いろんな考えの人がいるでしょうが、わたしは最近「敗戦処理投手」が一番えらいんじゃないかと思っています。
すでに負けは決まっています。自分に勝ち星がつくことも、セーブポイントがつくこともない。できることはせいぜい「価値のある負け」をめざすことくらい。
でも、両チームが27個ずつアウトを取らないと試合が終わらない。誰かが投げなきゃならないんです。
両チームの、自分とは異なる人間がさんざんゲームをし、自分の側のチームが負けが決まった、その後始末をしなくちゃならない。
でも、この人がいないとゲームは終わらない。ゲームが終わらないと、新たなゲームは始まらない。
本当は「敗戦処理投手」は、新たなゲームを始めるために必要な人なのかな。
カテゴリー: 考え
マイノリティは大都市にしかいないのか?
メールチェックをしていたら、こんなニュースが飛び込んできました。
来年度、国による公設民営方式で、全国6カ所に同性愛者のコミュニティセンターが開設に。
東京都・大阪府・福岡県・愛知県・宮城県・沖縄県にそれぞれ開設されます。
すでに現在コミュニティセンターがある東京・大阪・名古屋・福岡だけではなく、宮城県(仙台)と沖縄県(那覇)にも新設されることになる。
あぁ、またかと思いました。
それぞれの地域にひとつずつということなんでしょうね。てことは、関西の人間は大阪に行けということなんでしょうね。こうやって大阪にLGBTは集中していく。集中するから、「そこにはいる」と思われ、「そこでない」ところには、いないことにされていく。大阪に行けない/行かないものはますます少ない中でやっていかなきゃならない。
すでに現在コミュニティーのあるところでなぜやるのか。わたしにはわからない。公設だからこそ、「ないところ」につくらなきゃならないんじゃないかと思います。
支援をしなくちゃならないのは、一定程度運動があるところじゃなくて、運動すら起こらないところなんだと思うのは、一地方都市に住む人間のひがみですかねぇ…。
とかいいながら、「トランスジェンダー生徒交流会」は大阪でやってるんですけどね…。
「思い」は100の言葉の中にひっそりと入っているんじゃないかなぁ
結局合宿は今日の昼までのんびりとやっていました。
忙しく、しかも疲れているなか手伝ってくれたYちゃんに感謝!大阪から来てくれたKぽんに感謝!K大から来てくれたKヮンスに感謝!
合宿って、やっぱりはじめて参加するにはハードルが高いです。そういう意味では「新規参加者」を拒否するような集まりだったかもしれません。
でも、と思います。
やっぱり合宿って必要なんじゃないかなぁ。長い時間を同じ部屋で過ごす、ただそれだけのことなんだけど。何をしゃべるわけでもなく、単にワイワイと遊ぶ、ただそれだけなんだけど。そういう「ムダ」をすることによってできる関係ってあるんじゃないだろうか。そんなムダな時間を延々と続ける中に、「思い」はひっそりと出てくる。
「固い」交流会は、もしかしたら促成栽培?確かに「成果」は出てくるけど、案外弱いかもしれない。「緩い」交流会は、雑草のようなもの?1回では成果は出ないし、とても長時間かかる。でも、その長い時間の間にかわされる100のつまらない話の中に、ふと出てくるかもしれない一言を期待しながら、交流会ってやるものなのかもしれない…。
ここでもネタになるか…
子どもが、「今日はベストハウス123だ!」とか言うので、さっさと宿題をさせまして、一緒に見ていました。なんでもダヴィンチ特集らしいです。
しばらく見ていたら、突然赤字で
禁断の同性愛
という文字が…。そうきたか…。
あとはみなさん、からむからむ。あとで検索したら
審議長は三宅裕司。「緊急特番 新たなダ・ヴィンチ・コード発見か!」と題し、茂木健一郎らがレオナルド・ダ・ヴィンチにまつわるプレゼンを。ダ・ヴィンチが、王妃との身分を超えた結婚を隠すため同性愛者を装っていたという話を聞いた田村淳は、「僕(の恋は)(週刊誌)FRIDAYさんの協力の下、比較的オープン!」と自嘲する。
らしい。
境界線上の存在?
今日は某在日外国人教育関係の会議。
午前が事務局・役員会ということで、まぁ午後からの打ち合わせをするわけです。で、集まったのはわずか3人。こういう日もあります。さくっと打ち合わせをしてお昼ご飯。軽くビールを呑んで午後の会議に備えます(笑)。
午後からはそれなりに人も集まったので、けっこう充実した会議ができました。
それにしても、さすがは全国から集まってくる「運営委員会」です。単なる飲んだくれとか牢名主みたいな人とか、まぁひとくせもふたくせもある人がそろっているのですが、その情報量の多さや考えの深さ、そしてなによりもフットワークの軽さは、なかなかすごいものがあります。こんな人たちと日常的におつきあいができるというのは、ある意味幸せなんだろうなぁと思います。もしかしたら、実は不幸なのかもしれませんが(笑)。
でも、そういう尖ったところがまた、ケンカの種にもなるわけで、なんだか知らないけど、あちこちでケンカになっているみたい。
ところが、不思議なほどにわたしはそのケンカから除外をされています。
これ、なんなんだろう…。まぁ、わたしは尖るところまで深くこの活動にかかわり切れていないというのもひとつの要因かもしれません。考えてみると、「なんでわたしが全国の事務局員やねん」というのは昔からの謎でした。ふさわしい人は他にもいっぱいいるのですが、いろんな人間関係の綾とか、その他タイミングの問題なんかで、たまたまわたしのところにまわってきて、そのまま10年みたいな感じなんですよね。
でも、最近思うのは、もしかしたらそういう存在も必要なのかもしれないなとも思うのです。ひとつのことを深くやることによってわかることと、そうすることによって逆にわからなくなることがある。だから、深くやる人と浅くやる人が混在することで、全体としてのバランスがとれるのかなぁと。
こういう役回り、ええ加減なわたしにピッタリかもしれない(笑)。
表現の難しさ
あらかじめ断っておきますが、特定の人を非難するために書くんじゃないです。
文章表現ってほんとうに難しいですね。
なぜなら、ある「内容」を文章に表現しようとする時、どうしてもそれを「言葉」に置き換えざるを得ない。ところが、自分が知っている範囲の言葉にはやっぱり限りがあります。その「範囲」って、おそらくはその人の興味や関心、あるいは生活範囲にかなり影響をされていると思います。
例えばわたしだと、セクシュアリティ系の言葉についてはまぁボチボチ知っているつもりですが、ガンダム系についてはさっぱりです。なので、「ガンダムの紹介文を書け」と言われたら、とんでもないことを書く可能性がある。
まぁそういうことです。
で、あるチラシの草案にあったわたしの活動の紹介文。
セクシャルマイノリティの人たちのための集いや、ノーマルの人たちへの講演会など、精力的に活動されています。
わたしの話を聞きたいと思う人って、それだけでたいがいアブノーマルだと思うけど(笑)。
というのはおいといて…。
たぶん、「セクシュアルマイノリティ」という言葉の対語としての「セクシュアルマジョリティ」ってあるのかどうかずいぶんと悩んだ末、とりあえずこう書かれたんでしょうね。決して、「セクシュアルマイノリティ」=「アブノーマル」という意図があったんじゃないと思っていますです^^;;。
にしても、「ある少数者」を表現する言葉はあるんだけど、「その対としての多数者」を表現する言葉って、つくりだしていかないと、なかなかないんですよね。そこに「マジョリティ」が無自覚に「させられていく」構造があるんだろうなぁ。
あ、そういえば、去年のGID学会でひっぴぃがそういうことを言っていたなぁ…。
アンペイドワーク・考
今朝、あることがあって(;_;)、「アンペイドワークってなんだ?」ということを真剣に考えはじめました。
柏市の参画eyeキーワードから転載です。
無償労働と訳され、賃金や報酬が支払われない働き方や活動を指します。その代表的なものは家事や育児、介護、ボランティア活動などですが、自給自足的な生産活動や途上国での水汲みや食料調達などの生存維持労働も含みます。これらの大部分は女性のアンペイドワークによって担われてきました。そして対価をもたらさない労働は労働とみなされず、労働統計にも計上されず、「見えない労働」として不当な評価をうけてきました。
ふむふむ。これくらいのことはさすがのわたしも知っています。
続いて…
1975年の国際女性年をきっかけに、生活のあらゆる領域での女性の労働の価値を再評価し、男女の不均衡な役割分担を見直そうという動きがでてきました。1980年以降、 女性のアンペイドワークの貢献度を目に見えるものにすることが不可欠であるという認識から、国連の機関を中心に、その貢献度の測定と評価のためのデータ収集が進められました。
日本でも1997年から経済企画庁が「無償労働の貨幣評価」を発表しています。無償労働の範囲は、炊事・洗濯などの家事、介護・看護、育児、買い物、ボランティアなど社会的活動の5項目にしぼられています。それによると、1996年の無償労働の評価額は国内総生産(GDP)の23.2%を占め、その84.5%は女性が担っており、男女の役割不均衡を如実に表す結果となっています。
問題は項目なんだな。その中でも「ボランティアなどの社会的活動」。こいつの範囲はどこからどこまでなんだろう。
PTA活動は、たいていアンペイドワークに含まれているみたい。地域活動も同様です。じゃぁその「地域」ってどうなるのかな?居住地近辺はたぶん含まれる。じゃぁ、釜ヶ崎の炊き出しは入るのかな?まぁボランティアっぽいです。でも、主催団体によって違うかもしれない(笑)。某基督教団体あたりが「慈善事業」と銘打ってやると「ボランティア」という臭いがしますが、釜日労の越冬闘争の支援だと「ボランティア」という感じがしない。
わたしも参加している、某在日外国人教育研究協議会関係の活動はどうなるんだろう。
例えば、某キリスト教系青年団体が「国際交流」とか銘打って大学生を集めて子ども達の交流会をしたら「ボランティア」臭がプンプンするけど、「京都・在日外国人生徒交流会*1」とか、「ボランティア」という感じがぜんぜんない。どちらかというと、個人的には「趣味」だし、外から見たらもしかしたら「宴会」かもしれない。昔ある人からは「特定の党派の活動」とか言われたことあるし。
「トランスジェンダー生徒交流会」は子どもを対象にしているから、それでも「ボランティア」っぽいかもしれない。でも、大人を相手にしている「玖伊屋」は、まったくボランティアじゃない。まぁ、内実はどちらも「宴会」だからまったくボランティアじゃないですけどね。
てことで、wiki。
ボランティアは、古典的な定義においては自発性、無償性、利他性に基づく活動とされてきた。しかし近年ではこうした定義への再検討が加えられている。まず無償性に関しては、有償ボランティアという存在が出現し受け入れられていることで、ボランティアの定義から外れつつある。
一方、先駆性、補完性、自己実現性といった新たな概念がボランティア活動の特徴として指摘されるようになっている。先駆性とは、ボランティア活動が既存の社会システム中に存在しない役割を担うことが多いということから指摘されるもので、こうした先駆性を持つ存在をチェンジエージェントと呼ぶ。ボランティア分野のチェンジエージェントとしてティーチ・フォー・アメリカなどが挙げられる。補完性とは、既存の行政システムでは対応しきれないニーズを満たす性質のことである。自己実現性とは、ボランティア活動がそれに参加する個人の自己実現の場の役割を果たす性質に注目した概念である。
ふむ。
てことは、これを「玖伊屋」にあてはめてみます。
「自発性→△*2」「無償性→◯」「利他性→△*3」「先駆性→◯」「補完性→◯」「自己実現性→△*4」
てことで、少なくとも×はひとつもないので、「だいたいボランティア」だな(笑)。
てことは、わたしのアンペイドワークの時間は長大なようです。
男女平等社会とは、男女が有償労働と無償労働をバランス良く担える社会であるということが、いまや世界の共通認識となってきています。国レベルでの支援策のもとに、住み良い社会を目指して私たち一人ひとりの意識改革が必要だと思われます。
なんか、結論と違う気がする^^;;
まぁ、パートナーとわたしの関係においては「男女」じゃないのでかまわないのか(笑)?
エネルギー保存の法則に反するもの
そういえば「肩こり保存の法則」というのもありますね。
肩が凝っている人の肩を他の人が揉む。すると、揉んだ人の肩が凝る。で、損失分を考えると、世界全体の肩こり量は増加していく。みたいな…。
でも、「エンパワー保存の法則」ってあるんだろうか。
誰かの話を聞いて「エンパワーされた!」と感じます。そのことをスピーカーに伝えたら、スピーカーもまたエンパワーされます。もちろん「搾取された」という思いの時もあるだろうけど、そればかりじゃない。
互いに互いをエンパワーしていくという作業は、もしかしたら、世界全体のエンパワー度の増加につながっていくのかもしれない…。
そういえば記念日
そういえば、1922年の今日、岡崎公会堂で全国水平社創立大会があったんだ…。
はたしてあれからこの国はちょっとはマシになったんだろうか…。
少なくとも「差別はいけない」ということは浸透したな。ふむ…。
国民という呼称の氾濫
なんか、小沢の秘書がタイーホとか…。
まぁそれはそれとして、政治家もマスコミも、ひたすら「国民への説明責任」と連呼しています。
「国民」なぁ…。
てことは、在日外国人への説明責任はないということかなぁ。
「国民」という言葉は、自動的に「国民でない人=外国人」を除外する言葉なんですよね。
最近、総選挙をにらんでか、やたら「国民」「国民」と連呼しています。それを聞くたびに、知りあいの在日外国人の人たちの顔が浮かびます。前はこういう言い方、少なくともマスコミはあまりしなかった気がするけどなぁ。
そういえば、マスコミはかつては「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」と言っていたのに、今では平気で「北朝鮮」だからなぁ。
どこかで歯止めをきかせないといけないし、そのためには、ひとつひとつの言葉の意味をていねいに考えながら使っていかないといけないような気がします。