交流会が終わったら、世話人は世話人で、子どもたちは子どもたちで2次会。
近くの中華料理屋の2階で、世話人と地元の人々でガンガン飲みます。なんか、「いつきさん、スカートはいて学校行ったらいいと思う!」と熱く語る教員がいたりして、「うん、うん」と言っていた気がしますが、よくおぼえていない(笑)。
9時過ぎに「そろそろお開き」ということで、わたしは帰ったんだけど、まだ行った人もいましたよ。元気やなぁ…。
帰りの電車では地べたで寝ていました。←除外診断(笑)
投稿者: ituki
ピクニック
朝起きて外を見ると…。晴れ!
なんか気持ちがいいです。で、ここ数日悩んでいたことに終止符を打ちました。「今日はピクニックだ」
てことで、新大阪に向かいます。今日は、「トランスジェンダー生徒交流会」の「春の例会」です。
途中、お弁当にする材料を買い込んで、お弁当づくりから。
ナムル・ひじき・根菜の炊きあわせ・棒々鶏・鶏の照り焼き・小松菜のたいたん(卵とじ)・おにぎりをみんなでワイワイ言いながらつくります。できあがったところで、会場の向かい側にある「日之出公園」へ。ブルーシートを敷いてピクニックの開始です。
道行く人が「おぉ〜」みたいな感じで見ていきます。思わず「どうぞ!一緒に食べません?」と誘いかけてしまいます。
子どもたちはお弁当をつつきながら、「今後の交流会のあり方について」真剣に話をしはじめます。で、わたしは…。真剣に飲んだくれはじめます(笑)。まぁ、交流会なんてぇのは、そんな感じでちょうどいいんだと思います。
で、子どもたちの話しあいも一段落ついたところで、片づけ開始。
それにしても、日焼け対策しなかったのはまずいよなぁ…。
さらにそのあとは
礼拝のあとは
id:Yu-uさんとかFさんとかGさんと一緒に、近くで呑み。
う〜ん。かみあうようなかみあわないような。おそらく、住んでいる世界の違いをお互いが認識しつつも、こなしきれないままに、なんとか「相似形」を探そうとしていたんだけど、それがしきれなかったみたいな。
でも、ほんとうに久しぶりに「あの世界」にどっぷりつかりこんだ時間を過ごせて、若返りました(笑)。また行きましょうね!
追悼礼拝
某所に案内文(笑)と考察(批判文)が載っている追悼礼拝に「遺族」として行ってきました。
まぁもちろんいろいろあるんだけど…。
基本的には、葬儀式は「身内だけで」というスタンスを打ち出していたので*1、そうではない「場」をつくる必要があったんですよね。それを、今日やった、ということなんです。
で、「遺族」としての私のスタンスは、基本的には「感謝」です。ほんとうに。
ひとつには、母親がいろんな人々と会う機会が得られたこと。やっぱ、そういう「場」は必要なんだと思うのです。
もうひとつは、今回の「礼拝」のおかげで、いろんな人が実家に来る必要がなくなるということ(笑)。なにせ、「身内だけ」とやると、「「ごあいさつ」に行かなくちゃ」という人が出てくる。それもけっこうな数になるかも。なので、その人たちの「ガス抜き」の場所をつくる必要があったということです*2。
で、最後のひとつは「発言の機会が与えられた」ということです。
ある意味、母親の話は強烈なものを持っていたんじゃないかと思います。
もしも僕が窮地に立った時、君は助けてくれるか?
というのが、父親のプロポーズ前の言葉だったとか。その時母親は「はい」と答えたそうな。で、「その「窮地」が「今」である」というメッセージは、やはり残されたもののうちの1人のわたしにとっては強烈でした。
もちろん、「あくまでも助ける側」として「女性」をとらえているという批判は成り立ちますし、それは極めて正しい批判点でもあると思います。大切なのは、そうした「限界点」を持ちながらも、それと向きあいながら生きることなんだと思います。
で、わたしの話は…。
父親は、ほんとうにこわい人でした。
起こっている表情をあらわすのに「目を三角にする」という言葉がありますが、まさにその言葉の通り、怒ると目が三角になる人でした。とにかく「こいつはやばい」と思う子どもの頃でした。
そんなわたしも、高校くらいになると、うちにやってくる学生のマネをして、論議をふっかけてみようと思うこともありました。父にこんなことを聞いたことがあります。
「歴史とは何か?」
すると、父はこう答えました。
「歴史とは、右往左往するものである」
なんだこりゃ?と思いました。
あるいは、こんなことも聞きました。
「尊敬する人物は誰だ?」
父はこう答えました。
「田中正造」
マニアックなヤツだと思いました。
やがて大学生になりました。
わたしは、とにかくほんとうに語学が苦手でした。父親に聞きました。
「60点で合格するのか、1年落としてもいいから80点で合格するのか、どちらがいい?」
父親は即座に言いました。
「どちらもダメ」
とりあえず、こんなヤツと同じ道を歩んだらとんでもないとおもったので、高校の数学の教員になりました。教員になって、わたしは自然と部落の子や在日の子とかかわることになりました。
これも、おそらくは両親の影響だったと思います。わたしの小さい頃の思い出の中に「両親に手を引かれて青空の下を歩いている」という風景があります。これ、どう考えても、京都の繁華街なんです。でも、繁華街にはアーケードがあって、青空はありません。たぶん、あれはベ平連のデモでした。そんな両親でしたから、わたしが自然とそういう方向に行ってもしかたがなかったんだと思います。
ただ、そういう活動をしていると、当然父親のことを知る人と会うこともあります。そんな人々から
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われたことがあります。わたしは即座に訂正をしていました。
「いえ、わたしの父親が土肥昭夫です」
まぁ、目一杯張りあおうと思っていた時代でした。でも、校区のムラ中に移り住んで、子どもたちとゆっくりとかかわるようになって、だんだんと自分なりのことができてきたなぁと思いはじめたのが、いまから10年ほど前のことです。このころ、ようやく
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われて、
「そうです」
と答えられるようになりました。
ちょうどその頃、「部落史の見直し」というのが知られるようになりました。
一般的には「近世政治起源説」から「中世に起源がある」というふうに移行していったととらえられがちです。でも、わたしはこのとらえ方は、表面的であると考えています。おそらくは、これは網野善彦さんたちがされた「日本史の見直し」の文脈の中でとらえる必要があるんだと思っています。すなわち、政治史として日本史をとらえるのではなく、ひとつひとつの部落の歴史を丹念に掘り起こし、そこから歴史を記述していくという、歴史のとらえ方の根本的な考え方の違いであると考えています。
そして、そこで出会ったことがふたつあります。
ひとつは、「なぜ今までの運動の中でも部落差別がなくならかったのか?」ということへの答え。もうひとつは、「部落差別をなくすとりくみは、どこかの運動体がやるというものだけではなく、さまざまな人々がそれぞれの時代の中でやってきたことである」ということ。それは、例えば中世の「又四郎」であるわけです。
そうした中で、教材化された内容の中に「ふたりの庄屋の話」というものがありました。
ひとりは、木下尚江の『懺悔』の中に出てくる非常に差別的な庄屋の姿でした。そして、もう一人が田中正造でした。「正造はえたを愛す」と題されたそのエピソードはこんなものでした。
「正造はえたと一緒に田畑を耕した。休む時には同じ瓶から水を飲んだ。夜になると、一緒にごはんを食べお酒を酌み交わした。そんな正造に向かって、まわりの人々は「やめておけ」と言った。でも、正造は「一緒に働いているんだから」とやめなかった。やがて、まわりの人々は正造も避けるようになった」
そして、このエピソードは
「正造、不便すること多かりき」
とむすばれます。
この話に触れた時、「やられた!」と思いました。そして、自分の生き方が決まったような気がしました。
父親が「尊敬する」と話した「田中正造」は、足尾鉱毒事件なんかで有名な「田中正造」ではなく、こうした日々の淡々とした暮らしの中で差別と闘う(向きあう)田中正造だったんだと、その時思いました。そして、父親がやってきた仕事は、そうした光を浴びることなく、日々の淡々とした暮らしの中で闘い続けてきた人々に光をあてることだったんだと、ようやくわかりました。
わたしは、大学を出る時、父とは「違う道」を選びました。ですから、わたしは「光をあてる側」ではなく、光はあたらずとも、日々の淡々とした暮らしの中で、地道に子どもたちとかかわっていきたいと思います。
ありがとうございました。
まぁ、途中「ん?」と思うところもありますがね…。特に最後のあたりが。わたしのことを知っている人たちは「うぷぷ」と笑っていましたけどね。
1年に一度の
今日は、1年に一度の「これで給料もらっていいの」の日です。
まぁ、たしかに朝は早い。8時に勤務地近くの駅集合です。てことは、普段よりも早く家を出なくちゃなりません。職場にバイクを置いて、駅まで走ってやっと間にあいました。そこからダラダラと子どもたちが集合するのを待ちます。
やがて全員集合。バスに乗って、一路大阪府南部へ。
ついたのは、川の畔にあるキャンプ場。
さっそく火起こしです。みんなバタバタやってます。いい風景だなぁ…。
やがて、思い思いに鉄板や網の上にいろんなものを載せてバーベキューの開始です。わたしたちはというと、適当にあちこちに行ってつまむのが仕事。
「先生、食べ〜!」
「ん、ありがと。んまい!」
これでOKです(笑)。
でも、ほんとうにおいしいですね。味っていうのは、そのものの味もさることながら、ロケーションとか雰囲気とかにも十分左右されます。
やがて
「撤収するぞ〜!」
との声がどこからともなくやってきます。みんな大急ぎで撤収開始。まぁダラダラやる子もたくさんいますけどね。でも、手伝ってあげたら
「ありがとう」
の声が返ってくるのがうれしいです。なんか、学校の中じゃなくて、こういうところは双方が素直になれるのかな。
で、予定通りキャンプ場をスタート。解散場所まで帰ってきて無事解散。
まぁ、こういうのが嫌いな教員・生徒もいるんだけど、やるからには楽しまなくっちゃね。というか、「いいところ」をひとつでも探すところに意味があると思うんですよ。
けっこう使えるやん
今日は雨。
てことは、通勤途中はカッパを着ています。
問題は、職場のどこにカッパを置くか。自分の部屋まで着ていくのは、ずぶぬれの状態だとあんまりです。しかも、部屋のあちこちにカッパだのグローブだのビニール袋だのを置かなくちゃならなくなるので、やっぱりイマイチです。
で、ふと気づきました。ロッカーがあるやん!
実は、この4月、わたしのロッカーが新規購入してもらえたと。で、それが1階の女性休養室に置いてある。で、他の人のロッカーはない。と。
てことで、女性休養室に干しておきました。
これは使える。てか、便利!
捨てる神あれば拾う神あり
きのう、オーラにあてられてそうとう落ち込んでいました。
で、ある人に
「こんなことをやるために、こんな角度で切れ込もうと思っているんですけど」
と言ってみると
「あぁ、そういうことやったのね。だったらわかるわ。今度、説明しに来られる時、そういうふうに言ってもらったらわかる人もいるんじゃないかな」
という反応がありました。
助かった…。
オーラにあてられた
来月中旬に「人権学習」があります。現在、その教材づくりで四苦八苦しているのですが…。
とりあえず、それぞれの学年に自分が考えた教案を提示しはじめました。
ところがねぇ…。
人によっては「おもしろそう」と食いついてくれる人もいるのですが、人によっては露骨に「イヤ」という反応をします。で、後者のような人が人権教育担当になったりすることがあったりするんですよね、なぜか…。
そんなときは最悪です。
とにかく教材を提示してもハナからイヤそうです。でも、「イヤ」とは直接言わず、「難しい」とか「テーマが」とか「講師が」とかいろいろ言ってこられます。でも、そのベースに「イヤ」というのが透けて見えています。
いちおう、事前に教材を渡しました。
「◯◯というテーマをやるのはいいけど、現実には△△みたいなことがあるし…」
いや、それ、教材の中で触れてあるんですけど。
「自分としてはピンとこないので教えられない…」
いや、教員が結論を押しつけるのではなく、教材の中にある結論から生徒が考えるようにくんであるんですけど。
てか、教材読んでないやろ!
てか、そもそも「あなたの言う現実」を変えるために、人権学習はあるわけで…。
「みなさんからも「難しい」とか「できない」とかいう意見が続出で…」
それ、あなたの提示の仕方に問題ない?
ほんとうにイヤになってきます。
それにしても、みんな、ほんっとうに!人権が嫌いなんだなぁ。