頭隠して…

今日は午後から子どもの授業参観。
まぁあんまり目立つのもなんなんで、目立たない恰好(笑)*1で出かけることにしました。つっても目立ってしまったけど(;_;)
久しぶりに「算数」の授業を見たんですが、なんだかなぁな感じです。
ちょうど円周率の導入をしているんですが、すでにみんな知ってるのよね。
直径が7cmの円を描いて、その円周を測らせているんですが、はかった結果を子どもに聞いたら「21.98cm」とか答えてるんですよね。30cmの竹の物差しでどうやって小数点行き第2位まで測るのよ(笑)。だったら、円に内接する多角形をつくらせた方がおもしろいと思うんだけどなぁ。

*1:マウンテンパーカーですわ

見つかりにくいものですか?

処方箋なんて、しょせん紙切れ一枚です。見つかりにくいものです。などと思っていたら…。
パートナーからメールがありました。
「下の子どもが新聞を読もうと思ってばさばさしていたら出てきたよ」
えらいなぁ…。今日帰ったら、頭をなでてやろう(笑)。

放課後の語らい

6時間目が終わったら、しばらく教室にダラダラといることがよくあります。
子どもたちの動きを見ていると、すごくおもしろいんですよね。一目散に帰っていく生徒。クラブの準備をする生徒。友だちと待ち合わせをして帰っていく生徒。バイトまでの間、しばらく時間をつぶしている生徒。
今日はたまたまプリントを持ってきて「わからへん」という子がいたので、ちょいと黒板を使って説明をしていました。どうやらその生徒、今日は急いでいなかったみたい。となると、よもやま話がはじまります。
「中学校時代、学校がいややってん」
「ふ〜ん、高校はマシなん?」
「ん〜、高校もしんどいなぁ」
そんな話をしながら、淡々と自分の「しんどい」話をしてくれます。
こういう時間を過ごしていると、自分がほんとうに教員をやっているんだなぁと思います。
そりゃぁ、受験問題を持って来る生徒に真剣勝負を挑むのもおもしろいかもしれない。でも、「人生」を持ってくる生徒とのんびり語りあう放課後の時間は、心と心がふとつながりあう気がして、生徒のことがとてもいとおしく思えるようになります。
あぁ、今日もいい一日が過ごせたなぁ…。

探し物はなんですか?

まぁ、よくなくなるんですけどね。
今回なくなったものは、プレマリンの処方箋(笑)。
マジであちこち探したんですが、ありません。きっとなにかにまぎれて捨ててしまったんだろうなぁ。
しかたがないので、次回診察まではあきらめモード。で、いまうちにあるプレマリンのストック(笑)を数えてみました。1錠と2錠を毎日交互に呑んだら…。50日ぐらいあるな…。てことは、次の診察までいけるやん!まぁ、しばらくは在庫処分ということでいきますか。

1日おいたらやっぱり呑み

ちょいとお座敷がかかったので、サクッと一席語らせていただいて…。
その後呑み。
一緒に呑んで下さった方は、『屠場文化』の執筆者のうちの1人とか。えらい*1人と呑むことになったなぁ\(^o^)/と思いながら、いろんな話をグダグダ。
8時過ぎには終了。今日は間違って降りないぞ!っと(笑)*2

*1:「おもろい」の意

*2:山科の人も今日はいないしなぁ(笑)

ふかーつ

最悪の体調だった昨日。
9時過ぎに布団に入って、パソコンをいじりながら「ウトッ」と来るのを待って、来た瞬間に爆睡したら、見事に6時に目が覚めました。しかもすっきり!
いつものように、お弁当をつくって、さっさと出発。
自分の身体がおそろしい…。

伝えることの難しさ

ここでちょっと訂正しましたが、ずっと心の中に小骨のようにひっかかっていたことがあります。それは、昨日の学習会の最後の「〆の言葉」にかかわることです。
わたしはあくまでも「当事者には権力がある」ということだけを伝えたかったんです。
ところが、「〆の言葉」では、それを特定の当事者団体について援用されてしまいました。
わたしが言いたかったのは、「当事者も支援者も、そのことを心に刻む必要がある」ことだったのです。にもかかわらず、「〆の言葉」では、それを特定の当事者団体への批判として使われてしまいました。そのことが、ずっとずっと心にひっかかっています。
どうしてわたしはあの時「ひっかかっている」と言わなかったのだろう。いや、それよりもなによりも、そういう伝え方しかできなかったのだろう。
せめてそのことについて、ここで再度書くことにしなければ、なんか心の中のもやもやが晴れない気がします。いや、書いたとしても、「あの時・あの場で」言わなかったもやもやは決して晴れることはないだろうけど。

わたしがあそこで話したのは、なによりも、「当事者と支援者の共依存」の話でした。そして、その時のわたしのターゲットは、「支援者」に向かっていたのです。なぜなら、あそこにいた人たちは、「支援者」としてあの場にいるだろうと考えていたからです。もちろん、わたしも含めてです。
「権力」って、それを持っている人単独で存在するのでしょうか?おそらくは「違う」と思います。その権力を認める関係の中に存在をしているのではないかと、わたしは思います。つまり、権力「関係」ということでしょうか。
当事者が持つ権力性は、誰よりも支援者がよくわかっています。そして、支援者はその権力性を「当事者−支援者」という関係の外部に向かって、往々にして発信をします。まさに、「当事者の持つ権力」を、支援者は「利用」するわけです。しかし、その「権力」は、当事者の存在によって担保されています。そして、その「権力」を外部に対して保持し続けるためには、「当事者」は当事者であり続けなければなりません。となると、「支援者」こそが「当事者」を必要としていることになります。
ここに共依存の関係があらわれてくるのではないかと思うのです。
「当事者」としてのわたしは、「支援者」に「当事者の権力」を行使していないか?
「支援者」としてのわたしは、「当事者−支援者」の外部に対して「当事者の権力」を利用していないか?
そのことを、「自戒の念」を持って意識し続けなければならないのではないかということを、あの場で提起をしたかったのです。

わたしたちが過去の運動から学ぶとすると、それは特定の運動団体に対する批判としてあらわれるのでは決してないのだと思います。そうではなくて、ある「当事者」とされる人と、そこにつながる支援する人たちの「関係性」の中から学ばなくてはならないんだと思います。
例えば、部落問題について考えるならば、解放同盟のみが悪者になっている昨今の風潮には、わたしは強い違和感を感じます。部落問題を通じて、部落の当事者と支援者の間にどのような関係があったのかということを考える必要があると思うのです。その支援者とは、例えば解放同盟を支持する人たちであり、例えば全解連を支持する人たちであり、例えば同和会を支持する人たちであり*1、例えば同和行政に携わる人たちであり、その他、わたしの思いつかないところにいるであろうさまざまな人たちなわけです。
そうした「支援者たち」こそが、実は「当事者(団体)」との間に共依存の関係をつくり、「当事者の持つ権力」を利用してきたのではないだろうかという提起なんです。

トランスジェンダーの子どもたちにかかわる支援者として、あるいは部落の子どもたちにかかわる支援者として、あるいは在日外国人の子どもたちにかかわる支援者としてのわたしは、そのことを心に刻みながら「支援者」としてのわたしの立ち位置を考えていきたい。
そういうことを、あの場で言いたかったんですよね。
と書いても、すでに時遅しかなぁ…。

*1:例えば、選考採用と言われるものは、いずれの団体にもありました

奇跡だな

ネットカフェを6時にスタート。始発の新幹線は6時20分。
京都駅で降りて地下鉄に乗りかえて、いったんお家へ。小雨がぱらついています。最悪です。
でもとりあえず、バイクに乗りかえて、職場へ。
始業5分前に到着。マジ、奇跡ですわ。

そうは問屋がおろさない

ウトウトとして、ふと目が覚めました。「あ、乗り越す!」と思い新幹線を飛び降りました。
と、そこは新横浜。走り去る新幹線。帰れませんorz。
しゃーないので、H井さんに電話。「今晩泊めていただけませんか?」「いいですよ〜、新宿まで来て下さい」
とりあえず、品川までもどります。
と、ちょっと待てよ?東京に今晩泊まったら、あしたの朝、仕事に行けへんやん…。
再度H井さんに電話。「やっぱり名古屋まで行きます」。迷惑なヤツでした。
品川で名古屋行き最終のひかりに乗ります。
で、名古屋到着。まずは腹ごしらえです。ちょうど吉野家があったので、牛丼を食べます。もちろん、ビールは入りません(笑)。
続いて今夜のねぐら探しです。ありましたありました。ネットカフェ。1575円で一泊できます。よかったよかった。
明日は始発の新幹線だな。