寝不足はあかん

昨日はかなり調子に乗って飲んでしまったようです。おかげさまで、朝起きるとき、かなり気合いがいりました。それでもなんとか起きて、いつも通りの時間に出勤。それにしても、行きの電車で寝てしまって、危うく乗り越しそうになったのははじめてです。
それでもなんとか授業はこなせるものです。いや、うちの子ら優しいから、こちらの体調が悪い時はちゃんとおとなしくしてくれるんです。いっそ、いつも寝不足のほうが、子どもらの授業態度がいいかも(笑)
そんなこんなで夕方からは「おべんきょ」です。今日は静かな読書会。本と先生の解説を通して静かな思索にふけったり、それを互いに交換しあったり…。のはずが、思わず「こくり」。
あかん、寝そうや!
とにかく最後までがんばって、今日はさっさと帰って寝ることにしよう。

突然つながる

今日のおべんきょは、デューイ。今は、ギリシャ哲学へのデューイの考え方について本を読み進んでいます。
ギリシャ哲学においては、世界はすべて秩序だって完全であることをめざしていた、と。ふむふむ。まぁ、調和ですね。
「でも」
と、ふと思い質問。
「もしも、秩序にあてはまらない存在が出てきたら、どうしたんですか?」
で、答え。
「排除しました。ひとつの方法は「殺す」でしたが、もうひとつの方法は「聖なるもの」としての排除でした」
はー!なるほど!聖と賤ですな。てか、賤民の成立を彷彿とさせます。いや、「秩序だった世界」って、江戸時代の身分制「分をわきまえる」とすごく似てないか?
そう考えた時、ギリシャ哲学の世界観が、かなりピンときたりしました。
まぁ、邪道かもしれませんがね。

みんながマジメなのか、わたしがエエカゲンなのか

今日のおべんきょはディスカッションです。お題は「驚いて絶句するような問を出された時、どう対応するか」みたいな。
若い人たちの意見を聞いていると、みんな一生懸命「答えよう」としておられます。んー、マジメやなぁ。
わたしの感覚とはずいぶんズレがあります。
驚いたなら
「驚いた」
と言えばいい。なぜそう考えたのか知りたければ
「教えて」
と言えばいい。
どうせ答なんてないし、あるいは幾通りもあるし。大切なのは、そこへいたるプロセスかなぁ。
引用されている文章には「答えられない問には答えなくていい」とありました。これ、ある若い人はそのまま
「答えなくていいんですねぇ」
と言っておられましたが、たぶんこれ、「問い返せばいい」なんじゃないかなぁ。わからんけど。
基本、わたしは子どもたちの問に対する答は「煙に巻く」が身上なんです。
なんしか、みなさんのマジメさを目のあたりにして、あらためて自分のエエカゲンさを知った次第です。でも、こんなのがひとりくらいいてもいいでしょう。

驚きからのはじまり

今日のおべんきょは、結論から言ってしまうと、「驚き→疑問(問い)→哲学(学び)」という流れをどうつくるかみたいな。特に、「問い→学び」のところに断絶がある。
もちろん、ノウハウの伝達の場ではないので、それをどうするかについてはここにまかされるんですが、ひとつの提言は「what」ではなく「how」で問うてみたら?ってことでした。その真意は、「what」は「答え」を要求するけど、「how」はそうではないということでした。
んー。
日常の仕事にひきつけて考えると、たぶんそういうことを試行錯誤しながらもやってはいるつもり。でも、なかなかできていない。
子どもたちは、「問い」を欲しているのではなく「答え」を欲している。あるいは、「学び」とは「how」ではなく「how to」であると思っている。
わかりやすさから、少しずつ「わかりにくさ」に移行させていくことも大切なのかもしれない。もちろん、意図的に。

うれしさがあふれてる?

たぶん、環境の変化がある時って、そしてそれが自分にとって「プラスである」とかんじる時、ものすごい高揚感があるんでしょうね。それこそ、
「自分は万能!」
くらいのものすらあるのかもしれません。
でも、それをあとから振り返った時、そこからボタンの掛け違えがすでにはじまっていたみたいな評価もまたあるのかもしれません。
いや、単に18世紀から19世紀にかけての話なんですが…。
でも、どうボタンをかけても、どこかで掛け違えはあるのかもしれない。あとの評価を気にしてボタンをかけることは、結局、ボタンをかけられなくなるようになることにつながるのかもしれませんねぇ。
まぁ、本論とは違う雑感でした。

おだやかな時間

この間グダグダやったけど、とりあえず今日もおべんきょ。
教室に入っていつものメンバーと会うと、不思議とおだやかな気持ちになりました。たぶん、職場とは全然ちがう空気なんですよね。
で、読書会に没頭。
時間はおだやかに過ぎていきました。

サンタ問題へのプラグマティズムからの解法

いろんな文章を読んでいると、たまに
「それはあまりにもプラグマティックじゃないか」
みたいな批判めいたことが書いてあることがあります。でも、プラグマティズムについてきちんと勉強していなくて、いままで
「んー、わからん(笑)」
と読み飛ばしていました。
それが、ここにきて、いきなり月曜日も木曜日もプラグマティズムで、まぁ、ちょうどいい機会だなと。
にしても「教えてもらう」って、楽ですねぇ。言葉がシャワーのように降ってきて、それをできるだけこぼさないように受けとめるだけで「知」が手に入る。
今日もまさにそんな感じでした。やめられんな、こりゃ(笑)。
で、1時間ちょいの話を聞いて感じたことは、
プラグマティズムって、ご都合主義じゃん(笑)」
ってこと。と、同時に
「あたしゃ、プラグマティックなやり方してるなぁ」
ってこと。考えてみると、いつも「理想的な解」ではなく「現実的な解」を求めているし、石橋はとりあえず渡ってみないとわからへんと考えているし。いつも
「なんでこんなやり方してるんやろ」
と、いつも考えていたんですが、
「これが、あの昔批判的に書かれていたプラグマティック*1ってやつか!」
とわかった瞬間、すごくクリアになりました。
でも、たぶんわたしはこんなやり方を続けるんでしょうね。なぜなら、今、現実に生きているやところからしか、わたしは出発できないからです。

*1:「「チック」じゃない、「ティック」だ」っつっても、わけわからんわな(笑)

文章を書くということ

いままで自分が書き散らかしてきた文章って、どれくらいあるだろうと、ふと考えることがあります。
まぁ、子どもの頃の作文はともかく、高校の頃に行っていた塾では任意で論文添削なんていうのがあって、そこにしょーもない文章を書いて出していました。それでも、塾の人はガチで添削してくださってたみたいで、今思うとすまなかったなぁと。
大学の頃は、クリスマス礼拝をやる時に「趣旨文」みたいなのを書いたり、頼まれた文章に好きなことを書いたりしていました。この間、本棚を整理していたら、そんなもののうちのひとつが出てきて、読んだ瞬間「キャッ」っと言って、布団をかぶりたくなりました。
教員になってからは、どちらかと言うと、実践報告がメインでした。はじめのうちは好きなことを書いていたけど、全国の研究集会に出さなきゃならなくなった頃から、あきらかに文章が変わりはじめました。まぁ、トレーニングをうけたってこともありますね。最近はそんなレポートを書くことが減って、今度はオファーがあって書くことが増えてきています。

なんか、そんな文章遍歴を見ていると、自分が書きたいものから、少しずつ「読み手」を意識しはじめて、さらに「読まれること」を前提にするようになって、いまや「読まれるための文章」に変わっていってるなぁと思うのです。

で、今日、「おべんきょ」のあと、「おべんきょ仲間」で呑もうと思ったら、きょうの「おべんきょ先生」も混じって下さって、なんかいろいろ話をしました。すると、先生、なんの話からか
「M論文は、読み手のことを考えず、評価を考えず、とにかく自分が納得することを書かなきゃダメ!そうでないと、自分の軸がぶれてしまう。すると、その先論文が書けなくなる。M論文は、人の評価を気にせずに、本当に書きたいことを書く経験をするためにあるの!」
と力説されました。
いや、身のすくむ思いがしました。果たして自分にそんな文章が書けるだろうか。それ以上に、今の自分に本当に書きたいことがあるんだろうか。
まぁ、でも、今って、それを自分の中から見つけ出し、熟成させるまたとない時間なんでしょうね。

「サンタさんはいるんですか?」

今日の「おべんきょ」はディスカッション。
でも、その前に、ちょいとEせんせのところに顔を出しました。なんか、パソコンをゴソゴソしておられるので
「なにやってんですか?」
とたずねると、
「スキャナがつながらない」
とのこと。ふむ…。認識してるな。メッセージを読むと、なになに「本体のモードがちがう」って書いてある。本体見たら、モード切り替えがあって、切り替えたらすぐ動きました(笑)。
人の役に立つってうれしいなぁ(^O^)

で、ディスカッション。もちもん元ネタはこれです。で、「あなたならどう答えるか?」。
わたしのグループは3人だったんですが、
「でも、サンタはいない。やはり真理を伝えないといけない」
という意見もあったり。わたしは…。
「別に正しいことを教えなくてもいいんじゃないですかぁ」
みたいな、反論というよりボヤキ。さらに
「サンタさんはいるよ。12月25日の朝、いまでもわたしの枕元にプレゼントあるもん」
と、爆弾発言。するとふたりから
「いつきさんの家、メルヘン〜」
と、喝采を浴びてしまいました。たしかにメルヘンやわ(笑)。

でも、こういう「問い」に対して、真剣にどう答えるか論議するっておもしろいですね。
で、来週はプラグマティズムの立場からこの問いを分析するとか。デューイキタ━(゚∀゚)━!
本、読も(笑)。

「問い」の構造分析

今日のおべんきょのネタはハイデッガー。にしても、「ハイデッガー」と聞くと「どんなバスや?」と思ってしまうわたしは、根本的にダメですね。

で、話の方はタイトルにもあるように、「問い」の構造分析をされたのですが、すごいおもしろかった。
話の中身そのものは、考えようによっては言葉は難しいけど、日々の教室でのやりとりを考えるとなんとなくわかる感じなんですよね。
例えば、ひとつの問題を生徒に提示するとき、表面上は「個別の問題」を問うているわけなんだけど、その問題を通して、もう少し包括的というか、まぁ簡単にザックリ言うと「数学の学力」を問うているわけです。でも、そんなザックリした話ではなんの意味もないわけで、実際には、その問を通して必要とされる「概念(操作)」みたいなところができるかどうかを試しているわけです。できればokだし、できなければ、別の問を発することでそれを身につけられるように試してみる。
でも、そのやりかたというか、「意図の持ちよう」みたいなのは、もちろん担当者ごとにおそらくはぜんぜん違います。*1ですから、出てくる答えは数学の場合は同じですが、その評価という解釈というか、そういうものは、担当者ごとに変わります。

大切なのは、こんなことを漠然と感じるのではなく、分析をして意識化するというところにあるんじゃないかと思います。そうすることによって、「意図」が、より意識化→吟味できる。
そんなことを感じた70分間でした。

*1:というか、人によっては、そういう「意図」を意識せずに問を発している人もいるかもされません。