カミングアウト

自民 LGBT理解促進へ自治体に財政支援 法案提出へというニュースがかけめぐる昨今なわけですが。部落差別についても自民 部落差別解消の推進法案まとめるなんていう記事もあるし、ヘイトスピーチ関連法案を提出へ 自民と公明なんていうのもある。
もうね。この間の自民党の「マイノリティ取り込み大作戦」はひどいものだなと思うわけです。
もちろん、それを「一歩前進」ととらえることもできるでしょうけど、ひねくれもののわたしは「なんだかな」と思うわけです。
とりあえず、カミングアウトについて…。
「カミングアウトが必要ではない社会」って、よく言われます。最近もどこかで聞いたな−と思っていたのですが、こないだの全同教でした。レポーターが「カミングアウトの必要のない学校が目標」って発言したんですよね。この手の話、交流会の文脈でも言われるんですよね。子どもたちが「この交流会の目的は、こんな交流会がなくなること」と言ったりとかね。まぁ、子どもが言う分には「まぁまぁまぁ」「そんなことではないと思うよ」でいいんだけど、教員ですよ。しかも、全同教。互いが自分のことを語りあう解放教育をめざしてきた全同教の場においてそれはアカンやろうと思ったわたしは「カミングアウトは、当事者にとっては社会を変える武器です。だから、当事者からカミングアウトを奪わないでください」と発言したわけですが。
でも、たぶんついこう考えちゃうんですよね。で、被抑圧者側にいる生徒が言う分には、まだなんとなくわかる。いや、立場でものを考えちゃいけないってのはそのとおりなんですけど、でも、まだわかる。それに対して、抑圧者側がそれを言うなと。それって、結局、同化じゃんと。まさに、その同化と排除の中でしんどい思いをしているのに、「しんどいでしょ?同化してあげましょ」って、どれだけ上から目線やねんと。そして、その同化が新たな排除を生み出すということへの警戒心がない。いや、警戒心じゃないですね。歴史です。
皮多を排除し、やがて同化する中で、例えばうちなーんちゅやアイヌが排除された。そして、それらを同化する中で在日朝鮮人が排除された。やがて坂中論文に代表されるように在日朝鮮人への同化が進められる中、「朝鮮人ではない外国人」が排除されていく。
常に同化と排除が一体となって進んでいくこの日本社会において、「カミングアウトしなくていい社会」って、いったいなんなんだと思うわけです。

まぁでも、そういうことを考えてなかったら「それ、すばらしい!理想の社会!」って思うだろうな。
だから、歴史を知ることは大切だと思うし、自分以外の被抑圧者の闘いの歴史を知ることは大切だと思うだけど、そんなややこしい人の話は、まぁ誰も聞かないよな。

メールは突然に→電話は突然に

朝、メールチェックをすると、一通の英文のメールが来てました。なになに?なんか「ポスターがなんちゃら」って書いてあるぞ…。
あー、ポスター発表ってか!
えらいこっちゃ。
そういや、5月の中頃に新ネタをやらなきゃならないし…。
あー、6月〆切のゲンコ(;_;)。
とか思っていると電話。「あの、カウンターについて話を…」。それ、専門外やし。ふさわしい人、いっぱいいるし。そう思って「それ、ムリです」って言ったのですが、なんか歯切れが悪い。なんか、わたしに話をさせたいのか?
うーん
引き受けてしまいました。もうアカンやつや…。

TPP

この間、tokyo rainbow prideのサイトの用語解説のページのTransgenderにかかわる記載について論議されています。まぁたぶん「ごく一部」の話なんでしょうけどね。
たぶん、レズビアンムーブメントやゲイムーブメントについてひとことで言うのが難しいのと同様に、トランスジェンダームーブメントについても、それ相応の歴史があります。
そうそう。これを書いた時も、「うわこれめんどくさ」と思いながらも、端折るわけにはいかないから、必死で要約しましたね。あるいはこちらを書いた時は、字数制限がきつかったので、サラリと書いたらHがしさんから
「これでいいの?!」
って怒られたので、これまた必死で考えて最小限度の文字数で書きましたね。
ちなみに、わたしの守備範囲はトランスジェンダーにかかわることなので、それ以外のことには極力越境しないようにはしています。が、書かざるを得ないこともあるので、今度出るこれでは少し越境させてもらいましたが、各所から飛んできそうな批判は真摯に受けとめる以外方法はないかなと。
ま、それはおいといて…。
なんか、そんなことを考えているうちに「トランスジェンダー・プライド」ってなんなんだろうなってところに考えが行き着いちゃいました。
わたしは自分自身を「トランスジェンダー」として位置づけてきました。それは、自分が性別を移行しようと考えた頃から一貫しています。もちろん、わたしの場合は「医療を利用したい」と考えるトランスジェンダーなので、医療者としては「トランスセクシュアル(性転換症)」という疾病名をつけるだろうし、ビョーキを説明するときは「インフルエンザになって」というのと同程度に「トランスセクシュアルで」って表現は使うことはあるにしても、アイデンティティとしては「トランスジェンダー」です。
でも、あらためて「トランスジェンダー・プライド」とか「トランスジェンダーアイデンティティ・ポリティクス」とかいうことを考えると、やはり「不勉強やなぁ」となっちゃいます。
でもまぁ、そんなことを日々考えている、例えばゲイって、どれくらいいるだろうって考えるとこの人たちくらいか?って思ってしまったり。
で、そういうふうに考えると、「プライド」ってのを深く追求している人は、たぶんそんなにはいない。でも、その代わりに「プライド」を表現する場がある。そこで、たぶん「直感的」にではあるだろうけど、「プライド」を実践している。
ただ、その場において「トランスジェンダー・プライド」があるかどうか。実践できるかどうかとなると、甚だ疑問で、それが「用語解説」にまつわるいろんな話とつながっているのかなと、ふと考えたわけです。
で、「不勉強なわたし」が「論考」に至っていないのであれば、それに代わるものとしてできるのは「表現の場」づくりになるのかなと。てことは?
トランスジェンダー・プライド・パレード」か?
「Transgender Pride Parade」…。略称TPP。
うーむ。やるのか?
ダメダメ先輩からは「どうどうどう」って言われましたけどね(笑)。

でも、花見

今日は午前に授業を3発。連続授業は思ったよりも疲れますが、きっとそれは久しぶりで力が入ってるからでしょうね。もう少し脱力しなきゃもたないけど、たぶん今は力をいれる時期なのかもしれないから、よしとしましょう。
で、午後からは恒例の滝井参り。
受付をすませて待合室に行くと速攻呼ばれました。早いな。
で、しばし近況報告をしあって、さっくりと終了。にしても、電子カルテ、めんどくさそうだな。「疲弊している」って書かれてしまいました(笑)。
で、まんまるの会。4月はいつもの「お花見」です。って、もう花はないだろなって思ったら、案外残っていてよかったよかった。

あとは肉を食べて、肉を食べて、肉を食べて、ワインを呑む。酒池肉林という言葉が、ふと頭をよぎります。
宴もたけなわというか、そろそろ終わらなきゃという時に、緊急速報。
へ、地震

どうなってるやろ…

今日は免許の更新です。
ちょうどパートナーも同じ時期なので、一緒に会場に行くことにしました。ちなみに、パートナーは30分で、わたしは2時間です(笑)。そう言えば、4年前にトラブルがあったからなぁ…。
さて、問題は「ある欄」です。ここ、いつも空欄にします。でも、いつも受付の人が○をしてくださいます。なので、今年も空欄で出しました。そしたら、ちゃんと○をしてくださいました。よしよし。
あとは滞りなく2時間の講習を受けて、無事に更新終了です。

で、とっくの昔に更新が終わったパートナーと合流。せっかくなので、一緒にランチです。ふたりでごはんを食べるなんて、めったとないことですからねぇ。行こうと思っていたお店が休みだったので、前から気になってたお店へ。どうやらパートナーも気になってたとか。
中に入ると、ジャズ喫茶でした。
ビッグバンドの音を聞きながら、パートナーはハヤシライスを食べ、わたしはカレーを食べる。ちなみに、ハヤシライス、スジ肉ので、メッチャおいしかった!
さてと。あとは特にやることもないし、帰ってダラダラしようかな。

にしても、これでかれこれ10年くらい「望みの方」に○をつけてもってるんだけど、書類の方はどうなってるんだろうなぁ…。

夏に比べたら(笑)

午前中はゴチャゴチャ事務仕事といろいろ調べ物。午後からは出張です。毎年この時期にある会議で、いろいろ在日外国人教育をめぐる最新情報があったりします。まぁ、わたしは最新情報はおっかけてないからわからないけど、古い情報は知っています。で、その古い情報は最新情報を取り入れている人にとってはちょっと新鮮だったりするので、まぁいいバランスでしょう。
で、最近なかよしっぽい他校の人権担当教員と、帰りの電車で「乙武、モテるんだろうなぁ」みたいなダラダラ話(笑)。

で、Nグモへ。今日は定期検診です。待合室でM木ちゃんと合流。こんなところを待ちあわせの場所に使うかって話ですが、「待合室」だからいいんじゃないかなぁ。ちなみに、M木ちゃんは「待合室合流」ということで、自分の用事もつくったそうな。
で、わたしの番が来ました。診察室に入るといきなり
「どうしますか?打ちますか?」
「いや、見てもらってから」
「じゃぁ打ちましょう」
あのね…。見る前から結論出てるじゃん^^;;
「ふぅむ、打ちましょう」
で、結論は同じ。ちなみに、そんなこんなの間にも認定医の話をしたりして、もりあがったり。
それにしても注射は痛いです。でも、あの、夏の痛みに比べたら、完全にガマンができますね。ちなみに、「事故」の時は痛くはありませんでした。痛かったのは、その後の処置の時です。てか、あれを比較の対象にしちゃいけないですね。
てことで、今回もあっという間に終了です。ちなみに、お代は格安。たぶんあの値段を聞いた他の人は「なに?」って思ったでしょうね。いや、保険診療なんですよ。

で、終わったらM木ちゃんと呑み。GID学会のこととか近況報告とか今後のこととか。
その後、Kうさんと合流して、もうひと呑み。
で、今日も終電で帰りましたとさ。

学会としてそれは必要なのか?・GID学会2日目

朝、7時に目覚ましをかけてたのが幸いして、遅れずに会場に到着。
第1会場のプラグラムは…。当事者のワークショップらしいです。ごめんやけど、ええわ。
てことで、第2会場へ。
まずはトランスとフツーの人の心理検査の結果の比較。結論は「トランスもフツーの人でした」でした(笑)。そりゃそうだ。
続いて、MMPIを使った心理検査の結果。こちらは「当事者はたいへん」だったんですけど、「比較群がなかったらダメじゃん」という指摘をくらっておられました。そりゃそうだ。
おもしろかったのは、MMPIを各種採用試験に使ってることへの批判の演題かな。まぁ、わたしも心理検査をはじめて受けたとき「これは答えられへんわ」と思ったけど、あれを採用試験で使ったら、そらあきませんわ。
あと、岡山の「封じ込め」の演題は、これまたデータがおもしろかった。
にしても、いつも思うんですけど、例えば小学生にとって身近なところにいる大人って、親と教員くらいなんですよね。なので、「支援してほしい人」とかいうことになると、その2者しか出てこない。でも、これ、リスキーだと思うんですよね。だって、小学生にとっての教員って、基本担任だから、ひとり。で、仮に両親がそろっていたとしても、大人は3人。で、この3人が理解がある可能性は、やはり低い。てか、そもそも親とか論外という話もあるから、教員一人しかいない。「だから教員は研修して」とかいう話になるんでしょうけど、やはりリスキーだと思います。じゃどうするかというと、リスクは分散させる。具体的には、いろんな大人がかかわれるようにする。それも、教員だけじゃなく、例えば少年野球チームの監督とか、塾の教員とか。そうすれば、どこかにひっかかる可能性がたかくなる。でも、なかなかそうはならない。なぜか?それは教員以外の大人は「研修」の対象としにくいからなんじゃないかな。でも、それは責任の転嫁のような気もしますね。
なんてことを考えたのですが発言したら、小学校の教員が正反対の意見を述べられたりするわけです。どころか、「クラスにひとりからふたりいる。自分も今まで何人もの性別に違和を持つ子どもを担任してきた」という発言まで飛び出して、思わず隣にいたUいんたとわたしが同時に「違うよ」とツッコミを入れたにもかかわらず「いたんです!」と反撃。
もうね。
理解があるのはわかる。正義感にあふれてるのもわかる。そして、少しは知識を身につけたのもわかる。でも、GID学会という、ある種のプロパーが集まるところで複数の人間から「違うよ!」というツッコミが入ったら、そこにはなにかあるんですよね。そこについては謙虚にならなきゃならんと思うんですよ。
ま、こういう教員がGIDの子どもをつくりだし育てるんだよな。

で、お次は「中年期・老年期の性同一性障害」。我がことながら、もう、笑いっぱなしです(笑)。石丸さんからは詳細なデータから「中高年におけるトランス女性とトランス男性のあり方の違いに」みたいなのが提示され、松本さんは「意地悪ばあさん」を使いながら中高年のジェンダーのあり方に切り込み、針間さんは予想される問題点をていねいに列挙されました。で、鶴田さんが、これまたエスノメソドロジストの面目躍如といったところです。ちなみに、S倉さんからの「サンプルの偏り」みたいな質問に対して、「理解可能なんだからコミュニティの成員」とかいう返事をしていて、ここがまた爆笑でした。
で、血まみれ映像はしんどいので、次のシンポジウムは休憩タイム。テンガの販売をしておられる人と鶴田さんとわたしの3人で社会がくトークでもりあがってました。
最後のシンポジウム「哲学との対話」は、あまりにも話が高度すぎてついていけない感じではありましたが、松永さんのDSMの変遷や思想の話は、とてもわかりやすかったです。
てことで、今年のGID学会もおしまい!

残りは打ち上げです。なんか、20人くらい集まって、中華料理屋→中華料理屋→居酒屋→カラオケで、終わったのが4時。
アカンやん。

にしても、今回の学会で不可解だったのは、当事者のワークショップやシンポジウムがあったことですね。
んー
まぁ、啓発のための場であれば必要なのかもしれないけど、学会のプログラムとして必要なのかなぁ…。

「期待と不満がひとつにーなってー」♪・GID学会1日目

朝、新幹線に乗ってKうさんと合流。そのまま東京へ。今日〜明日、第18回GID学会です。
はじめての参加が第3回で、そこからはずっと参加し続けているので、気がつけばもしかしたらそれなりの古株になっちゃったのかも。
とりあえずホテルにチェックインしてプラプラ歩いて会場へ。しかし「日本教育会館」を使うか(笑)。
で、学会がはじまりました。
まずは松永さんの講演です。
性同一性障害を「身体の性別と性自認の不一致」ととらえるのではなく、「性同一性と自我同一性の統合がはかられていない状態」ととらえるという松永さんの考え方。なるほどなと思いました。さらに、松永さんの「語る」ことを通した「自己物語の再構築」という診察の方針も、これまたなるほどなでした。
続いて、今回注目しているシンポのうちのひとつ。「児童期・の性同一性障害」それにしても、シンポジスト4人のうちの3人が関西か…。
中山さんの話は、それそのものはおもしろくはなかったんだけど、関東の医療関係者がなにを考えているかがわかるという意味では貴重でした。ちなみに、「考えられる連携先」としてあげられていたのが文科省通知と一致していたのは「アレ」やなぁと。
S藤さんが「交流会」のことを少し話してくださって、これはかなりうれしかったですね。ちなみに、紹介された3人は、最後まで聞いたところで全員特定できてしまいました。交流会にかかわるって、そういうことなんですよね。と同時に、交流会ではわからないことを医療関係者は知っている。当たり前のことだけど、子どもは単独では存在してなくて、家庭や学校の中で人に囲まれながら生きています。そこにはダイナミックな変化が常に起こっている。でも、医療も交流会も学校もそれらのうちの一部しかわからない。だから、医療と敵対するのではなく、相互に補完しあいながら子どもにかかわっていかなきゃならないんですよね。
続いて文科省の役人さんの講演。通知を出すにあたっての裏事情的なところがほんの少しあったので、ま、それは収穫かな。でも、「調査」の中身をいろいろ話しておられましたが、それはプレスリリースにあるので、そこを見りゃわかるかなと。
で、質問。まずは感謝を述べた上で「ピアサポートをどう考えるか?校則に言及した意見はあったのか?同性愛についてもっとやらなきゃならんと思うけど、どない?」みたいな。まぁ、どれもこれも文科省としては何とも言えない話なんだろうけど、あえて出す必然性はあると思うのです。で、答えは「各学校で」です。たぶん、そのあたりがあったのかな、N島さん@岡山から「現場に丸投げで無責任」のいう発言があったりして、なかなか萌えました。やはりN島さん、すごいなぁ。
続いて、「青年期・成人期のGID」。これも気になってたんですけど、休憩なしはきつい。とりあえずトイレに行って、ロビーにいる人と雑談して、会場の中に入ったのですが、完全に乗り遅れてしまっていました。
で、懇親会。食べられなかった。
で、二次会。30人くらいの宴会は、なんか、混沌としてました(^^)。
で、3次会。Kうさんは、やっぱり呑み友達やなと。

にしても、たぶんわたしはもう登壇することはないんやろな。第7回のGID研究会ではじめて「トランスの高校生の進路保障」のシンポジウムを組んで以来、それなりに問題提起もし、自分なりには実践も研究もし、たぶん「学齢期のトランスジェンダー」という分野では、まぁそれなりには専門的な人間になってきたとは思うのですが、それと「学齢期の「GID」」とは違うんでしょうね。シンポジウムで質問した時に指名されなかったのはショックやなぁ…。質問すらさせてもらえないのかと。
あ、服と背景の色が一緒で見えなかったのか(笑)。

偲ぶ会

で、大阪市内に移動して、恒例の某会議。その後、いつものお店で呑み会です。
今日はいつも一緒に呑んでいた大島さんを偲ぶ会です。大島さんがいつも座っていた席に蔭膳です。

しばし大島さんの思い出話でもりあがったあとは、いつもの話題に突入。ま、そんな感じです。
でもま、「呑んだら死ぬよ」ってストップかけられてたらしいんだけど、もうストップしなくていいから、きっと一緒に呑んでたよね(^^)。

はじめてのカムアウト

今日は1年間の最後の授業です。1年間の、毎週6時間の授業をしてきたクラス。ほんとうに濃密な関係になりますね。なんと言っても、生活集団と学習集団が一致した1年生を担当したのは、たぶん30年ぶりくらいです。なので、その中でできることや試したいことをいっぱいやりました。さらに、今年度はカウンターあり反安保法制ありという1年でしたから、当然いろんな話もするというものです。そんな話を受けとめてくれた子どもたちでもありました。
ほんとうに楽しい1年でした。授業ってこんなに楽しいものなんだって思わせてくれた子どもたちでした。
だから、この子らにはなにかを返したいってずっと思ってました。返せるものは、たぶん自分のことくらいかな。きっと、4月からずっと「質問」があって、でもその質問はしちゃいけないって気を遣ってくれていて、そのうちなんとなく質問は心の奥に沈んで別にどうでもよくなって、でもその「質問」は心の奥底にある。その「質問」に答えようかなって思いました。
でも、ビデオを見せるにはあまりにも短い時間しかありません。というよりも、ビデオを見せるのでいいのか?語ることから逃げてないか?っていう気持ちもあります。
なので、今年はほんの少しだけだけど、自分の言葉で話してみようかなと思いました。

まずは、この1年間楽しい時間を過ごさせてもらったことへのお礼。それから、教員になって7年目に担当したSという生徒のこと。「先生、なんでわたしを見捨てたん?」というSの言葉が、教員としてのわたしの原点であること。そこから赤点を出さないとりくみをひたすらしてきたこと。そんな話をしたあと、みんなに質問しました。
「君たち、4月からわたしにしたい質問、あったやろ?」
みんな、顔を見合わせて「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」って顔をしたり、ヘッドバンギングしたり。と、ひとりの子どもが質問。
「どうやったら勉強が好きになりますか?」
みんな「それー(笑)」って爆笑です。
「勉強きらいやからなぁ。でも、研究は楽しいよ」
って答えて、
「じゃ、質問ね。今からいくつか質問するから、「これ」って思ったのに手を上げてね。複数回答ありね」
「わたしを男だと思う人」ふたり。
「わたしを女だと思う人」けっこういるよ(笑)。
「どちらでもないと思う人」いるんかい!
「どちらでもあると思う人」これもいるんかい(笑)
「どひちゃんはどひちゃんって思う人」これもいるわ。
ということで、
「どれも正解ね」
って言いながら、5分ほど話。
その後、
「君たちと過ごした数学の時間について、感想書いてくれるかな」
ってお願い。みんな真剣に書いてくれました。
「授業には「うけさせられてる授業」と「うけている授業」があって、先生のは「うけている授業」。自由で強制しない感じ」って書いてくれた子がいました。その子「教えてあげてる感を出す先生が大嫌いだけど、先生はそんなことなかった」とも書いてくれてました。すごくうれしかった。他にも「生徒も声を上げていいんだってわかった」とか、なんか、もしかしたらいろんなことが伝わったのかもしれないなって気持ちになれました。
ちなみに、性別について書いたのがひとりだけで、それもまた「らしいな」と。

来年、この気持ちに引きずられちゃだめです。でも、今はこの気持ちに少しだけひたってもいいかな…。