やっぱりご臨終…。

朝、ブッシュ対策*1で早起きしました。で、お弁当をつめようと、昨日の残りを探すべく冷蔵庫を開けたのですが…。見事に常温でした。
どうやらおとつい、パートナーが一生懸命冷蔵庫のなかをきれいにしたのが裏目に出たみたいです。中はきれいになったのですが、その間扉が開いていた。で、扉を閉めたあとすごいうなり声がしたみたいです。昨日の朝はとても静かだったのですが、その時はすでにご臨終だったみたいです。もっとも、冷凍庫と野菜庫が生きていたのは救いでした。
ということで、昼で休みをとって、午後は冷蔵庫探しです。
何が困ったかというと、うちの前の持ち主さん、家のつくりにいろいろ工夫を凝らしておられるのですが、「マージン」をとっていないんです。すべてがジャストサイズ。なので、少しオーバーサイズになるととたんにどうしようもなくなります。
どうやら冷蔵庫のスペースとして使っておられたところは、横600mm・奥行き600mm・高さ1810mmなんです。これ、今時の冷蔵庫を置くにはほんの数1cmほど足りないんです。でも、足りないものは足りないわけで、どうしようもありません。幸い、なんとかなるサイズのが1・2種類会ったので、それを買うことにしました。さてさて、どうなることやら…。

*1:交通規制になったら、京都の道は目もあてられない

まぁ、こんなもんかなぁ…

何もない日は、ほんとうになにもないです。今日はそんな一日。あったといえば、せいぜい夜の家庭訪問。久しぶりです。8時半頃までダラダラと話をして、あんまり埒があかないのでとりあえず退散。閉塞感やなぁ…。打つ手がないのは厳しいです。
家に帰ったら、冷蔵庫が壊れ気味なのをハケーン。とりあえず、様子見ぃです。

突然の電話

玖伊屋から帰ったのが2時過ぎ。あまりにも眠いので寝ていたら、弟から電話。「急いできてくれ」。なんやねんと思ったら、弟行きつけの酒屋の利き酒の会があるとか。で、弟が誘った人がドタキャンしたので、かわりに来いということらしいです。なので、行きました。
今回は、テーマが「新ソバ」と奥播磨のお酒ということだったみたいで、おいしいお酒と香りの豊かなおそばを堪能しました。なかでも、3年前のうす濁りがものすごくフレッシュな香りを保ち続けているのにはまいりました。奥播磨って、固定客が多いらしいのですが、うなづくものがありました。
てことで、終了の7時頃にはお腹はいっぱい。気持ちもいっぱい。満足してお家に帰りました。
それにしても、モーニングチューハイ・お好み&ビール・ソバ&日本酒というフルコースの一日、さすがに体は限界です(笑)。なので、家に帰ってお風呂に入ったら、そのままベッドに直行。爆睡でした。

で、玖伊屋の朝

今日、午前から参加という人がおられるので、ダラダラと片づけ。さらにダラダラとテレビ。10時過ぎにおみやげつきで来られたので、おそがけの朝ご飯。ごちそうさまでした。
玖伊屋の朝は、気がむいて天気がよければ、近所のフィールドワークなんかしたりします。今日はおみやげもあったので、いつもよりも気合いをしれてフィールドワークをしました。と言っても、「パッチギ!」の跡を訪ねて〜40番地〜公園散策(笑)〜お好みの街探検〜お好み試食という、定番コースですけど…。
約1時間半歩いたところで、ちょうどお腹も減ってきて、時間もよくなって、いつものお好み屋さんへ。ここ、はじめて行った時に、わたしの性別をめぐってお父ちゃんとおかあちゃんがケンカをしたという店なんです。ちなみに、お父ちゃんは「男の人やがな」、お母ちゃんは「なにゆーてんの、お姉ちゃんやがな」。で、ムラのお母ちゃんはぜったいに口は勝ちます。それ以来、この店ではお母ちゃん公認の「お姉ちゃん扱い」になっています。ソバ入りマンボとうどん入りマンボ、焼きソバ(細いソバ)とホルモン焼き、もちろんわたしはビールを飲んで、フィールドワークも終了です。
ということで、長い長い玖伊屋も終了。次回は、12月17日です。次回のメニューは、クリスマス定番の「鳥の丸焼き」です。

夜は玖伊屋

で、家に帰ってちょこちょこっと支度をしてすぐに玖伊屋。
今日はチゲと焼き肉というやる気のないメニューです。というのは、あまりまくったキャベツと、せっかくある手づくりのたれを使いたいと思っただけです。昨日のうちに会場に放り込んでおいたので、今日は電車でゆっくりといくことができます。
8時前からボチボチと人が集まって、9時頃には集まりは完了。今回は少人数でしたが、わたしもほとんど和室の方にいることが出来て、かなり濃いぃ話で盛り上がれました。で、12時頃にはダウン。ちゃんと自分で布団を引いて、コンタクトもはずして寝ました。よかったよかった。

夕方は子どもの発表会

上の子ども、なぜか転校して「演劇部」に入りました。で、今日はコンクールか何かだそうで、サッカー観戦のあと、下の子どもを連れて見に行くことにしました。残念ながらウチの子どもの分を含めて2本しか見られなかったのですが、なかなかおもしろかったです。正直言って、中学生とは思えませんね。てか、うちの高校3年生のつくる芝居より、はるかに高度だと思いました。まぁそりゃそうですわね。やる気のある子が集まって、長い時間かけて練習するんです。夏休みには合宿までしているんだから。
途中からパートナーがやってきて一緒に観劇。その後、「お腹が減った」というパートナーと下の子どもと3人でミスド*1でブランチ。下の子どもは待望のソフトクリーム。まぁ、のんびりしてていいけど。

*1:マクド」がマクドナルドで、「ミスド」はもちろん「ミスタードーナッツ」です。

素直にうれしい

久しぶりに朝は8時過ぎまで寝ていました。これは、素直にうれしいです。しかも、ふとんの中でメールチェック。素直にうれしいです。応接間に行ってバッハを聴きながらコーヒーと新聞。マジで素直にうれしいです。
で、今日はウチの学校のサッカー部が、全国高校サッカー京都府予選決勝に出ることになっています。これに勝てば、去年に引き続き2年連続3回目の出場です。こんな機会は滅多とないので、下の子どもを連れて見に行くことにしました。
総合運動公園近くの駅について、まずコンビニへ。子どものお茶とわたし用には寒い時用の携帯コンロ入りの飲み物を仕入れておきました。で、球技場に到着すると、すでにキックオフの直後。一進一退の攻防が続きます。前半はウチの学校の方は風上。相手側のゴールキックハーフウェイラインまで届きません。風上の有利さの間に点を取ってほしいのですが、なかなか相手のゴールネットを揺らすことができなくて、結局0−0のままで前半終了。ふと、去年の国立のイヤな思い出がよぎります。
やがて後半。風下になって苦しい展開が続きます。ほとんど自分たちの陣内でゲームが続き、いつゴールを割られてもおかしくない状況です。で、後半25分くらいに、とうとうその時が来ました。たまたま相手陣内に深く入り込んでふわりとあがったボールに反応した選手が、これまたふわりと浮かしたボールが見事にゴール。予想に反して1点先取。もう、えらい騒ぎです。ところが、相手のチーム、こっからカサにかかって攻めてきます。左のサイドラインを使って中央にあげる。これが見事にはまり始めて防戦一方。そして、たまらず反則。フリーキックが大きくあがってゴール前へ。キーパーがはじいたところに相手選手が反応して、ゴール。1−1です。これまた去年の記憶が蘇ります。ここから、相手チームはますます元気になって、こちらは防戦一方。こりゃぁだめです。とにかく逃げ切って延長か。延長だったらさらに分が悪いと思っていたその時、たまたま相手陣内にはいってスローイン。これがまたゴール前にうまくあがって、選手が反応。なんと、ロスタイムにはいって2−1。もしかして、あとは逃げ切るだけ?と、相手ボールをことごとく跳ね返しているうちに、ピピピーと笛。もしかして、勝ち?優勝?全国?相手チームはがっくり、こちらのチームは跳ね回っています。ほんまに勝ちのようです。
てことで、今年の年末も東京のようです。お金の算段がたいへんじゃ…。
家に帰ってパートナーに「勝ったけど、東京やねん」と言うと、「あ、行ってきて行ってきて。ついでに上の子ども、アキバに連れてって」って、あのね…。

ちょっとジマソプレイ

今日、5時間目は数人の人権教育関係の人たちが授業見学に来られました。この人たち、忌憚のない意見を互いに言える人たちなので、事後研の時にどんな話が出るかなぁと楽しみにしながら、いつものとおりまた〜りと授業をしました。
そうそう、一般的に言って「研究授業」ってのはしょーもないことが多いんですよ。まず、教案を出さないといけない。まぁあんまりおもしろくないですわな。授業なんて、ハプニングから思わぬ展開があって、それが授業を豊かにするんです。あらかじめ決められたコースをたどれるかどうかなんて、そんなん一番おもしろくないことです。で、事後研究の時は「◯◯センセイの授業は素晴らしかったです*1」か「この教材の教授法は、こうあるべきじゃないかと思います*2」とか、まぁ、しょーもない話しか出ない。だから、「時間の無駄」ということでやりたがらない人がほとんどなんです。
でも、わたしは基本的には「授業は公開しよう。みんなで互いの授業をみながら互いに研鑽しよう」とは思っているんです。で、あとでみんなで感想を言いあう。必要なことは、数学の話じゃないんです。わたしの場合は「数学をネタ」とするのですが、大切なことは「子どもたちが学びに向かったか」「学びの空間を、どうつくったか」ということなんです。それだったら、数学以外の人たちも話しあいに参加できるんですよね。
で、事後研。「いつきさん、ずっと笑っていたよね。すごく楽しそうだった」「黒板をすぐに消さなかったよね。写すのが遅い子がいるのを確認して、ちょっと待ったよね。子どもがやる気を失なわかったよね」「宿題がわからなかった子どもに『あの子がわかっているから、あの子*3に教えてもらえ』って言ったら行ったよね。そういう関係ができているんだね」。
うれしかったです。ふだん気をつけていることをわかってくれて、キチンと評価してくれて、逆にそのことでわたしがさらに意識化できる。自分は間違っていなかったんだろうなぁという確信がもてる。だから、明日からの授業も自信をもってやることができる。エンパワーメントの授業研でした。
でもね、そういう授業ができるのは、生徒のおかげなんですよね。数学は苦手だけど、もともと「学びたい」「やらなくちゃ」という思いは持っている子どもたち。その子どもたちからどうやる気を失わないようにするかということが、この半年間の留意点でした。そのことを、子どもたち自身がきちんと受けとめてくれているからこそ、そういう授業が成り立つ。受けとる子どもたちが、実はすごいんです。だから、ジマソできるのは、「そういう子ども達といっしょに毎日遊んでいるんだぞ〜、いいだろ〜」ってことです。

*1:単なる常套句

*2:えらいセソセイが言うんだけど、「それ、教育実習か新採研の話やんけ」みたいな話。だいたいそんなもん、教科が違ごたら話に入れへんやんけ!

*3:この子、クラスで一番数学が苦手な子

ガクブル

朝、ちょっと寝坊をしたので急いでくるまで通勤している途中、京都市からそろそろ出ようかとした時、ふと気がつきました。「携帯、忘れた…」。とっさに思ったことは…。こわい…。
で、学校に行ってさっそく友だちに「携帯忘れたんやわ」というと、「それこわいで〜。どうする、家に帰って『なんでこの人だけ着信音が違うの?』とか言われたら」「こわ〜。そやなぁ、メールの着信とか見られた日にゃぁ…。アドレス帳とか見られた日にゃぁ…。こわいよ〜!」
で、さっそく家に電話。「今日、携帯忘れたし」「あ〜あ」「(平静を装いながら)まぁ着信とかあっても放っておいてくれたらええし」「ん、わかった」ホッ。じつは、うちのパートナー、機械に弱くて、たぶん機種が変わっただけで操作方法がさっぱりわからない人なんで、なんとかやりすごせるかな、と。
で、ないならないでいいのが、携帯ですね。緊急の連絡もどこからも入らず、静かな一日でした。
家に帰ったら、メールが1件。不在着信が4件。留守番電話が3件でした。いずれも、別に緊急でもなかったみたい。てことは、そんなに必要ないってことだなぁ…。

近代の公衆衛生と部落問題

10月から、京都部落問題研究資料センターが昨年に引き続き「部落史連続講座―近代京都の被差別部落 Part2―」というのをやっています。第1回は10月21日にあったのですが、事故の直後の金曜日ということで、泣く泣く参加を断念しました。で、今日が第2回「近代の公衆衛生と部落問題」というテーマで小林丈広さんが話されました。
と書いていますが、朝まで「あしただ」と思っていました。というのは、友だちに「明日行く?」とメール打ったら「何時から?」と聞いてきたので、時間を調べてみたらついでに香だということがわかったという次第です。
で、話の内容。
今回の話は、明治の中期までのコレラの発生とそれへの対処の中から、いかにして近代の「部落」が形成されてきたかということを、メインテーマにされました。
いや、メッチャクチャおもしろかったです。ていうか、うちのめされました。なので、質問すらできませんでした。久しぶりです、こんなの。
明治期には5年に一度くらいコレラが大流行します。ところが、コレラにかかった人たちの居住地を見ると、部落であるかないかはあまり関係ないんですね。どちらかというと、部落内は少ないくらい。
ところが、「コレラ騒動」が京都で最も激しかったのが、京都府内にある部落であった。ここには、「情報の少なさ」や「コレラ感染者を管理する人たち*1が部落の人々にとってよそ者であった」ことなんかが関係しているという指摘がされました。こんななかで、「部落はやっぱり遅れている」「部落の人間はこわい」などの風評がたちはじめます。
一方、行政としては、コレラの発生源となるであろうところを見込みで「衛生化」をしていきます。ではどういうところが発生源とされたかというと、木賃宿に代表される「生活困窮者の集住地域」です。実は、明治初期にはこれは必ずしも部落とは一致しません。ところが、こうした集住地域を行政が転々と移転させる*2なかで、最終的には「京都市*3」へ追い出していきます。そして、市内と市外の境界にある部落の周辺に追い出された人たちが入り込んでいき、やがて、部落を中心とした「生活困難層の集住地域」としての部落が形成されていきます。
こうした状況が、「コレラ騒動」の話と相まって部落をコレラの発生源としてみなす行政の動きとなっていきます。
このようにして、さまざまな符丁がピッタリとあうように、部落は生活困難層の集住地域として成立すると同時に、まわりから卑賤視される地域として成立していきます。
いままで、経済の面から部落の形成史をとらえていましたが、うすうすわかってはいたものの「衛生観念」から形成される過程を細かく聞いたのははじめてだったので、ものすごい刺激になりました。
次回は「喜田貞吉と部落問題―京都を中心に」と題して吉田栄治郎さんが話されます。これまたすごい期待されますね。楽しみだわ〜。

*1:警察・医者・戸長

*2:木賃宿については、東海道の終着点がもともとの場所だけど、木賃宿の経営を許可制にする中で、このあたりは営業許可を出さなくして、大仏前とか一貫町に移転をさせます

*3:これ、当時の「市外」です。今で言う中京・下京以外のことです