今年も今日が来た

「先の戦争」と言えば「応仁の乱」という話は有名ですが*1、わたしにとっては「先の地震」と言えば、やはり「阪神淡路大震災」です。
いや、
「何言ってるねん!東日本大震災やろ!」
という向きもおられるでしょうが、あくまでも「わたしにとって」でして。たぶん阪神淡路大震災をある程度の切実さを持って経験していない人にとって
「じゃ、その前の地震は?」
って聞かれたら、あれからもいろんな地震があったから、いろいろ出てくるだろうと思うのです。なんと言うか、みんなが一色に塗り固められなくてもいいかと。
てな話はいいとして…。
今年も語ることにしました。
というのは、この間聞いた講演中に、「災害を語れるのは災害を経験した人」というくだりがあったけらなんですよね。で、3種類の経験者がいる。ひとつは「被災者」。でも、被災しないに越したことはないし、被災といっても程度の差もあるし、なによりなんだかんだ言って少ない。で、もうひとつは「ボランティア経験者」。被災はしていないけど、現地に行くことによってわかることがたくさんある。でも、誰もが行けるわけではない。で、三つ目が「災害について語られたことを聞いた人」。「これであれば、誰でもできる」と言われたのですが、実は誰でもできるわけではない。誰かが語ってくれないと、三つ目の人にはなれない。とするならば、ひとつめふたつめの人は、三つ目の人のために語らなきゃならんだろうと思うわけです。
てことで、いつもの話をしたわけですが…。
「そうそう」と思ってつけ加えたこと。

なんかね、みんな「がんばろう日本」って言うんだけど、一体誰が何をがんばるのかわからない。ちなみに、「絆」とかいうのもあるけど、わたしは「絆」って言葉はきらいなんだ。
阪神淡路大震災の時は、たしかに「がんばろう」って言ってたけど、あれは「がんばろう神戸」だった。誰のために声を発しているのかわかったし、誰ががんばるのか、それは神戸の人も「がんばろう」と思っただろうし、神戸の人ではないわたしも「がんばろう」と思えた。
でも、「がんばろう日本」には、そういうリアルさがない。
では、リアルさがない中で、誰が何のために「がんばろう日本」と言っているのか。
わたしはそこになんとなく「他の意図」を感じてならない。簡単に言えば、震災を利用して、あるいはそこまではいかないかもしれないけど、きっかけとして、なにか他の意図を持って「がんばろう」と言っているような気がしてならないんだ。

なんというか…。
たぶん、言葉は大きく広げずに、対象を絞ることでリアルさを持ち、意図が明確になる気がします。そして、それが誠実さにつながるのかもしれないとも。
自戒の念を込めて…。

*1:ほんまかいな^^;;。

「感じる」ことと「考える」ことと

「aとbか3の倍数⇒a+bは3の倍数」
「⇒って、見たことあるな?」
「ならばや」
「そう。これ、命題や。命題は、偽であることを示す時は反例が必要だった。では、真を示す時はなにが必要とおもう?」
「…」
「証明や」
「えー(T_T)。証明ー(T_T)」
「あのな」
てことで語ってしまいました。

証明って、ほんとうはやらなきゃならないことなんや。
君たちが話す時「なんとなく」とか「〜と感じる」とか「〜と思う」って言うやろ。でも、それは人との対話にはならんのや。なぜなら、「なぜ」に答えられないからや。
それに対して「〜と考える」は違う。これは「これこれこうだから、こう考えた」と言うことができる。だから対話が成り立つ。
つまり、「感じる」「思う」と「考える」には大きな違いがある。そして「考える」ことが対話を成り立たせるために必要なんだ。そしてその中にある「なぜこう考えたか」というところのことを「証明」というんだ。証明するためには、いくら実例を並べてもダメなんだ。でもその代わり、一般化したものをひとつ示せばいい。
そして、それが「感じる」「思う」と「考える」の違いなんだ。
いいかい、「証明」を学ぶことは、人との対話の手法を学ぶことなんだ。
じゃあやるよ。

もちろん元本はこの本です。ありがと!K田さん!

はきだめ

別に、なにがどうということではないのですが…。
いや、たんに数学の教科書(カリキュラム)のことです。
今年から高校数学は新カリの先行実施で、今までなかった分野が入ってきています。まぁ、もどってきたとも言うのですが^^;;。
それにしても、見事にバラバラ。いや、今のカリが「どこかでこけても、それが次以降に影響しない」というスタンスでつくられているのはわかっているんですがね。でも、そうすることで系統がなくなってしまう。それってなんだかなぁと思うわけです。
3学期に残しておいたのが、整数問題と図形。前半は整数問題をやります。
おもしろいですよ。確かに。でも、「整数とは」からはじまって、「約数と倍数」みたいな話をやるわけです。
「それ、前にやったやん」
そのとーりです(笑)。しゃーないから
「数学っちゅうのはな、螺旋階段でな」
ってごまかすわけです(笑)。
でも結局あれやろ。「数学A」って、他のところでやらなかったことをポイボイ放り込んだだけのこととちゃうん?「特定不能の〜」みたいに。
まぁ、そういうところが必要なのはわかってはいるんですがね…。
ま、せめてこの部分、楽しませてもらいましょうかo(^^)o

支配とは

朝、空を見上げると月。遥か彼方にオレンジ色に輝く山がほんの少しだけ見えました。山の朝は上の方から明けていきます。

振り向くと、太陽はまだ稜線の下にあります。

夜と朝が同居する時間は、やがて太陽にすべてを支配される昼へと変わっていきます。
やがて、太陽の支配が終わる頃、再び夕方と夜が同居する時間が来ます。

幾度めだろう

授業のはじめに…。
わたしが代表するわけではないんだけど、一有権者として君たちに謝らないといけないことがある。
昨日をもって、日本は本当に戦前になった。これからは「戦争のできる国づくり」が着々と進んでいくだろう。それは例えば徴兵制というかたちで出てくるかもしれない。わたしは年齢的に徴兵されることはないだろうけど、多分君たちは兵隊にならなければならないかもしれない。銃で人を殺すとはどういうことか。友だちの友だちにイラク帰還兵がいる。その人は、今も戦場のことがフラッシュバックするという。戦争というのは、一人の個人の人生をそういう形で変えてしまう。
では、どうすればいいのか。「best」の選択をしないこと。なぜなら、もしも「best」が誤りであった時、すべてをご破算しなくてはならないから。だから「better」の選択をすること。「better」ならやり直しが効く。
今回の選挙はみんなが「best」を求めようとした。でも、そんなものはあるわけがない。なぜそうなったか。
そもそも議会制民主主義とはとてもまわりくどいものだ。選挙で人を選び、その人たちが議論を戦わせ、それぞれが考える「best」から妥協することで「better」を選択する。なぜそういう制度になったのか。それは「そう簡単に変わらない」ことが安全を担保するということを戦争の経験から学んだからだ。
だから、選挙は大切なんだ。友だちのお父さんが「民主党は期待に応えなかった。お灸を据えないといけない」と言ったらしい。その発想はまちがっている。選挙はファン投票ではないんだ。
「平和をつくる一票」はとても難しいかもしれない。でも、「戦争を避ける一票」ならありうるかもしれない。そして、その一票をどう選ぶのか。それは、時代を見て、社会を見て、考えること。それ以外に方法はない。
このクラスの子は全員日本国籍を持っているはずだ。だから、数年後に選挙権を持つ。一枚の投票用紙を目の前にした時、できれば「なんか言ってたな」と思い出してもらえたらうれしい。

じゃぁ授業をはじめましょう。

刃の上の日

「チェンジ!」という言葉は、とても心地良く聞こえる。でも、安易に変わる世界はとてもこわい。その反省にたってつくられた制度が議会制民主主義だと、わたしは思っている。
安易に変わりそうな時はそうではないやり方で、とうてい変わりそうにない時はそうではないやりかたで。
時代の風に左右されるやり方かもしれないけど、現実的な解はそこから考えないとどうしようもない。
そこから考える解は…。
とにかく、一票の重さを考える。その一票を奪われている友だちがたくさんいるからこそ。

時計の針

朝の電車の時間って、案外いろんなことを考えることができます。
昨日「自分史を書くこと」について呑み友だちからメールをもらって、それからずっとそのことについて考えています。
そう言えば、子どもの頃については、けっこうトピック的なことは覚えているのですが、仕事をするようになってからは、あまり記憶がないんですよね。いや、あるんだけど、前後関係がいまひとつわからない。
出来事って、多分に相互に依存するから、あるトピックはそれにつながるものと一緒に捉えておかないと、たぶんミスをします。もちろん「書く」という具体的な作業の時は「つながるもの」をあえて省略することもあるわけですが、自分の中ではつなげておかないといけない。そんな気がしています。
で、考えてみると、自分の中でも仕事の上でも一番「区切り」のないときって、やっぱりあるんですね。なので、2ヶ月ほど前にパソコンの中をサルベージして「前後関係」=「つながり」を確認するための「時系列表」をつくってみました。
で、わかったこと。
「ゆっくりのんびり」
なんて、ウソじゃん(笑)。
でも、自分の中では、とてもゆっくりのんびりやっていたんですよね。その「ズレ」って、なんなんだろう…。
もしかしたら、あの頃から、自分の中の時計の針の進み方がズレはじめたのかもしれない。

自立とは^^;;

今日は一時間目の授業が終わったら、そのまま出張です。てことで、ジャンパーとリュックを持って教室へ。授業が終わったら、隣の教室の教員に荷物を預けて駅までひとっ走り。
午前の会議には20分遅れで参加。

午前の会議と午後の会議の間は少々時間があります。せっかくなので、地元の小学校に行って、校長さんと雑談。ついでにパソコンを借りて、夜のおべんきょのペーパーをプリントアウト。てか、こっちがメインの用事だな^^;;。にしても、ある意味部外者に快くパソコンとプリンタを貸してくれるって、メッチャうれしいです。ありがとうございますm(__)m

午後の出張に行くべく駅に向かったら、ちょうど電車が出たところ。
「わちゃー(T_T)」
と思ったら、そこにいた知り合いが
「仕事行く途中やし、乗せてったるで」
とのありがたい言葉をかけてくださいました。
てことで、無事午後の会議に参加。
会議の最後に
「すんません。どなたか最寄りの駅まで乗せてくださいm(__)m」
すぐに
「ええよ」
のお言葉。

こんな時に思い出す言葉は…。「風の旅人」の宇都宮さんの言葉ですね。

「ほんとうの自立とは、他者の力をどれだけ借りられるかにかかっている」

今日、何人の人がわたしに力を貸してくれたかな。その数は、もしかしたらわたしの「幸せさ」の指標かもしれないです。

インプットの不足

今日のおべんきょは、わたしの関心事についての発表。幸か不幸か三週間前に出したペーパーの内容がまだ残っていたので、それでごまかすことにしました。
「20分しかもたないかとドキドキ」
とか笑いながらはじめたのですが、内心ガチで
「20分しかもたないかも」
とビビッていました。
でも、最終的にはセンセに話題をふくらませてもらいながら、かなり有意義な時間を過ごせ、たくさんの示唆をもらえたのですが…。
なんか、終わってから、
「今の自分って、ストックを吐き出しているだけやなぁ」
と、しみじみと考えてしまいました。あまりにもインプットが少なすぎる。いや、正確にはインプットはものすごくあるのです。日常生活そのものがインプットの連続なわけです。じゃぁ不足しているインプットは?
先輩の呑み友だちがこんなことを教えてくれました。

素材があって、それをおいしくもまずくもするのはコック次第。なに料理にしたいのか(分野)、どんな段取りでやるのか(手法)、調味料になにを使うか(枠組み)、とかとか。

あぁ、わたしのまわりに豊富にあるのは「素材」なんですね。で、いままでわたしはそれを「刺身」で出してきた。いかに持ち味をそのままに出すかを考えてきました。
でも、今いる場所は「コース料理」を出さなきゃならない。そのためには、レシピの研究や試行錯誤、さらには盛りつけや鍋振りの練習もしなきゃなりません。そのインプットが圧倒的に不足しているんですね。
まぁ、それがわかったことは大きな収穫かな。
ありがと、センパイ!

疲れは対比から生まれるのかな

今日は朝からなんかしんどかった。
朝、家から出ると路面に雪(T_T)。自転車で駅まで行くのがこわいです。いや、リアが流れるのはかまわないけど、フロントが流れるのを極端に恐れる人なんです。
職場に着いて始業前に雑務をしようと思ったけど、服装頭髪一斉点検(T_T)。雑務ができません。
で、授業。全体としてはとても静かなんでしょうが、小さな私語がやたら気になります。とうとう
「うるさい。集中が切れる。授業ってのはな、とても集中してやってるんだ」
と、とても静かにブチ切れてしまいました。
で、反省しながら午後から出張。
夜はおべんきょ。
家に帰っても、積み残しの雑務のあれこれがなんとなく頭の中にあります。そのままネガティブモードに突入。うーん。
まぁ、この土日はとてもゆったりとした2日間でした。その土日に雑務をすればよかったのかもしれません。でも、したくなかった。それはたぶん正解です。
でも、そんな「特別な」土日と平日のギャップの中で「疲れ」を感じたのかなぁ。決して悪いことではないはずなんですけどね…。