文章を書くということ

いままで自分が書き散らかしてきた文章って、どれくらいあるだろうと、ふと考えることがあります。
まぁ、子どもの頃の作文はともかく、高校の頃に行っていた塾では任意で論文添削なんていうのがあって、そこにしょーもない文章を書いて出していました。それでも、塾の人はガチで添削してくださってたみたいで、今思うとすまなかったなぁと。
大学の頃は、クリスマス礼拝をやる時に「趣旨文」みたいなのを書いたり、頼まれた文章に好きなことを書いたりしていました。この間、本棚を整理していたら、そんなもののうちのひとつが出てきて、読んだ瞬間「キャッ」っと言って、布団をかぶりたくなりました。
教員になってからは、どちらかと言うと、実践報告がメインでした。はじめのうちは好きなことを書いていたけど、全国の研究集会に出さなきゃならなくなった頃から、あきらかに文章が変わりはじめました。まぁ、トレーニングをうけたってこともありますね。最近はそんなレポートを書くことが減って、今度はオファーがあって書くことが増えてきています。

なんか、そんな文章遍歴を見ていると、自分が書きたいものから、少しずつ「読み手」を意識しはじめて、さらに「読まれること」を前提にするようになって、いまや「読まれるための文章」に変わっていってるなぁと思うのです。

で、今日、「おべんきょ」のあと、「おべんきょ仲間」で呑もうと思ったら、きょうの「おべんきょ先生」も混じって下さって、なんかいろいろ話をしました。すると、先生、なんの話からか
「M論文は、読み手のことを考えず、評価を考えず、とにかく自分が納得することを書かなきゃダメ!そうでないと、自分の軸がぶれてしまう。すると、その先論文が書けなくなる。M論文は、人の評価を気にせずに、本当に書きたいことを書く経験をするためにあるの!」
と力説されました。
いや、身のすくむ思いがしました。果たして自分にそんな文章が書けるだろうか。それ以上に、今の自分に本当に書きたいことがあるんだろうか。
まぁ、でも、今って、それを自分の中から見つけ出し、熟成させるまたとない時間なんでしょうね。

「サンタさんはいるんですか?」

今日の「おべんきょ」はディスカッション。
でも、その前に、ちょいとEせんせのところに顔を出しました。なんか、パソコンをゴソゴソしておられるので
「なにやってんですか?」
とたずねると、
「スキャナがつながらない」
とのこと。ふむ…。認識してるな。メッセージを読むと、なになに「本体のモードがちがう」って書いてある。本体見たら、モード切り替えがあって、切り替えたらすぐ動きました(笑)。
人の役に立つってうれしいなぁ(^O^)

で、ディスカッション。もちもん元ネタはこれです。で、「あなたならどう答えるか?」。
わたしのグループは3人だったんですが、
「でも、サンタはいない。やはり真理を伝えないといけない」
という意見もあったり。わたしは…。
「別に正しいことを教えなくてもいいんじゃないですかぁ」
みたいな、反論というよりボヤキ。さらに
「サンタさんはいるよ。12月25日の朝、いまでもわたしの枕元にプレゼントあるもん」
と、爆弾発言。するとふたりから
「いつきさんの家、メルヘン〜」
と、喝采を浴びてしまいました。たしかにメルヘンやわ(笑)。

でも、こういう「問い」に対して、真剣にどう答えるか論議するっておもしろいですね。
で、来週はプラグマティズムの立場からこの問いを分析するとか。デューイキタ━(゚∀゚)━!
本、読も(笑)。

「問い」の構造分析

今日のおべんきょのネタはハイデッガー。にしても、「ハイデッガー」と聞くと「どんなバスや?」と思ってしまうわたしは、根本的にダメですね。

で、話の方はタイトルにもあるように、「問い」の構造分析をされたのですが、すごいおもしろかった。
話の中身そのものは、考えようによっては言葉は難しいけど、日々の教室でのやりとりを考えるとなんとなくわかる感じなんですよね。
例えば、ひとつの問題を生徒に提示するとき、表面上は「個別の問題」を問うているわけなんだけど、その問題を通して、もう少し包括的というか、まぁ簡単にザックリ言うと「数学の学力」を問うているわけです。でも、そんなザックリした話ではなんの意味もないわけで、実際には、その問を通して必要とされる「概念(操作)」みたいなところができるかどうかを試しているわけです。できればokだし、できなければ、別の問を発することでそれを身につけられるように試してみる。
でも、そのやりかたというか、「意図の持ちよう」みたいなのは、もちろん担当者ごとにおそらくはぜんぜん違います。*1ですから、出てくる答えは数学の場合は同じですが、その評価という解釈というか、そういうものは、担当者ごとに変わります。

大切なのは、こんなことを漠然と感じるのではなく、分析をして意識化するというところにあるんじゃないかと思います。そうすることによって、「意図」が、より意識化→吟味できる。
そんなことを感じた70分間でした。

*1:というか、人によっては、そういう「意図」を意識せずに問を発している人もいるかもされません。

ラディカルはラディッシュからきているのか…

そろそろいま読んでいる章もおしまいです。いよいよ著者の考えが色濃く出てきます。
読書会では、直接本そのものについて考えたり解説を聞いたりするのもおもしろいのですが、そこに付随した「余計な」を聞くのがまたおもしろい。
今日は、ヘーゲルの時代のことにからめながら
「政治が乱れてくると、「こうあるべき」という人が出てくる」
というひとこと。
思わず、
「その人についていく人もまた出てきますよね」
とツッコミを入れてしまいました。
でも、だからこそラディカルにものごとを考え、行動しないといけないんだろうな…。

「問うこと」は人間存在であるらしい

きょうの話もめっちゃおもしろかった。
とにかく「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」というテーゼのもとにすべてを考えていこうと。いや、このテーゼそのものを壊してもいいんだけど、あとがたいへんだよと。なぜなら、ぼうだいな作業をしなくまたゃならない。なので、簡単に言うなら「新築ではなく、リフォームで」らしいです。
わかりやすいわぁ(笑)。
ただ、リフォームといっても、そんなに牧歌的なものではなくて、「修理しながら走る潜水艦」みたいなものらしいです*1。なぜか?すでに生きているから。そこに「現実」があるから。
わかりやすいわぁ(笑)。
で、「問いとはなんぞや」と。
すんごく簡単に言うと、「答えより問いのほうが難しいやろ」と。たしかに難しいです。試験問題づくりは(;_;)。さらに「答えがない(かもしれない)問いもあるんとちゃうかな」と。かのデカルトも「コギト、エルゴ、スム」と言ってるやろと。これを言い換えると、「人間とは問う存在である」と。
じゃぁ、もしも「問い」が許されなかったらどうなるか。
ここで犬養毅が登場です。
「話せばわかる」
「問答無用」
なるほど!「問い」のない世界は「無限の自己肯定」の世界で、それは、逆ハンの切れないドリフトみたいなものなんや(笑)。
で、ストンと落ちた話は…。
「良識ある生活と思慮のない生活の区別は?」→「手続きの有無」
思慮や良識は知識の量ではなく手続きであると。
たしかにそうです。手続きとは、結論へ至るために、常に問い続けることですよね。
「なぜ○○をするのか?」
「したいから」
なんていう会話が、なんかそこここで聞かれがちなんですが、その、「問いと答の間」こそが手続きであり、それが「問い」であり、そこに「現実」がある。
ってことらしいです。

いやぁ、おもしろい!

*1:「ノイラートの船」らしい

なごむ…。

今日はおべんきょの日。ガッコがはねたら、速効おべんきょの場所へ向かいます。
で、読書会開始。

教員ひとりと学生8人という、すごく少人数の教室は、とても静かです。でも、沈黙が支配しているわけではありません。どちらかというと、思索があるから静かであるという感じ。そこには、強制も威圧も暴力もありません。ひたすら「本」と、その本の中にある「思想」と向かい合います。そして、互いの感想や意見や疑問に耳を傾け、教員の解説を心待ちにします。

この学びの場に来た瞬間、日常のなかですりきれそうになる心が、ふと和みます。

教育哲学は理論と実践の二項対立ではないらしい

話を聞いていて、なかなかおもしろかったんだけど、考えようによっては「臨床の現場*1」の人って、そう考えるのがあたりまえなんじゃないかなぁと。
例えば、引用文献のなかに
「学校のなかで逸脱行動が見られたとき、それは治療の対象とみなされることが多いように思われる」
みたいな文章が出てきて、思わず
「んー」
ってなりました。
そりゃ、そういう人もいるけど、例えば「非行は宝」という有名な言葉がありますが、まさに「逸脱行動」を「治療の対象」とみなさず、逆にその「行動」を通して、「教育とはなにか」「学校とはなにか」「教えるとはなにか」「教員とはなにか」「生徒とはなにか」ということを問い、それらをつくりかえていく営みは「常に既に*2」あるわけです。
で、たぶんこれって、「教育という臨床の現場」だけではなく、どこにでもある。そんななかで、例えば「SOC7」だって出てきたんじゃないかなということで、この話に行き着くわけです(笑)。

*1:学校についてもこうとらえている人はたくさんいる

*2:(笑)

楽しい!

今日は、ある意味、はじめての「講義」。先週は、まぁガイダンスって感じでしたから。
今日の講義は10人くらいの、まぁいってみれば読書会です。
読書会なんて、30年ぶりくらいですよ。
誰かが一段落を読んで、そこで疑問や感想を述べる。今のところは、それにたいして教員がコメントを入れてる感じだけど、相互に考えを述べあうようになったら楽しいだろうな。
でも、いまも充分に楽しい。自分の疑問に直接答えるわけではなく、著者の思想や時代背景の紹介を通して、自分で自分の問いへの答えを探す感じ。
うん、こんな授業、自分もしたいな。きっと、どんな子らが相手でもできるはず。いや、うちの子らだからこそ、これをしなくちゃならないんだろうな。

「問い」と「答え」の間にあるもの

夕方からおべんきょです。「問い」と「答え」の間にあるものが、教育・学習の本質らしくて、そのことでちょっとだけ意見交換。まぁ、答えがある意見交換じゃないから、別になにを話してもいいんでしょうね。レポートには「問いと答は相互に反復する」とか、ええかげんなことを書いておきました。やれやれ…。