めまぐるしい

今日のおべんきょ第1段は、センセのマシンガントーク。いや、わたしに言われたくないという向きもあるでしょうが、マジでマシンガントークです。本人も
「ジェットコースターみたいなおべんきょタイム」
って言ってましたから。話題の変化についていくのが大変です。てか、これについていくために、大切な会議を休ませてもらってるんですけどね^^;;。
でも、なんしか「教育の一部はマネージメント可能であり、一部はマネージメントにそぐわない」「その峻別がどこにあるのかを探すことは大切」という結論は当たり前に思いながらも大切なことです。この当たり前の結論に至るために3時間もかけるのが「おべんきょ」なんでしょうね。
で、第2段は、いきなり
「本を読め」
と。
その後、40分ほど話を聞いて
「質問しろ」
と。
いや、質問ないし…。
そりゃ、若いおべんきょ仲間はわからないことだらけだろうけど、センセとわたし、歳5歳くらいしか離れてないし、ほぼ同世代(T_T)。実体験としてわかるし。
で、無理矢理つくった質問の答え、それも知ってるし。てか、某在日外国人教育関係団体のなかまからリアルに聞いてるし。
とは言え、まぁマニアックといえばマニアックなあたりをきちんと把握しておられるのがセンセのセンセたる所以なんでしょうね。なにより、わずか40分の中で半世紀を振り返り、いまの状況までを俯瞰して考える時間が得られたのはよかったです。
さて、来週はどうなることやら…。

初体験

月曜日のおべんきょは、少人数のグループで、週替りで発表者を決めてグループ討論です。理系の学部を出たわたしにとって、はじめての経験です。
今日はおべんきょ仲間の担当。「福祉教員」について調べたい仲間は、その前段としさて「visiting teacher」について発表してくれました。
なんつーか、起きてる問題はどこでも同じやなぁ。そこで考えることも同じやなぁ。つくづくそんなことを考える、「福祉教員」の末裔(笑)でした。

やはり火曜日はハードだ

今日は中間試験一日目。とはいえ、試験監督はガッツリあるし、テストは返ってくるし、細々した用事はあるし。でも、そういうのができる日でもあります。なので、粛々とこなしていきましょう。
で、夕方職場を出て、おべんきょ場所へ。
自分で選んだとはいえ、やはり9時10分まではキツイです。でも、センセはもっときついでしょうね。
一発目は…。
まぁ、簡単に言うと、わたしら役者だけでは芝居はまわらないので、スタッフとか舞台監督とかいろいろいるよって話が半年続くはずです。で、通常舞台監督が絶対で上意下達な構造だろうと思われがちだけど、実際は違うよねという話。いや、これ、芝居だと
「あたりまえじゃん」
なんですよね。だって、そうでなくちゃ役者のオリジナリティの出番がなくなっちゃいます。
ところが、わたしらのギョーカイって、最近とみに世間から不信感があるというか、不信感をつくりだして煽る人がいるというか。まぁ
「ヤツらは管理しないとなにするかわからん」
みたいなことを考える人がいて、ヒエラルキーをつくろうと躍起になっているみたいです。
でも、そんなのうまくいくはずがない。だって、多様なんだもの。簡単に言うと、北海道でバナナつくる方法と沖縄でバナナつくる方法は違うってことで、たぶんできあがりも違うってことです。わけわからん例えやな(笑)。
てことで、実は「ゆるさ」こそが生命線だったんじゃないのみたいな話がこれから出てくるのかな。
二発目は…。
ガチで「平和!」でした。
それにしても、平和教育と人権教育、言ってることがほとんど一緒なんですよね。たぶん、小中だとそのあたりは無矛盾にしてはるんでしょうね。いや、わたしが偏っているだけか(笑)
そんなこんなで、あっという間に9時10分がきちゃいました。さて、帰って晩ごはんを呑まなくちゃ(笑)。

ある意味わたしのフィールド

年度後半は、月・火・金とおべんきょに通います。週3日は、もしかしたらきついのかなと思いながらも、やってみるしかないなとチャレンジすることにしました。
で、夕方、おべんきょ場所に到着。今日のセンセは国語教育の人なんですが、なぜか前々からの知りあいというか、かつて一緒に飲みに行ったことがあるというか(笑)。なので、わたしがおべんきょしに行くの、かなりいやがってはりました^^;。まぁ、逆の立場だったら、それはやっぱりイヤだな^^;;。
でも、内容は「多文化共生系」というか、もっと正確に言うなら「ことばと権力」みたいなことを考えるので、これはかなりおもしろそうです。
にしても、いきなりエスノメソドロジーが出てきて、気分的には
「キタコレ!」
ですね。かつてT田さんからその存在を教えてもらって、
「ちゃんと勉強しなくちゃ」
と思ったまま放ったらかしになっていたことですから、いい機会です。

それにしても、おべんきょ場所が普段と違い「街中」なので、おべんきょが終わると外は夜の街です。
あぁ、誘惑が(笑)。

今日は長丁場

今年の後半戦、火曜日は長丁場です。
とりあえず、おべんきょ場所に向かう夕方の風景。

今日のひとつめは、おべんきょ仲間が5人の小さなグループ。話を聞きながら、理論と実践の話があたまを駆け巡ります。これから半年間、楽しめそうです。
今日のふたつめは、おべんきょ仲間が8人。いままで手を出したことがない領域ではあるけど、かすってきた領域でもあります。こちらはこちらで楽しめそうです。
しかし、おべんきょ終了は21時10分。おうちに帰ったら10時をまわってましたよ^^;;

あらたにはじまった

今日からおべんきょ再開。後半戦は、時間も内容も、かなりハードです。ビビります。
で、今日はその初日。センセを含めて三人しかいません。で、センセからなにかを教えてもらうんじゃなくて、お互いに自分の問題意識を提示しあう時間になるらしいです。わたしも半年で四回くらい「提案者」にならなきゃなりません。こういうのははじめてです。
「で、最終回は打ち上げねー(笑)」
というセンセの言葉だけが頼りです(笑)

先達から学ぶ

今日はふだんのおべんきょ仲間じゃなくて、「おべんきょ仲間の先輩たち*1」の発表会です。
ん〜。まぁ発表内容についてはええか。
いや、おもしろかったんですけど、結局半年ではさほど深められないということなんでしょうね。もっとも、わたしがそれ以上の年限をかけたからといって、深めらえるかどうかははなはだ疑問ではありますが^^;;。でも、「研究」じゃなくて「研修」としては、とても意味があることなんだろうなぁと思いました。自分でテーマを探して、自分でそれについての認識を深めるという経験は、たとえその人が直接人権に携わらない部署についたとしても、自分の置かれた場所でなにができるかということを考えるためのひとつの契機になり得るんじゃないかと思います。
てことで、とても眠いけど来てよかった…。

*1:メッチャ簡単に言うなら公費で半年研修に行った人々で、まぁ将来のエリートやろな。もっとも、人権が「エリート」かどうかは、はなはだあyうわこらなにをすr

フィナーレ

木曜日の「おべんきょ」も今日で終了。
今日は「ニヒリズムとしての「問い」」です。出てきたペーパーを見たら、吉田兼行があるわ向井去来があるわ。いったいどうなるんだろう…。
吉田兼行からは「徒然」の意味から、「学ぶ」とはどういうことかということが解き明かされます。なるほど、語源的にはギリシャ語の「スコレー」と同じなのね。「暇」ということを「時間があってゴロゴロする」という消極的な捉え方をするんじゃなくて、「やることがわからないけど、「やりたい」「やらなくちゃ」という突き動かされるような衝動のある状態」と考える。そこから「学び」がはじまると。
なんか…。なんとなくわかる気がする。
ぽっかりと穴が開いたように時間ができたとき、頭のなかはまるで惑星ソラリスの大気みたいにウニャウニャと渦巻いている。胸がしめつけられるような思いのなかで、手に取るのは本だったりします。頭のなかは相も変わらず混沌としているんだけど、それでも本と対峙する。

センセはさらに続けられます。
「問い続けることはつらいことです」
そうだよなぁ。先が見えない。いつ終わるかわからない。「ここまできた」と思ったら、ゴールは遥か先にある。あるいは、そのゴールすら見えない。
「こういうのをニヒリズムと言うんです」
なるほど。
「その時とることができる道はふたつあります。ひとつは「あきらめること」。でも、これはニヒリズムのワナにはまることです。もうひとつは「引き受けること」。これをニーチェは積極的ニヒリズムといいました」。
終わりがないことを引き受けるのかぁ。でも、たしかにそれ以外方法はないよなぁ。
「発句になる575とならない575があります。発句になるためには「言い尽くさない」こと。すると連歌は延々と続く。そして、挙句はくるかどうかはわからない」
問答であり、自問自答だよなぁ。

とてもスリリングな半年でした。

少しわかったかな

「おべんきょ」、かつては「通年」ばっかりだったんですが、いまの立場は「半年単位」なんですねぇ。おどろきです。なので、「月曜おべんきょ」は今日で終了です。それでも、今日も表面上は淡々と、でも内容的にはとてもスリリングに進んでいきます。一時間半ほどのあいだ、「本」に集中して、互いに疑問を出しあったり考えを出しあったり。そして月曜センセの解説に耳を傾けます。そうやって、とても幸せな半年が終わりました。もっとも、本はまだまだ半分くらいしか読めていません。あとは自分で読み進めましょう。わからなければ、また月曜センセに会いに行けば、いろいろ話もはずむでしょう。
あ、もうひとつ残ってた。レポートだ(;_;)。

「問い」への「対応」

きょうのおべんきょタイムはグループ討論です。お題は「高校生から「こんなことやって役に立つのか?社会的に意味があるのか?」と聞かれたときの対応」でした。ちなみにこれ、4年ほど前の京都市の教員採用試験の問題だとか(笑)。
で、討論しながらの感想。
各グループにふたりずつ「年上」がいて、四人の「おべんきょ仲間」がいるんですが、「おべんきょ仲間」の人たちは、「問い」そのものに「答え」ようとされるんですね。「いかに役に立つか」ということを一生懸命答えようとされている。でも、お題には「どう答えるか」ではなく「どう対応するか」と書いてある。そこがミソだと思うんですよね。
つまり「役に立つのか?」という問いそのものがどういう意味を持っているのかということ、あるいは「役に立つとはなにか?」という、問いそのものの意味を問い直すことに意味があると、わたしは思ったんですよね。そのことを、問題作成者は「対応」という言葉であらわしたんじゃないかと。
で、少し論議を深めたいと思ったので、
「この質問をする生徒は、どんな気持ちでこの質問をすると思いますか?」
と「おべんきょ仲間」に聞いてみました。すると、みなさん
「勉強がわからなくて…」
とか言われます。と、もうひとりの「年上」の方は
「いままでやらなきゃならないと思い込んできたことに対して、疑問をもったんじゃないかなぁ。勉強との距離感を測ろうとしているんじゃないかなぁ」
と言われました。一同、深くうなづきました。
おそらく、「問い(what)」に「答える」ためであれば、その文章に対する答えに集中すればいい。
しかし「問い(how)」に「対応」するためには、「「問い」そのものを」問い、「「問う」主体を」問い、それらを通して「対応する自分自身を」問い、それを追求することは無限の「入れ子」をあけつづけること、あるいは無限の螺旋のドミノを倒しつづけることへとつながるのかもしれないと、ふと思いました。

しかし、たいりょくが続かんやろなぁ…。でも、それでいいのかも…。