今日の内容は「行動の記録」についてでした。
ターゲットにする行動のありようによって、「単純に頻度を測る」「秒に区切ってそのインターバルの間に行動があれば一回とカウントする」「分単位でカウントする」。あるいは「行動の持続時間を測る」「行動がはじまるまでの時間を測る」など、さまざまな計測方法があります。
あと、常についてまわるのが信頼性と妥当性です。とりわけ信頼性をあげるために、どの計測方法を選択するのかということと同時に、ターゲットとする行動の定義を厳密にしていく必要があります。
で、実際にインターバル法である行動の回数をカウントしてみたのですが、おべんきょ仲間と比べっこすると、案外あわないもんなんですね。
おべんきょの中ですらこんなんですから、実際の観察の現場では、当然あわせるのはもっと困難みたいです。基本的には一人では信頼性に問題があるので、二人ペアでやるみたいなんですけど、観察する人は相当訓練を積んで観察に臨むみたいです。
てことで今日の内容はおしまいなんですが…。

「思想」を誰のものとするのか

今日は「石田梅岩」と「石門心学」が題材でした。とはいえ、石田梅岩の「思想」がテーマではなく「伝え方」がテーマでした。
そもそも儒教というか朱子学というか、そういうのって「読む」ことからはじまります。はじめは意味がわからなくてもとにかく読む。そして、言葉を身体化させて、思考の言葉を身につけていく。で、そうやって身につけた儒教の話をやりとりできる相手は、同じ言語を身につけた人なわけです。であるからこそ「素読」からはじまる儒教の習得の仕方が決められていた。
ところが、石田梅岩は、メインストリー厶の儒学の勉強をしていないんですね。でも、「体得」してしまった。体得してしまったけど、メインストリームの儒者からはぜんぜん相手にされない。でも、体得した限りは「伝えたい」と思う。で、「一番伝えなくてはならないのは?」って考えた時、それは儒者ではなく一般大衆であると考えます。一般大衆とは、例えば「第一次産業ではないがゆえに差別されていた商人」であり、あるいは「女性」であるわけです。そういう人たちに伝えるためには「文字」ではなく「講話」のほうが伝えやすいわけです。
そこから、「いかに伝えるか」という試行錯誤がはじまり、やがてそれは「道話」という石門心学の「伝え方」へと結実していきます。
それまでの儒教との一番大きな違いは、「Mass・rogue」であること。それまでは「Dialog」、すなわち一対一で「思想」を師匠から弟子へと伝えていたのを、大人数を相手にした伝え方へと変わっていくわけです。
そこで例えば、「高座」みたいなものを用いることで劇場的要素を取り入れる。あるいは日常の言葉を使う。普通に起こる出来事を取り入れる。オノマトペを取り入れる。そうすることで、梅岩の思想は大衆に広がっていきました。
で、従来の思想史の考え方としては、梅岩はまぁいいとして、弟子たちは梅岩の思想をどんどん薄めていったと捉えられていたんだけど、そうではなくて、そういう「伝え方」をとったことそのものを評価すべきではないかという問題提起でした。

で、これを読んだわたしは大爆笑です。
まさにわたしが「お座敷」でやっていることそのままです。わたしの「お座敷」は劇場的でありパフォーマティブであると、わたし自身は思っています。そしてそれは、わたしの数学の授業にもあてはまります。

でも、ふと考えます。それは前回のテーマとも重なりますが、「批判的であることを身に着けていない人に「わかりやすく」伝えた時、学問としては死ぬ」ってことです。
「上手な伝え方」は、そのまま下手すると「洗脳」あるいはそこまではいかないまでも「だまし」につながってしまう。
じゃあ、そうではなく「自ら深めよう」とする伝え方との差はなにかというと、やはり「批判の芽をつまない」というところかなと思いました。そのためにはどうするか。そこで、「学びへの参加」が大切になるんじゃないかなと思うのです。
「参加」というと、つい「アクティビティ」と捉えられがちだけど、身体は止まっていても、心や頭が活動する「参加」ってある気がします。
つまり「正しいことをうまく教えるために伝える」のではなく「学びへの誘い」としての「伝える」です。たぶん、そういうことが必要だし、そういう「伝え方」を広げていくことが、社会全体が「洗脳」「だまし」に向かいつつある今、そういう流れに抗う一つの方法なんじゃないかな。そんなことを考えました。

で、とって返して

で、おべんきょ場所へ移動、行動分析のおべんきょです。
いままでは「行動の理論」についてやってきましたが、ここからは実践編になるみたいで、今日は「観察」についてでした。
最初に駐車場でぐずる子どもの映像を見せてもらったんですが、これはえぐいわ。にもかかわらず、おかぁちゃん、
「やれやれ^^;;」
って表情。慣れた感じです。なんでも、行動分析を知ってる人らしいです。なるほど、まさに「実践知」って感じですね。
で、今日のテーマは、その子をどう見るかってことです。
最初にすべきことは、ターゲットになる行動(回数を減らしたい行動)を決めるってことです。
で、どんな行動がターゲットになりうるかというと…。
自他に迷惑をかける・自他に危険を及ぼす・非行につながるなど、ま、困る行動ですね。それを「ひとつ」決める。そしてそれを、分析的に見られるように具体化する。
例えば、「暴れる」じゃなくて、「人を叩く」みたいに。かつ、観察可能であり、回数や時間がカウントでき、客観的であるように具体化する。
そうそう。大切なのは、「○○しない」だけじゃなくて、かわりとなる「適切な行動」を決めることのようです。
そんなことを教えてもらって、再び駐車場のグズりを見ると、あら不思議。いろんなことが気になりはじめます。つまり、おそらくはそれなりにではあるにしろ、「分析的に」見るようになっているんでしょうね。
で、今日は、とりあえず自由に観察して、ターゲットになる行動を考えるあたりで終了でした。

しかし、例えば授業中の私語に対して「生徒同士の私語」を減らして「授業への参加としての発言」を増やすなんてことはいつもやっていることなんですけど、ほんとにそのことを理論的にバックアップしてもらったというか、逆に自分が漠然とやってきたことをもう少し理論立ててできることにより、より効果的にできるようになるきっかけやなぁという気がしました。

なにを選び、どう伝えるのか

今日のネタは、日本における朱子学の系譜みたいな話でした。
ペーパーを一読して、まず感じたのは「ふーん」でした。つまり「系譜」ってのをそれだけで捉えると「ふーん、そーなん」な話なんです。でも、「系譜」っていうのは、実は「解釈の試行錯誤」とか「葛藤」とか、まぁ、学問の学問たる所以というか、その軌跡とでもいうものかな。とてもダイナミックで、まさに、それぞれの人が自分の存在をかけて打ち込む姿が浮かびあがるわけです。
ところが、今日の話で言うなら、そこに幕府(政治権力ですね)が絡み、中国の科挙とまではいかないまでも、「武士のたしなみ」みたいなものがうまれ、やがてそれが「正当な朱子学」みたいなものがうまれる。そして、それが印刷技術の発展により、それが一般民衆に広まっていく。一般民衆はそれを正当なものとして受け入れていく。そんな中で、「学問」としての瑞々しさとかドロドロさとか、そういうものが失われてしまい、やがては朱子学儒教をよりよく理解しようと苦心惨憺して書かれた渾身の本が「試験のための参考書」とか「朱子学のノウハウ本」に成り下がっていく。
ま、そんなあたりの話でした。

でも、これって、考えようによっては、今もまったく同じだったりしますよね。で、そのあたりが今日の論議のテーマでした。

まぁ簡単に言うならば「教科書を教える」のか「教科書で教えるのか」ということ。それから「(教科として)なにを教えるのか」という、選択の問題。そして、それをどう「評価する」のかということ。
そう言えば、小中では「主要5教科」とか「副教科」なんていいまわしがありますよね。高校ではそういう言い方はしませんけど。で、例えば、数学なんかは「主要5教科」に入っているんですけど、常々
「なんでだろう」
と思ってきました。
一般には「読み・書き・そろばん」ってところにその根拠を求めたりもするのですが、「そろばん」と「数学」はまったく異なるもので、どちらかというと数学は「ゲージツ」に近いんじゃないかと思っています。にもかかわらず、「主要5教科」…。
で、ふと思いついたのは「主要5教科の共通点は座学であること」ではないかと。で、座学の特徴は「大人数を同時に効率よく教えることが可能な教科」であるということ。ってことは…。「主要5教科に何を選ぶかという、選択の根拠はコストではないか」ってことなんです。ま、単なる思いつきなので、それが正しいかどうかは別なんですけど、「読み・書き・そろばん」なんていうのは「あとづけの理由」って可能性もあるよなって話なんです。

で、もうひとつは「観点別評価のわけわからなさ」みたいなあたりです。もうええやろと。わたしになにが評価できるねんと。「意欲」を測るものさしはなんだと。「関心」は?「態度」は?んなもん、測れないよと。てか、わたしに「測る資格」なんてないよと。
じゃ、わたしは何を測るのか。わたしにできるのは「与えた数学の問題に対する解答能力」のみであると。だからこそ「余計なものは取っ払って純粋に点数だけで」というふうに考えるのです。
で、これをベースにして、でも、クラスの状況なんかでそこに味つけをする。

ここで、体育のおべんきょ仲間とプチバトルしました(笑)。
「体育とスポーツは違う」。
「スポーツ」は「勝つ」ことに重きを置くけど、「体育」は「知・徳・体」を総合的に学ぶ「教科」であるということです。なるほど。で、「知」に重きを置くわけではなく、例えば、「徳」の側面からも「評価」するも。
そういう意味では、わたしの数学の評価のしかたは、たぶんに「スポーツ的」なんだと思います。
ちなみに、バトルの内容は「評価の中身(なかよくしたら評価が高いとか)」にかかわることで、そのあたりは「ムニャムニャやなぁ」と思っていまして。
「いや、ヘイトスピーチやってるヤツらには「なかよくしよう」って言いますけど、職場になかよしがいないわたしは評価低いですよね(笑)」
みたいな。
このあたり「効率のよい主要(笑)5教科」と「そうではない教科」との違い、あるいは小学校と高校の評価のありようの違いなど、いろんな違いがあるでしょうから、まぁ、評価は可能かもしれません。わかりませんが…。

そうそう。もうひとつ思ったことは…。
ひとつの学問というか領域がメディアによって「わかりやすさ」を獲得することの怖さですね。そこにどんな意図が働くのか。あるいは批判的な見方を身に着けていない人がそれを見た時、あるいはその学問が「わかりやすさ」を身につけた時、学問として死んでいくということ。これまた、巷に溢れかえっているよなぁと。
そんなことを考えた1時間半でした。

日常を分析的にフィードバックする

今日のおべんきょは「シェイピング」と「チェイニング」です。
まずは「シェイピング」。
これは、やったことがない行動を身につけさせたり、忘れていた行動を回復させたりする方法です。「少しずつ行動を近づけ」ながら、「特定の行動のみ強化する」。ま、簡単に言うなら、いろんな行動をやらせて、最初は「遠い」けど「まぁ…近いか」みたいなのをとりあえずほめておいて、そのうち段々近いのだけをほめて、特定の身につけさせようとする行動へと誘導していくって感じですか。
で、「チェイニング」は、「ひとつの行動は細かい行動の連鎖で成り立っている」ってことです。逆に言えば、「ある行動ができない」ということはすべてができないのではなく、「あるステップのみ(複数かもしれないけど)」ができないだけであると考える。すると、その行動ができるようにすれば、全体ができるようになる。
で、チェイニングを身に着けさせるための方法として「順行チェイニング」「逆行チェイニング」「全課題提示型」がある。
「順行チェイニング」は、チェイニングの順を追うので、わかりやすいんだけど、結果が遠いので「見通しがたたない子」には厳しい。に対して、「逆行チェイニング」は結果の提示が伴うので、「見通しのたたない子」にも優しい。けど、プログラミングをしないといけない。
で、「全課題提示型」は、普通の授業の感じ。ただ、当然できない子がいるわけで、「プロンプト(口頭のヒント)」や「ガイダンス(身体的な手助け)」を使ってサポートしながら、少しずつサポートを少なくしていく。
で、「チェイニング」の一部ができないときは、「プロンプト→ガイダンス」の順に試していって、それでもダメなときは「シェイピング」で身につけさせる。

なーんてことをやったんですが…。
ほんと、普段の授業やスキーのインストラクションでやっていることそのままなんですよね。
ひとつの問題をいくつかのステップに分析して、それらのどこでつまづくかを予想して、適宜プロンプトを入れて、できない子については一緒に解いて。あとは宿題には解答をつけて、穴埋めにしてみたいな。全課題提示型と逆行チェイニングの混合型。
あるいは、答えは出せるけどどうやって出しているのかわからなかったり、途中のステップが書けない子がいたりもします。そんな子にとって、逆行チェイニングは有用でしょうね。
逆に言うならそういう手間をかけると、定着することが、行動分析の側面から言えるってことですね。
いや、ほんとにおべんきょになりましたよo(^^)o

テキストを身体化する

今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。

で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。

で、わたしの答は「世界の見方」でした。

おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。

こわさ

今日のおべんきょのテーマは先行子操作。簡単に言うと、行動を起こす前の状況を操作することで、結果としての行動をコントロールするということのようです。
これ、すごく簡単なことで、例えば
「禁煙しようと思っているけど、ついタバコに手を出してしまう」
みたいな時に
「タバコを見える範囲から外に出す」「タバコの買い置きをしない」
みたいなことで、少なくともタバコの本数を減らすことができるということです。つまり
「そこにあると手を伸ばしてしまう」
「買いに行くのがめんどくい」
みたいなことになるわけで、こういうのが先行子操作ってことです。
この先行子操作、行動の結果に対するものではないので、あらかじめ準備がしやすくて効果的。というより、「行動」って、ほとんどがこの原理に基づいているわけで、そんなこんなを組み合わせて行動をコントロールすることができると。
話を聞きながら感じたのは…。
行動分析って、すごくおもしろいけど、ある意味すごくこわいです。このこわさをどこで前に感じたかというと、そこでエスノメソドロジーですよ!会話分析。

でも考えてみると「分析する」っていうことそのものが、おもしろさと、その裏返しとしてのこわさを持っているんでしょうね。逆に言うなら、こわいと感じない分析は、分析としてはまだまだなのかな。
そんな気がしました。

新しいメディアはなにをもたらすのか?

わたし、別にメディアについておべんきょしているわけではありません。てか、お友だちの中には専門家もいるから、恥ずかしいわけですが…。ま、おべんきょメモって感じですねφ(..)

とりあえず「教育」を「知の伝達」とする。で、メディアを「伝達のためのツール」と考える。そうすると、例えば「学校という制度そのもの」は、実はメディアととらえることができる。
従来の教育は学校中心で進んできたけど、今、それが大きく変わりつつある。
てなあたりが、おべんきょのネタの問題意識のようです。

なるほど…。
で、センセ曰く。
「(伝達の)道具の変化」は、単なる「ツールの変化」に留まらず、「中身」や「意図」までも変えていく。
それは例えば

・筆と墨…訂正不可→完全な模倣を目指す

・石筆と石板…訂正可能→計算・答えあわせ・一斉テストが可能

・鉛筆とノート…蓄積と持ち運び可能→記憶と定期テスト可能

みたいな。
で、さらなるメディア革命は何をもたらすのか。学校が教育の中心とならない今の社会って?みたいなあたりから論議がはじまったのですが…。

やはり、わたしからの問題提起は「格差の拡大」でした。
おそらく他の「おべんきょ仲間」は「新しいメディアの可能性」みたいなところに目が行くんじゃないかなぁ。というのは、みなさん、若い!だけじゃなくて、「おべんきょ仲間としての均質性」みたいなところがあって、その均質性とはことなる人々のことをあまり知らないんじゃないかと想像できるんですよね。
に対して、わたしは「その新しいメディアへのアプローチの機会」の不平等がおこってしまい、結果的に格差の拡大へとつながるのではないかというふうに考えてしまう。で、念頭にあったのは、その真逆の話としての「教書無償化の闘い」がもたらした格差の縮小だったんですよね。

あと、メディアを「伝達手段」と捉えるなら、結局一番大きな影響力を持つのは「生身の人間」ではないかということ。「均質性」は、結局「つきあう人の多様性のなさ」に一因があるかと。逆に言うなら、「つきあう人の多様性」が担保される集団では「その集団の均質性」は起こりにくい。
で、いかにメディアが多様化しても、結局それがその集団にとっての「タニンゴト」であるとしたら、メディアの多様性を「均質性の損失」として使える集団との格差は広がってしまう。

てことは…。
いかにして「均質性を打破するか」ってことが、格差の拡大に抗うひとつの小さな可能性となりうるかもしれない。その時に、メディアの多様性を無自覚に「よいもの」「便利なもの」「可能性のあるもの」としてしまうと、先にも書いたように、その多様性へのアプローチの機会の不平等により、格差は拡大されてしまう可能性がある。
だからこそ、とりあえず「みんながガッコに来る」という前提で考えるなら、やっぱりわたしは多様なツールを使うのではなく、口先三寸チョーク一本の「ライブとしての授業」にこだわるなぁ…。
てのがオチですか^^;;。

弱化の罠

今日のテーマは「弱化」。「弱化」とは「行動を減らすこと」らしいです。
ものすごく簡単に言うと、下手すると教員のやっていることの大半がこれにあたります。ほんとは「強化(行動を増やすこと)」であるべきなんですけどね(T_T)。
で、これ、不適切な行動を減らす為には必要になることもあるわけなんですが、ただ、「わからずにやる」ことがとてもこわいことがよくわかりました。
行動を減らすためには
1、嫌な刺激を与える
2 、好きなものをとりあげる
のふたつの方法があるわけです。で、こんなの、日常的にあるんですが、これ、罠がありまして…。
この「弱化」を行う側にとって、こういうことをやることそのものが「強化」されがちだってことです。
例えば…。
生徒がうるさい→怒る→静かになる
は生徒にとっては弱化なんですが、逆に教員にとっては
怒る→生徒が静かになる(強化子)→すぐに怒るようなる(怒る行動が強化され
る)
となるんですね。
これ、体罰も同じって言ってました。

人間の行動って、いろんな側面を見なきゃならないし、相対化することも大切だなと。
いやぁ、勉強になりますわo(^^)o

古今出版事情とメディア革命

夜はおべんきょです。自分が相対化されるとても大切な時間です。
今日の話はメディア革命が教育にもたらした変化についてです。
もちろん、「現在」が、まさにメディア革命の時期であることは言うまでもないのですが、実は近世、それも元禄前後もまたメディア革命の時期であったと。で、それは「写本」の時代から「木版」の時代という変化であったと。
ということで、メディア革命がどのような変化をもたらしたかということを、みんなで読んでいる文献では近世について書いてあるわけですが、あえて「現在」の視点で考えてみようという論議が、今日のおべんきょだった気がします。

で、いろんな人の考えを聞き、考え、発言したこと。

  • 聞くこと、話すこと、読むこと、書くこと。連続しているようで、その習熟って、実は不連続なのかな。
  • メディア革命の時代の教育機関の果たす本質的な役割は情報管理なのかも
  • 現在のメディアって、ソースとしてのメディアとツールとしてのメディアがグチャグチャになっているのかな。あ、Lisp(笑)!
  • 「伝える」って、もしかしたら伝えたい内容すべては伝わらなくて、結局は「何かを削る」ってことなのかな(サンプリング定理?)。
  • 扱えるデータ量が増えれば増えるほど削っていることにマヒしてくる。なんとなく、すべて伝わっている気になってしまう(カセットテープは音が悪いから情報を削っていることを実感するけど、mp3って、なまじ音がいいから削っていることに無自覚みたいな)。
  • 結局、「そこで人と人とが会って伝える」ことが、一番正確に近い形で伝えることになるのかな。

そんな「現在」の感覚を持って、メディア革命の起こった近世の状況を想像し、そこで益軒の果たした役割って何だったのかということが、たぶん次のテーマになりそうです。きっと、当時の最先端を走った人々に、驚きと尊敬の念を持ちながら過ごす日々になるかな。
と同時に、「現在」に優位があるとすれば、おべんきょに疲れた身体と頭を、ビールが癒してくれることかなとか思ったり^^;;。