めっちゃ久しぶりに

先日、むかーしわたしを取材してくださった朝日新聞の記者さんから
「関西行くので会いましょ」
ってメールが来ました。
わたし(たち)を取材されたあと、ブリュッセルに行かれて、いまは論説委員をされているか。うちの母親はその方のファンだし、パートナーは誇りだそうです。うん、それだけの人です。
夕方から仕事だとかで、とりあえずランチ。どこに行こうか迷いましたが、まぁここは手堅く「わかば」へ(笑)。
おいしいすじ肉とおいしいお好みをつつきながら、近況報告とか近況報告とか近況報告とか。いやぁ、2007年からすでに7年。いろんなことがありました。それはわたしだけじゃなくて、たぶん記者さんもそうなんですよね。
そんなこんなをダラダラ話をしていたら、あっという間に仕事に行かなきゃならない時間らしいです。
んー
名残惜しいけど、まぁ、また会えるかもしれないので、それまでにネタを仕込んでおこうかな。

家に帰ったら、ふいに眠くなって、爆睡。気がつくと8時です。
ありゃぁ^^;;。

佛大近辺で呑んだら〆はここでしょう(笑)

で、「反省会」。
なんか、バギやんと同じテーブルになって、気がつくとお好み焼論議になって、これはおもしろいなと。で、「またお好み焼き食べに行きましょう!」と意気投合したりするわけです。お好み焼きは人と人をつなぎます(笑)。
で、一次会終了。続いて知り合いと二次会ヘ。なかなかな裏話を聞かせてもらったりして、「中の人」はいろいろたいへんだなと。
で、やっぱりここまで来たんだから、佛大前の天一に行きたいわけです。てことで、結局天一に行って「ニンニク大ネギ大」などと口走って、一日を〆ました。
あー、うまい!でも食べ過ぎたわ^^;;。

「今、歌い語る、水平社宣言の精神」

今日はツラッティ千本主催のイベント「今、歌い語る、水平社宣言の精神」てやつです。歌うのは歌う浪速の巨人・趙博さん、語るのは水平社博物館学芸員の駒井忠之さん。で、わたしにはなにをせいと^^;;。
とりあえず、早めに会場に行って、ネタを仕込むことにしましょう。で、喫茶コーナーでパソコン開いてカチャカチャやってると、声をかけられました。うわぁ、後藤直さんだわ。
ご「組合の結成の時以来ですね」
い「もう20年近いですか…」
みたいな。そのうち趙博さんの登場です。相変わらずの存在感です。そのうち駒井さんも登場。シュッとしてはります。んー、ますます立場がない^^;;。ま、とりあえず、ネタは仕込んだので、これでウケがとれなければダメということです。
打ち合わせに行く途中、バギやんさんと少し話。
バ「はじめてお会いしますよね」
い「いやぁ、わたしは一方的に存じていますが…。はじめて歌を聞いたのは、大阪市大で久美ちゃんが話をした時で」
バ「じゃ、10年以上前ですね」
あの頃…。まだ脱毛もしてなかったよなぁ(笑)。
昼ごはんの時に堀家さんとごあいさつ。一度、お会いしたいと思っていたんですよね。というか、講演依頼をしようと思ったことがあるのでとてもラッキーでした。

で、イベント開始。司会の古川豪さん、完全にライブの司会になってます。まぁ、血が騒ぐのでしょう(笑)。
で、バギやんの歌がスタート。いきなり「インター」からですか^^;;。続いて「橋」。そして「核かく死か慈か」と続いていきます。「グーチョキパーの歌」をはさんで「ヨイトマケ」へと。そして「百年節」でライブ終了です。

さてと、出番です。
まずは駒井さんから基調講演が20分。続いてわたしです。わたしに与えられたセッションは2回。それぞれ10分。前半のセッションで仕込んだネタでウケをとる&東郷健ネタであえての局所的なツボにもっていく。ここで、いったん水平社宣言を落としておいての、後半のセッションで水平社宣言に絡めた話をするという、わたしにしては珍しく「組み立て」なんぞをしてみました。
ま、それはそれでうまくはいった気がするのですが…。バギやん、すごいわ。迫力です。「歌う浪速の巨人」であると同時に「闘う浪速の巨人」です。このあたり、光敏さんと似たところがあります。で、売られた挑発をきちんと受けとめる山内政夫さんなんかもおられて、相当に濃いぃシンポも終了です。
つ、疲れた^^;;。
でも、楽しかった(^^)。

学力と階層と文化

今日のおべんきょは学力問題のまんまんなかの話です。
鍋島祥郎さんが2001年の大阪調査をもとに書かれた「誰が落ちこぼされるのか」とセンセがかつて行なった学力と生活実態調査のふたつのデータをもとに話が展開されました。
ふたつの調査、規模も手法もまったくちがいます。かたや大規模調査、かたや学校単位の小規模調査です。ちなみに、小規模調査が劣っているわけではありません。すごくきめ細かく調査を行っているのみならず、その調査結果をいかして、今もとりくみが続いています。
にしても、ムラとムラ外の学力格差は顕著にあらわれますね。というか、より顕著なのが「敏感仮説」というやつです。
「敏感仮説」ってなにかというと、例えばこんな感じです。
荒れたクラスがあるとします。しかし、だからといって全員が学力が下がるわけではない。荒れた状況とは無関係に淡々と勉強をし、学力を獲得する生徒もいます。しかし、その「荒れ」の影響をまともにくらって学力が獲得できない生徒もいます。で、「しんどい」状況におかれているほうが影響をまともにくらいやすい。つまり、敏感であるということです。
では、この「しんどさ」っていったいなんなんだろう。それは、文化階層とどの程度関係があるか。あるいは、ムラであること(鍋島さんは「身分」という言葉を使ってましたが、センセは「ムラ文化」って言ってました)とそうでないことはどの程度関係があるか。このあたりの分析が鍋島さんの論文でした。
で、結論的には、当然のことながら文化階層と学力に相関関係があるのですが、文化階層が高い層についてはムラとムラ外はあまり差がない。ところが低くなると顕著に差が出てくる。
まさに「敏感仮説」なわけです。
まぁ、考えてみると、なんかわかる気はします。おそらくはセーフティーネットの網が荒いんです。なので、どこかにほころびができると、それを補完するものが少ないので影響をまともに受けてしまう。
「誰が落ちこぼされるのか」です。
で、これ。ムラが「劣ってる」とかいう話ではないんですね。どちらかというと、「学校文化との親和性」の話です。
こう考えると、学校文化の多様性のなさって、ほんとに問題だなぁと。でも、なぜ多様性がないかというと、多様性があったら「支配層」が困る。だって、近代の学校って、序列化・選別・階層固定のための装置なんでしょうね。
そこに身を置くものとしては、どうすればその「装置」に抗い、無化できるのかなぁ。そんなことを考えるわけです。

牛歩のごとく

「おべんきょ」って、いままでのわたしの脳みその使い方とは別の使い方をするみたいです。
わたしの今までの脳みその使い方は、どちらかというと、外界からの刺激をどんどん受けとめて、それを組み合わせながら新たなものをつくりだしていく、まぁ「目のつけどころがシャープでしょ」的なやりかたをしてました(どーでもいいけどおもしろい…)。
に対して、「おべんきょ」って、正反対に近いところがあります。外界からの刺激に反応しているとブレてしまう。もちろん刺激そのものは必要なんですが、それを過剰に取り込み過ぎると、どうやらダメなようです。のみならず、集中が途切れると、まるで強力粉でつくった餃子の皮のように縮んでしまう。いかに集中を持続するか、あるいは集中を切らなきゃならない時は、いかにそこでフリーズドライするかみたいな脳みその使い方が必要になります。
でも、そうやって深く考えると、突然目の前の雲が晴れて新たな世界が開けるみたいな瞬間があります。

てことで、「日常モード」と「おべんきょモード」の切り替えが、わたしの場合どうしても必要になります。
てことで、昨日あたりから、ようやく少しずつモードが切り替わってきたみたいです。外界からの刺激はてきとうに流して、頭の中を「考え」で満たす。そして、必要に応じてそれを瞬間冷凍して、外界と交渉する。
そうすれば、いろんなことが少しずつでも前へ進んでいきます。「牛歩のごとく」でいい。

ダウン

今日は2学年で人権学習があります。とはいえ、すべての準備は昨日終わっているので、今日はお任せする以外、できること/やらなきゃならないことは、なにもありません。でも、やはり朝はドキドキソワソワするものです。
はっきり言って、自分で使うために自分で教材をつくって、それで授業するならこんなにドキドキソワソワしません。でも、自分がつくった教材を他の人が使うとなると、ものすごく緊張します。なんか、自分の恥ずかしいものを見せて*1、しかもそれを人に評価されるみたいな。
なんというか…。出しちゃうとあともどりができないんですね。修正が効かないんです。なので、メッチャこわい。
なので、いろんな人と教材の話をします。ほぼほぼ理解をしてくれていたり、いい評価をしてくれていたりしたら、かなりホッとします。
てことで、期待と不安がひとつになりながら(笑)、午前の仕事をサクサク。
しかし、この手のことに比べたら、「授業」のなんと簡単なことよ(笑)。
で、バタバタしているうちに、どうやら^^;;人権学習も終わったみたいで、昼休み。

ところが、このあたりから、わたしの頭の中の「モード」が切り替わったみたいです。完全に頭を他のことが支配しはじめました。不思議だ。で、油の切れた脳みそがのたうちまわりながらもまわりはじめます。いやぁ、錆びついてます(;_;)。ま、今日は錆落としですね。

で、放課後は会議。
と、4時を過ぎたあたりで、いきなりダウン。爆睡です。いや、わたし、会議中に寝ることはほとんどないんです。でも、今日はダウン。
うーん。これはかなり疲れてるな…。

で、職員室に帰ると、一枚のプリントが机の上においてありました。あるクラスの学級通信でした。今日の人権学習の感想を掲載した通信を明日さっそく配られるみたいです。
そこに乗っている作文を見てると、書いた生徒たちの顔が浮かんできます。
「そっか、あいつ、あの教材でこんなことを考えてくれたんだ」
なんか、その一枚のプリントですごく癒やされました。
我ながら単純だな^^;;。
少し心が軽くなったところで、おうちに帰りましょう。

*1:それっていったいなんやねん(笑)。

とにかくこなせ!

今日は出張日。だけど、出張がない。てことは、一日雑務ができます。とはいえ、明日までにやらなきゃならないことが山になっています。
とにかく山を崩す。
考えるより先に身体を動かす。
「やるの、たいへん」
とか思っているヒマがあれば、その時間にやれば、その分だけ前へ進みます。
雑務はやれば必ず片づく。そして、手をぬかない。
そんな感じでひたすら動いていたら、終業時間間際にいきなりパワーダウン。
あり?ゼンマイが切れたかな?
てことで終了。

でも今日の仕事、ひとりではできなかったよな。
ここ数年「サブをつけてくれ」と主張し続けてきて、今年ようやく2人体制になったのが大きいわ。

脳みそ使うとおなかが減る

朝、これから当面の予定を考えます。
まずは水曜日に使うプリントの束を作成。これはチームでつくります。
それから、金曜日までのレポートがひとつ。土曜日のことも考えなくちゃならないし、来週火曜日の朝にメールしなきゃならない大切な文章もあります。
とりあえず、必要となる時期が早いものからスタート。
ふむ。
今日はけっこう冴えてます。サクサクと進んでいきます。いい感じです。
ま、考えが途中で行き詰まって、少し寄り道するのは当たり前のことではありますが(笑)。
なんだかんだで6時頃までがんばったら燃料切れです。帰ってごはん食べよう。おなか減った(笑)。

みんなどんな話をしてるんだろう…

「「伝える」という当事者」というのを、ふと「ダメダメ先輩」に伝えたところ…。先輩は
「伝えるって、難しいって考えられがちですよね」
とのたまわれて、あらためて
「そうかぁ…」
と気づいた次第でした。「伝える」って、そういう「場」を設定して(もらって)、それなりの言葉を選んで、そこではじめて「伝える」みたいなイメージがあるのかな。で、そういう「場」を与えてもらったり自分で設定したりしてる人は、そういうことに慣れてるけど、そういう機会がなければなかなか…。みたいなイメージがあるのかな。
でも、わたしが考える「伝える」はまったく違うイメージです。例えば、こないだのリビングライブラリが終わった昼休みに他のクラスの友だちとごはんを食べる。
「あんたのクラス、どんなはなしやったん?」
「うちのクラスはな、こんなんやってん。あんたのクラスは?」
みたいな会話のことを「伝える」と考えているんです。つまり、経験や出会いを自分一人のものにしない。シェアする。それを、日常の生活の場でおこなう。
それは、別に学校の中だけで存在しているわけじゃなくて、家であったり、友だちとの会話であったり、例えば就職してからの会話であったり。ありとあらゆるところで可能なわけです。

そんなことをやりとりしていたのですが、ふとダメダメ先輩が
「みんな、どんな話をしてるんだろう。なにを伝えてるんだろう」
という、これまた深遠な問いかけを返してこられました。
「例えば、子どもって家に帰って「今日こんなことがあったよ」って言うじゃないですか。でも、だんだんそれがなくなる。大人になって、みんなどんな会話をしてるんだろう」
なるほど…。

で、振り返って、職場で自分はどんな会話をしてるんだろう…。お、思い出せない^^;;。仕事の話。昨日飲みに行った話。んー、他愛もない話です。こんなことは「伝える」ではない。
昨日のテレビの話。そこで考えたこと。
あるいは昨日のカウンターの話。そこで聞いたヘイトスピーチの話。ビラを受け取ってくれた人の表情。終わって飲みながらしゃべった在日の友だちの話。
うん。伝えたいのはこっちです。
何が違うんだろう…。
「考え」を伝える?経験や出会いをそのまま伝えるのではなく、それを通して考えたことを伝える。あ!それか…。

そう言えば、こないだのリビングライブラリの講師さんのレジュメの中に「考えるのをやめないこと」っていう一文があったな。
あれなのかな…。

映画「SAYAMA」

今日は、おべんきょ仲間がやっている自主上映会で「SAYAMA」が上映されるとか。てことで、行くことにしました。
2時半開始ということで、昼ごはんを食べ終えて大急ぎで行ったのですが、3時半からとのこと。まぁ、やることはないわけではないので、雑事をしながら時間つぶし。
で、3時半から見はじめました。

狭山事件というか、狭山差別裁判というべきか。
当然のことながら知ってはいるし、もっと言うなら授業でとりあげたこともあるし。さらにいうなら、1991年かな。狭山現調に行ったこともあるし。
てことで、基礎知識的なことは、まぁいまさらなわけです。ただ、狭山のことをそれほど日常的に意識し続けているわけではありません。なので、あらためて見る中で「あぁ!そうだよなぁ」ということが多々ありました。
それからもうひとつ。石川さんと早智子さんが普通に生活をしている場所に行き、その日常も含め映像にしている。あ、もちろん、カメラが入った時点で「日常」ではなくなるのですが、それも含めて「日々の暮らし」が映されている。これは二重の意味で衝撃的でした。ひとつは「石川さんにも日常がある」という当たり前のこと。そしてもうひとつが「その日常の中にあまりにも再審請求闘争が深く入り込んでいる」ということです。
もちろん、頭では理解できます。が、それを映像として目の前に出された時、やはりそれは衝撃的なわけです。

この映画を「映画」として見た時、実はよくわからないところがないわけではないです。まぁ、わたしは映画ファンではないのでよくわからないのですが、「狭山差別裁判」あるいは「石川一雄さん/早智子さん」という強いテーマ性をもったものが題材であるだけに、すごくつくりにくいんじゃないかなと思いました。それだけに「ストーリー」があるのかないのかわからない。それに起因する「散漫さ」というものを感じなかったわけではありません。
が、それを越えて、解放運動の弱体化とともに存在そのものが忘れられてしまうのではないかということが危惧されるいま、やはりこの映画が「そんないま」つくられた意味はすごくあるなというふうに思いました。