今日は地元の人権研究会の定例会議。なかでもメインは発達障害の子どもたちのサポーターをしている人の講演です。
いくつかの事例を示しながら、どのように対処をしてきたかという話を聞かせてもらいました。
考えてみると、「発達障害とは」みたいな話を聞く時代から、ケーススタディの時代に移行したんですね。
その中で、発達障害である(であろう)ことを告知するかどうかという議論が少しあって、かなり興味深かったかなと。
ケースワーカーの方は、高校段階だと告知をした方がいいという考え方をされまさていました。
「病名という意味ではドクターが診察をしてすることですが」
という留保をされていましたが…。
つまり、「自分の特性を理解したほうが、いろんなことに対処する方法が習得しやすい」ということなんですね。
わたしは深くうなずいてしまいました。
でもこれ、ケースとしては同一には考えられないだろうけど、部落や在日のことも同じかなと思ったりもします。
この手の話って「世間」から入ってくる情報は基本的には「マイナス」のバイアスがかかることが多いかなと。となると、大きくなってから自分が「それ」と知ると、自己否定感からのスタートになるんじゃないかと。
もちろん「タイミング」ってのはあるんでしょうけど、タイミングは逃すと二度とやってこない。じゃあ逃す前にやった方がリスクは低いんじゃないかと思ったりするのですが…。
少なくとも、自分が「それ」とわかっている人はつきあいやすいなぁ。
カテゴリー: 考え
乖離
お座敷のあと、感想を読ませていただくことがよくあります。とてもうれしいです。大人の感想はもちろん、子どもの感想の中には「生活」をまるごと出してくれるのがあったりして、すごく勇気づけられます。
が、一方、すごく悩みます。
わたしのところに「お座敷」の口がかかったのは「たまたま」だと思ってます。なにか確固たるものがあったわけじゃない。それどころか、わたしは勉強嫌いで、めんどくさがりで、話の内容もブレまくりです。でも、それ以来たまぁに声をかけてくださる方がおられます。でもまぁ、話すスピードで考える間を与えないだけのことのような気がしてる昨今です。
ところが、「お座敷」って話す側と聞く側の間にアンバランスがあるんですよね。で、きちんと聞こうとされる方であればあるほど、そのアンバランスは大きくなる。極端に言うと、わたしがあたかも確固たるものを持っているかのように誤解をされるわけで。
そこで、「わたし」と感想の間に乖離が起きる。
これがこわい。
なにがこわいって、グダグダになっても、それすらプラスに評価されてしまう可能性すらある(笑)。やばいです。とにかくそのスパイラルをどこかで断ち切りらなきゃ。
過小評価は人をダメにするけど、過大評価もまた人をダメにする。等身大、等身大。
無理なガマンはよくない
で、家に帰ったら、パートナーは下の子どもに絵のアドバイスをしています。が、晩ごはんの準備はゼロ_| ̄|◯。
しかたないのでおふろに入って上がってきたら、ようやく準備開始。これは手伝わねば!と思って
「なんかやることある?」
と聞くと、パートナー曰く。
「ビールでも呑んでたら」
…。
呑もう(笑)。
いや、今までは
「がまんする」
って言って、結局早く呑みたくてイライラしてたんだけど、呑んじゃったらイライラしないものですねぇ。パートナーがパタパタご飯の準備をしているのを見ながらビールを呑んでいると、なんとなく
「こんな世界があったんだぁ」
と、ホンワカしてしまいました。なので、自然と
「手伝うわ」
と体が動きました。
なんにしろ、無理なガマンはいろいろよくないな、と(笑)。
トンネルを抜けると…
特に何もなく、淡々とした生活があるだけでした。
でも、その淡々とした生活を大切にしながら生きることにこそ意味があるのかもしれないと思ったりもするわけです。
そして…
午前9時56分。長い長いトンネルを、突然抜けました。
昔飼っていたネコのこと
最近ふと、昔飼っていたネコのことを思い出しました。
当時住んでいたアパートにはベランダがあって、そこからネコをつるすまねをしたら、えらい勢いでわたしから逃げ出して、そのまま玄関から外へ飛び出していきました。
その日から、家に帰ったら玄関の引き戸を薄く開けておく日がはじまりました。でも、なかなか帰ってきません。一週間ほどたって、もう帰ってこないのかなぁと思った時、
「にゃぁ…」
と情けない声がしました。
「ありゃ、帰ってきた…」
しばらくしてトイレをみると、草だらけのうんちがしてあります。まぁ飼い猫だから、動くものを食べられずに、草を食べて生き延びていたんでしょうね。
「情けないやつやなぁ」
と、ふと笑いがこみあげてきました。
その夜、布団を敷いて寝ていると、いつもの通り、ネコは
「にゃぁ」
と言いながら、わたしの横に潜り込んできました。
その日から、何かが変わったかというと、別に何も変わらないいつもの生活がもどってきただけでした。
あの一週間、ヤツはどこで何をしていたんだろう。聞きたくても答えてくれませんでした。ネコですからね。でもまぁ、ヤツは帰ってきた。
ヤツとは、わたしがパートナーと結婚してからもずっと一緒に暮らしていました。あの当時、誰よりも長い時間を一緒に暮らしたのはパートナーでもなく、子どもでもなく、ネコでした。それから数年たって、ネコは死にました。
気がつくと、いま誰よりも長く一緒に暮らしているのはパートナーなんだなぁと、ふと思いました。
触った…
友だちとメールのやりとりをしているうちに、ふと「100万回生きたねこ」の話が出てきて、いきなりノックアウトを喰らってしまいました。
あの絵本、はじめて読んだ時、思わず泣いてしまいました。でも、なぜ涙が出てきたのかはわかりませんでした。で、ググって見たら、こんなところがありました。思わず読んでしまいました。電車の中なのに大泣きをしてしまった^^;;。
いまならなぜ涙が出てくるのかわかります。
いろんな波が重なった今日でした。
向きあうこと
昨日の分析大会を受けて、ずいぶんいろいろと考えさせられました。なかでも、わたしには「向きあいかた」が足りないなと。自分と向きあうこと。他者と向きあうこと。それぞれのことを通して、うすうす気づきはじめている根元的なものがきっとわかるはずだし、「中2(笑)」からの成長もはかれる気がします。
とりあえず、ずっと逃げ続けてきた「あること」と向きあおうと思いました。今日はその第一歩。向きあえば、とりあえず答えは返ってくる。その答えは「ひるんでしまうほど」の内容を伴っているんだけど、またそこから逃げずに向きあう以外方法はない。
そんなことを感じた一日でもありました。
失うことで得ることがある
まぁ、タイトル通り。でも、ほんとうはなにも変わっていない(笑)。
なんでもありやな…
ついったをウォッチしていたら、「大津市教育長殴られ軽傷 殺人未遂容疑で大学生逮捕」なんていうニュースがありました。まぁ、教育委員会不要論が権力側から出てくる昨今ですから、それに乗っかって出てきたのかな。それにしても単純や…。
きっとこの大学生
「自分は正しい」
と思っているんだろうなぁと。「正義の味方」ってヤツでしょうか。
かつての正義の味方には「葛藤」があったんだけど、今の正義の味方はどうなんだろう。見てないからわからないけど…。それにしても、もう、なんでもありやなぁと。
まぁ、すべてを「悪か善か」「敵か味方か」で判断する昨今だからなぁ…。てか、そんな時代がめぐってきたんだろうなぁ…。