに生きているから。そこに「現実」があるから。
わかりやすいわぁ(笑)。
で、「問いとはなんぞや」と。
すんごく簡単に言うと、「答えより問いのほうが難しいやろ」と。たしかに難しいです。試験問題づくりは(;_;)。さらに「答えがない(かもしれない)問いもあるんとちゃうかな」と。かのデカルトも「コギト、エルゴ、スム」と言ってるやろと。これを言い換えると、「人間とは問う存在である」と。
じゃぁ、もしも「問い」が許されなかったらどうなるか。
ここで犬養毅が登場です。
「話せばわかる」
「問答無用」
なるほど!「問い」のない世界は「無限の自己肯定」の世界で、それは、逆ハンの切れないドリフトみたいなものなんや(笑)。
で、ストンと落ちた話は…。
「良識ある生活と思慮のない生活の区別は?」→「手続きの有無」
思慮や良識は知識の量ではなく手続きであると。
たしかにそうです。手続きとは、結論へ至るために、常に問い続けることですよね。
「なぜ○○をするのか?」
「したいから」
なんていう会話が、なんかそこここで聞かれがちなんですが、その、「問いと答の間」こそが手続きであり、それが「問い」であり、そこに「現実」がある。
ってことらしいです。
いやぁ、おもしろい!
*1:「ノイラートの船」らしい