先日の金光敏さんの講演の感想をみんなで出しあっていたのですが、みなさん印象に残っているのが金さんの生い立ちの中のトピックスなんですよ。
でも、金さんが語られた本当のテーマは、演題「学校の中のサンクチュアリ」なんですね。ここで言われた「サンクチュアリ=聖域」っていうのは、簡単に言うと、「マイノリティの子どもが自分のことを隠さなくていい場所」なんです。そういうものを学校や地域の中につくっていくこと。そしてそこに子どもたちを連れて行くことが、とても大切なんだということなんです。
このことを誰も言わなかったんですよね。ちょっと寂しかった…。
カテゴリー: 考え
読書感想文・さらに
小さなトゲから、でも、つながる
今日、数人の教員で担当している補充授業の最中、突然とても小さなトゲが心に刺さりました。いや、もしかしたら体調がよければ笑い飛ばしていたかもしれない、そんな小さなトゲだったのですがね。ちなみにトゲを発射した人は、おそらくわたしのことを最も受け入れてくれている人のうちのひとりの方です。
そこから補充授業の最中、自分がどんどん落ち込んでいくのがわかりました。ほんまに情けないなぁと思ったのですが、とめられませんでした。
補充授業が終わって、自分の机のところに帰って仕事して、さぁ帰ろうと思ったのですが…。トゲを発射した人がまだどうやらまだ職員室におられるっぽいので、
「やっぱり行こう。言って話をしよう」
と思い直しました。
その方、もちろんわたしがトゲに反応したことはわかっておられたのですが、わたしがそこまで落ち込んだとは思っておられなかったみたいです。
「やっぱり言わないとわからないと思うので」
「言ってくれてありがとう」
みたいな話。
「わたしが海外で出会ってきた人たちってけっこう開き直っていたみたい」
「ん〜、開き直りにはふたつあるんじゃないかなぁ。傷つくことを前提にして、そこから対話をはじめようとする開き直りと、傷つくことを前提にしながら傷つかないように心を鎧で守ってしまうのと」
みたいな話。なんだかいろんな話をしました。
もしも2種類の開き直りがあるとしたら、やっぱりわたしは前者でありたいなぁ。
「傷ついた」という言葉は、相手を責めるための言葉じゃなくて、そこから対話をはじめて新たなつながりがつくるために使いたい。
きっとその方とは、さらに深いつながりが持てたと信じています。
誰のために使うのか
昨日の日記の内容をお風呂で考えたきっかけは、もちろん「とある事情」なんですが、もうひとつあったのは、この日の金香百合さんとの会話だったんですよ。
わたしが
「講師には権力がある。当事者には権力がある。それが怖い」
と、いつもの話をしていたら、次のように言われたんですよ。
権力があることに対して謙虚になることは大切だ。でも、その権力は「権力を持たないマイノリティ」のために使うのであれば、あってもかまわない。その権力を「自分のために使う」ことにこそ問題がある。
なるほどと思いました。まぁ「誰のために使うのか」ということは、わたし自身のテーマだし、そういう意味では同じことを言っておられたのかもしれないのですが、すごく「ほぉ〜!なるほど!」と思わされたということです。
読書感想文・再び考えた
とある事情があるので、お風呂の中でこの日に書いた読書感想文のことを反芻していました。
前回書いた時は「「共依存関係に裏打ちされたDVのストーリー」と乱暴なことを書き、さらにその共依存の根底に「当事者至上主義」があると、これまた乱暴なことを書いていたんですが…。なにか自分の中で「足りない」とずっと思っていたんです。で、お風呂の中で「あ!そうか!」と突然気がつきました。
あの本の中の登場人物は、ほとんどの人はドラマはあるにしろ、「変化」をしないんです。ところが、唯一「変化」をし続ける人がいる。それは「今日子」です。
はじめは「シングル女性のトップランナー」、そして「ハジメの妻」、そして「母」。
この変化は同時に、「非当事者」→「当事者の随伴者」→「当事者の肉親*1」という変遷をも意味します。まさに、「女性は相手によって立場を変える」ということを地でいっているわけです。
こうした「変化」のことを、「変幻自在でうらやましい」と思っていた時期が、わたしにはありました。だって、永遠に立つことのないはずの「当事者」に、結婚し出産することによってやすやすと*2立てるわけです。さらにそこに「当事者の特権」なんかが付随した日には、「どないやねん!」という気になるわけです。
ちなみに、こういうことは、「被差別の当事者」だけじゃなくて、「社長夫人」とか「皇后(笑)」とか、まぁいろんなところにあるわけです。もちろんこれは、「女性の主体性」というものと引き換えになっているわけですが、逆に言えば引き換えにすれば、こういう「変幻自在さ」を手に入れられる。
で、さらにいうと、「引き換えにしない人生」を選択すると、「変幻自在さ」を得られないばかりではなく、「変幻自在さを選択した女性間のヒエラルキー」のさらに低位におかれることもまたあるわけです*3。
なんだかゴチャゴチャしてきたけど、こういう「変化する(せざるを得ない)女性」というものを、今日子はラストシーンにおいて無批判に引き受けている気がしてならないんですね。いや、批判的に引き受けているのであれば、それはそれでひとつの主張として受けとめられるのですが、あまりにも無批判、いや無意識、さらに言えば肯定的に引き受けているような気がします。
おそらくは、最初に書いた「足りない」という感覚は、そこにあったのではないかというふうに思います。少なくともひとつの差別の現実を描こうと思った小説の根底に、実は他のストーリーが流れている*4あたりに、まさに人権をめぐる運動の「今日」があるのかなぁなどと、えらい風呂敷を広げてしまったりして^^;;
フラットなのか?
マイナスのスパイラル
もう担任をしなくなって何年だろう。
かつて担任をしていた頃は、人権学習*1なんて、言いたいことがあふれていて、ひたすらアジテーションをしていた気がします。
そこから人権学習を「つくる側」になって、あまりの温度差に愕然としたんですね。まぁ「暑すぎる*2」側も悪いんだけど(笑)。
はじめのうちは「なんでやらへんねん」と思っていたんだけど、だんだんめんどくさくなってくるんですね。そのうち、「何を話すればいいかわからない」とか言われはじめて、そこで思いついたのが「穴埋めプリント」だったんですね。
「自分だったらこう語るだろう」というのをプリントにして、ところどころに穴をあけておけばすぐに完成します。で、自分の意図と大きくはずれることもない。やる側にしても、一緒に読みあわせをすればOK。まぁ安全です。
でも、こうなるとますます「熱」が奪われていく。すると、聞く側の生徒はおもしろくない。おもしろくないと、教員はますます語るのがしんどくなる。となると、ますます「安全側(楽な側)」へと行く。
こんなスパイラルがあったんじゃないかと、ふと思ったのです。
でも、このスパイラルから脱出するためには、自分自身が「熱」をとりもどさないと、なかなかむずかしいんです。
で、今年、外的な要因から、どうしても真剣に考え直さなくちゃならなくなって、そこからだんだんと自分自身の考えを組みかえていこうという気になってきているんです。
「あきらめる」のはやめよう、と。マイナスのスパイラルは「あきらめ」からはじまるんですね。じゃなくて、きちんと向きあおう。そこから出てくる「熱」は、きっと子どもたちに伝わるはずなんですよね。
原点に返ること
帰りのバイクの上でもずっと考えています。
と、なんとなくわかってきました。
結局、「テーマ」がはっきりして、「教材」がはっきりすると、かえって「なんのためにやるのか」ということを忘れてしまうんですね。テクニックに走ってしまうというか…。
そうだ、なんのためにこのテーマをするのか、なんのためにこの教材を使うのか。なんのために人権学習をするのか。そこに立ち返って考えれば、おのずとなにをしなくちゃならないかがわかってくるはずんですね。
少し光が見えた。
方向がわからん
もういい加減人権学習の教材を提示しなくちゃならないのですが、なんか方向が定まらないんですね。
見せようと思っているビデオはある。ビデオのテーマもわかっている。補足しなくちゃならないことが何かもわかっている。でも、翌週の講演につながらない。
隙間を埋めるために、何をしたらいいんだろう…。
カテゴリ
ちなみにセクシュアリティについての話ですが…。
一緒に呑んだ方に
「性自認ってどうやったらわかるんですか?」
とか聞かれたので、
「そんなんわかるわけないですよ」
と、いつもながら適当な答えを発してしまいました。まぁそれはそれでいいのですが、セクシュアルオリエンテーションの話になって
「わたし、MTFレズビアンでネコです」
という話をすると、大うけ。
「え〜、わたしタチですよ〜」
「それは珍しい。わたしのまわりはネコばっかりでねぇ」
「え〜、すごい!わたしのまわり、タチばっかりなんです!」
どうやら、ネコのまわりにはネコが集まり、タチのまわりにはタチが集まるらしいです。で、結論は
「合コンしましょう!」
って、どんな会話やねん(笑)。
てな大切な会話もあったわけですが、そのうち
「自分自身のセクシュアリティがよくわからない」
みたいな話になるわけで。
でも、わからなくて当たり前なんじゃないかと思うんですよね。いや、わかる人ももちろんいるんだろうけど…。
自分のセクシュアリティと向かいあって、それについて考えれば考えるほど、自分をある特定のカテゴリにあてはめるのが難しくなるんじゃないかと思うのです。そもそもカテゴリ・ラベルっていうのは、物事を単純化した上で、それに「えいや!」と貼るものなんじゃないかなぁと思います。で、そこに自分をあてはめようとすると、単純化した「器」には入りきらないところが当然出てくる。すると、「このカテゴリには入らない」となり、別のカテゴリを探す。でも、そこでも同じことが起こる。こうして、カテゴリ探しの旅は永遠に続いてしまう。
逆なんだと思うのです。自分の中には「こういうカテゴリとこういうカテゴリとこういうカテゴリがあって、それぞれがこれこれこういうふうに絡みあっていて…」みたいな感じなんじゃないかなぁと思うのです。
例えば、わたしは、基本的には女性に性的指向が向くけど、まったく男性にむかないかというと、そういうわけではない。じゃぁバイセクシュアルかというと、それも違う。おそらくは、バイセクシュアルというよりは、「レズビアン、ごくたまぁにヘテロ」みたいな感じ?
カテゴリとカテゴリは、概念としては排他的かもしれないけど、実際にはそれらをオーバーラップしながらわたしたちは生きていると考えてもいいんじゃないかなぁと思うのですが…。