キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

昨日の文章を送ったら、次のような返事が返ってきました。

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で、いつきさんにとってGIDトランスジェンダーはどこで、どう折り合いが付くんでしょうか(ちなみに乱暴なワタシはGIDの診断書こそ持っているものの、これは世間を渡る手形にすぎず、GIDなどそもそも信じていない)。

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ふみゅぅ〜。まぁしばし考えて返事を書こうかなぁ。そいつをまたここに転載する予定です。

「選べない」ことと「選ぶ」こと

 最近、「GIDは先天的な病気(例の脳内シャワー論)」→「逆の性の教育、社会訓練を与えても従わない(ブレンダ)」→「すなわち、そもそもジェンダー(文化、社会的性)なるものは虚妄」→「生得的な性(セックス)による伝統は正しい」という論が、一部ではやっているとか。論理展開にかなーりウルトラC(死語)が入っているような気がするし、ところどころ本の「つまみぐい」をしている(これは、わたしの得意技・笑)気がしますが、「一部」というのが放っておくとろくでもない人たちなようです。で、ある人からコメントを求められたので、ちょっと文章をひねってみました。こんなんです。

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 よく、「被差別」の立場にある人たちが「自分は好きで(こういう環境・身体etc)に生まれたんとちゃう!」と言うことがあります
 この言葉を聞くたびに思うことは「(例えば部落外である/日本人である)わたしも、好きで(部落外に/日本人に)生まれたんとちゃうけどなぁ…」ということです。でも、そう思いながらも、この言葉をはいたとして、先のような主張をする「被差別者」と「つながれる」とは思えないので、たいていは「うんうん」とわかったような顔をして聞くことにしています。
 そんなわたしに、ある部落の人がこんなことを言いました。「自分は部落出身という生まれは選べなかった。でも、部落として生きることは、自分が選んだことだ」。この言葉を聞いたとき、わたしにものすごい衝撃が走ったことを、今でもおぼえています。

 もちろん、例えば「部落に生まれた/生まれなかった」ことによって、「在日に生まれた/生まれなかった」ことによって、生き方が大きく左右されるでしょう。しかし、部落に生まれたからといって、在日に生まれたからといって、みなが同じ生き方をしているでしょうか。あるものは、自分の出自を隠すという生き方をします。しかし、あるものは自分の出自を明らかにしながら、他の人とつながりあっていく生き方を選んでいます。そうしたたくさんの生徒たちと、わたしは出会ってきました。

 わたしは、トランスジェンダーです。しかし、わたしが「生まれながらに」トランスジェンダーであるかどうかについては、とても疑問です。小さいときから、女性の肉体への同一感があったことは確かです。そうした一連の記憶は、DSMなりICDの診断基準を満たしているらしく、わたしには「性同一性障害」という「病名」をつけられています。しかし、時として恐ろしくなります。それは、「ほんとうに自分はそうなんだろうか」という、後もどりできないことへの恐怖です。
 しかし、いま、わたしはトランスジェンダー「として」生きています。この生き方は、「選んだ」生き方です。先の部落出身の人の言葉を借りるならば、「わたしは性同一性障害に生まれた(眉唾・笑)ことは選べなかった。でも、トランスジェンダーとして生きることは、わたしが選んだことだ」ということになります。

 すべてを「生まれ」のせいにすると、とても楽です。なにしろ、自分の生きざまの中で出会うすべてのことについて、自分には責任がなく、すべては「生まれ」のせいにできるからです。しかし、この生きざまは「自分で選んだ」とすると、その結果起きることすべては、わたしに責任があります。だからこそ、どう生きていくか、真剣に考え、真剣に悩みます。そして、その結果に喜びがあります。

 「生まれによってすべてが定まる」という価値観は、あまりにも短絡的で、あまりにも無責任すぎるのではないでしょうか。
 たしかに、わたしは「男性の身体に/性同一性障害として/日本人として/部落外として/経済的に恵まれた家庭にetc」生まれました。しかし、いま、自分が生きている生き方は、さまざまな紆余曲折を経て、自分自身で選んできました。もちろん、そこには自分の生得的な属性によるさまざまなバイアスがあるであろうことは、容易に想像できます。しかし、そうしたバイアスがあるかどうかについては、「女性の身体に/性同一性障害ではなく/在日として/部落として/経済的にしんどい家庭にetc」生まれた人たちとの出会いの中で、少しずつそれがバイアスによるものであることを確認してきました。そして同時に、世界に一人だけの「わたし」という存在がここにいることを、やはり確認します。そういう自分を、いまようやく「ちょっとはええヤツかな」と思えるようになってきました。

 「生まれは選べない。でも、生き方は選ぶこと」。ここからスタートするとき、おそらくそんな他者と「つながる」第一歩が踏み出せるのではないかと思います。

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 う〜ん、たいした文章じゃないなぁ。やっぱ50分で考えて(試験監督中・ヒマだし、内職ができない。なので、なにかを考えてしまう時間なんです)+30分(具体的に文字をひねり出している時間)では、ダメダメですね。はぁ…。

急ごしらえの晩ご飯

 家に帰ったら、パートナーは「犬の散歩に行かなくっちゃ!」と出て行きました。その時すでに6時半。てことは、私が晩ご飯をつくらなければ食べるのは8時だな(ちょっとオーバー)と思ったので、とりあえず晩ご飯づくりです。
 なんでも、予定としてはとり肉のハーブ煮込みをしたかったようなので、わたし流で。
 まずは、とり肉にスパイシー系の塩と粗挽きのこしょうをかけて混ぜます。一方で、にんじん・タマネギ・ジャガイモ・パセリ・セロリを切っておきます。ニンニクとベイリーフ、タイムもあるといいですね。
 まずとり肉をオリーブオイルで炒めて、焼き色をつけます。そこに野菜とかなんとかをドババと入れて、白ワインをドババと入れて、ふたをして20分。完成です。
 待っている間にサラダ。キャベセン・にんじんの千切り・スライスオニオン・パセリのみじん切りにスパイス系の塩と粗挽きのこしょうを少々、ワインビネガーとオリーブオイルをちょろっと入れてあえます。皿に盛りつけて、スライスしたトマトをあしらったら完成。
 盛りつけてみると、けっこうスープが出ています。ジャガイモのでんぷんがスープに混じって、なかなかグッドでした。

なんだこりゃぁ!

 お仕事リスト…。

  1. 各クラスノート提出の受け取り
  2. テストの巡回と解答を担当者に配布
  3. 採点
  4. こないだのセミナーの後始末
  5. あしたの合宿前健康診断の連絡
  6. 研究会レポートの作成(15日まで)
  7. 各種レジュメ作成→送付
  8. 5月のセミナーのテープ起こしとこないだのセミナーのテープ起こし

 ふう、どれが落ちるかな…。って、落とすわけにいかないもんばっかりじゃん!しかも、「電話をくれ」という人にかけてもずっと話し中だったりするし…。
 さて、出張だ…。

『トラ宣』より引用

●TG自助グループの約束事
1、性器形成術や性ホルモンをはじめとする身体の変更について。
 どうしてもそれが必要な人たちがいる。また一方で、身体的性別違和があっても、手術や性ホルモン使用を我慢できる人もいる。しかしだからといって、そういう人がTSでないとか、性同一性障害や身体的性別違和がないとか軽いとは限らない。
 また逆に、手術しなければ生産的な人生を始められない人たちがいる、という事実を否定してはならない。そういう人たちは我慢や工夫が足りない、という考えは間違っているし、事実にも反している。

2、フルタイムとパートタイムの生活について。
 私たちのなかには、”フルタイム”と呼ばれる、自分の望む性別でずっと生活している人たちもいる。また一方で男性モードと女性モードを行き来する、”パートタイム”という人たちもいる。
 フルタイムになりたいのにさまざまな事情でそうできない人たちや、女性としての自分も男性としての自分も捨てることができない人たちもいる。しかしフルタイムの人たちが、それによってたとえ仕事や収入、家族や社会との関係を犠牲にしているからといって、我慢が足りないとか甘えている、ということにはならない。
 また逆に、パートタイムの人たちが、そういう生活をなんとか受け入れられていたり、あるいは安住していたり、時にはそれを楽しんでいるからといって、性同一性障害や社会的性別違和がないとか軽いとかいうことは限らずしもいえない。

3、パスとノンパスについて。
 ”パス”とは自分の望む性別で人から見られることである。私たちの多くはそれを望んでいる。でも、身体上のさまざまな制約から、そうは見られないで”ノンパス”(リード)となっている場合も少なくない。またそもそもパスを望んでいなかったり、優先順位がかなり低い”クイア派”という人たちもいる。
 ノンパスやクイア派の人たちが、自分の望む性別のスタイルで外出したり、フルタイムになったり、時にはマスコミに出たりすることさえある。また逆に、「自分はパスできないから」という理由で、そういったことをしない人たちもいる。しかしそれは、その人その人の価値観や置かれている状況によって、それぞれが判断すべきことであって、他者に自分の判断を押しつけてはならない。

4、プロセス派とノンプロセス派。
 性同一性障害や性別違和を抱えている当事者のなかには、”普通の女性”や”普通の男性”に同化し、溶けこんでしまいたいと考え、”トランス”ということが、そうなるまでのプロセスに過ぎない人たちがいる。また逆に、”男でも女でもない状態”が、むしろその人本来の状態に近くて、それで安定した気持ちで生活を送れるという人たちもいる。それはどちらが正しいとか間違っているとか、優位であるとか、私たちの課題の中心であるとか周辺であるとかいう問題ではない。

5、不幸くらべはやめよう。
 ”トランス−性別を越えること”は、現代の日本ではとても困難で大変なことである。どういう選択をしても、それがイバラの道であることに代わりはない。誰もが苦しみ、困難に直面している。ただ、その内容が大きく違っているだけだ。
 自分(たち)だけが特別苦しんできたとか、自分以外の誰かがよりお気楽に見えたとしても、それは必ずしもそうとは限らない。”不幸くらべ”や”不幸自慢”は、生産的なものを何も生み出さない。そうすることによって自分自身も傷つき、まわりの人も傷つき、そのあげく、ただ人間関係を損なう結果にしかならない。

6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。
 性同一性障害や性別違和を抱えているからといって、みんな同じではない。優先順位がみんな違う。身体の変更が優先する人もいれば、フルタイムの生活が優先する人もいる。それが衣服であるという人もいる。パートナーとの関係が優先する人もいれば、仕事や家庭が最優先という人もいる。それはNon−GID性同一性障害のない人)の人たちを見れば当然のことであり、よくわかるはずだ。
 トランスという大事業に必要なのは、それぞれの人にとって、何が最優先のことなのか、自分が何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか、それをはっきりさせること。そして、自分を基準にして、ほかのメンバーに特定の選択や価値観を押しつけないことである。
 何を選択するべきか、人によってみんな違う。自分の状態や価値観からなされた判断を他者に押しつけることは、この自助グループを崩壊に追いやるだろう。

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 わたしにこの「約束事」を教えてくださったのは、あるトランスセクシュアルの人です。特に、「6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか」という言葉が突き刺さりました。当時そのことをぜんぜん決められなかったし、それをやってきたその人と自分を比較した時、「自分はあかんなぁ」と思ってしまったんですね。それは、いまでもさほど変わることがありません。なにが違うかというと、まぁ自分にも捨ててきたものがあるなぁと気づいたことがある、と、その程度です。
 この約束事、先日ある掲示板に引用されて「好きだ」という人が結構いたんですけど、わたしはいまだにこの約束事を読むと、厳しい刃を向けられたような、苦しい気持ちになります。

出前授業

 よその府県ではどうか知りませんが、京都の場合、ずいぶんと薄くなったものの、まだ高校に「地域」というものが残っています。「地域」って、小学校や中学校の場合「大切」って言われますが、実は高校でもとっても大切なんじゃないかなぁと思います。
 ということで、ウチの校区のある中学校とはずいぶんと長い間中・高連携をしていまして、その一環として高校教員が中学校3年生を教えに行くという「出前授業」があります。ウチの学校では、毎年いろいろな人が行くようにしているのですが、今年はわたしにまわってきたので、久しぶりに行くことにしました。
 なににしようかなぁと、昨日の晩考えていたのですが、「ポン」と思いついたのが、手品です。これ、けっこうはまります。例えば…

手品1

 3つのさいころを振ります。出た目を3つ足します。そのうちの一個を裏返して、その目も足します。さらに、裏返したさいころを振って出た目を足します。これが最終結果。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残った3つのさいころから、最終結果がわかります。

手品2

 新しい紙マッチを用意します。まず、一桁の数を思い浮かべて、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチの本数を数えて、1の位と10の位を足して、その分だけマッチをちぎって棄てます。残ったマッチから、好きな分だけマッチをちぎって握ってもらいます。
 わたしはずっと目隠しをしていて、途中経過は全然見ていないのですが、最後に残ったマッチから握ってもらっているマッチの本数がわかります。

手品3

 ひもで手錠のようなものをつくって自分の手にかけます。それと交差するように、もう一人も手錠のようなひもを手にかけます。上に布をかぶせてしばらくごそごそやると、縄抜け完了。

 これらは、すべて数学的(算数的)に説明できるんですよね。
 生徒たちは、「数学なんてなんの役に立つの?」とよく聞きますが、なんの役にも立ちません。でも、見ている人に楽しんでもらえたら、それでもいいんじゃないかなぁ…。

自分の立ち位置

 と言っても、仕事とかのことですけど…。
 わたしが採用された高校生の急増期は、新規採用教員がたくさんいたんですけど、しばらくして新採はぜんぜんいなくなりました。特に京都の場合は、あのころたくさんの若手教員を採用しなくちゃならない理由があったので、なおさらでした。なので、わたしにはたくさんの先輩はいるんですけど、ほとんど後輩がいないという…。
 で、いつまでも自分から「若手気分」が抜けません。実際にはバリバリの中堅なんですけどね。で、今振り返ると、たくさんの先輩に自分は育ててもらったなぁと思います。そのわりに、自分が育てた後輩ってぜんぜんいないですね。そろそろそういうことを考えなくちゃならないかなぁというふうに思いました。
 いや、なんでこんなことを考えたかというと、久しぶりにこういう話について30分以上も電話してしまったという…。でも、これも実は引っ越しの成果なのかもしれません。って、なにがなんだかわからないな。

はてなの使い方

 そうかぁ、こんなことができたんですね。問題はデザインです。いいなぁと思ったデザインがあったのですが、どっかで見たなぁと思ったらここで見たんでしたっけ。てことで、次点のデザインです。本当は自分でつくればいいんでしょうけどね。
 問題は、コメント欄かぁ。日時が出ないのがきびしいです。ふみゅぅ〜。

もう隠すこともないか…

 一年ほど前に、はてなに移行しようかなぁと思ったんですけど、自動リンクが鬱陶しいのでやめようかと思ったんですよね。でも、こちらのほうがいろいろできそうで、おもしろそうだなぁとは前から思っていました。なので、ちょっとだけ復活させてみようかなぁなどと。
 あと、なんと言っても、muchanの方は昼間更新できないのも痛いです。まぁ、なぜかはここでは言いませんけど(笑)。

Harrisさんへ

 Harrisさんの日記にいつきさんという文章がありまして、どこに返事を書けばいいかわからないので、ここに書くことにします。
 Harrisさんからわたしへの疑問点が数点あげられているので、まずはそれらを列挙します。
・情報が正しく伝わっていないことについて
・なぜURLを引用しないのか
・なぜ5/13の日記なのか?
・いつきさんの意志はどこにあるのか?

・情報が正しく伝わっていないことについて
 これについては、わたしの早とちりでした。まったくもってすみません。harrisさんが最初にわたしの日記にリンクをはられたところを見ると「悟り」とあり、そこをクリックすると悟りについてのいくつかの言及があったので、「あ、悟りの人だ」と早とちりしました。
 この時点でプロフィールなどを精読することはしていませんでした。ですから、そこへのリンクをはることはしませんでした。また、どこから貼られたかについては、hatenaのほうへのリンクをはっておいたので(そちらにわたしの日記があることは、この段階まではmuchanでは公表していなかったんです)、そこからたどっていくことができるかなと思いました。

・なぜURLを引用しないのか
 情報を正しく伝えなかったことについては、Harrisさんから苦言があって当然のことと思いますので、これは申し訳ないと思っています。
 ただ、URLを書くか書かないかについては、わたしの考え方(直感というほうが正しいかもしれません)ですので、それを書くことで回答にしたいと思います。
 基本的には、そこへのポインタがあるかどうかを、だいたい基準にしています。もっとも、先ほど書いたように、直感的なもので、あまり厳密ではありませんが…。
 今回の場合は、日記本体にわたしのhatenaへのリンクをはってあり、そこにHarrisさんのコメントがあり、そこからHarrisさんの日記に行くことができ…。というふうにたどれるだろうと思ったので、とくにURLを明記することはしませんでした。

・なぜ5/13の日記なのか
 わたしはもともとhatenaのアカウントは持っていましたが、日記はしませんでした。というのは、いつきの不定期日記でそのかなり前から書いていたので、移行するのがめんどうだったからです。
 ところが、5/11にちに「チーム俺等」というのができ、参加したいなと思い、そのついでにhatenaの日記を登録しました。ただ、移行のことや、hatenaのシステムがよくわからないことから、本格的にやるかどうするかは未定の状態がつづいていました(つづいている)。で、日記をつけてみようと思ったのはこの時点ですから、Harrisさんの存在を知る前です。ですから、Harrisさんとはまったく無関係に、悩んでいます。
 ところで、hatenaの日記のコメント欄には「いつコメントしたか」は出ないんですね。そのことにいままで気づきませんでした。muchanではいつコメントしたかがわかるので、日記の内容とコメントとの前後関係がだいたいわかるのです。わたしはmuchanに慣れているので、そのあたりに気を遣うという習性はありませんでした。

・いつきさんの意志はどこにあるのか
 上に書いたように、わたしはhatenaで日記をつけるかどうするかについては、Harrisさんとはまったく無関係に考えています。ですから、
「わたしが強引にはてなダイアリーに誘ったように見えるのではないかと思うので、念のためここで確認します」
ということは、わたしの気持ちとはまったく違います。
 「新しい世界」というのは、わたしはhatenaの中で、Harrisさんのコメントの元になる日記に書きました。つまり、前後関係としては、わたしが先に使ったわけです。わたしの意味とHarrisさんが使われている意味が同じかどうかわかりませんので、わたしの意味を説明します(なお、muchanでの「新しい世界」は、わたしではなく、ms.Mさんのコメントです)。
 わたしの「新しい世界」というのは、hatenaのもつ「言葉の共有の世界」のことです。現に、たった二日しかまだ書いていませんが、その日記の中でも、わたしがなにもリンクをはっていないにもかかわらず、hatenaのキーワードへは勝手にリンクがはられます。わたしが意図的にリンクをはって、アクセス解析の結果わたしのサイトから飛んだということがわかってというのならば、わたしの責任で行うのでまったく問題はないのですが、意図せずしてリンクをはられるということは、予想ができないので、対応ができない可能性があるということです。
 なぜなら、基本的にわたしは自分がトランスジェンダーであることは公開情報ではありますが、とくにカムアウトせずにネット上でおつきあいをしている人もいます。仮にその人がhatenaの日記を書かれていて、わたしのところへ来られた場合、来られた方がどう考えられるか(「なぜ教えてくれなかったのか?」とか、「おつきあいをやめます」とか「ふ〜ん」とか)わからないのです。
 もちろん、それはhatenaの責任ではなく、それに同意して「新しい世界」に入るかどうするか、決めるのは自分です。現在、hatenaで行こうかなという気持ちはかなりあるのですが、まだ決めかねているところです。
 で、これについては、Harrisさんにはまったく関係ない(=わたしの決定にはHarrisさんはまったく責任がない)ことです。

 さて、長々と書いてきましたが、Harrisさんは、
「誤った情報をそのままにされ、かついつきさんの意志が分からないままでは交流は困難であると感じます。」とされています。これについては、
1、「誤った情報」については、最初に「早とちりでした」ということで、謝罪をいたします。
2、わたしの意思については、上に書かせていただきました。
とさせていただきます。

 さて、わたしのほうからの質問です。
 Harrisさんは、当該の日記の冒頭に
「コメントへお返事する前にいくつか書かせていただきますね。」
とされ、最後には先ほどの引用に続けて、
「ですのでせっかくいただいたのですけれど、いつきさんのコメントへのお返事はなしとします。」
とされています。
 最初と最後では、書かれていることがまったく逆転をしていて、どちらを念頭に置いて文章を書けばいいか、とまどっています。
 もしも、わたしとの交流を困難と感じられ、「お返事なし」というのが最終的な結論であれば、ここまで書いてきたことに対して、ある種の虚しさを感じてしまいます。