人権の専門家

よく職場で「人権の専門家」とか言われます。たぶん、ものすごくいろんな意味が込められてるんだろうと思います。まぁ「鬱陶しい」とか「めんどくさい」とか「好きもの」とか、その他諸々(笑)。
でも、ずっとわたしは「人権の専門家なんていないよ」と思ってきたのですが…。
あえて「人権の専門家って存在する」って言ってもいいような気がしてきました。
例えば…。
野球の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
じゃ、人権の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
たぶん同じです。でも、前者は専門家として自他ともに認めることは可能かもしれないけど、後者はどこかに「?」が入り込む。
ま、野球は普遍ではなくて人権は普遍ってことはあるかもしれない。でも、そこでいう普遍さと専門性の有無は少し違う。
で…。
おそらくは専門家同士の間には、いろんなことはあるだろうけど、やはり謙虚さと尊敬がある。例えば、人権を専門的に追求している人たちの間にもそれはたぶん(笑)あります。
逆に言うなら、専門家と非専門家の間には専門家同士の間にある「それ」はなかなかない。なぜなら、「わからない」からです。
そして、イーブンに論議をしようとする。でも、それはきついと思うのです。

これ、教育を語るときにも同じようなことがある気がします。
なんか、「教育」も「人権」も、いまや居酒屋談義で語れてしまうレベルって意味で、同じなのかもしれない。

打ち合わせ

今日は、とある講演会の打ち合わせ。いや、わたしが打ち合わさせていただく側です。
打ち合わせの中で、「その課題」についていろいろ話を聞かせてもらいました。ほんとに、自分が何もわかっていなかったことに気づかされます。だからこそ、もっと聞きたい、もっと知りたいと思いますよ。でも、もっと聞きたければ、もっと知りたければ、やはりそれなりの自分からの「対価」を払わなくてはなりません。自分の中から「絡み合う経験」を探します。
「絡み合う経験」と「同じくらいのしんどさの経験」は、まったく違います。後者を出すのは不可能です。前者は…。それを「絡み合う」と相手が認めてくれれば大丈夫。じゃあどうすればそれを「絡み合う」と考えてくれるのか。それは、その経験を出す側が謙虚さと誠実さを持って出していることが伝われば、きっとそう受けとめてもらえる。じゃ、どうすれば謙虚さと誠実さを持てるのか。それは「自分が正しくあろう」と思わないこと。自分が不完全であることを引き受けること。そして、そういう自分を掘ること。
なんか、そんな気がします。
で、つながる。そして、互いに互いをさらに深く掘る。

そんなことを実感するひとときでした。とても心地よかった(^^)。

あとからジワジワくる

ふいに出会ったフォビアは、その瞬間は「キョトン」なんですけど、あとからジワジワきます。そしてそれはなかなかひかない。もしかしたら、一生ひかないかもしれませんね。仮にひくとしたら、そのフォビアを打ち消す「なにか」があった時、それに相殺される感じで消される。
「ひく」という受動ではなく「消す」という能動。そこには打ち消してくれる「他者」と、消そうとする「わたし」の両者の意志が働く。
いや、「消す」は消えるからなくなることになる。そうではなくて、そこに存在し続けるけれども、「つ」になるということ。「無化」かな。

とりあえず、まだ「つ」にはなってないけど、「やる」ことが「つ」へとつながる行為。そこに「他者」はいるはず。そしてすでにいる。

とりあえず書く

とにかくひとつ仕事が決着ついたので、次のタスクに移ります。
考える→探す→読む→考える→書く。
ひたすらこの繰り返しです。でも、これをしないことにはどうしようもない。山のいただきはまだまだ遠方にあります。たまには顔をあげて山のいただきを見たい気がするけど、それをやったら「雑念」が混じります。とにかく一歩一歩前へ進むこと。

焦り

朝起きると、案外すっきりしてます。昨日の夜、さっさと寝たのがよかったのかなぁ。
とりあえず職場へ。先週、とにかく用事をひとつ終わらせたので、今週は中頃までもうひとつの用事をガシガシやることにしてます。が、これがなかなか前へ進まない。困ったなぁ…。焦ります。
そんな時間のところどころに本務が入ってきます。これはこれで、そろそろ時間がなくなってきました。いや、のんびりやろうと思ったら、それはそれでできるのですが、のんびりやると「あまり」の時間*1がなくなって、みんなしんどくなってしまいます。困ったなぁ…。焦ります。
あ、そう言えば、今回、担当してるものがふたつある。んー、つくる時間はあるかなぁ。困ったなぁ…。焦ります。
ま、いっか^^;;。

*1:教えあい勉強会の時間

そうか

茶店で仕事をしてきたK田さん。とある本に使うイラストのラフを見せてくださいました。
その瞬間、涙が出てきました。
もしかしたら、自分では気づいてなかったけど、メッチャしんどかったのかもしれない。

で、延々と呑む

今日はとにかく早起きしてしまったので、みなさんメッチャのんびりしておられます。てか、わたしはふとんにしがみついていたりします。ダメです。
しばらくしたら朝ごはん。K田さんプロデュースの手づくりのナンが出てきて、さらにS藤さんのおみやげのシソの実の佃煮を入れたスクランブルドエッグが出てきたりして、メッチャ豪華な朝ごはんです。
で、食べ終わってウダウダしていると、しびれを切らしたらしい人々がサクサク片づけをしはじめました。助かるなぁo(^^)o。てことで、11時頃にはテレビを見ながら雑談。
で、昼ごろに撤収です。

さてと。おたふくに移動です。
今日もお腹があまり減っていません。ほんとに食べられませんね。てことで、いつものおろしとろろをすすりながらハイボール濃い目をチビチビ。今回は小さい子どもが二人もいるので、なんかみなさん出たり入ったり。そのうちK田さんは急ぎの仕事をしに喫茶店へ行ったり。考えてみると、みんなおたふくを出撃拠点にして、三条近辺のお気に入りの場所をあちこちうろつきまわっています。フリーダムです(笑)。
4時すぎにおたふくを出て三条河原に移動です。
コンビニで飲み物買って、萊萊でぎょうざを買って。いつものダメなパターンです。日が暮れるのも関係なく、IずみちゃんとK淵さんとわたしの3人で、なぜか日本におけるトランスジェンダリズムについて語りあったりしているうちに、9時になってしまいました。
これはヤバイ。帰りましょう。
家に帰ったら
「早かったね」
って、いったいなんやねん^^;;。
そのまま撃沈です。

バリバラR

で、8時に起きて、とりあえずバリバラRを聞きます。んー、なんか、いまさらながらですが、照れますねぇ。
今回は半分は個人的な話。残り半分は交流会の話です。まぁ、基本的にあちこちで話をしている内容ではあるので、さほど新しいことを言っている感じはしないのですが、それでもいくつかは最近考えていることなんかを言ってみたりしています。
まぁ、全部聞くと30分ほどかかるので、よほどヒマがある人は聞いていただければと^^;;。
http://www.nhk.or.jp/baribara/baribarar/
あ、pdfを読むほうが早いかな^^;;。

で、玖伊屋

今日は夕方から東九条マダンの出店会議です。そうか、そんな時期かって感じです。またまた忙しくなりそうです。が、ほんまにこんなんでもつのか?
で、会議が終わったらとりあえず2階に上がってゴロゴロ。玖伊屋の準備をするにはまだ早い。
やがてIずみちゃんがやってきて、ふたりでダラダラ話。そのうちポチポチと人が来たので、さすがに準備をしなくちゃと思い、とりあえず買い出しです。
買い出し行くの、久しぶりやなぁ(笑)。
で、包丁を持ってキャベツを千切り。今日のメニューは「もんじゃもどき」と「蒸し野菜」です。
とりあえずつくった「もんじゃもどき」はどうやらドロドロ過ぎたようです。てか
「もんじゃのキャベツはみじん切りじゃなきゃないの?」
などという指摘が飛んできます。そこはそれ
「もどきだからいいんじゃない?」
という優しい声掛けもあるわけで。
で、2回目は少しゆるめにしたら、お!なんかぽいです。さらに3回目はキャベツをみじん切りにしたら、お!さらにぽいです。なんか、けっこうおいしかったなぁo(^^)o。

そんなこんなで、「塾屋とスキースタッフと教員」の話とか、「教室は劇場だ」な話とか、いろんな話をするわけです。でも、そのうちなんの話をしてるかわからないままに、なぜか時間はグングンたっていって、気がつくと3時半!
ヤバイ!今日は早く寝ようと思ってたのでした。しかも、明日は8時起き!
もう寝ましょう。

問題の所在がわからないところにわたしの問題がある

今年、職場で新たなとりくみをいろいろやっているのですが、どうもうまくいきません。いや、なんとかかんとか前へ進めてはいるのですが、うまく動かない。まぁ、わたしの準備不足とかいろいろあるのはわかっているのですが…。ただ、それだけでもないような。
基本的にはわたしは「先がわからないところ」へ突っ込んでいくのがさほど苦にならないタイプです。てか、スキーなんかだとそっちのほうが好きなくらいです。で、もちろんスキーだけじゃなくて、ものの考え方や自分の行動全般にそれはあります。ま、
「やってみなきゃわからんやろ」
「やってから考えたらいい」
って感じですか。
もちろんそうじゃない人がいることはわかっているんですが、にしてもなぁ…。みなさん、慎重です。石橋を叩かれます。なんでなんだろ…。
まぁ、いろいろ考えられます。例えば、未知のものへの不安。自信がない。あるいは、生徒の反応や動きが読めない。
その気持ちはわからんわけでもないのですが…。そのリスクを回避したいみたいで、それもわからんわけでもないのですが、収束する方向が、なんとなく
「事前に正しい知識を教えて」
ってなるんじゃないかという、漠然とした予感がするんですね。
仮に自分が話をするとして、基本、事前学習はいりません。というか、もっと言うなら「誰が来るか」もいりません。「どんな人か」もいりません。なぜなら、事前の知識によるバイアスこそが、わたしがもっとも対峙したいものだからです。あるいは、出会いと驚き、そこから生まれる気づき。そういうものこそが「学習」だろうと思っているからなんです。「事前の正しい知識」は、そういうものを根こそぎ奪ってしまう。
ある友だちがこんなメールをくれました。
「人権が予定調和として伝わることから、人権教育の形骸化や生徒たちから人権が奪われてくと思うんです。生きたものとして、人権にふれられたら、いいなぁ」
あぁ!予定調和!それです。
生徒だけでなく、教員も、予定されないところで生きるからこそ、学校はおもしろい。
なーんてことを言ってるわたしに、問題の所在はわかるわけないわなぁ(笑)。