こんなの読む日が来るとはなぁ

昨日の夜、読みたい文章があったので、ゴソゴソ本棚を探っていたのですが…。いや、本棚って、前後二段になっていて、しかもその上に本は横においてあるもんですよね^^;;。なので、よほどファイトがわいたり必要に迫られない限り、うしろの本を探すことはないんです。でも、えてして後ろにおもしろいというか必要な本が入っているわけで。
てことで、ゴソゴソ探していたら、いろいろと出てくるわ出てくるわ。なかでも、昔、若気の至りで定期購読していたこんな雑誌なんかが出てきて
「うわ(;_;)!」
と赤面してしまうのですが…。
でも、特集を見ていると、今なら興味を持って読めそうなものが目白押しです。そんな中
「あったあった!」
と取り出した「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」。うーん、少しだけパラパラとめくった痕跡はありますね。
てことで、朝、本日の一冊てことでリュックの中へ。
行きの電車の中でちょいと広げて…。おっと。首を下向けたらあかんのや。てことは…。表紙が堂々と前を向くのか(笑)。
かつてK口くんが
「電車の中で解放新聞を広げるときのほんの少しの躊躇(笑)」
って言ってたのを思い出しました(笑)。

そいつらの言うことはな!

さぁ、今日からは日常を過ごさなくちゃ。
とにかく、いつもの火曜日通り5時20分起きです。ほんとに骨粗鬆症の薬はめんどくさいです。ま、自業自得ですがね(笑)。
で、いつものように職場へ。
さてと。とにかく、夏のいろいろな事務仕事をやってしまいましょう。

と。なんか生徒がやってきて…。
「ウトロについて教えて」
と。ほう。で、相談にのりだしたのですが…。
生「いろいろ調べたで」
い「何で調べた?」
生「インターネット」
嫌な予感がしました。
い「キーワードは?」
生「ウトロ youtube
い「あ、それ、全部ウソ(笑)」
ここから1時間ほどかけてレクチャー開始です。まぁ、完全に「それ」だけじゃなくて、他のところもあたったみたいで、少しはホッとしましたが…。
にしても、ウトロのすぐ近くに住んでいて、ウトロの中に住んでいる友だちもいて、なおかつyoutubeの画像をソースにするわけですから、ほんとにこわいです。これ、もしもわたしがいなければ、あるいはその生徒を連れてきたわたしの教えた子がいなければ、さらにいうならその「教えた子」のクラスでわたしがウトロのことを話してなければ、今回質問に来た生徒は、もしかしたらyoutubeの画像だけをソースにしたかもしれない。これはあまりにもヤバすぎます。
最後に「こんなんも調べとき」って、いくつか資料を渡して、とりあえずレクチャー終了です。

その後も、なんかゴチャゴチャ仕事があって、ようやく落ち着いて本を読めたのが昼過ぎ。昼過ぎかぁ…。ヤバイなぁ。
30分ばっか気を失いました^^;;。

てことで、センセにギブアップのメール(;_;)。
あーあ…。

骨休め・大分遠征(0日目)

明日はなぜか別府でお座敷です。てことで、今日は大分に行ったらいつも行かせていただくお宅におじゃますることにしました。ここのお宅、もう10年を越すかなぁ。北海道で日教組教研があった時のたまたまの出会いがはじまりでした。こういう「たまたま」が長いつきあいになれるのが、組合のいいところのひとつかなと思います。

で、とりあえず新幹線に乗って、パソコンを開いて、レポート作成です。あしたはお座敷ではありますが、あしたはレポートの締切日でもあります。このレポートを出さなかったら、一年間が無駄になる(;_;)。でも、思いつかない時は思いつかないものです(;_;)。うーんうーんとうなりながら、なんとか書き終えたつもりになりました。ま、あとは一晩寝かせて完成です(^^)。

てなことをやっていると、大分に到着。駅で車に乗せてもらって、山の中へ。到着したのは日本一の炭酸泉の小さな町です。
とりあえず、あいさつもそこそこに温泉に連れて行ってもらいました。すごいです。あわあわです。身体に泡がまとわりついてシュワシュワしてます。
小一時間ほど温泉を楽しんで、お友だちのお宅にもどって宴会開始です。大分は、とにかく食べ物がおいしい。「山海の珍味」ってわけではないのですが、普通の食べ物が普通においしいんですよね。ビール飲んで、日本酒飲んで、ワイン飲んでとしているうちに、メッチャ眠たくなってきたので、そろそろお開きかな…。

教育とは

今日のおべんきょは「社会教育の理論」らしいです。とにかく、ひたすら上原専禄だらけです(笑)。
実は、というか当然のことながら、というか、わたし、上原専禄さん、知らないです。いや、きっと「知らんの…」ってあきれられるかもしれないけど、知らないものは知らないんです。なんか、すごい人みたいだなってのは、よくわかりました^^;;。

教育とは…。生活と科学をつなぐものである。
一見「あたりまえ」とも見える、単にこれだけのことなんだけど、なかなか奥が深いらしいです。
あるいは「神なき国の教育論」。ふむ。
「権利とはなにか?」「自立とはなにか?」「一人前になるとはどういうことか?」
ひとつひとつ、あたりまえのことを問うていく。答えにつまります。自分の心の中の言葉を探します。このおべんきょで最も鋭く問われたのは、実はここでした。頭の中の言葉ではなく、心の中の言葉を探す。自分の言葉で語る。自分の経験、自分の生活、そこからスタートする。
あ!
これです。「科学」からスタートしない。「生活」からスタートする。「生活」から「科学」を問う。「科学」で得た答えを自分に返す。それを生活に組み込み、さらに生活を深く問う。それをつなぐものが教育?
「社会教育」を考えることは、いつのまにか「教育」を考えることになっています。

結論は、よくわからないです。というか、言葉にはできない。でも、頭の中にいっぱいものを詰めて、思いっきりシャッフルされた気がしました。

あー
疑問…。
社会教育と運動は違う…。
それはその通りです。が、運動と闘いはまた違うはずです。
マイノリティにとって、学ぶことは生きるための力を獲得することです。そして、生きることは日常的のそこここにあるとても小さな闘いの連続でもあります。つまり、学ぶことで闘いの力を得るということに、結果的になるわけです。
その闘いを普遍化することは運動と言えるかもしれない。でも、その普遍化を拒否する。普遍化の少し手前、共有。共有の少し手前、共感。共感を再び個にもどす。そして、生活にもどす。学び考え、日常を生きる。その日常という名の闘いは、運動ではないのではないかと思うのです。
では、社会教育と闘いの関係は?
違いますよね。でも、そこは切り離せるのかなぁ…。

落陽

いわゆる「明治維新」のあと、政府は民衆を教化する必要があった。その実現のために持ち出されたのが「社会教育」という概念。これは主として農村部・漁村部、あるいは都市部における貧困層を対象に行われる。これは、生活の改善・安定と引き換えに治安維持を目的としていた。
ところが、1920年代に5年間ほど、あだ花のように「自主・自立」を掲げた社会教育の側からの教育全体の再編の動きがあった。それを推進したのは経済界からの要請。その背景にあったのは「総動員体制の実現」だった。しかし、結局官僚からの強い反発の中でつぶれていく。
しかし、この「自主・自立」の社会教育は、例えば市民社会の実現をめざしていたのだろうか?そこには、リミッターが働いていたのではないか。というのは、「総動員体制」をつくるためには、事細かに教化をするよりも、ある程度自主的に動いてくれる方が効率がいい。そういう意図があったのではないか。果たして「誰の要求」だったのか。そこはまだ解き明かされていない。
で、社会教育は再び「教化」の方向へと向かいながら、日本は敗戦を迎える。
ここで再び「自主・自立」が掲げられることになるけど、臨教審路線以降「民間活力の活用」が叫ばれはじめる。その中で「教育と学習を切り離す」というロジックで「学習」が商品化されはじめる。その延長線上に今日の「生涯学習」がある。

みたいな話。
なんか、しんどかったですねぇ。100年ちょいかけて、「社会教育」の「思想」や「理念」を、ほれこそ命がけで探し求めた末にもたらされたものは「商品化」だった。
なんか、燃えさかるワルハラ城を見る気持ちがしました。

でも。
極端に青年会活動にシフトされた日本の「社会教育」は、高校進学率の低さによる補完の意味があった(代位状態)みたいです。それが、高校進学率の上昇とともに、その意味が薄れていった。であるならば、もしかしたら、格差社会の進行と同時に「高校卒業率の低下」が進行している(かもしれない)現在において、商品化された「生涯学習」にアプローチできないそうに対して、再び「社会教育」が必要とされる時が来るのかもしれないなぁなどと、ぼんやりと考えました。

持続可能な集団づくり

今日から3日間、まる一日おべんきょの日が続きます。少し気が重い朝です。
何が重いかというと、今、ガチで考えなくちゃならないことがあって、自分の意識の大部分がそこにいっています。で、そこに「おべんきょ」が割り込んでくると、意識が拡散してしまう。雑音が入るという感じですかねぇ。これがしんどい。でも、どうしてもやらなきゃならない「おべんきょ」なので、ここはふんばりましょうか。
「おべんきょ」の中身は「社会教育」です。そう言えば、今を去ること30年ほど前、とある面接試験の時に
「君は社会教育に関心があるんだね?」
「社会教育って何ですか?」
という会話をしたことを思い出しました(笑)。ま、その面接、合格したから今ここにいるんですけどね^^;;。
今日の内容は「事例紹介」とのことです。
まずは「松川町の健康教育」から。
詳しいことは省きますが、すごいですね。あこがれます。5年がかりでそこまでやるかと。でも、よくよく考えると、わたしが考えてきた「クラスづくり」「グループづくり」と似ています。わたしの場合、それを1年とか下手すると4日とかでやらなきゃならない。それを「出入りの自由がある」とは言え、5年かけてあるいは場合によっては更に長い時間をかけてできるわけで、そんなところに「社会教育」の可能性を感じてしまいます。さらにもう一つおもしろいなと思ったのが、実践を通して、社会教育を「する側」も変革されていく。
「教育とは変革である」
との言葉を吐かれた方らしいですが、それが「変革を促す側」にもある。なぜこんなことになるのかなと思ったら、たぶん「答え」があって、そこに近づく実践ではなく、常に試行錯誤の中から次の一歩を考え、踏み出す実践だからかなと。
そんなことを考えながら、次の事例へ。
次の事例は宇和島とか湯布院を題材にした町おこしの事例です。これもなかなかおもしろい。いわゆる「社会教育主事」みたいなのががんばる事例ではないのですが、リーダー格の人がさまざまな困難に対して、うまく町のリソースを使い、あるいは他のリソースを導入しながら町おこしをしていく。そんな話でした。
で、最後の事例は「東亜紡績泊工場」の「生活を記録する会」の実践です。15歳くらいで「金の卵」として紡績工場に就職してから、今に至るまで生活を記録する女性たちってなにものなんだと。しかも、その文章たるや…。
なんてあたりに感動しビックリしてたのですが、やがてジワジワと違和感が自分を襲ってきました。
ちょっとまてよ?
松川町の「若妻会」と社会教育主事の松下拡の関係。泊工場の「生活を記録する会」と沢井余志郎の関係。指導する男性と指導される女性。いや、けっしてそんな一方的な関係ではないのですが、なんなんだろうこの違和感。うーん。
ま、構図として、東洋の魔女大松博文

逃げ切った…

朝、野入さんのお宅を出て、どこに寄る元気もなく空港へ。空港では「金曜日に出します」と宣言したレポートを書き書き。
飛行機に乗って、しばらくは「あそこが那覇空港」「てことは、あれが普天間だな」「嘉手納基地が見えんなぁ」「うわ、辺野古は真下か」とか思っていたものの、沖縄本島を離れたところで爆睡です。目が覚めると高知のあたりを飛んでいます。まもなく着陸ですね。
空港からは「はるか」を使うことにしましょう。ほんとにしんどい。でも、車内でふたたびレポート書き書き。完成したところで送信です。
なんか、便利になったけど、どこまでも仕事ですねぇ。
レポートができたところで、きょうのおべんきょの準備開始。なんせ、事例報告しなくちゃならないのに、なーんにもできていません。
とりあえず家に帰って荷物を置いて、またまたおべんきょ場所へ移動。その道中、ずっとスライド作成です。結局、おべんきょ開始時間の5分前にスライド完成。あとは口先三寸でなんとかなるか^^;;。
しかし、20年近く前のデータがよくそろったもんだなぁ(笑)。

おべんきょのあとは、I城さんとか新しいおべんきょ仲間のF村さんなんかと打ち上げ。おいしいお好みをつつきながら、ジェンダー界隈のかなーり濃いぃ話をしてしまいました。
でもま、そろそろ身体も限界だな…。

学ぶ場所に正しいところはあるのか?

今日のおべんきょは事例研究でした。
んー
話を聞いていると、出口のないしんどさを感じます。なんか、泥沼に入り込んでいく感じかなぁ。なにがきっかけというわけでは、きっとないんですね。流れが「そちら」へと流れ込んでいく。あがいてもしかたない感じ。
そういう状態で
「みんなで話し合って」
とか言われて、どうしようかと。
「学校」で起こったトラブルに対する責任を「学校」はどこまでとれるのかなぁ。でも、例えば「友達関係」は「学校」を媒介にすることが多い。となると、「友達関係内のトラブル」も学校が責任をとるのかなぁ。でも、それって不可能なんじゃないかなぁ。だって、学齢期の子どもの生活はほとんどが学校にからまっているんだから、子どもの生活のほとんどに責任をとらなきゃならないことになってしまいます。
そんなことを考え、で、それぞれのグループごとにどんな話が出たかを紹介したあと「後日談」が話されたのですが…。

「学校とつながる」=「学びとつながる」
と、つい教員も保護者も考えてしまいます。しかし、ほんとはそうじゃない。
いや、「学校」がもっと「責任」から解放されれば「学び」とつながることも可能かもしれない。でも、「生活丸抱え」の「学校」である限り、子どもにとっての「学校」の持つ意味はあまりにも多くなりすぎ、それは「学び」以外のことを契機に「学校」から子どもが出ていく可能性が高まることを意味する気がします。
であるなら、純粋な「学び」を求めるために「学校」から「逃げる」という選択肢もありなんじゃないかなぁ。

「後日談」は、そんな「逃げ」の選択をした姿のような気がして、なんとなくホッとしました。

仕事を終えて…。というか、仕事を最後人にまかせて、とりあえず職場をあとにします。今日は久々のセンセとサシのおべんきょです。
でも、わたしのおべんきょ計画の話はあっというまにおしまい。あとは延々と「部落をどう伝えるのか」についての話が続きます。
端的に言うならば「部落ってなんだろう」っていう、今さらではあるけど、今も続く問いについて考える時間です。
ここで、どうもセンセとわたしの間にあるビミョーなすれ違いが明らかになります。まぁ、センセは部落問題のプロパーだし、わたしはしょせんはそんなプロパーの人たちから聞いた話で考えた人間なので、まぁレベルが違います。でも、そんなところで「まいりました」とかいうのもおもしろくないので、果敢に攻めるわけです。
センセは、わたしよりほんの少し上の世代です。でも、その少しの時期が問題で、大学時代を80年代に過ごしたか70年代に過ごしたかは、時間的には少しの違いだけど、社会的には大きな違いのようです。やはりセンセは、「マルクス主義的発想」でものを考えられます。に対してわたしは…。「マルクスを読んでない世代」というか、「マルクスを読むのをサボった人」なんで、そりゃズレますわ(笑)。
ただ、マルクス主義の影響をさほど受けなかったことは、それはそれで意味があるかなと。そこへもってきて、いわゆる同和対策の各種法律がどんどん切れていく過程を、見つめることしかしなかったけど、そこからなにをしていくのかを考えなきゃならない立場なわけで、そこから考える「こと」もあるわけです。
昨日のズレにひきよせるなら。
センセは、「部落であるメルクマールはなんだ」ということを考えられる。に対して、わたしは「メルクマールなんてあとづけじゃん」みたいな発想になるわけです。
「かつては川の向こうとこっちというメルクマールがあった。でも今はそういうものがない、あるいは希薄になっている」
「でも、その「川の向こうとこっち」というメルクマールは絶対的に存在していたわけじゃなくて、非被差別の側が恣意的につくったもので、根拠はないじゃないですか。だから、もとから希薄なものなんですよ。で、それを互いにつくりだしあい、維持しあう関係がある。メルクマールって、そういうもんじゃないんですか?」
みたいな。
たぶん、わたしは「かつての部落」をさほど知りません。なので、「絶対的な差がある」とは感じない。逆に「かつて絶対的な差」とされていたものも「川の向こうとこっちとで共同作業で維持されていたもの」と考えてしまう。
もちろん、これは個々の事例や個人の経験の語りには、表面上はあらわれてこないかもしれない。でも、たぶんそういう構造になっている。で、その「川」はあくまでも象徴であって、「川」は両者の「(表面上はあらわれてこない)ネゴシエーション」によって、その位置を変える。
そんな感覚があるんですよね。
つまり、「絶対的なメルクマールはない」あるいは「メルクマールはネゴシエーションの結果あらわれるもの」みたいな。

で、お互いに「ズレ」を残したビミョーな感覚を感じながら、おべんきょの時間は終わるわけです(笑)。