帰り道、京都駅で声をかけられました。
「あの、いつきさんですよね?」
なんと、2006年にわたしを取材してくださった記者さんでした。記事はこれです。
しばし電車の中で振り返り。
記「いま、LGBTってみんな言ってるけど、そんなことがなんにもない頃に、あれを書いたんですねぇ」
ほんとにそうです。
あらためて、なんにもないころから闘ってきたんだなと思いました。
記「あの中で「どっひーはどっひー」というのが印象に残ってます。ほんとにいい子どもたちですね」
よく覚えてるな(笑)。でも、きっと記憶に残る記事だったのかな。だとしたらうれしい。
わたしが闘えたのは、そして闘えてるのは、子どもたちのおかげです。
カテゴリー: 考え
楽観主義者
今日の午前は、第2のふるさとで会議です。内容は、互いのガッコ・園の人権教育(≠人権学習)の状況の報告です。
おもしろいなと思ったのは、保育園や小学校では人権教育のターゲットに保護者が入っているところです。もちろん中学校にも入ってるんだけど、比重は保・小に比べると低くなります。そして高校ではほぼゼロ。おそらくそれとバーターになるのが子どもたちへの比重なんでしょうね。とは言え、高校でそれほどやってるかというと、京都の場合はイマイチですけどね。
で、もうひとつ出たのが「若手教職員への継承」でした。ただこれ、いつも思うんですが、今から30年前を知ってる人は「同和教育の継承は大切」とか「自分もあの時代を知ってるから伝えなきゃならないと思ってる」とか言うんですけど、「本当に知ってるのか?」と小一時間問い詰めたくなる瞬間があるんですよね。「やってへんかったやん」どころか、「どっちかというと反対してたやん」「てか、ジャマしてたやん」みたいな人もおられないわけではない。まぁそれでも、もしかしたらよくも悪しくも影響力はあったし、もしかしたら「やってなかった」って思ってる人もそれなりにやってたのかもしれませんけどね。
ま、それはおいといて。
20代30代の教職員が増える中で、みなさん「若い人は何も知らない」って言っておられます、もちろんそれはブーメランです。だって、わたしたちけ伝えてこなかったってことですけどね。ただ、2002年に法が切れて、それでもまだしばらくはやってたけど、少しずつやりにくくなってきてたのは確かです。その後、2016年のいわゆる「部落差別解消推進法」が成立するまでの10年くらいは、まさに空白の時代でした。なにが空白だったかというと「同和教育から人権教育へ」という流れの中で、部落問題以外にもやらなきゃならんことが増える一方、人権教育そのものに対しても風あたりが強くなって低調になっていった。なので、部落問題については大幅にとりくみが減りました。「同和教育から人権教育へという流れは、部落問題の「薄め」ではない」とは言われてたけど、現実的には薄めでした。その代わりウイングを広げることはできましたけどね。
で、今例えば30歳の教員は中学生くらいからあと、部落問題についての学習はしていない。だから実感もないし、イチから教えないといけない。まぁそういう話が大半を占めてました。
でも、ほんとにそうなんだろうか。なんか違和感があるんですよね。
だって、わたしの勤務校ではずいぶん違う気がします。あるいは若手教員の捉え方なのかもしれませんが。
例えば、ある教員は、高校時代のクラブで在日の友だちがいて、その子が東九条出身でみたいな話をしてくれます。あるいは、自分のクラブがらみの恩人が部落出身で結婚差別を受けたことがあって、そのことが許せないって言ってる教員もいました。宇治市出身の教員なら子ども時代からウトロのことを知ってます。さらにある教員は「母親が部落にルーツを持つ人って教えてくれた」って言ってくれました。
みんな知ってるんです。経験してるんです。でも知らない。教えられてない。だから知りたがっているんです。でも、なかなか「知りたい」と言う機会がない。だから、「知る機会」をつくると、みんな来ます。まぁ、正確には「みんな」じゃないですけどね。でも、さっきあげたような教員は来ます。
大切なのは、そういう機会をどうやってつくるかなんだと思ってます。そして「この世界は、はまるとおもしろい」ってことを伝えることなんだと思うんですよね。
方法はたくさんあります。
ちなみに、わたしは明々後日、数人の若手教員を連れて「おさんぽ」やることになってます。前に「おさんぽ」の話をしたら「やってほしい」って言われたからです。そんなのもいい。
あるいは、ある子どもをめくって「眼差しの違い」を伝えることも大切です。例えば、担任してる子が悪さをしたら、他の教員と一緒になってその子を怒るのか、逆にその子と一緒に怒られるのか。例えば学力の低い子どもを「あの子はアカン」とか「LDなんじゃないか」とか、その子に原因を求めるのではなく、その子の置かれた家庭や家庭をとりまく社会の状況から考えるのか。そんな中から「眼差し」を伝えることもできます。
きっと「いつきさんはなぜそう考えるのか」って不思議に思ってる教員もいると思うのです。その「不思議」のタネ明かしをすること。
それは案外できるんじゃないかと思ってます。
会議の席でそんなことを言ったら「お前はそう思ってるんや」って言われたので「わたしは楽観主義なんです」って答えたら笑われましたけどね。
今年もネタだらけ
今日は午前がお医者さんで、午後が出張。夜は会議というトリプルヘッダーです。長い一日になりそうです。
とはいえ、朝がゆっくりなのは助かります。少し仕事をして、出発。今日は血液検査もしてないし、貼り忘れの薬が売るほどあるので新しく処方してもらう必要もないので、まぁよもやま話をして終わりです。そうそう、ザイヤフレックスの時のネタを話したら、えらいウケました。
で、いったん家に帰ってごはんを食べて、今度は自宅近くに出張です。中身は府市私合同の進路保障研究会。なんで人権担当が進路保障やねんという話なんですが、「同和教育の総和は」という上の句に続く下の句は「進路保障である」なんで、当然なんです。これ、いつもネタ感満載です。だって、ガチの進路担当が進路の話をすると、「競争に勝つ」話になって、人権とは全然違う話になったりします。去年もいろいろあったけど、今年はどうかなぁ。
何でも今年は「e-portpholio」の話です。なんか、大学入試が変わって、いろんなデータが使われるようになるらしいけど…。でも、文科省は水路づけだけして、あとはベネッセに丸投げです。てことは、全国の高校生のデータをいち私企業が独占するわけです。これはこわい。しかも、例えば3年間のデータがいくわけだから、「人生のやり直し」がきかない。だいたい、誰にだって「消してしまいたい過去」ってあるだろうと思うのです。もちろんそんなの消えるわけないんだけど、せめて自分の胸のうちに収めておいて、たまに思い出したらふとんに潜って「うわぁ」ってなるくらいでいいと思うのです。でも、それがいち私企業のサーバーに残されてしまう。イヤやわ。
で、なぜそんなふうになったかというと、なんでも「蓄積した知識を問うのではなく、思いもよらないことが起こった時にどうするか」が求められるらしいです。まぁ、この間思いもよらないことはたくさんありますね。公文書の改ざんとかね(笑)。
で、それを問う有名な入試があるそうな。それがこれ。
「あなたにはこれまで3年間真剣なお付き合いをしてきて、来年くらいに結婚の約束をしている彼ないしは彼女がいるとします。ところが2カ月前にふとしたことで知り合った別の人が好きになってしまい、今付き合っている人と別れる決心をしました。600字以内でお別れの手紙を書いてください」(2014年愛知医科大学小論文)
マジか。この問題、ネタとしてのおもしろさはわかるし、なるほど「何が起こるかわからない」わけなんだけど、これはアカンやろ。しかも、2019年の今、レポートとしてこれを無批判に出す神経がわからない。まさに数日前に「同性婚訴訟」がはじまって、報道でも大きくとりあげられてる今ですよ。なので、そんなあたりを指摘したけど、たぶんわかってないな。
まぁガチの進路担当の話は進路指導の勉強にはなるけど、結局は社会のありように迎合すること、そしてそこで勝ち抜いていくことにつながるんですよね。
あと、とある高校がウトロについて調べ学習をした子どものレポートをされたんだけど、そしてとてもいいレポートなんだけど、「つながることの大切さ」みたいな話は、教員にとっては壮大なブーメランになるんですよね。つまり、教員が人権を切実に考えるためには、やはり「問題とつながる」必要があるってことです。それをやってないから、どこかタニンゴトとしての人権になる。でも、そのブーメランがわからない人もたくさんいるんだろうなぁ。
で、いったん家に帰って、少し用事をして、再び家を出て、今度は大阪です。何が悲しくて半径1kmの出張のあとに大阪やねんと思いますが、恒例の会議なのでしかたないです。
とりまKうさんといつものところでガソリン補給して、会議に参加。最近落ち着いてきたのか、ツッコミどころがなくなってきたけど、少しツッコミ。
「報道なんかで「性同一性障害」がとりあげられる時、かつては「金串伝説(笑)」みたいなのがあって、それなりに精神的ハードルが高かったように思うのですが、今はとりあげられる人が多様になってハードルが下がったんじゃないかなぁ」
みたいな。するとKうさんはすかさず
「真のTSか…(笑)」
とツッコミ返し。まぁそういうことです。
そんな感じでがつつがなく会議も終わり、あとはクールダウンの飲み。
うまいわ。
でも今日も一本早い電車に乗って帰ることにしましょう。
つながったかな
朝起きると絶不調。ほんとのほんとに久しぶりの二日酔いです。何が悪かったかというと、最後の一杯ですね(笑)。まぁいいでしょう。
今日は1時間目のみ。なので、さっくりとやってしまって、あとはindesignとテキストエディタでずっと事務作業。おかげさまでめどが立ちました。
ちなみに今日は3年生の登校日です。先週、Sゃ納さんから預かった『ヒューマンライツ2018年12月号』のコピーをある生徒に届けなきゃなりません。この号の「誰がために腹は鳴る」は10月のリビングライブラリをテーマにしてくださってます。その中にある生徒の感想を掲載してくださってます。なので、その子にはぜひ読んでほしいなと。
その子、去年授業を担当してました。授業を担当してるとはいえ、その子がどういう子であるかなんてことは、なかなかわからない。だって、みんなと同じ制服を着てみんなと同じように席に座って、みんなと同じように授業を受けてるわけですから、わかるわけはない。そんな中で子どものことを知ることができるのが「作文」なんですよね。でも、数学の授業で作文というのもほとんどありえません。まぁそれでも、ことあるごとに子どもたちは作文を書きます。問題は、その作文にホンネや生活なんかを書いてくれるかどうかなんですよね。その子は幸いなことにホンネや生活を書いてくれた。たぶんそれがSゃ納さんに伝わったんでしょうね。
でも、なぜ書いてくれたのかな。もちろんSゃ納さんの存在は大きいと思います。でも、たぶんそれだけじゃなくて、うちのガッコの人権学習には、作文はホンネや生活を書いてもいいと思ってくれるなにかがあるのかもしれない。もしもそうだったらうれしいな。
で、その子にコピーを渡すと、恥ずかしそうなうれしそうな顔で「わたしのなんか、もうしわけない」って笑ってました。
人権学習やっててよかったo(^^)o
せつない
今日は1時間目と4時間目に図書室学習です。
「ヤバイと思ってる人はおいで」
と言ったらひとりしか来ませんでした。いいことなのか、悪いことなのか。でも、その子は「図書室学習がないと試験で問題が解けない」って言ってたから、たぶんそうなんでしょうね。でも、他にもヤバイやついるんだけどなぁ。
で、ダラダラやってると、「なんかもう」な情報が。とりま支店長のところに行って、急遽出張に出ることになったですが…。
せつない中身でした。
帰って支店長に報告したら、支店長も天を仰いでました。
教員やってる無力感って、こんな時に味わうんですね。でも、この無力感とかせつなさを味わうことができる教員でいてよかったとも思います。それが味わえない教員は、たぶん教員やっちゃいけない人なんです。
そんなせつなさを抱えてお家へ。
せっかくなので、おいしい日本酒を買って帰りました。今日は久しぶりに家族4人でごはん。日本酒を飲んでもらったら大好評でした。よかった(^^)。なんか、みんなでいろんなしょーもない話でケラケラ笑いながらの晩ごはん。片づけは、あまりにも疲れてたので子どもたちにお願いしてしまいました。
さてと。録画してあるマツコを見て寝よう。明日も朝が早い。
時間の使い方→アイゴの使い方
今日も淡々と授業。からの職員会議でした。
この職員会議がひどかった。とにかく時間の使い方がへた。勤務時間終了まであとわずか。なのに、まずは「この行事をやることの意義」が述べられます。そして出した資料の追加訂正が大量に述べられます。そんだけたくさんあるなら、資料の差し替えしてほしい。だって、すごく大切な追加訂正ですからね。さらに別のセクションから補足説明がありますが、これがまた膨大な中身です。勤務時間が迫ってるから早口。えーと、メモするスペースもないし、そもそもメモできる量じゃないし。で、こちらは「後ほどペーパー出します」とのこと。なら、その説明いらんやん。こうやって、ひとつの議案で20分ほどかかりました。おかげさまで、勤務時間が10分オーバー。
たかが10分と思われるかもしれませんが、この10分が死活問題です。なぜなら、電車に間に合うかどうかの分かれ道です。で、なぜ電車に間に合うかどうかが死活問題かというと、人と待ち合わせをしてるからです。電車の場合、10分の遅れは20分〜30分の遅れに拡大します。まぁ、車の人にはわからんわな。
何が問題かというと、伝えたいことと伝えられることの間には差があって、伝えられることしか伝わらないってことがわかってないってことなんです。で、そのことがなぜ問題かというと、わたしたちは「伝えるプロ」だからです。
その場でしか伝えられないこと・伝えなきゃならないことを必要最小限の情報として提供する。言いたいことを伝えるのではなく、伝えなくちゃならないことを伝える。足し算の発想ではなく引き算の発想で情報提供をする。大切な情報であればあるほど、コンパクトにしなきゃ伝わらない。単にそれだけのことなんだけどな。
てことで、待ち合わせ時間に遅刻です。でも、みなさん待ってくださっていて、笑って迎えてくださいました。
で、飲み開始。今日は再来週のお座敷の打ち合わせという名目の飲み会です。お店は「尹家」です。この店、おかしいです。てか、おかしさが去年来た時よりもパワーアップしてないか?頼んだのはサムギョプサルコースらしいのですが、肉にたどり着く前に、これだけ出ます。
すでにお腹いっぱいです。
そこからサムギョプサルが出てくるのですが、当然のことながら肉も野菜も食べ放題。お酒も飲み放題。これで4000円。
で、山のように食べて山のように飲んで、その間の話はまったく打ち合わせではありません。とにかく疑問が山のようにある佐藤大さんが目の前におられるわけですから、
「なんでこんなことをやってるんですか?」
と。
ということで、生い立ちというか来歴というか、そんなのを話してもらったり。
そうこうするうちに、なぜか話題は「アイゴ」の使い方へと移行して、一同大爆笑です。前に「わかば」のオモニからアイゴが使えてるとは言われてるので、それを披露したのですが…。なにせみなさん仕事柄アイゴをよく聞いておられる。なので、「あるある!」「言う言う!」と大盛り上がりです。そんな中、佐藤さんは「使わないなぁ」と。
そこでふと思ったのが
「ハラボジは使うか?」
ってことです。で、みなさんに聞いてみるとハラボジは怒りの表現の時に使うとか。それに対して女性たちはあらゆる場面で使うんだとか。なるほどなぁ。やはり女性たちは感情が豊かなんだ。そして男性は「怒り」という感情しか出せないのかな?なんか、在日韓国社会のとりわけ高齢者社会におけるジェンダーを少し垣間見た気がしました。よくわからんけど。
てことで、約2時間、飲んで食べてしゃべって笑って、すんごい楽しい時間を過ごしました。
が、お酒とニンニクのすごい匂いがしてるだろうな(笑)。
懇談会と懇親会
今日の授業は3年生がいないので、1時間目のみ。とにかくさっくりと終えて、またまた校正です。とりあえず音声を聞きながら最後までやって、indesignに流し込んで整形しながら、再度の校正です。すでに話の細部は頭に入ってるので、ざっと読みながら不自然なところとか漢字の統一とかをします。てことで、昼過ぎに終了。
でも、すでに頭は抜け殻です。なので、少し本を読んだりしながらクールダウン。
で、夜は京都弁護士会との懇談会です。
とはいえ、わたしだけではまったくダメなので、関係諸方面に連絡をまわしたら、わたし込みで5人集まりました。うれしいなぁと思うとともに、みんな法律の専門家の必要性を感じてるんですね。
それにしても、レズビアン/ゲイとトランスではずいぶんと違うんだなぁとあらためて感じました。
レズビアン/ゲイの場合は、法的な権利がまったくないので、まずはそこなんですね。ただ、具体的にどういう場面かということになると、やはりわたしにはわからない。特にHIV関連になると、やはりわかりません。そんな中でAっちゃんが来てくれたのは大きかったです。
一方、トランスについては、特例法がからんできます。ちょうど今日、性別変更するために離婚を強要されるのは違憲だとして裁判に訴える人が出てきたし、その前は手術を強要されることに対する裁判で、最高裁判決が出たりもしてます。てことで、特例法の要件撤廃がひとつの争点になりますか。あとは、特例法の適用を受けてない人についてですね。例えば、子どもたちであれば中体連・高体連の加盟問題とか。あるいはトランスであってもDVとかストーカーの問題もあります。さらに、女性占有スペースからの排除問題とかもありますね。ちなみに弁護士さんは、この件については「ヘイトスピーチだ」って言ってました。さらにRぽたんからはアウティングの問題が出されました。クローゼットで自認する性での生活をしている場合、アウティングは死活問題ですからね。それは子どもたちの場合中体連・高体連問題も連動してきます。
で、こうした問題は、特にトランスの場合は医療モデルで進んできたけど、そこに弁護士が入ることで「権利の問題」へとパラダイムシフトしていくので、これは本当に大切だなと思いました。
そんなこんなで有意義な2時間を送ってからの「懇親会」です。
それにしても「懇談会」と「懇親会」は1字しか違わないのに、なぜに中身がこんなに違うかなぁ(笑)。
てことで、近くの「兎ニモ角ニモ」へ。
ここ、雰囲気もいいし、おいしい!お皿もかわいい。
モツ鍋のネギは入れ放題だとかで、ガンガン入れてもらいましたo(^^)o。だって、ネギ、好きですからね。
ここでもさっきの話の続きですが、少し酔っ払い基調です(笑)。それにしても、店員さん、LGBTネタを投入しまくっているこのグループをどう見てるんだろ。でも、とっても優しい笑顔で接してくださっていたから大丈夫かな。
ということで、今日は最終ですよ。明日がきついな。
まさかここで・日教組教研(3日目)
今日も起床は6時半。まぁ、それでも普段よりは遅いか。てことで、朝ごはんを食べて、バスを乗り継いで会場へ。
今日は総括討論です。テーマは「つなぐ、つながる、変革する」です。あり?去年は何だったっけ。まぁいいや。
まずは「せっかくなので聞きたいこと」を出し合います。当然のことながら、発言しまくってる4人はここでは発言しません(笑)。でも出された質問・疑問は、ほんとうに現場での悩みです。
そんな中に突然出てきた質問。
「性的虐待を受けた女子生徒が、最近性別扱いの変更を得たトランス女性が女子トイレを使うのが怖いと言っている。どうしたらいいか?」
いきなり脳みそが沸騰しました。まさかここでツイフェミみたいな発言が出てくるとは。
てことで
「わたしは今回カミングアウトするつもりはありませんでした。バレてるとは思いますが。ただ、どうしても言わなきゃならないと思います。わたしたちトランス女性は犯罪予備軍ではありません。cisgenderの人が自分のgender identityに従ったトイレに入るの同様、わたしたちもgender identityに従ったトイレに入って用を足したいだけです」
と発言。ところが、
「発言の仕方が悪いから、趣旨が伝わっていないと思うけど」
とのこと。
もちろん性的虐待は許せないし、それを受けた子どもを守らなきゃなりません。そしてその子が最近性別扱いの変更を得たトランス女性の子どもを受け入れられないと教員に伝えることそのものを否定する気はありません。が、その子の言葉を教員がどう捉え、それに対してどうとりくみ、それをわたしたちにどう伝えるかは別のことです。少なくともわたしには「トランス女性は女ではない」としか聞こえなかった。
少し冷静になって、なぜ「トランス女性は女ではない」と聞こえたのかを考えました。そこで気がついたのは、性的虐待にあった女の子のことを無前提に「女性」としているんですね。そして、女子トイレを使うことが適正であるとしている。そして他のcisgenderの女子生徒たちが女子トイレを使うことに言及しないことを通して、他のcisgenderの女子生徒たちも女子トイレを使うのが適正であるしているんです。そしてそのことは、他のcisgenderの女子生徒たちと性的虐待を受けた女子生徒を「女子トイレを使うのが適正である存在」=「女性」どいう同一カテゴリーに入れることになります。そして、「どうしたらいいか?」という質問をすることそのものが、cisgender女性の子どもたちとトランス女性の子どもの間にバウンダリーを設定することだったんです。
そう感じたので
「わたしはとてつもなく大きな壁を感じました。結局トランス女性は常に「入れてもらう存在」でしかないっていうことなんですね。結局2級女性でしかないってことですね」
という発言を、重ねてしまいました。
ただ、司会者は、このことをめぐって意見が出きるまで時間を確保してくれたし、たくさんの人が「虐待の問題とトランスの問題はわけて考える必要がある」と言ってくださいました。それが救いでした。
発言者はもちろん悪気があって、あるいは排除しようと思って話したわけじゃないことはわかっています。そして、ほんとうにどうしていいかわからないからこそ、「ここなら」と思って話されたんだと思います。
ただ、まさに「すべての発話は行為である」なんです。つまり、その発言は先に述べたバウンダリーワークだったんです。そのバウンダリーは、まさに「無意識のうちにある境界線」であり、それが顕在化したんです。そのことに反応してしまった。
でも、きっと発言者は「言い方が悪かった」「伝えられなかった」という形で責任を感じ、引き受けようとされるんだろうな。そのズレがきついです。
まぁ、そんなことがあったけど、その後はいい感じで分科会も進んでいき、お昼に終了。みなさんと3日間のお礼を言い合い、来年またお会いしたいねと互いに言って、会場をあとにしました。
まぁ、その前に発言者さんと少し話しましたが。落ち込んでおられたので、ちょっと「ごめん」と思ったけど、ここは「ごめん」って言っちゃいけないので、それだけは飲み込みました。んー…。でも、発言者さんの仲間には、わたしにとっても大切な仲間がたくさんおられます。きっとその人たちがつないでくださるでしょう。
あとは小倉駅に出て昼ごはんを飲んで、新幹線の中でAっちゃんと飲んで、無事に帰りましたとさ。
当事者研究をめぐる対話か?
今日から1・2年生は平常授業です。幸い授業は4・5時間目なので、昨日やりきれなかった採点ができます。どにかくガシガシ採点して成績処理をします。その後ノートチェックをしたりして。そんな感じで、昼ごはんを食べてると、突然T田さんからメール。そこから怒涛のようなチャットがはじまりました。
テーマは「当事者研究」です。
発端は「トランスジェンダーとGIDは水と油か?」って投稿に、「ドレッシング」とか「マヨネーズ」とかいうしょーもないコメントしたところです。
まぁ「振ったらドレッシングになる」→「ほっとくと分離する」。「卵入れたらマヨネーズになる」→「なにかを介在させると乳化して分離しない」が読み筋です。
でも、障害学というか障害者解放運動とかの文脈で「社会モデル」と「医療モデル」って、もう対立してないんじゃないかなぁ。まぁそのあたりは熊谷晋一郎さんの話を聞いたころから「そんな感じなんだろなー」どは思ってたし、現実的に医療を拒否してやっていけるはずもないわけです。なので、こないだの浦野さんの話もストンと落ちてくるし、文脈が違うけど「再評価」って話も出てくる。
まぁ、「対立の構図」からはじまるけど「折り合う場所を探る」ところに落ち着くのは、結局、現実の生活は理論や理想だけでは送れないっていう、当たり前のことなんですよね。
まぁそんなあたりから「当事者研究ってどうよ」って話になりました。で、当事者研究についての文章とか文献とかいろいろ交換してたんですけど。
ふと「なんで相手がわたしなんだ?」と思うのです。だって、わたしごときを、T田さんみたいなバリバリの研究者の人がディスカッションの相手として選んでくれるって考えられない。でも、わたしとしてはありえないほどうれしいことです。
ひとりで考えるんじゃなくて、疑問を交換することで考えを深める。その時に、理想や理念を語るのではなく、文献やデータを使って考えを深める。わたしはそういうやり方をしたいなと思ってます。もしかしたら、T田さんは、だからわたしを相手に選んでくれたのかな。
でもそれはわたしにとっては幸せなことです。
トランス女性バッシング考
「女性である」ことの証明は、「女性でない」ものを措定することで可能になる。その「女性でない」ものは、女性に近ければ近いほどいい。なぜなら、近いことで境界線がはっきりするから。つまり「もっとも女性に近い女性ではないもの」を措定することで、「女性である」ことの証明ができる。てことかな。
これ、構造としては、部落差別とか在日朝鮮人(外国人)差別とか、アイヌ差別とかウチナー差別と同じ。「違う」ものをつくることで「同じ(日本人/常民」が定義できる。
つまり、排外主義と同じ構造。なので、ヘイトスピーチなんだよ。