フィナーレ

木曜日の「おべんきょ」も今日で終了。
今日は「ニヒリズムとしての「問い」」です。出てきたペーパーを見たら、吉田兼行があるわ向井去来があるわ。いったいどうなるんだろう…。
吉田兼行からは「徒然」の意味から、「学ぶ」とはどういうことかということが解き明かされます。なるほど、語源的にはギリシャ語の「スコレー」と同じなのね。「暇」ということを「時間があってゴロゴロする」という消極的な捉え方をするんじゃなくて、「やることがわからないけど、「やりたい」「やらなくちゃ」という突き動かされるような衝動のある状態」と考える。そこから「学び」がはじまると。
なんか…。なんとなくわかる気がする。
ぽっかりと穴が開いたように時間ができたとき、頭のなかはまるで惑星ソラリスの大気みたいにウニャウニャと渦巻いている。胸がしめつけられるような思いのなかで、手に取るのは本だったりします。頭のなかは相も変わらず混沌としているんだけど、それでも本と対峙する。

センセはさらに続けられます。
「問い続けることはつらいことです」
そうだよなぁ。先が見えない。いつ終わるかわからない。「ここまできた」と思ったら、ゴールは遥か先にある。あるいは、そのゴールすら見えない。
「こういうのをニヒリズムと言うんです」
なるほど。
「その時とることができる道はふたつあります。ひとつは「あきらめること」。でも、これはニヒリズムのワナにはまることです。もうひとつは「引き受けること」。これをニーチェは積極的ニヒリズムといいました」。
終わりがないことを引き受けるのかぁ。でも、たしかにそれ以外方法はないよなぁ。
「発句になる575とならない575があります。発句になるためには「言い尽くさない」こと。すると連歌は延々と続く。そして、挙句はくるかどうかはわからない」
問答であり、自問自答だよなぁ。

とてもスリリングな半年でした。

少しわかったかな

「おべんきょ」、かつては「通年」ばっかりだったんですが、いまの立場は「半年単位」なんですねぇ。おどろきです。なので、「月曜おべんきょ」は今日で終了です。それでも、今日も表面上は淡々と、でも内容的にはとてもスリリングに進んでいきます。一時間半ほどのあいだ、「本」に集中して、互いに疑問を出しあったり考えを出しあったり。そして月曜センセの解説に耳を傾けます。そうやって、とても幸せな半年が終わりました。もっとも、本はまだまだ半分くらいしか読めていません。あとは自分で読み進めましょう。わからなければ、また月曜センセに会いに行けば、いろいろ話もはずむでしょう。
あ、もうひとつ残ってた。レポートだ(;_;)。

「問い」への「対応」

きょうのおべんきょタイムはグループ討論です。お題は「高校生から「こんなことやって役に立つのか?社会的に意味があるのか?」と聞かれたときの対応」でした。ちなみにこれ、4年ほど前の京都市の教員採用試験の問題だとか(笑)。
で、討論しながらの感想。
各グループにふたりずつ「年上」がいて、四人の「おべんきょ仲間」がいるんですが、「おべんきょ仲間」の人たちは、「問い」そのものに「答え」ようとされるんですね。「いかに役に立つか」ということを一生懸命答えようとされている。でも、お題には「どう答えるか」ではなく「どう対応するか」と書いてある。そこがミソだと思うんですよね。
つまり「役に立つのか?」という問いそのものがどういう意味を持っているのかということ、あるいは「役に立つとはなにか?」という、問いそのものの意味を問い直すことに意味があると、わたしは思ったんですよね。そのことを、問題作成者は「対応」という言葉であらわしたんじゃないかと。
で、少し論議を深めたいと思ったので、
「この質問をする生徒は、どんな気持ちでこの質問をすると思いますか?」
と「おべんきょ仲間」に聞いてみました。すると、みなさん
「勉強がわからなくて…」
とか言われます。と、もうひとりの「年上」の方は
「いままでやらなきゃならないと思い込んできたことに対して、疑問をもったんじゃないかなぁ。勉強との距離感を測ろうとしているんじゃないかなぁ」
と言われました。一同、深くうなづきました。
おそらく、「問い(what)」に「答える」ためであれば、その文章に対する答えに集中すればいい。
しかし「問い(how)」に「対応」するためには、「「問い」そのものを」問い、「「問う」主体を」問い、それらを通して「対応する自分自身を」問い、それを追求することは無限の「入れ子」をあけつづけること、あるいは無限の螺旋のドミノを倒しつづけることへとつながるのかもしれないと、ふと思いました。

しかし、たいりょくが続かんやろなぁ…。でも、それでいいのかも…。

「問う力」による自己形成

この間、「木曜センセ」に、このブログ&エントリの存在をバラしちゃったしなぁ…。
まぁええか。
今回はいよいよ大詰め。自己形成にかかわる話です。
まずは、「問いの徹底性」という話。答えを求める問は、徹底性という要素を持ちようがありません。なぜなら答えが出た時点で終了だからです。しかし、「問い」そのものをつきつめていくと、「なにを」「どのように」「問うのか」ということは、徐々に意味をなさなくなるとのこと。
なぜなら

わたしは「xを」問う
→「わたしは「xを」問う」を問う
→「「わたしは「xを」問う」を問う」「わたし」を問う

と、問うことを進めていくと、問う内容はどんどん入れ子の中に入っていって、「問うことそのもの」や「問う主体」へと問う内容が移っていく。そして、その内容を深めていくことこそが、reflectionであると。
こうやって、自分自身を深めていくことこそが、自己形成であると。
ただ、このreflectionをするには、一定の「成熟」が必要とされる。自己形成が成熟を目指すものであるなら、トートロジーに陥ってしまいます。そこで必要なのが「教育」ですよ!
教育の果たす役割は、おそらくは「なにかを教える」ことではなく、その行為を通して、うしろからチョイと「自己形成という奈落(笑)」へと子どもたちを誘うことなのかな。
いや、なぜ「奈落」かというと、やっぱり「奈落」でしょう。だって、内省のない人生は、おそらくは自己肯定(≠自尊感情)と自己弁護の世界で、そこでは「わたしは絶対」な王国ですから。そこから「内省」へと踏み出すことは、一見、自己否定を伴うわけです。
まぁこのあたり、「批判と文句の違い」みたいな話と共通しているかな。
ただ、これだけではいけない。そこには「他者」の存在を必要とすると。
ただ、「他者」と言ってみたけど、実は、その他者は自己でもあると。「自即他、他即自」と。
あるいは、対話は必要なんだけど、対話は一般的には「dialogue」と捉えられるけど、「monologue」もまた「自己との対話」であると。
こうした営みは、学齢期に終わるものではなく、生涯続くものであると。
すなわち、「人間とは学ぶ動物である」と。そして、そこにこそ尊厳(自己肯定感や実感など)があると。
で、結びは
「問い→学び→尊厳」

うーん、今日はすごく格調が高かった。でも、フィナーレにふさわしい内容でした。ここまでの長い長いおべんきょ内容が、一本の道筋でつながった感覚がありました。
このあとカーテンコールが続きますが。

研究者の本の読み方

月曜日のおべんきょの楽しさは、本を読み進めながら「知る」ことにもありますが、それにも増して、センセがたまに生き生きと話す余談?にもあります。
「なに?どこがわからないの?」
「いや、ここが」
「あなたはそこをどう読むの?」
「できるだけ主観を排して読むようにはしているんですが、ここは…」
「主観は排さなくていいの!国語の授業だったら、もしかしたら主観を排した正解があるかもしれない。でも、研究は違う。著者が正しいなんて誰も思ってない。主観を持ちながら、違和感を抱くことに意味があるの。そこにオリジナリティが出てくるの!」
センセの言葉を聞きながら、楽しさと驚きと恐れが同時に押し寄せてきます。
なぜなら、逆に言うなら、主観を持って読み進めないと、研究にならないということでもあるからです。主観なしに、単にその本の意図を探ることは正解を探すことでしかなく、そこにはオリジナリティはあらわれないとしたら、「思索の時間や深さ」が不十分なわたしにとって、それはかなり厳しいことだと思います。それを補うのは、もしかしたら「経験」なのかもしれません。が、その経験も、今日的な「経験」となっているのか、単なる「体験の寄せ集め」でしかないのか。
もっと内側を掘り下げていかないと…。

「議論をしよう」

夜は中間発表会のごくろうさん会です。先輩方もセンセ方も来られます。
わたしはまだこの世界に足を踏み込んで数ヵ月なんで、若輩者です。はじめのうちは小さくなっていたんですが、
「せっかくやし、酔う前に」
とか思って話はじめたのが悪かった(笑)。気がつくと、えらい勢いで話はじめていました。
でも、木曜日のセンセといっぱいしゃべれたのはよかったなぁ。
「センセはらけっきょく誰が好きなんですか」
ニーチェです」
「あぁ、海に飛び込んだ
「はい」
みたいな。
そのうち、どうしても話をしたいと思っていたセンセに、とうとうアタック。
すると、
「こっちこっち」
と呼ばれます。えー、そっちいくのー^^;;
「議論をしよう」
「君は人権教育をしたいんだね。平和教育との違いをどう考えてる?」
いきなりきました。
なんちゅうか、隙をあけて
「こっち打ってこい」
と言ってるボクサーに見えます。ひぇー^^;;
それでも、平和教育と人権教育のテイストの違いみたいなことを、自分なりの経験に基づいて、必死にしゃべりました。センセ方は、それにつきあってこられたす。
うーむ…。で、最後にひとこと
「また、議論しにおいで。結果はあとからついてくる」
そういう世界なんやな…。

番外編

今日は先輩方^^;;の中間発表会です。
みなさん、緊張しながらレポートを読みあげておられます。センセたちも真剣に聞いておられて、臓腑をえぐるような質問を浴びせかけられます。
そのやりとりを聞きながら、
「あ、自分はこの場に勉強しにきたんじゃないんだ。研究しにきたんだ」
と、あらためて?はじめて?気づかされました。
正直、できるかどうか自信がないけと、やるしかないんだろうな…。

「問う」ことの勇気

月曜日の「おべんきょ」の内容が、先週からかわりました。いままでは、どちらかというと「問う」ということについての歴史的な位置づけというか、「問い」をめぐる思想史みたいなかんじだったんですが、先週からより実践的というか、今日的というか、そんな感じになった気がします。それにともなって、出てくる文献もずいぶんと変わって、今日にいたっては村上春樹が出てくるという。しかも、センセ、かなり村上春樹が好きっぽい。
というのはおいといて。
今日的な話になると、やはり歴史的に評価が定まっているわけじゃないですから、内容にスパッとしたキレがなくなります。終わってからも、なにがしかモンヤリしたものが残る。先週も、おべんきょ時間が終わってからの質問の中で内容が落ちてきた感じだったんですが、今日も同じ感じ。
終ってから、おべんきょなかまと
「なんかキレがないなぁ」
とか話していたのですが、反芻するに従って
「ん?んんん?」
みたいなことを考えはじめました。
なかでも、頭に残っているのが「「問う」ことの勇気」という言葉。
発端は、なんだったかのテレビ討論会で、平場から出された
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という質問に端を発した一連の出来事だったのですが…。
まぁ、それはおいておきます。
わたしは職業柄、「問い」を発することは仕事です。なので、授業の中でかなり計算しながら「問い」を出していきます。一方、子どもたちはなかなか質問してくれない。この違いってなんだろう。
おそらくは、わたしの場合は「答が用意された問い」であるのに対して、子どもたちのそれは「問いの中に問いが含まれている」からかなと。
いや、
「答えはどうなるの?」
という質問はあれですが、「わからないことを問う」ということは、かなり困難なんじゃないかなぁと思うのです。なぜなら「わからないことがわからないと問えない」という、まぁありきたりな話なんですけどね。
でも、子どもたちは、時として勇気を持って問うてくれます。
では、翻って、わたしが勇気を持って「問う」ことはあるのか。
たぶんあります。
例えば、その「問い」そのものが、なんらかのforceを内在している時。
その「問い」を発することが、もしかしたら人と人との間に亀裂をつくるかもしれない。もちろん、人と人との間に和解をもたらすかもしれない。いずれにしても、それだけの力をもつ「問い」は存在するように思います。というより、もしかしたら「問い」は、元来それだけの力を持つものなのかもしれません。
であるとするならば、少なくともわたしはその「問い」を発さなければならないと思った時、おそらくは躊躇するタイプの人間です。であるがゆえに、勇気が必要になる。そして、勇気を振り絞ってもなお、その結果を引き受けきれないと思ったら、「問う」ことを中断することもあるのではないかというふうにも思うのです。
それが正しいことであるかどうかは、とりあえずおいておきます。
いずれにしろ「問う」という言葉と「勇気」という言葉が、あんがい近いところでつながっているのかもしれないと、おべんきょのあとで反芻しながら、ふと考えたということです。

性急でなくゆっくりと

いま読書会で読んでいるのはデューイの「哲学の改造」なる本です。
大学時代、哲学に興味を持ちそうになって、でもニーチェを10ページであきらめた(笑)わたしにとって、たとえ薄い文庫本とはいえ、はじめて哲学にかかわる本を読みすすめる機会なわけで。
にしても、自分の基礎学力の不足を感じます。センセの解説を聞くと「なるほど」とわかるんですが、聞かないと間違った解釈をしていることが多々あります。
基礎学力の不足は、何と言っても、時代背景がわかっていないことと、そこに登場する人たちについての知識が不足していること。後者もある意味歴史ですから、結局、歴史についての知識の不足が、どうやらネックらしいです。
もっとも、「哲学の改造」なる本は、哲学の成立から変遷について書かれているので、歴史がわかっていないと理解できないのは当たり前です。さらに、「おべんきょ」のテーマが「西洋教育史」だったりするので、「そもそも歴史じゃん!」という(笑)。
ただ、ひとつ自分の中で「やったことがこんなところで役に立ったんだ」と実感するのは「部落史の見直し」に触れたことです。
価値観というのは、誰かが突然つくりだせるものではなく、古い価値観を引きずりながら、少しずつ変わっていく。「歴史は重層的である」という考え方は、わたしのものの考え方に大きな影響を与えているし、その観点を持ち続けていれば、デューイの述べる、デューイならではの「哲学の変遷」の理解も少しは容易になります。
にしても、おそらくデューイのものの考え方そのものを知るためだけならwiki先生にでも聞けば、とりあえず即座に教えてくれるでしょうけど、ひとつの本を読み進めながら、その著者の思想をゆっくり理解していく作業は、もしかしたら意図的に行うのはわたしにとってのはじめての経験です。ようやくそれが「楽しい」と思える精神年齢になったのかな(笑)。

にしても、17世紀が天文学コペルニクス)、18世紀が物理学(ニュートン)、19世紀が生物学(ダーウィン)ときた時、20世紀の哲学のありように影響を与えた象徴的な学問はなんだったんだろう…。

「批判」としての問い

「迷い」→「驚き」ときて、今回は「批判」です。
今回はとりあえず青年期にスポットをあてての話。なんでも、青年期は「疾風怒濤」時代らしいです。センセは黒板にとてもわかりやすい「わたしと同レベルの技術」の絵を書いて説明してくれました。

荒波に取り囲まれた島。島は隅から隅まで測量されつくしている。そこに住むのはカント。その島を「理性」と呼ぶ。
しかし、「そんな島は窮屈だ!」と荒波に飛び込む人もいる。その人をニーチェと呼ぶ。

みたいな。
で、そんな疾風怒濤時代の人間とむきあう学校。日本の学校教育法には学校の目的として義務教育段階においては「公正な判断力」を、高校段階においては「健全な批判力」を身につけさせるものとするとある。この「公正な判断力」や「健全な批判力」ってなんだろう。
実は、批判には「抗う意味」と「肯定(承認?)を求める意味」のふたつがある。実は、後者は正義を求めることなのではないか。みたいな話で終わったのですが。
実は、話を聞きながら
「なぜ問いの話に批判が出てくるんだろう」
と疑問を持ちっぱなしでした。しかも、結論がイマイチしょぼい気がします。なんなんだろう。
で、終わってからセンセと雑談。
「最近、自己弁護のための批判という、あらたな批判が出てきている気がするんですが…」
別の人が
「批判と文句の違いってなんでしょうかねぇ」
その瞬間、ようやく理解できました。
「批判」とは、枠組みを問うものなんだ。枠組みの中におさまるにしろ、枠組みを壊すにしろ、その枠組みの存在や範囲を問うことなしにそれらの営みは成り立たない。とするなら、批判とは、まさに「問い」そのものなんだ。
じゃぁ「文句」は?
枠組みを問うてない。枠組みの存在そのものに手を触れず、枠組みの中に安住しながら自己を正当化するものということでしょうか。「問い」には、「自分の存在をかける」というニュアンスがあるけど、「文句」にはそれがないな。
う〜ん、なるほどと納得した30分の延長戦でした。

にしても、疾風怒濤時代って、青年期だけか(笑)?