京都市の道路事情

最近雨の日が多いです。朝、雨が降っていると、しゃーないので車で通勤をします。ところが、これがなかなかなんです。というのは、まぁかんたんに言うならば、京都市の市街地をほぼ完全に縦断するのが通勤ルートなんですね。
で、京都市の道路事情で感じたことを数点あげると…。

  • 道が狭い。

たぶん都市計画をした時点では広かったんだろうけど、いまやもう…。しかも、すでに広げられません。まぁひろいなぁと感じられるのは御池通堀川通りだけかなぁ。

  • 右折車線がない

これも「道が狭い」の延長ですが、マジでないです。とくに、東大路。

  • 駐車車両が多い

たぶん店をつくった時点では必要なかったんだろうけど、いまはもう…。しかも、あらたに駐車場を設置するほどの土地はありません。それにしても、コンビニごとに駐車車両があるのはなぁ…。

  • タクシーが多い

まぁ、観光都市ということでしゃーないのかもしれませんね。それにしても、田舎から引っ越してきたわたしにとっては、異様ですわ。

  • 朝から観光バスが走ってる

おそらく配車のためなんでしょうけど、4〜5台でコンボイしていますから。

  • 路線バスが多い

鉄道網がまったくと言っていいほど発達していませんから、いきおい路線バスに頼らざるを得ないんですね。たしかに公共交通機関を使うのがベストかもしれませんが、路線バスを使って通勤したら何時間かかるやら…。てか、着かないし(笑)。

  • バイクが多い

京都は学生の街ですから、当然バイクがたくさん走っています。ただ、原チャが多いので、遅いのなんのって。じゃなければ、ハーレーとかビッグスクーターとか。これがまた場所をとる。

  • 朝から白バイが張っている

ポイントは3箇所。なかでも、「女坂」の出口には4台ほどの白バイがいることがあります。他にも「こんなところ(涙)」みたいなところにいますね。前に、ある下り坂の側道にひっそりと隠れているのをちゃっかり見つけたら、白バイさん、悔しそうな顔をしてこっちを見ていました。

てなことで、京都の街中を走るコツは、駐車車両や右折車両をよけるバスをよけながら、後ろから追い越して前をふさぐバイクをよけながら、左右の死角にいるかもしれない白バイに注意をして、ガシガシ走るという感じでしょうか。あー、ストレスがたまる。

折りあい…

ここに「いつきはGIDトランスジェンダーはどこで、どう折りあいをつけているのか」というメールが来たと書きました。実は、まだ返事が出せていません。ただ、ぼんやり考えていたのことが少しまとまってきたので、忘れないうちにいま書ける範囲で…。
「折りあい」という言葉を聞いたとき、「むずかしいなぁ」と思いました。なんでだろうとずっと考えていたのですが、ようやくわかりました。わたしにとって、「GID」と「トランスジェンダー」は対抗概念ではないんですね。むしろ位相の異なる概念なんです。なので「折りあいをつけている」という感覚が、すごく希薄なんです。
と、ここまで書いて、行き詰まってきたので、続きはまた今度…。はぁ…。

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「趣味」って言っても、どこまでが趣味でどこまでが仕事かわからないのがわたしの状態です。でも、まぁ、学校の公務以外はすべて趣味でしょうね。
てなことで、「趣味」の一環でテープ起こしなんぞをやっていました。テーマは「教科書問題」です。上杉聰という人の講演なんですけど、なかなかコンパクトにまとまっていておもしろいです。ただ、内容は「おもしろい」なんてのんびりしたことは言っていられないわけで、現在えげつない状況が進んでいるというのがよくわかりました。
でも、一方で、「いま・ここ」にいる、「わたしたち」がその状況をなんとかしなくちゃならないんですよね。60年の教科書に「いま」を書かれるときの記述が、「2005年は、すでに戦前のまっただなかだった」とならないためにね。

久しぶりのチャンゴ

実は、かれこれ12年ほど前から農楽・サムルノリをウトロのオモニたちと一緒にやっています。かつては、毎週練習をしたりしていたのですが、ウトロのオモニの高齢化とか、状況の変化の中で、最近はめっきり練習もせずに、ほどんど叩かない状態になっています。
ところが、ここ2〜3年、ウトロのお友だちがやっている韓国舞踊のスタジオがちょこちょこと呼ばれて公演活動をしておられて、わたしも「一緒に叩かない?」と誘ってもらいまして、たまぁに叩くようになってきました。で、そんな流れでの、久しぶりの練習。
練習場所に行ったら、半年ぶりくらいの人たちですが、かわらない顔ぶれです。みなさん、プチェチュムなんかの練習をしておられます。じっくり見たら、とても難しいんですね。楽器だと適当に修正が効くんですけど、踊りはそうはいかないんですね。こりゃぁたいへんだ、と。
で、サムルノリの練習。はじめは「プクを叩いて」と言われたので、プク(いわゆる大太鼓)の担当。いやぁ、ストレスの発散にいいです。しかも、なんか韓国から直輸入のすごい楽器みたいで、音がはねるはねる。ノリノリで叩いてしまいました。うるさかったやろなぁ。
次に「チャンゴ叩いて」と言われたので、チャンゴ(鼓みたいな形をしていて、横向けに置くいて叩く)の担当。こちらがたいへんです。チャンゴって、右手(ヨルチェ・竹でできているバチ)と左手(クンチェ・先っちょに丸いのがついた棒)を使いわけるんです。ちなみに、クンチェは左の面を叩いたり右の面を叩いたりかなり忙しいです。パッと見はクンチェが大変そうなんですけど、じつは、ヨルチェがむずかしいんです。さまざまな表情がつくれたり、複雑な音色を出すことができるのはヨルチェなんですが、これがなかなかうまく動かない。完全に冷や汗をかきながら叩いていました。
てなことで、数回叩いたら、腕がすでにダルダルです。でも、気持ちいいというかなつかしいというか。最近在日外国人の子どもたちのつきあいって、新渡日の子どもたちばっかりになってきていて、朝鮮文化とふれる機会がめっきり減っています。でも、自分の原点はここだったんだなぁとあらためて思います。
練習が終わったら、コーヒーを飲みながら「打ちあげどこでやろう」とかのしょーもない話。みんな遊ぶのが好きですわ。そりゃぁ、朝鮮人の女性はいろんな苦労をしてきてるやろうからなぁ…。途中、「温泉に行こう」みたいな話でひとくさり。「でぇ〜」と思っていると、「先生、温泉やったら、ぜったい行きたいやろ!」とツッコミ。「うん、一緒に入ろね!」と返すと、みなさん「わはは」です。のんきな雰囲気でええなぁ。
さてと、あと2週間ほどで本番。ちょっとたたけるように練習しなくちゃ…。

キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

昨日の文章を送ったら、次のような返事が返ってきました。

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で、いつきさんにとってGIDトランスジェンダーはどこで、どう折り合いが付くんでしょうか(ちなみに乱暴なワタシはGIDの診断書こそ持っているものの、これは世間を渡る手形にすぎず、GIDなどそもそも信じていない)。

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ふみゅぅ〜。まぁしばし考えて返事を書こうかなぁ。そいつをまたここに転載する予定です。

「選べない」ことと「選ぶ」こと

 最近、「GIDは先天的な病気(例の脳内シャワー論)」→「逆の性の教育、社会訓練を与えても従わない(ブレンダ)」→「すなわち、そもそもジェンダー(文化、社会的性)なるものは虚妄」→「生得的な性(セックス)による伝統は正しい」という論が、一部ではやっているとか。論理展開にかなーりウルトラC(死語)が入っているような気がするし、ところどころ本の「つまみぐい」をしている(これは、わたしの得意技・笑)気がしますが、「一部」というのが放っておくとろくでもない人たちなようです。で、ある人からコメントを求められたので、ちょっと文章をひねってみました。こんなんです。

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 よく、「被差別」の立場にある人たちが「自分は好きで(こういう環境・身体etc)に生まれたんとちゃう!」と言うことがあります
 この言葉を聞くたびに思うことは「(例えば部落外である/日本人である)わたしも、好きで(部落外に/日本人に)生まれたんとちゃうけどなぁ…」ということです。でも、そう思いながらも、この言葉をはいたとして、先のような主張をする「被差別者」と「つながれる」とは思えないので、たいていは「うんうん」とわかったような顔をして聞くことにしています。
 そんなわたしに、ある部落の人がこんなことを言いました。「自分は部落出身という生まれは選べなかった。でも、部落として生きることは、自分が選んだことだ」。この言葉を聞いたとき、わたしにものすごい衝撃が走ったことを、今でもおぼえています。

 もちろん、例えば「部落に生まれた/生まれなかった」ことによって、「在日に生まれた/生まれなかった」ことによって、生き方が大きく左右されるでしょう。しかし、部落に生まれたからといって、在日に生まれたからといって、みなが同じ生き方をしているでしょうか。あるものは、自分の出自を隠すという生き方をします。しかし、あるものは自分の出自を明らかにしながら、他の人とつながりあっていく生き方を選んでいます。そうしたたくさんの生徒たちと、わたしは出会ってきました。

 わたしは、トランスジェンダーです。しかし、わたしが「生まれながらに」トランスジェンダーであるかどうかについては、とても疑問です。小さいときから、女性の肉体への同一感があったことは確かです。そうした一連の記憶は、DSMなりICDの診断基準を満たしているらしく、わたしには「性同一性障害」という「病名」をつけられています。しかし、時として恐ろしくなります。それは、「ほんとうに自分はそうなんだろうか」という、後もどりできないことへの恐怖です。
 しかし、いま、わたしはトランスジェンダー「として」生きています。この生き方は、「選んだ」生き方です。先の部落出身の人の言葉を借りるならば、「わたしは性同一性障害に生まれた(眉唾・笑)ことは選べなかった。でも、トランスジェンダーとして生きることは、わたしが選んだことだ」ということになります。

 すべてを「生まれ」のせいにすると、とても楽です。なにしろ、自分の生きざまの中で出会うすべてのことについて、自分には責任がなく、すべては「生まれ」のせいにできるからです。しかし、この生きざまは「自分で選んだ」とすると、その結果起きることすべては、わたしに責任があります。だからこそ、どう生きていくか、真剣に考え、真剣に悩みます。そして、その結果に喜びがあります。

 「生まれによってすべてが定まる」という価値観は、あまりにも短絡的で、あまりにも無責任すぎるのではないでしょうか。
 たしかに、わたしは「男性の身体に/性同一性障害として/日本人として/部落外として/経済的に恵まれた家庭にetc」生まれました。しかし、いま、自分が生きている生き方は、さまざまな紆余曲折を経て、自分自身で選んできました。もちろん、そこには自分の生得的な属性によるさまざまなバイアスがあるであろうことは、容易に想像できます。しかし、そうしたバイアスがあるかどうかについては、「女性の身体に/性同一性障害ではなく/在日として/部落として/経済的にしんどい家庭にetc」生まれた人たちとの出会いの中で、少しずつそれがバイアスによるものであることを確認してきました。そして同時に、世界に一人だけの「わたし」という存在がここにいることを、やはり確認します。そういう自分を、いまようやく「ちょっとはええヤツかな」と思えるようになってきました。

 「生まれは選べない。でも、生き方は選ぶこと」。ここからスタートするとき、おそらくそんな他者と「つながる」第一歩が踏み出せるのではないかと思います。

***

 う〜ん、たいした文章じゃないなぁ。やっぱ50分で考えて(試験監督中・ヒマだし、内職ができない。なので、なにかを考えてしまう時間なんです)+30分(具体的に文字をひねり出している時間)では、ダメダメですね。はぁ…。

急ごしらえの晩ご飯

 家に帰ったら、パートナーは「犬の散歩に行かなくっちゃ!」と出て行きました。その時すでに6時半。てことは、私が晩ご飯をつくらなければ食べるのは8時だな(ちょっとオーバー)と思ったので、とりあえず晩ご飯づくりです。
 なんでも、予定としてはとり肉のハーブ煮込みをしたかったようなので、わたし流で。
 まずは、とり肉にスパイシー系の塩と粗挽きのこしょうをかけて混ぜます。一方で、にんじん・タマネギ・ジャガイモ・パセリ・セロリを切っておきます。ニンニクとベイリーフ、タイムもあるといいですね。
 まずとり肉をオリーブオイルで炒めて、焼き色をつけます。そこに野菜とかなんとかをドババと入れて、白ワインをドババと入れて、ふたをして20分。完成です。
 待っている間にサラダ。キャベセン・にんじんの千切り・スライスオニオン・パセリのみじん切りにスパイス系の塩と粗挽きのこしょうを少々、ワインビネガーとオリーブオイルをちょろっと入れてあえます。皿に盛りつけて、スライスしたトマトをあしらったら完成。
 盛りつけてみると、けっこうスープが出ています。ジャガイモのでんぷんがスープに混じって、なかなかグッドでした。

なんだこりゃぁ!

 お仕事リスト…。

  1. 各クラスノート提出の受け取り
  2. テストの巡回と解答を担当者に配布
  3. 採点
  4. こないだのセミナーの後始末
  5. あしたの合宿前健康診断の連絡
  6. 研究会レポートの作成(15日まで)
  7. 各種レジュメ作成→送付
  8. 5月のセミナーのテープ起こしとこないだのセミナーのテープ起こし

 ふう、どれが落ちるかな…。って、落とすわけにいかないもんばっかりじゃん!しかも、「電話をくれ」という人にかけてもずっと話し中だったりするし…。
 さて、出張だ…。

『トラ宣』より引用

●TG自助グループの約束事
1、性器形成術や性ホルモンをはじめとする身体の変更について。
 どうしてもそれが必要な人たちがいる。また一方で、身体的性別違和があっても、手術や性ホルモン使用を我慢できる人もいる。しかしだからといって、そういう人がTSでないとか、性同一性障害や身体的性別違和がないとか軽いとは限らない。
 また逆に、手術しなければ生産的な人生を始められない人たちがいる、という事実を否定してはならない。そういう人たちは我慢や工夫が足りない、という考えは間違っているし、事実にも反している。

2、フルタイムとパートタイムの生活について。
 私たちのなかには、”フルタイム”と呼ばれる、自分の望む性別でずっと生活している人たちもいる。また一方で男性モードと女性モードを行き来する、”パートタイム”という人たちもいる。
 フルタイムになりたいのにさまざまな事情でそうできない人たちや、女性としての自分も男性としての自分も捨てることができない人たちもいる。しかしフルタイムの人たちが、それによってたとえ仕事や収入、家族や社会との関係を犠牲にしているからといって、我慢が足りないとか甘えている、ということにはならない。
 また逆に、パートタイムの人たちが、そういう生活をなんとか受け入れられていたり、あるいは安住していたり、時にはそれを楽しんでいるからといって、性同一性障害や社会的性別違和がないとか軽いとかいうことは限らずしもいえない。

3、パスとノンパスについて。
 ”パス”とは自分の望む性別で人から見られることである。私たちの多くはそれを望んでいる。でも、身体上のさまざまな制約から、そうは見られないで”ノンパス”(リード)となっている場合も少なくない。またそもそもパスを望んでいなかったり、優先順位がかなり低い”クイア派”という人たちもいる。
 ノンパスやクイア派の人たちが、自分の望む性別のスタイルで外出したり、フルタイムになったり、時にはマスコミに出たりすることさえある。また逆に、「自分はパスできないから」という理由で、そういったことをしない人たちもいる。しかしそれは、その人その人の価値観や置かれている状況によって、それぞれが判断すべきことであって、他者に自分の判断を押しつけてはならない。

4、プロセス派とノンプロセス派。
 性同一性障害や性別違和を抱えている当事者のなかには、”普通の女性”や”普通の男性”に同化し、溶けこんでしまいたいと考え、”トランス”ということが、そうなるまでのプロセスに過ぎない人たちがいる。また逆に、”男でも女でもない状態”が、むしろその人本来の状態に近くて、それで安定した気持ちで生活を送れるという人たちもいる。それはどちらが正しいとか間違っているとか、優位であるとか、私たちの課題の中心であるとか周辺であるとかいう問題ではない。

5、不幸くらべはやめよう。
 ”トランス−性別を越えること”は、現代の日本ではとても困難で大変なことである。どういう選択をしても、それがイバラの道であることに代わりはない。誰もが苦しみ、困難に直面している。ただ、その内容が大きく違っているだけだ。
 自分(たち)だけが特別苦しんできたとか、自分以外の誰かがよりお気楽に見えたとしても、それは必ずしもそうとは限らない。”不幸くらべ”や”不幸自慢”は、生産的なものを何も生み出さない。そうすることによって自分自身も傷つき、まわりの人も傷つき、そのあげく、ただ人間関係を損なう結果にしかならない。

6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。
 性同一性障害や性別違和を抱えているからといって、みんな同じではない。優先順位がみんな違う。身体の変更が優先する人もいれば、フルタイムの生活が優先する人もいる。それが衣服であるという人もいる。パートナーとの関係が優先する人もいれば、仕事や家庭が最優先という人もいる。それはNon−GID性同一性障害のない人)の人たちを見れば当然のことであり、よくわかるはずだ。
 トランスという大事業に必要なのは、それぞれの人にとって、何が最優先のことなのか、自分が何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか、それをはっきりさせること。そして、自分を基準にして、ほかのメンバーに特定の選択や価値観を押しつけないことである。
 何を選択するべきか、人によってみんな違う。自分の状態や価値観からなされた判断を他者に押しつけることは、この自助グループを崩壊に追いやるだろう。

***

 わたしにこの「約束事」を教えてくださったのは、あるトランスセクシュアルの人です。特に、「6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか」という言葉が突き刺さりました。当時そのことをぜんぜん決められなかったし、それをやってきたその人と自分を比較した時、「自分はあかんなぁ」と思ってしまったんですね。それは、いまでもさほど変わることがありません。なにが違うかというと、まぁ自分にも捨ててきたものがあるなぁと気づいたことがある、と、その程度です。
 この約束事、先日ある掲示板に引用されて「好きだ」という人が結構いたんですけど、わたしはいまだにこの約束事を読むと、厳しい刃を向けられたような、苦しい気持ちになります。

出前授業

 よその府県ではどうか知りませんが、京都の場合、ずいぶんと薄くなったものの、まだ高校に「地域」というものが残っています。「地域」って、小学校や中学校の場合「大切」って言われますが、実は高校でもとっても大切なんじゃないかなぁと思います。
 ということで、ウチの校区のある中学校とはずいぶんと長い間中・高連携をしていまして、その一環として高校教員が中学校3年生を教えに行くという「出前授業」があります。ウチの学校では、毎年いろいろな人が行くようにしているのですが、今年はわたしにまわってきたので、久しぶりに行くことにしました。
 なににしようかなぁと、昨日の晩考えていたのですが、「ポン」と思いついたのが、手品です。これ、けっこうはまります。例えば…

手品1

 3つのさいころを振ります。出た目を3つ足します。そのうちの一個を裏返して、その目も足します。さらに、裏返したさいころを振って出た目を足します。これが最終結果。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残った3つのさいころから、最終結果がわかります。

手品2

 新しい紙マッチを用意します。まず、一桁の数を思い浮かべて、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチの本数を数えて、1の位と10の位を足して、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチから、好きな分だけマッチをちぎって握ってもらいます。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残ったマッチから握ってもらっているマッチの本数がわかります。

手品3

 ひもで手錠のようなものをつくって自分の手にかけます。それと交差するように、もう一人も手錠のようなひもを手にかけます。上に布をかぶせてしばらくごそごそやると、縄抜け完了。

 これらは、すべて数学的(算数的)に説明できるんですよね。
 生徒たちは、「数学なんてなんの役に立つの?」とよく聞きますが、なんの役にも立ちません。でも、見ている人に楽しんでもらえたら、それでもいいんじゃないかなぁ…。