水平社設立の地を訪ねる

今日は日教組の近畿ブロック・中国ブロック・四国ブロックの合同の女性部長会議です。これ、本来は土日の2日間でやります。ただ、そういう形で最後に開催されたのは2019年でした。2020年はどうだったかな。去年は愛媛でしたが、さすがに日帰りで行くのはキツイので、ネットでの参加にしました。で、今年は奈良なので、久々に対面で参加しようかなと。
ということで、橿原神宮前駅に移動。
移動中は、もちろんBOSEで音楽です。が、どうもよろしくない。小さな音が続くところで音がふらつきます。なんでだろう。そのせいで、Brucknerを聞く気が激減します。死活問題です。もしかしたら、もともとのソースのワウフラか?んなことはないな。
とりま、音量をあげてみたらどうなるか実験です。で、音量がマックスになったところで、いきなり「ソース通りの音量」みたいなチェックボタンが出てきました。
もしかしたら、コンプレッサーが聞いてたのかな?そりゃ音がふらつきます。このボタンをチェックしたらふらつきがなくなりました。よかった。
で、橿原神宮前駅に到着。
ここから水平社博物館まではランです。距離は約6.5km。まずは169号線を南下します。これがきつい。なにしろ歩道がありません。一部あったけど、草が刈ってないので、えらいことでした。途中で右に曲がって、ここからは信号もない気持ちのいい道です。ただし、曲がってすぐの登りは「マジか」と思いましたけどね。
少し雨が降ってるけど気持ちいいです。
そんな感じで4kmばっか走ったところで、右足の太ももの裏側が「ピキッ」ってなりました。これは肉離れやな。でも、受付時間があるので歩くわけにはいきません。とりあえずかばいながら走りましょう。
そんな感じで、ラン終了。6分17秒→6分10秒→6分07秒→6分03秒→6分23秒→6分10秒で、合計39分55秒。アベレージは6分11秒でした。いい感じです。ちなみに、みなさんから驚かれたけど、6kmはたいしたことないですよね。
で、岩崎村のフィールドワークです。
まずは西光寺。言うまでもなく、水平社宣言を起草した西光万吉の生家です。太鼓と鐘。


太鼓はどこのだろう。かつて、とある山の中にあるムラの太鼓が渡辺村のであることが判明した時はテンションが上がりました。きっとこれもそんな感じなのかな。いや、もしかしたら奈良でつくっていた可能性もありますね。ちなみに、鐘は「いろいろあった時」に鳴らしていたんだとか。
続いて灯籠。

「米田長一郎」とあります。こんなのを寄進したんだ。そして西光万吉のお墓。

なんでも1970年まで生きておられたんだとか。
お次は「5万日の日延べ」にかかわる石碑です。

しかし、賤民廃止令から5万日たった2008年9月3日に「5万日」を記念して立てられたとのことですが、それから14年たった今もなくなっていないわけで、もうなにがなんだか。
ちなみに、西光寺は現在は階段がありますが、もともとはこのあたりに道があったんだとか。そして、西光寺と道をはさんで向かい側に駒井喜作の家があったんだとか。
ここからは燕神社です。

この前にある広場が「建議の庭」と呼ばれているんだとか。で、案内の方曰く、このムラの源流は、この燕神社のあたりで、なんでも陰陽道をやっていたんだとか。それにしても、社のまわりにある石柱に刻んである名前がおもしろいです。
で、山を下りて、阪本清一郎の膠工場跡へ。現在はここに水平社宣言記念碑があります。

バックは燕神社です。
そして最後に行ったのは神武天皇社。

ここを見下ろす位置にあるのが、やはり燕神社です。
神武天皇とムラというと、はずせないのが洞村でしょうね。あちらは移転があったんだけど、こちらはなかった。そのあたりがおもしろいです。案内の方は
「それがイヤだから、ここが神武天皇のお墓であるといういわれのある紙を燃やしたんじゃないか」
とか言っておられたけど、笑ってしまいました。
ちなみに、燕神社は神武天皇社の鬼門の方向です。陰陽道の話も相まって、実はいろいろあったんじゃないかなぁと想像できますね。
ちなみに、神武天皇社の隣にあるのが誓願寺です。ここの住職だった三浦参玄洞という人は、西光万吉を精神的に支えたり、水平社設立趣意書の印刷を請け負ったり、いろいろ水平社を支援・協力されています。水平社って「当事者運動」だし、当事者vs非当事者みたいな構図で捉えられがちかもしれませんが、実際にはもっともっと豊かな関係の中であったんだろうなと思います。
で、昼ごはん。どんなお弁当かと思ったら、これでした

カスいりのお好みです。うまい。さいぼしもうまい。
午後は浦一志さんの講演です。が、よく聞こえない(笑)。なんでも、学校の文書の中から掖上小学校の合同にかかわるものが出てきて、それを教材化されたんだとか。こういう地域教材は「伝える力」がありますね。
そして水平社博物館の見学です。案内された方は、やたらSDGsを強調されますが、ええやろ(笑)。あと、帝国弘道会を「上から目線」とか大和同志会を「まだまだ不十分」とか言って、それらとの対比で水平社を語られるんだけど、それはイマイチやなと。大和同志会がなければ水平社はなかっただろうし、帝国弘道会がなければ大和同志会はない。歴史の流れの中で価値観の変容もあるだろうし、立場によってできることとできないことがある。そういううねりの中にさまざまな運動や施策があるんだと思うし、そう捉えた方がより豊かなものへの気づきがあると思うんだけどなぁ。
そんなこんなで水平社の話はおしまい。その後、女性部長会議です。
全国の情勢を聞いたり、各府県のとりくみを教えてもらったり。みなさんがんばってはるなぁ。京都も集まらなくちゃね。

で、水平社博物館を後にして、移動開始です。と言っても、近鉄急行一本ですけどね。
で、京都駅でT田さん・Uりんちゃんと合流。お酒を買いに行くと、そこへIちくんから電話。そんなふうにして、R恵さんの家に集合。今日は「気のおけない仲間たち」の飲み会です。なにがなんだかわからないけど、興味の赴くままに話をして、若い衆にウィスキーを買ってきてもらって、飲んで食べて。そうこうするうちに倒れましたとさ。

「遊所」としての祇園・清水の歴史 ー門前町の成立と展開ー

今日は午後から講演&フィールドワークの出張です。ちなみに、講師は下坂守さん、タイトルは「「遊所」としての祇園・清水の歴史 ー門前町の成立と展開ー」です。すでに人権教育研究会の講演かどうかわからないタイトルですが、これもまた人権です。
ちなみに、下坂さんの話は4年前3年前の2回聞いています。それぞれ近接する内容ではありながら、別の話で、メッチャおもしろかったし、いろんなことがストンと落ちた記憶があります。なので、ぜひとも呼びたいと思っていました。ただ「マニアックすぎるかなぁ」と思って伸ばし伸ばしにしていました。が、近年のcovid-19のために遠方へのフィールドワークを自主規制してるので、京都府内で行き先を考えなきゃならなくなって、それなら下坂さんにお願いできるではないかと。てことでお願いしました。
もちろん、みなさんには「マニアックですよ」とは伝えてあります。が、同時に「マニアにはたまらないですよ」とも伝えてあって、さぁどうなるか。
講演開始は13時ですが、会場設定のために12時には行かなきゃなりません。それのさらに事前準備のために、朝イチは家で待機。で、頃合いよしとスタート。会場設営をして、ひと息です。ところが下坂さんが13時直前になっても来られない。もしかしたらと思い、メールの過去ログを見ると、暫定的に13時半と伝えたメールがあるだけで、確定した時間を伝え忘れていたことが判明。アカンやん。それでも13時に来られました。
「すみません、伝え忘れてました」
「いいですよ。そのままはじめましょう」
どんだけものに動じない人やねん。そういや、4年前にも「資料を使ってください」って言われたし、きっとそういう人なんやろなぁ。
てことで、到着されて、すぐに講演開始です。
今回の話は近世における祇園の成立がひとつのテーマです。ここで、近世の祇園近辺の地図や絵図をこれでもかとばかりに何枚も何枚も見せられます。このマニアックさがたまりません。特に今回は「遊所としての祇園」なので、そこで働く女性たち[1]茶立てや遊女や芸妓・舞妓が、幕府と祇園社や建仁寺の利害関係の中でさまざまに翻弄されていく姿を語られます。
それにしても、文書や絵図を見ると、歴史の変遷はわかる。でも、歴史学者って、それがなぜだったのかを考えられるんですね。で、それを裏づけるための資料を探す。そうやって、ひとつひとつの歴史を位置づけていく。
印象的だったのは「これがどこにあったのかはわかっています」「これがいつだったのかはわかっています」という言葉が何度も出てきたことかな。そこまで確定させているってことです。
やがて話は清水の話へ。なんでも清水寺の舞台は3つあったんだとか。でも、現在はふたつしかない。消えたひとつはなぜ消えたのか。これをまた、丹念に絵図と文書から明らかにしていかれます。「執念」という言葉が頭をよぎります。たぶん「知りたい」んだろなぁ。
なんでも清水が焼けて、時宗の僧侶が勧進をして清水寺を再建したんだとか。でも、その僧侶は清水の中に入れてもらえなかった。そこで、清水の隣にお寺を建てて、その横に清水寺を模した小さなお寺をつくった。ところが、時宗の寺が焼けて、それが小さな寺に延焼して、清水の舞台が焼けた。そんな中で、時宗の寺は谷向こうに追いやられ、小さな寺は撤去された。なんか、そんなストーリーでした。
そして最後の最後に「坂」の話。
清水の絵図には清水に参拝する人がたくさん描かれてます。でも、そこに反対方向に行く人が何人かいる。それが「坂者」です。腰になにやら吊り下げてます。「弦(つる)」です。ここから、弦を売るのが生業だったことがわかります。さらに弓矢町の入口にある門の横で物乞いをしてる人がいます。死者の服である白装束や柿色の服を着てることから「癩者」とわかります。したがって、ここが物吉村であることがわかります。そんなことをサササっと、でも濃密に説明されました。
1時間半の濃いぃ講演の後はフィールドワークです。
まずは清水坂を東へ。ここ、尾根道だったんですね。両側を音羽川と轟川が流れてたんだとか。やがて秀吉が新しい五条通りをつくって、そちらにメインストリートは移動して、そのあたりに非人小屋をつくったんだとか。でも、後に再び清水坂も発展する。
その後、東山通りができる前の南北の道へ。この入り口のあたりが鳥辺野で、そのあたりに無縁仏を放り込む穴があったんだとか。で、南北の道にもやっぱり非人小屋をつくる。まぁこのあたりは、もともと田畑しかないところだったわけですからね。
南北の道を抜けると松原通りです。ただ、ふだんのパチモンおさんぽの時はもっと手前で引き返すので、「へー」という感じです。
そして「弓矢町」です。
「坂者」は弦を売るだけじゃなくて、葬送が終わったあと、その道具を奪う権利があったんだとか。このあたりになると、今の価値観からは理解できません。あと、鴨川の河原の耕作もやっていたんだとか。これ、おそらくスキルが必要で、坂者にしかできなかったのかな。だから、坂者はけっこう裕福だったらしいです。さらに同じ非人でも、清水近辺の人たちは外部から流入してきた人であるのに対し、坂者は地の人なので、まったく違うとのことです。ちなみに、弓矢町は祇園社の寺領でも建仁寺の寺領でもない。どうやら、愛宕念仏寺の寺領ということを主張してたとのことです。で、その愛宕念仏寺は坂者が交代で管理してたので、独立した寺領でいられた。さらに坂者は祇園祭のキヨメをやっていて、先頭の人がそれにあたる。さらにその後ろに武者の姿をした人が配置されていて、それも坂者がやっていた。今はその役目はないけど、今も祇園祭の時は弓矢町のあちこちに兜や鎧が出されるんだとか。
そして物吉村(長棟堂)あとです。
物吉村もおもしろい。どうやら物乞いも権利で、都のあちこちに物乞いをするルートがあって、まぁおそらく追い払うためだろうけど、けっこうな金額を集めることができてたらしいです。だから、「死を待つ貧乏な人」という悲惨なイメージとはまったく違ったらしいです。なんなら、癩を患ってなくても癩者になりすまして物吉村にいた人もいたとか。となると「業病」とかいって感染を恐れられてたんじゃないかって話にも疑問がつきますね。逆に言うなら「業病」って概念は、例えば物乞いの権利を剥奪する過程でできた案外新しいものかもしれませんね。知らんけど。
ここから団栗通りのあたりへ。四条通の両側、祇園の門前町は「ちゃんとした」遊所で、多様なニーズに応えられる場所は、もう少し南側。つまりこのあたりだったんだとか。ここで「陰間茶屋」という名前が出てきて震えが走りました。思わず
い「いたんですね」
下「いましたね。たくさん史料が残ってます」
とのこと。
そこから建仁寺の前にある花見小路です。ここが京都で一番新しい「遊所」です。入口にある「一力」は昔からあったんだとか。ちなみにもともとは「一力」ではなく「万」で、「よろずや」だったらしいです。
ただ、花見小路はもともとはここから南しかなくて、北へ向かう道がなかった。つまり、「おたふく」前の道はなかったってことです。北へ向かう道は「切通し」だったんだとか。で、「切通し」に来た時、思わず「ここかぁ!」と叫ぶなど。おさんぽコースです。
最後は、大和大路の入口で説明されます。一銭洋食の店の人が不思議そうな顔をされてます。
「ここが大和大路で、あそこが目やり地蔵。あっちが南座です。かつて鴨川の堤防はこの大和大路だったので、南座は河原にあった」
とされたあと
「京都はいろいろなものが残っていて、地図や絵図と今を比較するといろんなことがわかります。ただ、今の人は、そういうことに興味がなくなってきてるように思います。たいへん残念です。なので、もっと研究が進むことを願っています」
でフィールドワーク終了。タイムオーバーで余部まで行くことはできませんでしたが、ほんとうにメッチャおもしろかった。
実は下坂さんの説明で五条・四条をまわるのは夢でした。やっと実現したなぁ。

その後、夜の仕事へ。今日から模擬授業がはじまります。学生さん、うまいなぁ。きっとプレゼンの場をかなりこなしてるのかな。
まぁわたしが言えるのは「何を」ではなく「いかに」です。なので、そんなコメントを少ししておしまい。
長い長い1日が終わりました。
今日のビールはうまいだろうな。

footnotes

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1 茶立てや遊女や芸妓・舞妓

フィールドワークとライブと焼肉と

この間、阿K◯さんから「23日、あいてる?焼肉するよ」というメールがありました。どういうわけか、今日はあいてました。てことで、昼前に新快速の中で待ち合わせ。近況報告をしながら向かったのはこの映画の主人公さんのおうちです。
到着したのは1時過ぎ。まずはごあいさつ。とは言え、わたしは初対面です。ちょっとドキドキしていましたが、北出さんは意に介することもなく、ものすごくフレンドリーな感じで接してくださいました。なんか、家の敷地内に工房があるみたいで、中に入ると大きな太鼓があります。

そうか、太鼓の工房でしたか。なーんにも知らないので、とても新鮮です。それにしても、工房の主である北出弟さんの太鼓にかける情熱と知識はすごいです。話の中に柏葉さんが出てこられて、あぁ皮つながりだなぁと。てか、北出弟さん、江戸時代の年号とかをガンガン西暦に変換していかれます。どんだけ知識があるねんと。歴史がさっぱりわからないわたしは、ひたすら聞くばかりです。
やがてフィールドワークです。北出さん、むちゃくちゃ詳しいです。
まずは北出精肉店の敷地の説明からです。今は家もお店も新しくなっていますが、もともとは牛小屋だったんだとか。てことは、ここから屠場まで牛を曳いていかれたってことですね。
続いて保育園の話。もともとは地域の人々が「民」の力で運営していたけど、法律ができて「公営」になります。が、やがて法切れの中で、再び「民営」にもどされたんだとか。実は多くのムラでは法切れの後も行政に「保障」をさせてきました。もちろん、その選択肢は「公にする」という意味で、とても大切です。が、「自分たちの力で」という選択肢もある。そちらを選択することで「自由」が手に入ります。もちろんたいへんですけどね。
そして、屠場跡。

獣魂碑です。
なんでも1910年から2012年まで、100年間、ここで牛を割ってこられたんだとか。まぁ、1910年と言われると、まず「韓国併合」が出てくるのは、わたしのパターンではありますが。ここで屠場の話だけじゃなくて、このあたりのムラの歴史についての話があったり。
このあたり、岸和田城からすぐのところにあります。が、お城からのさまざまな文書は直接ここに来ずに、隣村に行ったんだとか。そこからこことか、隣の市にあるムラに文書が渡ったんだとか。畏怖と排除の微妙な関係を、なんとなく感じますね。
お次は、在日コリアンの集住地域。ここでふと疑問がわきました。
い「あれ?在日の人って施策の対象にならなかったんですか?」
北「ならなかった」
い「えー、たしか、大阪って属地でやってるから、ムラ中に住んでる在日も施策の対象になるんじゃないんですか?」
北「ここ、地区外やねん」
なるほど。道一本隔てて地区外か。なんか、八条通の光景を思い出します。が、ここの格差はもっとすごいです。なんでも、日東紡の建築とか潜水艦づくりとかでこのあたりに住むことになったんだとか。それにしても、10数戸の小さな集住地域ですが、完全に朝鮮人の空間です。例えば、今は崩壊しちゃってますが、豚小屋があります。

そして畑があります。マッコリをつくるマダンもあります。おそらく1950年代~1960年代はエネルギーがあふれる地域だったんだろうなぁ。
で、集住地域を後にして、ムラの中心街へ。道が広いです。施策で広げたのかと思ったら、空襲で150軒ぐらい焼けたからなんだとか。なんと。その横にある住宅、1990年代に建て替えたときに地盤調査したら、大量の動物の骨が出てきたんだとか。さらに年代を調べると1400年代だったそうです。ということは、その頃からここで生き物をさばいていたってことですね。
そんな感じで、2時間弱のフィールドワークも終了。
続いて、炭をいこします。久しぶりにうちわを使っていこしました。最近は着火剤を使ってほったらかしですからね。でも、うまくいこったのでよかった。
炭火が安定するまではヤスムロコウイチさんのライブです。

声がいい。ハスキーボイスがブルースっぽいです。そして、ひとりで自分にツッコミを入れながら歌われるのは、明らかに関西です。A◯澤さんも、今回の仕掛け人のK崎さんも、ヤスムロさんの大ファンです。歌に集中しておられますが、わたしはなんとなくK本さん@青空財団とネギをアテにビールを飲みながら、しょーもない話。小一時間のライブの最後は警察官の乱入です。どうやらエレキの音が大きすぎたらしいです。カメラを向けたら制止されてしまいました。残念。
そして、お待ちかねの焼肉です。うまい。あまりにもうまい。柔らかくてジューシーです。と、すごい肉が!

ミスジだそうです。これはあきません。大切に育てましょう。レアでひとくち、ミディアムでひとくち。たれをつけてひとくち。幸せです。
あとは、ひたすら飲むだけです。いったい何の話をしていたか忘れるほどしょーもない話をしていたんでしょうね。ただ、気がつくと8時10分。やばい、24分の電車に乗らないと帰るのがめっちゃ遅くなります。N山さん@府立人研が駅まで送ってくださって、間一髪セーフ。あぁ、楽しい一日でした。
ヤバイ、明日は健康診断だ^^;;。

岩倉精神医療散歩

今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。このご時世なので、遠出はできず、できれば京都でということなので、どこに行こうかと。ウトロは来年度祈念資料館ができるから、その時ですね。朝鮮初級学校に行くのもいいかなとも思いましたが、前に中高級学校に行ったことがありますからね。思いっきりマニアックなところで「弓矢町フィールドワーク」というのもありますが、やはり心が惹かれるのが「岩倉」ですね。
発端は5年前の「洛北岩倉と精神医療」です。とにかくメチャクチャおもしろい講演でした。この講演を現地を歩きながら聞けたらすごいだろうなと。そしてもうひとつ、たぶん誰も知らない話でもあるだろうなと。
てことで、叡電岩倉駅に集合です。雨が降ってます。が、中村さん、歩く気でおられます。まずは駅の屋根の下で概論を話されます。そうこうするうちに雨もやんできたので出発。十王堂橋がスタート地点です。ちなみに、かつてはここが岩倉の入り口でした。そこから岩倉川に沿って「八丁街道」を北上していきます。
が、中村さん、あちらこちらと寄り道をされます。それをたしなめる「助手」の娘さん。おもしろいコンビです。ちなみにこのあたりは「高貴なお方」が里子にいたところなんだとか。
ひょいと駐車場の横にある小道で立ち止まって説明されたのが、「不審火」の現場です。フェンスのところに埋まってる踏み石がその名残なんだとか。おもしろい。
で、またまた狭い小道を縫いながら歩いて、石座神社へ。さらに北上してちょこちょこ歩くと、旧岩倉病院近くへ。現在は岩倉団地になってます。その手前に保養所がいくつかあります。ただ、今は「フツーの人」が住んでおられるので、あまり大きな声で案内ができないんだとか。なので、手前のところで解説されたあと、家を指さして、そのまま通過。
そうそう。このあたりに保養所で働いていた人の宿舎跡があります。ここ、実はランニングのコースで「この家、なんなんだろう」と思っていたところでした。疑問が解けますねぇ。
で、京都癲狂院跡へ。この公園がそうだったんだ。ちなみに毎年お正月に来ているところがそうだったんだ。そして奥にある「井戸」と「滝」の見学です。が、ここも病院の土地なので指さしだけ。
そんなこんなでフィールドワークが終わったのですが、3時間近くウロウロして、その間ずっとカメラをまわしてたので、さすがに疲れました。
とにかく帰ろう。
帰ったら、恒例のzoom会議。疲れた…。

島根のおさんぽ

朝、目が覚めると8時前。よく寝ました。が、8時半からzoomのテスト接続を頼まれてるので急がなきゃ。
リモートの普及具合って、地域差がすごいです。大阪はやはり進んでます。そりゃそうです。リモートやらなきゃならない事態が1年以上続いてますからね。それに対して、最近「やばい!」ってなったところはまだまだ普及していません。なので、お座敷が中止になったり、リモートになってもパタパタしたりします。
あと、いろいろバラバラなのもよくないですね。zoom・webex・teamsですか。学校現場はteamsが多い印象があります。たぶん安い。でも、あまり信用ならんかなぁ。やはりzoomがいい気がします。まぁ、他のはあまり使ってないからわかりませんがね。
てことで、8時半から短時間接続して「当日よろしくおねがいします」で終了。
で、太田明夫さんと合流。今日は島根中部のおさんぽです。
島根県のムラは少数点在型と言われます。そう言えば、かつて人権学習でつかっていた「ドキュメント99『架からぬ橋』~部落差別は今~」にも、山陰本線で隔絶された場所に一軒しかない家が出てきました。てことは、生業は皮革関係ではないんでしょうね。あと、運動団体も自民党系が強いとのこと。まぁただ、だからといって運動そのものが自民党ベッタリかというと、そういうものではないです。それは、立憲民主党系の運動団体が立憲民主党ベッタリかというと違うのと同じです。もうひとつのところはおいといて(笑)。
で、何が言いたいかというと、関西とはまったく違うということです。なので、とても興味があります。
ちなみに太田さん、ハンセン病の国賠訴訟にかかわっておられますが、それ以外にも部落差別の学習会を開催したり、在住外国人の識字教室をやったり、とにかくいろんなことをされています。そして、それぞれに詳しい。
てことで、まずはムラめぐり。島根の賤民はもともと警護役を担っていたとのことです。いわゆる鉢屋というのですね。そういや「忍たま乱太郎」にも鉢屋が出てきます。ただ、なかなか詳しいことはわかっていないとのことです。検索するとこんなのがありますね。
ちなみに、事業を受けているとのことですが、いわゆる改良住宅がなくて、関西とはまったく風景が違います。てか、道が狭いし。
そんなこんなで、あちこち行って、ここからは石見銀山がらみのおさんぽです。
鞆の浦。

鞆の浦といえば岡山にもありますね。朝鮮通信使で有名かな。こちらは石見銀山にいろんな物資を持っていくための荷揚げの港だったんだとか。それにしても、浜が切れてトンネルを出たところにこんなものがあるとは。
ここからいよいよ石見銀山です。が、銀山そのものにはあまり興味を示さないわたし。それでもとりあえず模型だけは確認しましょう。

なるほど。こうなってるのね。
てことで、少しさんぽ。あり?あれはなんなんだ?

太田さんもわからないとのことでした。坑道の入口なのか、はたまたなにかを祀ってあるのか。両方ともありえるからなぁ。
で、大森小学校まで歩いてみました。なんか、いいなぁ。


ここから三瓶の方に向かいます。途中「女性差別」のスポットへ。なんでもトンネル工事のときに近くの中学生が見学に行ったんだけど、女の子は立入禁止と言われたらしいです。なるほどね。鉱山も同じことでしょうね。
こちらは、途中で立ち寄ったお墓。

なんでも「合祀」してあるんだとか。もちろん無縁仏もあるんだけど、実は差別戒名も含まれてるらしいです。
ここで大田市を離脱して、出雲市へ。隣保館に寄ったら、昨日のお座敷に参加されてたとのことで、メッチャ驚かれました。いや、出雲から大田まで来られたって、こちらがビックリしますよ。ここで「きつね持ち」の話が出てきたり。そういや、どこかで聞いたことがあるな。で、しばし昨日のことにまつわって話をして、隣保館をおいとま。
昼ごはんは、せっかくなのでおそばが食べたいなと。ただ、時間が時間なのでほとんどあいてなくて、最後にたどりついたのは「かねや」です。

かまあげそば。
あったかいおそばが染み渡ります。おいしいわ。

割子そば。
うまい!このそば粉感がいいですね。何もつけなくてもおいしい。
最後にそば湯を頼んだけど、これもつゆを入れなくてもおいしい。壁に瀬古とか大迫とか大瀧秀治のサインがありました。
で、駅まで送ってもらってお土産買って、おさんぽ終了です。太田さん、ほんとにありがとうございました。
あとは「やくも」→「みずほ」→「ひかり」で帰ってきました。さすがに疲れたな。でも、充実したおさんぽでした。
まぁここには書ききれないこともいっぱいあるわけですが、それもまた島根。

アウティングとかリベンジとか

朝、職場に行くと、被曝日であることが判明。めんどくさいな。てか、13時って出張に出るつもりだった時間やん。ヤバイな。
とりま、今日行くつもりの朝田善之助記念館に電話。
「あの、この間そちらに電話したのですが、今日、理事の方が来られると聞いたのでうかがいたいのですが」
すると返事は
「まだ理事の方が来られてないので、のちほど電話させていただきます」
とのこと。とりま授業に行って帰ってきたところに電話です。
「はじめまして。いつきと申します」
と、返事は
「理事の竹口です」
竹口さん!」
一気に緊張感がほどけました。
「あの、今日、行きたいんですけど」「おいでおいで」
ということで、残りの授業をこなして行くことになりました。なにせ、午後の授業を午前に振り替えたので、ここでダメだったらややこしいです。

で、出発前に被曝です。
受付に行くと、すでにひとりおられます。ウダウダ話をしながら待っていて、やがて受付開始。前の人を見ると、受付票の性別欄に○をされてません。と、受付の人、「○してください」とか言ってます。めんどくさいな。この歳でこういうめんどくささかよ。まぁでも、このめんどくささは、書類上の税別表記が変わっても変わらんだろうな(笑)。
で、わたしの番。
「えーと、ここに○を」
めんどくささがマックスになったところで
「あぁ」
と言われて、○が免除になりました。おかしいな。
で、受付名簿を見ると、わたしの名前の横に鉛筆でチェックがしてあります。なるほど、配慮対象なのね。でも、これはアウティングだな。で、性別欄が無印の受付票は放射線技師のところにも行くので、これまたバレるわけだな。
別の意味でめんどくささがマックスです。
てか、そもそもこの性別欄はいるのか?最近、メッチャ多いんですよね。だって、性別によって肺の数が違うとかないですやん。ちなみに、被曝前の着替えのために必要とかいうことがあったとしたら、互いが互いの性別を「知ってる」職場においては、それぞれが判断するから必要ないんですよね。
まぁ急ぐからこれは保留にして、出張です。

てことで、朝田善之助記念館に到着。せっかくなので記念写真です。

で、竹口さんと久しぶりにご対面。
前に講演を聞いたけど、あの内容は、竹口さんの膨大な知識や経験のほんの一端ってことがよくわかりました。ちなみに今回は研修会の講師のことで相談に行ったのですが、考えてみると、講演する人のところに相談に行くってすごく失礼です。でも、そんなことはおかまいなしです。
そういう人柄もさることながら、ほんとにすごいですね。理論はもちろんのこと、経験もすごい。その両者があることが、それぞれをパワーアップさせてます。
とにかくいろんな人のことを教えてもらって、すごい収穫がありました。
ついでに記念館の中を案内してもらいました。たぶん非公開の資料室なんかも見せてもらって、最後に再現された朝田善之助の部屋の前でしばし話。
「この風景、懐かしいですか?」
「そりゃ懐かしいよ!」
なんでも、オルグとか街宣とかやったら、みんなここに集まって勉強したんだとか。まさに「朝田学校」というヤツですね。
さまざまな評価はあるにせよ、とにかく知らなきゃならんなということをヒシヒシと感じたひとときでした。
最後に連絡先を交換。
「また「出てこいや」って誘ってくださいよ」
「そやな」
ということで、おいとま。
今日来てよかったな。

あっちに座りたかった

今日は午前は歯医者の日です。こないだ詰物がとれて、やっとです。
とれた詰物を歯医者さんに渡したんだけど
「あれ?おかしいな。どう見てもこうだよな」
ってやってはります。つまりうまく入らないと。
「虫歯もあるし、つくりなおしますね」
ということで、速やかに麻酔を打たれます。うまいわ。はじめにチクリとしただけです。でも、身体に力が入るのは条件反射ですね。
あとは削りまくって型をとって仮詰めして終了。来週もっかい来たらいいってことかな。

ここから移動開始です。目指すは京都府最南端の町。今日はここのガッコで某人権教育研究会の会議です。ただ、楽しみなのは、会議の途中でDARCの見学があることです。
てことで、30分ほど会議をやって、山の下にある木津川ダルクへ。何回か前を通ったことはあるけど、中に入るのはもちろんはじめてです。
中に入って、スタッフの方に
「あの、この間龍谷大学でえんたくに…」
と自己紹介したら
「あー」
とわかってもらえたのはうれしかったです。
部屋に入ると、参加者の皆さんがミーティングをすべく待ってくださっていました。
わたしたちは机から少し離れたところにあるソファで見学です。
やがてミーティングがはじまりました。まずはダルクのパンフレットみたいなのの読みあわせ。そして12ステップです。
そこからひとりひとりが語りはじめられます。まずは
「〇〇」
とアノニマスネームを言うと
「〇〇!」
と返されるのを見て、『アル中病棟』で見たこと、ほんとにやってるんだと再認識したり。
なんか、依存系の人の話を聞いていつも思うのは「さびしい人生でした」って、みなさん口をそろえて言われるんですよね。加藤さんも言っておられたな。
これ、逆に言うと、ダルクと出会って「さびしい人生から脱出した」ってことになるのかな。仲間と出会うって、そういうことなのかな。薬物をやることを通して人とのつながりがどこかで切れる。依存症の回復って、そういうつながりの回復でもあるんだろうな。そしてそれは、たぶん依存症の人だけじゃなくて、例えばトランスの子どもたちや在日外国人の子どもたちも同じなんだろな。もちろん違うところもいっぱいあるんだろうけどね。でも、例えばとーますの話とか読むと、やはり、つながりの回復なんだなって気がします。
ミーティングのあとは質問タイム。わたしもマーシーのことを聞いてみたり。そうか、マーシー、捕まる直前は日本ダルクに行かなくなってたんだ。しんどいな。
壁に貼ってある紙を、許可をとってパチリ。

拡大!

こちらも!

なんか、ココルームの天井を思い出しました。

帰る前に
「みなさんの話を聞きながら、実はわたしもこっちに座りたいなと思ってました」
とか言ってみたり。もちろん「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではなく「ツッコミあり」ではあるけど、わたしが日常的にやってることでもあるし、依存症の回復者の友だちもいるしね。

てことで、木津川ダルクをおいとまして、学校に帰って会議再開。まずは感想の交流です。みなさん、「行ってよかった」と言っておられました。そうなんですよね。会わなきゃわからない。なんでも、木津川ダルクができた時に、学校の中に「心配」する声があったんだとか。たしかに幻聴さんとともに生きてる人もいるかもしれない。でも、そういう人がいないことになってるこの社会で、幻聴さんとともに生きる人と日常生活で出会えるこの学校の子らは、幸せなんですよ。
そんなことを話して、あとは会議をさっくりやって、5時前に終了。

ここからまたまた移動開始です。向かうは大阪駅。ここでKうさんと合流して燃料補給。

と、Hりさんも来られたり。
そんなこんなで、恒例の会議です。今日はけっこうあっさりめに終わって、恒例の飲み会。こちらもわたしはさっくりあがりましょう。
それでも帰ると0時前。さぁおべんと詰めて、さっさと寝なくちゃ。

サルベージしたら見つけた

今日のフィールドワークに触発されて、昔のフィールドワークの資料を探してみるなど。すると、ありました!
遠足のしおり
さらにこんなことも書いてたんだな。
学級通信第6号」は「震災の爪痕(その1)」です。ちなみに「その2」は出ませんでした。
学級通信第7号」は遠足前の注意事項。なにやってるんだ?この教員www。
学級通信第10号」は振り返り(その1)です。
学級通信第11号」は振り返り(その2)です。
それにしても、暑苦しい。そしてなによりすごいのは、この暑苦しい教員につきあってた子どもたちです。
まぁ、そんな感じですね。

今年は長田

今日~明日、日教組の近畿・中国・四国ブロックの女性部長会議があります。ちなみに、去年は「山登りの翌日」に山口に行き、おととしは京都で迎え撃ち、その前の年は小豆島に行きました。
この女性部長会議は必ずフィールドワークがセットであります。今年は鷹取に行くんだとか。ここ、かつてきたことがあります。サルベージした資料によると、1996年5月2日に来ていたみたいです。
てことで、とりあえず元町に行って昼ごはん。

八宝菜、とろみがないけどうまい!

で、集合場所へ。ところが1時間早く着いてしまいました。まぁええか。ゲンコでもやっつけましょう。
やがて集合時間が来たので受付をすませて、そこから鷹取へ移動開始です。降り立った鷹取駅、なんとなく25年ほど前に来た時の感じが残っています。なんでも、このあたり、全焼区域と全壊区域がテレコになっているみたいです。そんななか、ところどころに昔のままの建物があったりします。
これは、当時ボランティアの人が地元の人を元気づけようと書いたペイント。

このレンガはお墓の塀ですが、昔のものと新しいものが混在しています。

大国公園。

そう言えば、遠足の時ペーパードームに行くのを希望しなかった子らに「ここで遊んどけ」とか言ったよなぁ。ここに震災当時の電灯が残っています。

旧鷹取商店街。今はまったく変わっています。

そして、鷹取教会へ。あれ?礼拝堂、こんな感じだったけ…。

でも、やはり紙の芯を使って建物が建っています。

チョゴリを着たマリア像。

ベトナムの服を着たマリア像。

和服のマリア像。

あ!昔のペーパードームの写真が!これですこれです。

奇跡のキリスト像。

焼け残ったのが奇跡なわけではなく、ここに「人のつながり」ができたことが奇跡なんだとか。

あと、FMYYの中を見学して、金秋子さんの話がはじまります。
とにかくメッチャたくさんのことをしておられます。でも、元はというと、「ボー」とした大学生だったんだとか。それが、地域に住むさまざまな人と震災を通して出会って、そこから今の活動に入ってこられたんだとか。その経験から出てくる言葉はおもしろいです。
例えば、長田は元々ケミカルシューズをつくっていた街ですが、町全体がひとつの工場のようだったんだとか。なるほどな。そうやることによって、街の中をお金がまわる。すると、町全体が豊かになる。すると、街の中に人々が行き交うようになる。
あと、印象的だったのが、最初に話された「街の中にある多文化を発信する」ということかな。つまり、外から持ってくるんじゃなくて、もともとある声を発信する。そうなんですよね。それは学校も同じです。
とにかく、あまりにも盛りだくさんなので、覚えきれません。そうそう、「1.17KOBEに灯りをinながた-今、伝えたいこと-」は見なくちゃ。
そんな感じで話を聞き終えて、外に出るとすでに暗いです。なんでも予定よりも1時間くらいたくさん話してもらえたんだとか。でも、このあとのフィールドワークがキャンセルになってしまいました。
阪神高速。

なるほど、これはコケるわな。
そして、鉄人28号。

「よっるーのまっちーにがおー♪」
ということで、今年のフィールドワークはおしまいです。

消えゆく街

朝起きると8時前。よしよし。睡眠時間は7時間。もっとも、どうやら2階に上がって横になった瞬間に倒れたようで、4時に目が覚めたら電気がつきっぱなし、6時に目が覚めたらスマホの充電してなかった。そんな感じだったので、細切れの7時間ではありますが…。
朝ごはんは、もずくのスープと小さなチーズトースト。ひとつはゴーヤとじゃこ。もうひとつはニガナとじゃこ。おいしい…。
しばしゆんたくして、2階に上がってブログの更新でもしましょうか。
その後、いつも行く「大城ストアー」に行って、いつも買うスーチカをゲット。ついでに、「ゆしどうふ、送れますか?」と聞くと「送れるんじゃないかなぁ」ということだったので、ゲット。さらに、卵ポークもゲット。いい買い物ができました。
帰り道、ふと思いついて、あたりをグルグル。
実は、今回来て一番おどろいたのは、ブルドーザーが入って建物の取り壊しがはじまっていたことでした。なんでも、立ち退きが決まって、ここに公共施設ができるんだとか。まぁ、もちろん時代の流れもあるし、今住んでる人たちの気持ちやニーズもあるだろうし、しかたないっちゃしかたないんですが、やはりショックです。というか、「なくしてええんか?」「なかったことにするのか?」って気持ちも湧いてきます。
「あと2回来たい」と思った「ryuukyu.com」もなくなるんですね。そう思うと、つい写真を撮りたくなるってものです。

PIN UP」もなくなるんですね。なので、やっぱり写真。

タクシー屋さんもなくなるんだろうなぁ。

そして、この街並みも。

かつてここに人が座ってたのかな。

組合の証。

講習ってあったんだ。

きっと来年来た時は、この街並みはないんだろうな…。

そんなことを思いながら野入さんのお家に帰って、しばらくしたらYーいちが来ました。
途中、「平敷兼七ギャラリー」に寄りました。ここなら「あの街並み」を見ることができます。Yーいちにもそのことを伝えたいな。と思ったんだけど、去年来たことを話したら、なぜか盛り上がって、記念写真をとってもらいました^^;。
そして、那覇の食堂へ。「フーチャンプルー」をふたりでわけわけ。

そして那覇空港へ。
さてと。しばしのお別れですね。