ホテルにいったん帰ったところで、お友だちのO田さんからメール。夜の呑み会は参加範囲が限定されていて来られないけど、まだ会場近辺におられるとか。なので、ホテルのロビーで会うことに。で、ちょこっと話をしたのですが、なんとなく
「ムラに行きたい」
というとつれていって下さることになりました。
車に乗せてもらって約20分、到着したムラは、関西の人間にはさっぱりわからないたたずまいです。と、O田さん、一軒のお家の前で車をとめられて、玄関を叩いておられます。マジか…。出てこられた方に
「この人、ムラに行きたいって言うから連れてきました」
とか言っておられます。と、
「それはそれは、ようこそいらっしゃいました」
と、これまた歓迎のお言葉。ほんとにO田さんがこの地で関係をつくっておられるんだなということが、しみじみと伝わってくる感じです。
「いやぁ、関西の人間にはさっぱりわからないです」
「そうでしょう。このあたりはもとは10数軒しかなかったけど、今は100軒を越してますからね」
「へー」
「でも、なぜかムラの人はわかるらしいですわ。もしかしたら、赤い印がついているのかも(笑)」
なんちゅーギャグを!なので
「いや、星のマークが」
と、これまたいらんギャグで返してしまいました。すみません。
それにしても、この軽やかさはなんだろうと思っていたら、O田さん、会わせてい人がいるとのことで、家の裏にドンドン入っていって、またまた
「この人、ムラに行きたいって言うから連れてきた」
と、わたしのことを紹介。すると
「それはいかんなー(笑)。ブルーベリー、食べるか?」
と脈絡のないお言葉。ほんとうにすごいわ。てことで、ブルーベリーを食べながらホテルまで連れて帰ってもらいました。

で、O田さんとバイバイして、今日の飲み会の会場である「海旬」へ。なんでも、校長さんが「おいしい魚を食べさせたい」とのことです。
たしかに刺身、すごいです。

脂が甘い。続いて出てきたのが茶碗蒸し。

これもおいしい。やはりダシなのかなぁ。ちなみに、この茶碗蒸し、ろう学校の卒業生の方がつくっておられるかもしれないとか。
刺身だけじゃなくて、焼き魚も煮付けもすごいおいしい。さらに、なぜか豚しゃぶが出てきたのですが、これがまたおいしい。それにしても量が半端ないです。ぜったいに食べきれないな(;_;)。
で、ガンガン魚を食べながら、管理職のみなさんに今日考えた「ろう学校の開放」を提言(笑)。みなさん、苦笑いをされながらも、一方で
アスペルガーで聴覚過敏の人なんかにとっても、視覚優位の学校はいいかも」
とか、ちょっとおもしろそうな気配も漂わせておられました。
さてと、お腹いっぱいになったところで、今日の飲み会も終了。ホテルに帰って寝ましょうか。

メッチャ懐かしい再会・全国在日外国人教育研究大会(2日目)

朝、分科会の会場に入ると
「いつきさん!」
と声をかけられました。そちらを向くと、もっとも初期にカミングアウトしたうちのおひとり、全国キリスト教学校人権教育研究会のM内さんがおられました。この方
「男時代のいつきさんは怖くてしんどくて、とてもしゃべりにくかった。でも、そうだったんだ」
って受けとめてくれた方です。なんか、あの時の気持ちは今でも覚えています。教員をやめられてから、今もとても地道に、でも素敵な仕事をしておられます。
そんなこんなで、M内さんとしばし思い出話とか、近況報告とか。
で、分科会がはじまったので参加。在日朝鮮人ハンセン病の話を聞きに行ったのですが…。
とてもよかったです。よかったんだけど、レポートじゃなくて講演ですね。ま、講演でもいいんですけど、なんかちょっとさびしいです。昨日の全体会もだったけど、揺らぎのない話はおもしろくない。まぁ、おもしろさを求めることそのものが間違っているのかもしれませんが、でも、「完成された語り」の場ではないところで「完成された語り」を聞くと、ものすごく違和感があるんですよね。さらに、質疑応答というか感想というか、それが、あまりにもです。簡単に言うと「称賛」です。だから深まらない。
強烈な違和感を感じた分科会でした。まぁ、予想はされていたのですけどね。
まぁ、そんなこんなで、今年の全外教の大会は終了。

つくづく「揺れ」とか「葛藤」とか「逡巡」とかが好きなんやなぁ・全国在日外国人教育研究集会

朝、目が覚めると畳の上です。これは身体がきつい。昨日の夜メイキングしたベッドに移動すると、すでにみなさんは朝の準備をされてます。マジか…。それでもしばらくゴロゴロして、体調を整えて、朝ごはん。コロッケパン、おいしい。
で、子どもたちは班討論の部屋に行きました。わたしは…。本部待機ということで^^;。でも、ところどころで入ってくる情報で、いろいろ考えます。もしかしたら、テコ入れの方法がまずかったのか?でも、今からではもう遅い?みんなにがんばってもらうしかないか?いや…。
てことで、アチコチの班を見てまわったのですが、おもしろいですね。見事にそれぞれの班の個性が出てきます。しっとりと小声で話しあう班のもあれば、ワイワイにぎやかな班もあります。終盤になって、みんなで論議した内容をポストイットに書いて模造紙に貼り付けていくのですが、ここでもきちんと並べる班もあれば、思い思いのところに貼る班もあって、個性が出ます。
で、全体会。みんなの前で発表しているみんなの顔を見ると、さきほどの心配が杞憂であったことがわかります。それぞれの班が自分たちの経験や思いを出しあって、みんななりの「社会化」をしてきたんだなということが伝わってきます。
ある班のある中学生が、昨日の夜書いたというラップをみんなの前で披露してくれました。ひとりは関東から、ひとりは関西から、ひとりは九州から。出身もエスニシティナショナリティもすべて違う3人が出会ったのは去年の交流会です。なのに、その3人がラップを歌い、DJをし、ダンサーをする。そんな風景を見て、「20年以上かかわってきたんだなぁ。続けてよかったなぁ」と思い、なんか、涙が出てきました。
で、卒業生の車に乗せてもらって、全体会の会場へ。子どもたちは、ここで大人たちへ向けてアピールをします。全体会の会場に入ると、某人権教育研究会の友だちが来ています。かなりうれしかった。
で、アピールタイム。みんな、さっきの発表よりもスムーズに話をしてます。でも、じつは荒削りな方がおもしろいんですよね。そして、そのおもしろいのが聞けるのは、交流会の世話人だけです。そんな楽しさを他の人に伝えられたらいいな。
そんなこんなで、今年の全国交流会も流れ解散。
その後、全体会の会場にもどって外国人教員のシンポジウムを聞きました。が、ねむい。しかも、みなさんしっかりしておられるので、逆に単調。おそらく外国人教員がいることの「すばらしさ」とかは伝わるんでしょうけど、迷いとかブレとか、その手のものが伝わってきません。これは個人的にはきついです。みなさんの元気な声が、逆に子守唄になって、ついウトウト。気がつくと、残りあと5分。「しまった」と思ったけど、時すでに遅しです。
あーあ(;_;)。

久々のフル参戦

朝、嵐の予感がする中、パートナーを接骨院に送ったり。さらに、嵐の中の買い物に行ったり。そうこうするうちに、出発の時間がきたので地下鉄に乗って、京都駅へ。
今日から明日は全国的在日外国人生徒交流会、明日はから明後日は全国在日外国人教育研究集会です。
てことで、ゼンコーなわけですが、最初からの参加はほんとに久しぶりです。ここ数年、どこかから行くとか、そもそもみんなから参加をとめられたりとか(笑)。まぁ、今年ももともとは福岡から行く予定でしたから、ほんとにアカンやつだと思います。そんなわたしでも、みなさん「ええよ」と思ってもらえるのがうれしいです。
基本的に、わたしの役割はサポーターをしてくれる卒業生の元締めです。てことで、到着したら、京都の子どもは他の人に任せて、卒業生の役割分担をしたり、悪巧みの作戦会議をしたり。
で、交流会開始。今年の実行委員、すごいな。いや、例年すごいんだけど、今年の子ら、すごくいい感じでみんなをのせてます。さらに、卒業生も混じって、はじめての参加の子らの硬さを溶かしていきます。まさに「Ice Breaking」って感じです。
そうこうするうちに、班別討論。わたしはしばしごろ寝(笑)。
その後、晩ごはんですが、ハンバーグのお味は…。冷凍食品を自然解凍してそのまま出した感じです。教員はみな、黙々サクサク食べてしまっている感じです。わたしも黙々と食べました。
その後子どもたちは班別討論。教員はおふろ。わたしもおふろ(笑)。
で、班別討論が終わると、またまたわたしの役割の実行委員ミーティング。みんなで今日一日の討論の状況をシェアして、明日へ向けての方向性を確認する時間です。こないだのゼミみたいな時間ですね。
それにしても、ここでやってることって、ほんとに高度なんだなって思います。つまり、ここの経験の中に埋め込まれて不可視化されていることを、経験のシェアを通して社会化し、可視化させるって話です。まさに、CR(consciousness raising)です。そしてそれをピアな立場である実行委員たちがやるわけです。子どもたちのミーティングを通して、その難しさをあらためて感じました。
なんか、ちょっとやり方を考えなきゃならんな…。
てなもやもや感をもったまま、教員の情報交換会→卒業生の懇談会で、案の定クズになりましたとさ(笑)。

今日もフィールドワーク

朝、Hぼんが迎えに来てくれて、今日の行動開始です。
まずはマメタとクリコにお別れのごあいさつ。来年も来たいな。
で、読谷村に向かいます。

  • American village

読谷村に向かうためには国道58線(「ごっぱち」と読む)を走ります。この道、いざとなれば滑走路にも使えるし、ベトナム戦争の時には軍需物資を満載にしたトラックが走っていたとのことで、広くまっすぐで、しかもおそらくは分厚いアスファルトが敷いてあるはずです。まぁ、国道1号線も同じようなものですか。
読谷村に行くためには、途中、北谷を通ります。ここにAmerican villageなるところがあります。

うーん、まぁアメ村ってことですね(笑)。にしても、これもまたもやもやします。
ちなみにこのあたり、米軍払い下げの住宅が立ち並んでいます。「これ、ニコイチちゃうん」みたいな住宅もあって、たぶん、どのクラスかでずいぶんと住宅も違うんだろうな。途中にあったお店が「グロセリー」とか書いてあって、「雑貨屋さん」ではないわけです。

いろいろおもしろい。

  • 米軍上陸の地

続いて、比謝川の河口に移動。ここに泊城公園があります。その中に、米軍上陸の地碑があります。

ちなみに、ここに入るための入り口がわからない。かなりウロウロしました。
この地碑から見える比謝川の河口。

72年前の4月、ここから沖縄地上戦がはじまったんですね。
まずは、北谷の北飛行場が陥落。そして、嘉数高台が陥落。そして、シュガーローフが陥落して、首里城陥落。ただ、シュガーローフ以前はあまり重きを置いていなかったのか、ここでは無血上陸だったとか。北飛行場もあっさり引き渡したけど、あまりにもあっさりすぎたので、大本営は「奪還せよ」との指令を出したとか。で、ちょこっと奪還作戦をしたものの日本軍の被害のみだったとか。てか、そんな奪還作戦、人の命が奪われるだけやんか。ほんとに「ベンチがアホやから野球できへん!」なんですが、ことは野球じゃなくて、命がかかっているわけです。
そんなことを考えながら、次の場所へ。

比謝川の河口からしばらく行くと「torii station」があります。

そこからしばらく行くと、「読谷村役場」があります。ここもまた米軍返還地です。もとは飛行場だったとか。それを返還されるにあたって、どうするかということで、平和の街をつくるためにここを使うと言うことで、まずは役場をつくったと。まわりにも「平和」の冠がつく施設が一杯あります。役場の屋根は赤瓦。決意を感じます。

役場のまわりは広い原っぱです。
「ここの土は素手で触ったらダメですよ」
と野入さん。なんでも、枯れ葉剤みたいな薬物のドラム缶が一杯埋まっていて、それが染み出ているんだとか。だから、住宅地に転用ができないとのことです。
役場に入ると、「第30回平和創造展」の展示がありました。

すごいな。と思ってみていたのですが、横を見ると、なにやら資料を発見。「持ち帰らないで下さい」と書いてあります。でも、ほしい。
と、野入さん「もらいに行きましょう」。マジっすか!
で、役場の人に交渉。もらってしまいました。

野入さん、さすがは社会学者です。にしても、これ、メッチャ貴重な資料ですよ。ワクワク。

  • 恨の碑

ここで、いつものMりさんと合流。向かうは「恨の碑」です。「恨」は「ハン」です。
「へー、沖縄にも恨(ハン)という感情があるんですか?」
「違う違う。ここは朝鮮人の碑」
ほんとに何も知らないわたしです。「恨の碑」は小高い丘の上にありました。入り口には亀甲墓。その奥にあります。

これは、沖縄に連れてこられた朝鮮人の慰霊碑です。作者を見ると「金城実」とあります。とても有名な彫刻家ですが…。
い「金城さんって、単なる酒飲みらしいですね」
M「こないだくだ巻いてるの見ました」
などという身もふたもない会話をしていたのですが、それはそれとして、この間の「沖縄戦の図」にしろ、この「恨の碑」にしろ、朝鮮人を巻き込んでの地上戦であり原爆であったということが、よくわかります。

ここで、お昼ごはん。向かったのは、「海民食堂」です。おいしいお魚と天ぷらを満腹になるまで食べて、さらにわたしはビールも呑んで、そんな状態で向かったのが「チビチリガマ」です。

さっきまでの「おいしい!」とかいう気持ちが一気に沈みます。もちろん沈まなかったらおかしいです。ガマの入り口には遺族会から「入らないでくれ」という看板が。そりゃそうです。
ガマの隣にある「平和の像」はかつて壊されて、現在のものは再建されたものだとか。なにがあろうとも、壊す神経がさっぱりわからないのですが、そんなことがあったんだ。怒りがわいてきます。そして、この像も金城さん作。きっとすごい人なんだろうな。いろんな意味で。
振り向くと蔦の生い茂る風景があります。

ここで自決した人たちの無念と怒りと、そしておそらくは「恨」としか言いようのないであろう感情が、なんとなくそのあたりに漂っています。言葉を失ったまま、次の場所へ。

読谷村毒ガス事故があったりして、そういったことから周囲から排除の対象になったとか。そんな中、読谷村を平和の村として復興させるひとつの手段が「やちむん」でした。なんでも、全沖縄から意見に賛同する優秀な陶芸家を4人集めてはじまったのが「やちむんの里」です。
ということで、到着すると、登り窯があります。

向こうにある建物を見ると、中で「ニライ」がろくろをまわしてそうな感じです。

と思ったら、ほんとうにそうだったみたいです。
とりあえず、北窯売店に行って、家用に茶碗を4つ買いました。もしかしたら松田きょうだいのどちらかの制作かもしれないのですが、そういうことを問わないのが、ここのモットーだとか。
その後、がらりと違う「ギャラリー囍屋」へ。ここでしばし目の保養。

ということで、今回の沖縄フィールドワークはすべて終了。58のバス停で野入さんとおわかれです。また、来年よろしくお願いします!

フィールドワークはまだ続く −森川公園−

で、ゼミも終わったところで、いったん野入さんのおうちへ。その後、犬の散歩がてら向かったのは「森川公園です。
ここは、沖縄の羽衣伝説があるところで、もしかしたら宜野湾では最高の拝所(ウガンジュ)かもしれません。



ちなみに、宜野湾市長の佐喜眞さんや佐喜眞美術館の佐喜眞さんは、この羽衣伝説の子孫だとか。
山頂に上がると、きれいな夕日です。

でも、振り向けば基地。

ウガンジュは、単に「そこ」というわけではなく、山全体がウガンジュです。その半分を基地にして入れなくしてしまうという…。
なんか、ものすごく複雑な気持ちで森川公園をあとにしました。

返還跡地めぐり

今年もやってきました。琉大でのお座敷です。琉大のお座敷そのものも楽しみですが、ゼミの乱入もかなり楽しいです。そして、それよりもっと楽しみなのは、野入さん厳選のフィールドワークです。ちなみに、野入さんにわたしから行きたい場所を言ったのは初年度だけです。
野「いつきさん、どこか行きたいところある?」
い「伊波普猶のお墓」
野「伊波普猶…」
ちょうどこの年は沖縄人権学習の教材をつくった年で、それができるヒントをくれたのが伊波普猶だったからです。
その年は
アメラジアンスクール→伊波普猶のお墓→嘉数高台→ガマ
といったところをまわりました。
その翌年
コザ十字路→ヒストリート→中の町自治会館
といったところをまわりました。
その次の年はこんなことがあったから、沖縄には来られず。
で、昨年は不屈館に行きました。
さて、今年はどんなところだろう。野入さんからは
「今回のテーマは「基地返還跡地 返ってきたぜ沖縄が!?」です」
との連絡が入ってきました。さらに今回は「株式会社がちゆん」の人たちと「nuge」の人たちとともに「おもてなし班」を結成してくださっているとのこと。なんか、ものすごいんですが^^;
ということで、15分おくれの「はるか」で関西空港に着いて、ギリギリの時間で搭乗手続きをすませて、なんとかジェットスターに飛び乗って、那覇空港到着。「がちゆん」と合流して向かったのは「那覇メインプレイス」です。ここ、新都心にあるショッピングセンターです。ここで野入さんと合流。

  • シュガーローフ

向かったのは「シュガーローフ」です。
野入さん曰く「この丘は骨でできている」です。

どうやら、このシュガーローフと首里城を結ぶ線を日本軍は死守すべきラインと設定したらしく、ここでものすごい戦闘が行われたとか。そして、ここが落ちるのが5月。翌月首里城が落ちて、牛島中将は自害。形式的には沖縄は陥落しますが、そのあと司令官を失ったにもかかわらず降伏を許されなかったために、えげつないことになったとか。
そんなシュガーローフは戦後接収され、その後返還されるわけです。その返還跡地が、見事なジェントリフィケーションで新都心に生まれ変わるのですが、なんかもうえげつない。戦争のあとなんか跡形もなくなっていて、たしかに経済効果抜群そうな有名ブランド店とか高層マンションが建っていて、どないやねんと。


経済効果抜群はいいけど、そのお金は誰の懐に入るねんと。しかも、ウチナーは有名ブランド店では買い物できないとか。正確には、県外に行く航空券を持ってないと買い物ができない。まぁ、免税店なのでというのがその理由ですが、誰を相手にしてるかがにおってくる話です。
さらに、ここからゆいレールをはさんだ向こう側では、今も遺骨発掘作業をしているとか。

その落差にクラクラします。
なぜこういうことが起こるかというと、返還前より返還後のほうが経済的にプラスでないと返還するメリットがないというロジックらしいです。でも、その経済が地元の人を潤しているのか、あるいは地元であっても誰を潤しているのかということを考えると、壮大な疑問符がつく話かなと思いました。
そして、頭上にはオスプレイ

  • 佐喜真美術館

お次は「佐喜真美術館」です。
ここも実は返還跡地なんですね。
佐喜真美術館は「沖縄戦の図」で有名ですが、その成り立ちは、丸木位里・俊が「沖縄戦の図」を書くにあたって常設展示する美術館が必要で、美術収集家の佐喜真さんに「つくれ」と。そこで、佐喜真さんは米軍に「あかんやろなぁ」と思いながらも「返してくれ」と。すると、米軍は「我々は平和をもっとも重んじる」と言って、美術館に必要な土地とアプローチの道の分「のみ」返してくれたと。なので、フェンスに囲まれた美術館になったと。
で、「沖縄戦の図」の前へ。ここまでは下を見て近寄って、椅子のところで「バッ」と目を上げるのがおすすめの見方だとか。いや、絵のわからないわたしにも迫力が伝わってきます。ひとしきり見たあと、絵に近づいて細部を見ます。すると、いろんなものが書き込まれていることがわかります。右の下には石碑があって「在住朝鮮人」の文字があります。右の上には風車。沖縄のおばあ・おじいは97歳になると「ガジマヤー」を持たせてもらって子どもに帰るんだとか。「沖縄戦がなければ、みんな子どもになれたのにね」という野入さんの言葉を聞いた瞬間なみだが出てきました。
そして屋上へ。ここには6段と23段の階段が空へ向かって伸びています。6月23日には、そこにある小さな窓から日が差し込んでくるんだとか。

ひょいと下を見ると、フェンスの中に亀甲墓があります。うわぁ…。

  • 比嘉集落跡地の碑

続いて向かったのは「ライカム・イオン」。

イカムはRyCom、かつて琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)のあったところです。ここに、最近、沖縄最大のイオンモールができました。このイオンモールの土地、その前は何だったかというと、「泡瀬ゴルフ場」という、米軍専用のゴルフ場でした。では、その前はというと北中城村比嘉という集落でした。ここ、けっこう肥沃な土地だったようで、作物のできもよく、比較的裕福な村で、赤瓦の家が並んでいたとか。
そんな自分たちの集落が米軍専用のゴルフ場になり、いくら返還を要求してもかなえられず、返還されるとなったらイオンモールになったという。たしかに、イオンモールだと経済効果はあるでしょうね。でも、そのお金はどこに流れるのか。もちろん、イオンモールの土地の一部は比嘉集落の人々からの借地になっているので、土地所有者には借地料は入ります。でも、それは「経済効果」と言えるのか?さらに、イオンなんてできたら、周囲のお店はどうなるのか?まさに、お金の一極集中化だし、それは地元の人々のためとは言えないんじゃないかと思うのです。
で、碑は駐車場の端に、誰も歩かない道の方を向いて建てられています。比嘉集落の人々の無念さと、それでもある誇りがにじみ出てくる碑です。

  • プラザハウス

近くにイオンモールみたいな巨大な施設ができたら、当然のことながらまわりの商店街は大打撃を受けます。いまや、コザのお店はシャッター街になってしまっているとか。でも、そんなイオンモールに、静かな反撃をくわえているのが、沖縄、いや日本で最初のショッピングモールである「プラザハウス」です。ここ、イオンから出て、交差点を曲がったところにあります。

ここはもともとは台湾資本がつくったショッピングセンターで、当時は米軍専用、それもライカムがあっただけに、米軍の将校クラスの人が買い物に来てたとか。その後、沖縄の人の所有になって、現在は誰でも買い物ができます。
とにかく、お店のつくりが違います。イオンが店内を自動ドアで密閉して空調設備をガンガン効かせているのに対して、プラザハウスは両側にはドアがなく、風が通る設計になっています。3階なんてもう、涼しい風がヒュンヒュン通って気持ちいい。しかも、真ん中のホールにはテーブルとイスがあって、買い物しなくてもそこでゆっくりできます。

センターに入ってるお店がすごい。イオンが「全国どこでも同じものが買える」=「どこでも同じ」なら、プラザハウスは真逆で「ここでしか買えないもの」をおいています。もちろん値段はそこそこはります。が、それを超えてなお価値のあるものを置く。それは、入っている服屋さんや洋書屋さん、さらに飲食店にまで徹底しています。
さらに3階には「RYCOM ANTHROPOLOGY」なる一角があります。ここは、50年代の沖縄をモチーフにしたさまざまな写真が展示されており、プラザハウスの歴史というか、沖縄の商業史というか、そんなものを感じさせます。

ここの写真を見ていると、米軍統治下の時代と、あたかも日本に復帰したかのように見えながらも日米両者に統治されているかのような現在と、どっちがええねんと思わされます。そりゃ、米軍統治下はひどかったのはわかりますが、いまもひどい。まさに「主権を奪われた沖縄」は、今も昔も変わらない。そんなことを感じさせるスペースです。
ちなみに、ここのアートや企画を任されているのは琉大の卒業生だとか。すごいなぁ…。

  • BALI NOON BALI MOON

晩ごはんはBALI NOON BALI MOONでバリ料理です。実は、このお店も「静かな反撃」のうちのひとつだとか。イオンモールにあるお店がファストフードだとしたら、このお店はここでしか食べられない本格的なバリ料理です。

BALI NOON BALI MOONは、上質なスパイスとハーブを使用し輸出基準をクリアしたブンブの開発、冷凍輸入を成功させたこと、そのブンブを使用して調理する18年来の交流がある信頼できる調理人の招聘によって2016年2月3日に開店することができました。

とあるように、食材だけではなく、調理できる人がいてはじめて成り立つバリ料理ということです。
ここで、メッチャおいしいバリ料理と、その料理にぴったりのワインを飲んでごきげんです^^;;



でも、あしたが本番です。2014年の二の舞だけは避けなければ!

初もの

今日は、某人権研究会の夏季研究大会です。
午前は分科会。わたしもいちおうレポートは出しています。が、あまりやる気はありません(笑)。なので、てきとーにヘラヘラとレポートして終了。
今日のメインは午後の講演会です。講師はキリちゃん(笑)。ずっと前から、一度まとめて話を聞いてみたいと思っていたので、お願いしたらOKをもらえたので、ラッキーです。
いちおうお願いしている内容は、「子どもの頃に同和学習を受けて大きくなって、いま教員として子どもとかかわっている人の思い」です。さてさて、これにそった話をしてくれるかな?
のっけから、教員一年目のできごとです。なかなか自分のことを言わないなーと思ったいたら、そこで言うか(笑)?ってタイミングでネタばらしをされます。そこからは絶好調ですね。なんかもう、危険な水域ギリギリをかすめるというか、たまに危険水域に突入するというか。なにせ、途中でアブナイ手品まで披露する始末。さらに、真剣な場面にさらりとアブナイネタをぶっこんでくるあたりは、わたしも見習わなければならないなと。
そんなアブナイ話に笑ってるうちらの研究会もどうかと思いますが、まぁそれくらいでちょうどいいです。
てことで、1時間40分、楽しませていただきました。
で、わたしからの質問を。
「キリちゃん、なんでそんなに子どもたちの声が聞こえるのですか?というか、わたしたちにも聞こえてると思うんですが、聞きとれていないんだと謂うのです。なぜ聞きとれるんですか?」
答えは
「距離を半歩詰めること」
でした。意味深やな。

で、夜は飲み会です。
ここではアブナイ話はそこそこに、それでもかなり危うくもりあがって、二次会はお福。ここでもワイワイやってお母さんに迷惑かけて、なぜか崇仁の公園でマッサージしてもらって、なんとか家にたどり着きました。
それにしても、K野さん、来たらよかったのに(笑)。

kgnの市民フォーラム

朝、とにかくしんどいです。でも、今日は昼から関西GIDネットワークの市民フォーラムがあります。杉山文野さんと佐藤かよさんの対談です。行かねば…。
ということで、またもや大阪です。
昼前に会場に到着。あまりにもお腹が減ったので、コンビニでとろろそばとさんぴん茶を買ってもぐもぐ。にしても、みなさん「いつきさんにお茶は似合わない」って、なんやねん。わかってるけど。
そうこうするうちに、参加者の人たちが来られたわけですが、知ってる人だらけです(笑)。ま、そりゃそーでしょう。あまりにも豪華なメンバーですからね。
で、定刻を少しまわったあたりで市民フォーラム開始です。まずは杉山文野さんの話。なるほど、うまいなぁ。わたし、基本的に当事者の講演を聞かないタイプです。なので、他の人がどんな語りをするか知りません。で、昨日の自分のお座敷芸と比較すると、芸風は真逆とも言えます。もちろん、それぞれがそれぞれの意図とか戦略を持ってやってるわけですから、何が正しいというわけじゃないのですが、あらためて「これがメインストリームの語りなんだな」と思いました。まぁでも、メインストリームがあるからこそ「サブストリーム」があるわけで、しかも、サブストリームがあるからこそ「幅」が出てくるわけで、それはそれでええかなと。でもまぁ、ニーズがどこにあるかはよくわかりました(笑)。

続いて、佐藤かよさんとのトークです。かよさん、細い!長い!隣に座ってるSかいさんと「内蔵、足りひんのとちゃう?」とざわめいてしまうほど細いです。で、トークスタート。とんがってますね。なんかもう、「決めた」という感じがあってすごいです。4年前の「(たぶん)講演デビュー」のころとはずいぶんと違います。なんか、言葉に躊躇がない。たぶんかよさんの変化はもちろんだけど、社会も変化してるんだろな。でも、そのぶん遠くに行った感じもしたかな。まぁ、世界が広がれば、他者との距離も遠くなるので、当然といえば当然ですがね(^^)。
てことで、2時間のトーク、終了です。

で、会場を簡単に片づけて、あとは打ち上げです。いつものビアホールに行って呑んで、さらに時間があるのでとあるホテルのバーに行って呑んで、気がついたら10時半やんか!やばい。帰れなくなる!

応答的かかわりと教職員の子ども理解

今日からは期末試験です。でも、台風です。しかも、今日は「生徒指導・人権教育研修会」です。さてさてどうなる。
職場に着いたら副支店長がいたので「今日、どうします?」と聞こうと思ったら、向こうから「今日、よろしく」とのひとこと。あー、中止にする気はないんだ(笑)。「台風やしねー」というと「子どもは関係あるけど、わたしらは関係ない」とのこと。そりゃそーだ。
てことで、カントク2発こなして、さっくりおべんと食べて、駅まで迎えです。駅からあらわめたのは、住友剛さん。住友さんには3年前にしゃべってもらいましたが、今回は職場で話してもらおうと。ちなみに、はじめてお話を聞いたのは何年前だろう。教組の学習会で聞いて「おもしろい人がいるな」と思ったのでした。でも、その頃は「子どもの人権はまだ先の課題」と思ってました。なにせ、目の前にムラの子や在日の子がいて、「そっちだよ」と思ってましたからね。もっとも、「子」である限りは「子どもの人権」のターゲットなんですけど、それはそれってことで^^;;。
そんなわたしが、なぜ3年という間隔ではあっても住友さんに来ていただきたいと思ったかというと、まさに「同和教育の継承」なんですよね。
もちろんマクロレベルでいうなら志水さんのスクールバスモデルとかあるんだけど、個々の教員にあの話をしても「だからどうなん」ってなっちゃう。簡単に言うならば「マネージメント」の話なわけです。いや、小中なら可能かもしれないけど、教職員数が多く、しかも組織的にバラバラで、しかも価値観もバラバラな京都の高校現場では、あんなのは支店長レベルしか実現できません。もちろん、それをサポートすることは、わたしたち「ヒラ」でもできますけどね。
それに対して、住友さんは「リフレーミング」なんですよね。わたしたちの枠組みを少し変える。それは個々の教員ができる個人の営みです。で、いま、それがうちの職場には必要なんじゃないかと。なぜなら、「自ら考える子ども」を育てたいと言ってるんですから、「考えを聞く」ことが大切なんですよね。
そして、それが「応答的かかわり」なわけです。

てことで、講演開始。
とにかく、話がていねいです。レジュメも親切。読むだけで講演内容がわかります。てことは、なにを話しするかが完璧にできてる。しかも、facebookで昨日の夜というか今朝方つくられたのはわかってますから、つまり毎回対象で変えておられるわけです。すごいな。そして、話がわかりやすい。ていねいなレジュメをていねいに追って行かれます。そして、終了が、ジャスト90分。さすがは大学教員!
と思った瞬間に、「あー、学部生相手に話をしてる感じね」と納得。まぁ、大学卒業して何年も経ってる高校教員なんざ、学部の教養レベルですよ(笑)。
てことはおいといて。

結局、「応答的かかわり」ってなんだということです。
わたしの直感でいうなら、例えばスキーですね。スキーは雪面を無視してできるスポーツじゃない。だから、常に雪面からのフィードバックに神経を研ぎすませて滑ります。あるいは、バイク。バイクも路面とタイヤの摩擦で走ってるわけですから、その摩擦の変化に敏感でなきゃ走れない。相手となるものの変数の変動域が大きくなればなるほど、その変化に敏感でなきゃ成立しない。そこが、できるだけ変化をなくして一定の条件でやろうとする他のスポーツとの違いです。
で、生徒はというと、こんなもんPDCAサイクルなんて「なにそれ?食べもん?」くらいに条件は変動します。しかも、マスとしての生徒と個々の生徒もまったく違う。これを十把一絡げにして「生徒たち」ととらえて、なにができるかということです。このことを言い換えるなら、「子どもを色眼鏡をかけて見るな」ということです。あたりまえのことです。
そう考えると、やはりあたりまえのことをあたりまえのこととしてやるという、あたりまえのことなんですよね。

でも、そのあたりまえのことが、なかなかできない。あるいは、したいけどさせてもらえない。そんな「わたしたち」が、元気をもらえた講演だったことが、みなさんの感想文を読んで伝わってきました。
もっとも「理想論」とか「いい子でしか成立しない」とかいう批判を書いておられる方もおられましたが、あの人「かば」の舞台の中学校でアドバイザーやって立て直すのに協力してるんだよね。なので、きわめて実践的な話なんだけどね。まぁでも、「かばの舞台」と言っても、わからんだろうけどね…。

そうそう。質疑応答の中の「アクティブラーニング」の話もおもしろかったな。「どこがアクティブになっているのか」という問題提起。「アクティブな沈黙」は「ペラペラの動き」よりも頭の中はアクティブ。
それですよ、それ。だから、ワークショップはキライなんですよね(笑)。