継承するということ

今日あったある会議で、終わりも近づいた頃、いろいろなよもやま話モードになりました。
会議の中で、議題に沿った話はもちろん大切なんですが、それよりもおそらくは「よもやま話」の中にあることの方がもっと大切なんだと思います。なので、けっこう楽しんで聞いていたのですが…。
ある方が、
「長くこの分野をやってこられた◯◯先生の話を聞きたい」
と言われたんです。
「自分の知らないことを、もっともっと知りたい」
ということなんです。
かなりベテランの方で、おそらくはいろんなことを知っておられるはずの方です。でも、「この分野」については「自分は初心者だ」と思っておられて、だからこそ知りたいと思っておられる。すごく謙虚な方だなぁと思いました。それはそれでいいのですが…。
ただ、ふと思いました。
継承することって、とてもむずかしい。
ある物事や、ある考えっていうのは、おそらくはそれが出てくる時代背景があり、さらにいうならばその時代背景が生む「空気」「場」「熱」の中から出てくる。あるいは、あるベクトルを持つ勢いとか、いろんなものがある。それを今振り返って語ることは、あるいはできるかもしれない。でも、それは伝えることにつながるのだろうか。あるいは、継承できることなんだろうか。
わたしも「この分野」の中ではけっこう長い方のようです。まぁ20年選手かな。20年選手っていうことは、最初は20歳台っていうことです。その時の自分の未熟さとか、熱さとか、勢いとか、わたしを取り巻く状況とか。そういう中から、当時のわたしの考えや行動が出ている。その頃のことを伝えることは、おそらくは至難の業なんだと思うのです。

でも、伝えなくちゃならない。そうしないと、きっと歴史の中に埋もれてしまう。そんな気もするのです。

別のギョーカイについては、2000年にデビューした*1ので、わたしはまだ10年選手です。でも、10年選手だからこそ、そして東京ではなく関西、それも京都にいたからこそ伝えられる「なにか」を持っているのかもしれない。
まぁボチボチやっていきますか…。

*1:場所は岡山ね

やっぱなめてると思う

毎年参加している某教育研究集会。これ、場所も日程もまったく公表されません。わかるのは、ほんとうに直前です。まぁ場所については交通の便がよくなった昨今ですからいいのですが、日程がわからないと予定の立てようがありません。
で、みなさん「だいたいいつもあのあたりの日程だから、今年度もあのあたりかなぁ」などと予測を立てながら日程を組むのですが、それが大きくはずれる場合もあるわけです。毎年かなり無理をしているのですが、今年については、完全に予定がかぶってしまい、先に入った予定を動かすわけにもいかず、結局連続参加記録更新をあきらめざるをえないことになりました。

これ、
「来られるヤツだけ来い。来たいと思うなら、わかるまでの間、文句を言わずにごっそりと数週間分の土日をあけておけ」
ということなんですかね?毎年みんな怒ってるよ。

つっても、関係者は誰も読んでないだろうけどね。

氷の溶かし方

土曜日の高座の質問の中で「基本的人権」という言葉が出てきたんですよね。そのことをふと思い出しました。
その瞬間、どうもわたしはしっくりとこなかった。なので、こんな返しをしてみたのですが…。

氷を溶かすとするなら、わたしは「基本的人権」という「太陽」の力を借りるのではなく、自分の体温を使って、自分のまわりにあるところからゆっくりと溶かしていきたい。

感覚的にそういう感じなんですよね。

ついでに

某アンケートの答えを考えている時に、ふと思ったこと。
当事者は「情報を受けとる側」と限定されてしまっている気がしました。これ、きっと「患者イメージ」が強いんじゃないかと思うのです。「受診者イメージ*1」だとずいぶんと違う気がするんだけどなぁ。

*1:医療を受ける主体者という感じ?

土の人と風の人?

わたしはこの「土の人と風の人」というのが嫌いなんですよね。その根拠がどこにあるのか、漠然と考えていたんだけど、今日、ふと「これかな」というのを思いつきました。
まぁもともとの出典をよく知らないのでなんとも言えないんですけど、わたしの感覚として、「土の人」=「体を動かす人」という感じ。に対して、「風の人」=「情報を動かす人」という感じがあるのかな。
まぁ「情報」を得るためには体を動かさなきゃならないということはあるだろうけど、「土の人」の動かし方とは根本的に違います。さらに、情報を得るための体の動きが鈍い場合、自分では情報を動かしているつもりかもしれないけれども、その情報そのものが少ないので、ぜんぜん動いていない。となると、そんなものは「風」でもなんでもないわけです。

情報格差みたいなことが言われますが、それ、いろんな意味であるのかなあと思います。
ある側面で言えば、情報が局所に集中するということはあるかもしれない。でも、別の側面で言うならば、「自分の所に情報がある」と思ってしまうがゆえに、情報を知らないということもまたあるのではないかと思うわけです。つまり、自分の所に届いていない情報は「ないこと」になるということかな。そして、動きが鈍くなると、「あるかもしれない」という想像力がなくなってしまう。すると、「ない」と思い込んでしまう。
社会学とかの世界では、1次資料にあたるか2次資料で「よし」とするかみたいなところになるのでしょうか。1次資料を求める人は、ほんとうに体を動かします。でも、2次資料で「よし」とする人はネットと電話でことを済ませてしまいます。

「風の人」の知らないところで、今日も「土の人」はたくさんの「情報」を生み出しているんですよね(笑)。

そこに反応するのか…。

先日の金光敏さんの講演の感想をみんなで出しあっていたのですが、みなさん印象に残っているのが金さんの生い立ちの中のトピックスなんですよ。
でも、金さんが語られた本当のテーマは、演題「学校の中のサンクチュアリ」なんですね。ここで言われた「サンクチュアリ=聖域」っていうのは、簡単に言うと、「マイノリティの子どもが自分のことを隠さなくていい場所」なんです。そういうものを学校や地域の中につくっていくこと。そしてそこに子どもたちを連れて行くことが、とても大切なんだということなんです。
このことを誰も言わなかったんですよね。ちょっと寂しかった…。

読書感想文・さらに

今日は先日とは違い、ちょっとだけですけどね。
朝、A久◯さんからメール。

あらためて太郎なんだけど、ネオリベの競争主義の落とし子(均等法第一世代)みたいな彼女が、どうしてあーいう話にしたのかなと思います。

これを読んで、「あっ」と思いました。わたしの返答。

ふと「もうひとつの東電OLかも」と思いました。

今日は、単にそれだけです。

小さなトゲから、でも、つながる

今日、数人の教員で担当している補充授業の最中、突然とても小さなトゲが心に刺さりました。いや、もしかしたら体調がよければ笑い飛ばしていたかもしれない、そんな小さなトゲだったのですがね。ちなみにトゲを発射した人は、おそらくわたしのことを最も受け入れてくれている人のうちのひとりの方です。
そこから補充授業の最中、自分がどんどん落ち込んでいくのがわかりました。ほんまに情けないなぁと思ったのですが、とめられませんでした。
補充授業が終わって、自分の机のところに帰って仕事して、さぁ帰ろうと思ったのですが…。トゲを発射した人がまだどうやらまだ職員室におられるっぽいので、
「やっぱり行こう。言って話をしよう」
と思い直しました。

その方、もちろんわたしがトゲに反応したことはわかっておられたのですが、わたしがそこまで落ち込んだとは思っておられなかったみたいです。
「やっぱり言わないとわからないと思うので」
「言ってくれてありがとう」
みたいな話。
「わたしが海外で出会ってきた人たちってけっこう開き直っていたみたい」
「ん〜、開き直りにはふたつあるんじゃないかなぁ。傷つくことを前提にして、そこから対話をはじめようとする開き直りと、傷つくことを前提にしながら傷つかないように心を鎧で守ってしまうのと」
みたいな話。なんだかいろんな話をしました。

もしも2種類の開き直りがあるとしたら、やっぱりわたしは前者でありたいなぁ。
「傷ついた」という言葉は、相手を責めるための言葉じゃなくて、そこから対話をはじめて新たなつながりがつくるために使いたい。

きっとその方とは、さらに深いつながりが持てたと信じています。

誰のために使うのか

昨日の日記の内容をお風呂で考えたきっかけは、もちろん「とある事情」なんですが、もうひとつあったのは、この日の金香百合さんとの会話だったんですよ。
わたしが
「講師には権力がある。当事者には権力がある。それが怖い」
と、いつもの話をしていたら、次のように言われたんですよ。

権力があることに対して謙虚になることは大切だ。でも、その権力は「権力を持たないマイノリティ」のために使うのであれば、あってもかまわない。その権力を「自分のために使う」ことにこそ問題がある。

なるほどと思いました。まぁ「誰のために使うのか」ということは、わたし自身のテーマだし、そういう意味では同じことを言っておられたのかもしれないのですが、すごく「ほぉ〜!なるほど!」と思わされたということです。

読書感想文・再び考えた

とある事情があるので、お風呂の中でこの日に書いた読書感想文のことを反芻していました。
前回書いた時は「「共依存関係に裏打ちされたDVのストーリー」と乱暴なことを書き、さらにその共依存の根底に「当事者至上主義」があると、これまた乱暴なことを書いていたんですが…。なにか自分の中で「足りない」とずっと思っていたんです。で、お風呂の中で「あ!そうか!」と突然気がつきました。
あの本の中の登場人物は、ほとんどの人はドラマはあるにしろ、「変化」をしないんです。ところが、唯一「変化」をし続ける人がいる。それは「今日子」です。
はじめは「シングル女性のトップランナー」、そして「ハジメの妻」、そして「母」
この変化は同時に、「非当事者」→「当事者の随伴者」→「当事者の肉親*1」という変遷をも意味します。まさに、「女性は相手によって立場を変える」ということを地でいっているわけです。
こうした「変化」のことを、「変幻自在でうらやましい」と思っていた時期が、わたしにはありました。だって、永遠に立つことのないはずの「当事者」に、結婚し出産することによってやすやすと*2立てるわけです。さらにそこに「当事者の特権」なんかが付随した日には、「どないやねん!」という気になるわけです。
ちなみに、こういうことは、「被差別の当事者」だけじゃなくて、「社長夫人」とか「皇后(笑)」とか、まぁいろんなところにあるわけです。もちろんこれは、「女性の主体性」というものと引き換えになっているわけですが、逆に言えば引き換えにすれば、こういう「変幻自在さ」を手に入れられる。
で、さらにいうと、「引き換えにしない人生」を選択すると、「変幻自在さ」を得られないばかりではなく、「変幻自在さを選択した女性間のヒエラルキー」のさらに低位におかれることもまたあるわけです*3

なんだかゴチャゴチャしてきたけど、こういう「変化する(せざるを得ない)女性」というものを、今日子はラストシーンにおいて無批判に引き受けている気がしてならないんですね。いや、批判的に引き受けているのであれば、それはそれでひとつの主張として受けとめられるのですが、あまりにも無批判、いや無意識、さらに言えば肯定的に引き受けているような気がします。

おそらくは、最初に書いた「足りない」という感覚は、そこにあったのではないかというふうに思います。少なくともひとつの差別の現実を描こうと思った小説の根底に、実は他のストーリーが流れている*4あたりに、まさに人権をめぐる運動の「今日」があるのかなぁなどと、えらい風呂敷を広げてしまったりして^^;;

*1:≒当事者

*2:とまで書くと語弊があるか…

*3:知りあいにたくさんいる

*4:有り体に言うならば、他の差別を肯定的に描いてしまっている?