「女装」と「GID」に違いがあるとするなら…

「心の性」なんていうのは「あるのか?」と言っておられる人がおられるくらいなので、わたしにはよくわかりません。
とりあえず、違いがあるとするならば、「過ごすことが可能な時間」くらいかなぁなどと思ったりもするのですが…。まぁあくまでも直感ですから、「違う」ということならそれはそれでいいんですが…。
まぁ、これって「女装とGIDの違い」というよりも「パートタイムとフルタイムの違い」ですね。
もちろん、GIDの人でパートタイムの人もおられるわけで、必ずしもイコールじゃないですが、いわゆる「女装者」の方々はパートタイムの方が多いだろうという予測のもと、ちょっとこれで話を進めてみますか…。

女装者もMTFGIDも等しく、おそらくは「ジェンダーの徴」を身にまとわないと「女性として通用しない」と思います。つまり、「性他認」のことです。
問題は、その「ジェンダーの徴」を、いつ・どこで・どんなシチュエーションで・どの程度身にまとうのかということかなぁと思います。
フルタイムの場合は、仕事・遊び・その他諸々、すべてのシチュエーションで身にまとい続けるわけです。必然的に、それぞれのシチュエーションに応じた身にまとい方を要求されます。もっと簡単に言えば、「夜遊び」と「昼間の仕事姿」では違うわけです。例えば極端な場合、「昼間の仕事」ではジャージ姿を要求されることすらあるかと思います。もっとも、ジャージならジャージで、それなりの「ジェンダーの徴」はあるんだと思いますけどね。
に対して、パートタイムの場合は、あるシチュエーションに特化できます。まぁ言ってみれば、そのシチュエーションのスペシャリストということになるでしょうか。で、たいていの場合、パートタイムのシチュエーションは「夜の街」です。
で、「夜の街のお姉さん*1」と「昼間のバイク通勤の汚れ系なんちゃってフルタイム*2」のどっちがきれいなお姉さんかというと、これは、比較するまでもないわけです(笑)。そりゃぁ、「後者は受け入れられないけど、前者だったらOK」ということは十分にあるわけですわ。

でもねぇ。これはあまりにもアンフェアな比較だと、わたしは内心思っておりまして。
もともと身にまとおうとしている「ジェンダーの徴」が違うわけです。

そうそう、かつてstnのお友だちに新宿の女装スナックに連れて行ってもらったことがありまして。そのお友だちは「着替えてくるね」と姿を隠して、見事な変身を遂げられました。で、わたしはいつもの通りジーンズのまま。すると、「女装をしないの?」と聞かれまして。
いや、その時着ていた服、全部レディスですから、ある意味女装していたんだけど、その店では「女装」と認めてもらえなかったんですね。まぁ、「必要とされるジェンダーの徴」が違ったわけです。

ん〜。何が言いたいか、よくわからなくなってきた。やめよ…。
まぁ、美しさでは太刀打ちできないということか(笑)。

*1:たとえば、女装スナックのスペシャリスト

*2:たとえば、京都の某高校教員(笑)

フォビアはどこから来るのか

あくまでも「わたしの場合」ですが…。
やはり、小さい頃に「女装」をしたかった。でも、どうしてもできなかった。
つまり、「女装」へのすごいあこがれと、それへの「禁止」の感情が同時に自分の中にあったわけです。
それがそのまま内在化して、約30年間熟成されると、みごとな「フォビア」が自分の中にできあがります。
じゃぁ、これがその後払拭されたかというと、できないわけですね。
自分の中で「女装は禁止事項ではない」ということはわかっています。でも、そんな葛藤なしに*1軽々と「女装」をする人を見ると、うらやましさと同時にねたみみたいなものが出てくるわけです。で、それが身体反応としての「拒否」みたいになってくる。
まぁ頭ではわかっているけど、身体はそうは動かないという感じですか…。

そんなわたしですが、最近ようやく少しずつ身体が慣れてきたみたいです。ふぅ…。

*1:に見える

古くからあるけど、今もあるんだなぁ

某MLで流れている投稿をつらつら見ていて、「はぁ…」と思いました。
曰く「女装とGIDは違う」
曰く「一緒にされたくない」
なんなんだろう…。

自分の中に「女装フォビア」があるかどうかというと、それは「ある」なんですね。それはわたしには抜きがたくある。
でも、それはわたし自身の問題なんですよね。わたし自身が、そういう自分が持っている「フォビア」とどう向きあい、どう折りあいをつけていくかということなんです。

というか、「女装者」から「GIDなんかと一緒にされたくない」という声があがるという可能性を*1まったく度外視したこういう考え方に、わたしはどうしても違和感が残ります。

*1:実際あがっているんじゃないかなぁ

でも覚えていることはある

もうかれこれ7年ほど前からのつきあいの中国帰国の子。もうひとつの「顔」と出会えました。
そうなんですよねぇ。どこにでもいるはずなんだよね。にもかかわらず、「その側面」をないことにして、いままでつきあわざるを得なかったんだ。
「ほんとうに言えなかなったこと」
と言っていた。その顔と出会えたことが、今日の一番の収穫でした。

結婚差別をどう伝えるか

今日は人権教育研究会の課題別研究交流会。
講師は宮前千雅子さん*1
最初に謝っておきますけど、わたし、基本的にあまり質問ができないんです。関心がないんじゃなくて、「ほぉ〜、なるほど〜」と思いながら聞いているので、質問どころじゃなくなるんです。で、質問をする時って、「へへ〜」と思いながら聞く時で、簡単に言うと「ツッコんでやろう」と悪知恵を働かせている時なんです。
で、話の中でいろいろな発見があった*2のですが、なかでも「結婚差別をどう伝えるか」というあたりがツボでした。
宮前さんは「結婚差別を部落問題からのみ伝えることには限界がある」という意味のことを言われます。
そうなんですよねぇ。そもそも結婚制度の持つ問題点をほったらかしにしておいて、「籍を入れること」=「OK」みたいなゴールを提示するような展開は、やっぱりあかんと思います。いや、これ、自戒の念を込めてというか、かつての自分の授業プランの話なんですけどね。
で、わたしはやっぱり
「パートナーシップの持ちようは、一人であることも含めて多様である」
  ↓
「結婚関係はそのひとつのありようでしかない」
  ↓
「にもかかわらず、結婚関係のみに特権が与えられている」
ということを、まず提示したいなぁと思っています。
さらに、
「「結婚関係において価値が低いとされている人」はどんな人であるか?」
ということを提示するあたりから、結婚差別の話をしたいなぁと思っています。
で、これ、前に教案を書いたのですが、ボツにされました。
って話は、2年ぐらい前に書いたか…。
でも、宮前さんの話を聞きながら、ふたたびそのことを思いだしたという感じでしょうか。

宮前さんの話、全体を通してすごくおもしろいんですね。なぜなら、ステレオタイプ化されていない感じがある。これは、おそらくは宮前さん自身「途中から部落民(by 角岡伸彦さん)」的な要素を持っておられることと、ムラの外で人生を送ってこられたあたりにあるのかなぁと思います。
「渦中だからわかること」もあるけど「渦中だから気づかないこと」もある。そのバランスをどうとるのか。少なくとも「わからないこと」「気づかないこと」に自覚的になるところからスタートされているんでしょうね。だから、「なるほどなぁ…」と思えるのかなと思いました。

で、一番すごいと思ったのは、はじめに「1時間半」と言われたら、ほんとうに1時間半で終わられたこと(笑)。わたしは50分のプロだけど、さすが1時間半のプロだなぁと…。

*1:このアドレス、ちょっとなぁ…

*2:「ドッチボールのカムアウトとキャッチボールのカムアウト」とか…

ある生徒との会話

なにやら授業がはじまる前に教員と言いあいをしている生徒がいました。その後の授業中の会話。
い「なにしててん」
生「男の先生、すぐ怒鳴らはんねん。普通にしゃべってくれたらちゃんと言うこと聞くのに」
い「ふ〜ん」
生「男の先生は、大きい声出したら言うこときくと思てはんねん」
い「あはは!ぴんぽ〜ん(笑)」
生「ほんま、男ってあかんなぁ」
い「ほんまやなぁ。男ってダメよねぇ〜(笑)」
生「ね〜(笑)」

カムアウトをめぐって

いや、結論が出ているわけじゃないんですが、ふと思ったことをメモ程度に。
イジメを受けている在日外国人の子どもに対して、まわりの子どもたちは「クラスできちんと自分の話をした方がいい」「学年で自分の話をした方がいい」というアドバイスを出します。
基本的にはきわめて正しいのですが、でも、どこか心の片隅にしこりが残ります。それは、「そのカムアウトは、はたしてつながるためのカムアウトなのか?」ということです。
外国人であるがゆえのイジメというシチュエーションでは、「わたしの存在を認めろ」という叫びは、生きるための叫びです。そこに暴力性があるように思われても、きっとそれは暴力ではないんだと思います。
そのことと、トランスの「学年カムアウト」「全校カムアウト」の、どこに差があり、どこに同質さがあるんだろう。

まだ整理ができていません。でも、もしかしたら、いずれのカムアウトも、実はスタートでしかなく、「その後」の関係を紡ぐ作業が必要なのかもしれません。そして、トランスのカムアウトの中に、「その後」の作業への比重の軽さ*1を見ているのかもしれません。

*1:早い話が「話をしたらみんな受けとめてくれる」という楽観主義?

カムアウト

今日は、あるトランスの子をめぐって、ここ半年ほどメールのやりとりをしている人と呑み会です。といっても、相手の方は呑まれないんですけどね。
まぁ、はじめのうちはあたりさわりのない話をしていたのですが、だんだん核心に触れていきます。相手の方、かなりいい感性をしておられますねぇ。途中からけっこう言いたい放題です。
「あいつ、脳みそが筋肉でできてるんとちゃう?」
みたいな話がガンガンでます。
まぁ、それはそれとして…。

一番おもしろかったのは、「あるトランスの子」にかかわる話。
どうやらカムアウトをしたかったみたい。でも、その子のカムアウトに対する姿勢が、どうもイマイチ。そのことを見事に突かれます。
「カムアウトしたらみんなが受けいれてくれると思ってるんですよ」
「そらちゃいますよねぇ」
「絶対金八の影響ですよ」
「わはは!」

カムアウトにもいろんなものがあると思います。自分のことを主張し、認めさせるためのカムアウト。自分が自分を認めるためのカムアウト。相手とつながり直すためのカムアウト。他にもいっぱいいっぱいあります。
でもねぇ。使い方を誤ると、カムアウトは相手にとって暴力になりかねない。そのことを自覚しなくちゃならないと思います。いや、それが自覚できていれば暴力にはなりませんね。もしかしたら、暴力的なカムアウトをしたとして、それに気づき、修復する作業をどうするか。そこなんだろうと思うんですよね。

「差別」の対になる言葉

最近、この人*1と、ポツリポツリとメールのやりとりがあります。
なんか、昔の自分が何を言ったかとか、ちょっと恥ずかしかったり、たまには「え〜、そんなこと言ったのかぁ」と過去の自分をひたすら反省したりするわけですが…。でも、かつての自分を振り返る上でも、現在の自分との「違い」を知る上でも、とてもいいやりとりだなぁと感謝しています。

かつて「この人」さん、「学校学ばなければ差別はなくなる。へたに学ぶからまた差別がうまれる」という作文を書いたそうな。それに対して、担任が「こう考えるのはアカン!」と授業で言ったそうな。で、「この人」さん、わたしのところに来て文句を言ったそうな。
そうやなぁ…。たしかに、かつてわたしも「これの作文が差別や!」みたいなこと言って、生徒の反発くらったことありましたよ。まぁその時はそれが正しいと思っていたんだけどね。でも、考える機会を奪っていたんだなぁ。
「この人」さん、わたしの小さなヒントをずっと考え続けて、今でも考え続けてくれているみたい。すごくうれしい。こういう人とのやりとりの中から、わたしも考え続ける機会をもらえます。

最近のやりとりの中で、「打ち明ける」ということ、「打ち明けられる」ということについて考える機会をもらいました。
たしかに「当事者」とされる人は「打ち明ける」側であり、「非当事者」とされる人は「打ち明けられる」側なんですね。そういう意味では、「能動」と「受動」がはっきりしています。で、「打ち明ける」側には、やはり「語り方」を模索しなくちゃならないし、「打ち明けられる」側には「引き受け方」を模索する必要があります。
ただ、ありとあらゆる局面において「当事者」であり続けることは、きっと不可能です。ある局面においては「当事者」であるかもしれないけど、別の局面においては「非当事者」になる。あるいは「被差別者」と「差別者」と言いかえてもいいかもしれません。そうなると、ある一人の人が、時としては「語り方」の模索を必要とし、時としては「引き受け方」の模索を必要とする。結局それは、「つながり方」を模索することに他ならないのかな、と。
でも、差別・被差別の関係に絡め取られてしまって、「語るだけ」「引き受けるだけ」に終始してしまって、「つながること」を放棄してしまうことがよくあるんじゃないだろうか。

まぁ、使い古された言葉ですけどね。

*1:以下、「この人」さん

今頃見た

今日は某研究会の会議で出張。
会議そのものは、それなりに終わって、と。最後に「視聴覚教材の研究」ということで、今回は「たかじんのそこまで言って委員会」を見ることにしました。
まずは、2008年11月16日放映分のもの。う〜ん、イマイチだなぁ。コメンテーターに「元ここの所長」が出てこられたんですが…。まぁ、いろいろ言いにくいんでしょうねぇ。すごくあいまいなビミョーな言い方に終始しておられたのがなんとも…。
にしても、スタジオの皆さん、ほとんどが「江戸幕府が」とか「士農工商」と「その下」とかいう話なんですね。というか、番組の最初にそういう話が出てきているし。あれ、なんとかしないといけない気がしますねぇ。
続いて見たのが、2008年12月28日放映分のもの。「年末SP“村崎太郎”部落差別」というやつですね。
前に読書感想文は書いたけど、実際本人の話を、テレビではあっても、聞くのははじめてです。
全体を通して感じたのは「村崎太郎さん、ええ感じやん!」ということ。やっぱり小説は小説なんですよね。だから、あれは「小説として読む」ことが大切なんですね。実際の村崎さんの話で、すごく「それ!」と思ったのが、「被差別者の心の中にある傷」のありようなんですね。「こんな傷があるんじゃい!」と出すんじゃなくて、これを淡々と語る。その内容に、すごく重なるものを感じたんです。
さらにこの回がよかったのが、朴一さんがいたことね。さすがです。随所に淡々としたネタをふりながらも、きちんとツボを押さえている。当たり前ですけどね。
で、「元所長」なんですけど、さりげなくカムアウトをされました。でも、なんというか、当事者性を極力排除した姿勢。これもまたおもしろいと言えばおもしろい。
で、スタジオの人たちの反応がまた…。
「元所長」に対しては研究者としての質問なんですね。で、これに対しては自分の経験でやりあおうとする。ところが、村崎さんに対しては、「やりあう」という態度はなく、ひたすら話を聞くだけです。これは、朴一三に対しても基本的に一緒。このあたりで「当事者」への態度と、そうではないスタンスの人への態度が見事に二分されるんだなぁと思いました。
で、もう一人の当事者「田嶋陽子さん」なんですが、これがまた当事者扱いされない(笑)。まぁ、田嶋さんの「キャラ」と言えばそれまでなんですが、ジェンダーというヤツがすごくやっかいもの扱いされているということをあらためて感じさせられましたね。
そうそう、カムアウトの話の中で「性同一性障害」という言葉が出てきた時は、ちょっとドキッとしました。なんちゅうか、「いきなりは心臓に悪い」みたいな(笑)。でも、田嶋さんが言っているのは「はるな愛」とか「椿姫彩菜」とかのことだろうなぁ(笑)。