教員の仕事・補足

この間「教員の仕事」というのを書きましたけど、その後のコメントに触発されたので、補足をば…。
わたしがなぜあんな文章を書いたかというと、「辞めたい」という教員とちょこちょこ会うからです。「なぜ?」と聞き返すと「しんどい」とか「やってられない」とかいう答えが返ってきます。それも、「いい人やなぁ」「力があるなぁ」と思う人に限って、そういう答えを返してこられます。一方、新規採用の方々を見ていたら「体が持たんぜ」というくらいの研修漬け。まじめにやればやるほどその重圧は重くなってきます。
なのに、巷では「教員なんて」という批判がまかり通ります。
このギャップってどうしたらいいんだろうということなんです。
そこへのひとつの切り口が「教員をステレオタイプで見ない」ということかなぁと思ったわけです。「教員なんてみんなこれこれだ」「こんな教員しか見たことない」という言葉がよく出てきます。でも、違う教員もいます。大切なのは、「ほとんどの教員はこれこれだ」「わたしはこんな教員しか見たことがない」というふうに、断定をするときに「それ以外」の余地をどれだけ残しておくかということだと思います。
この間の文章の発端になった友だちの日記は、とても大切なことを示唆していました。それは、さまざまな子どもたちの姿や言葉に触れたとき、単に「子どもの感受性は豊か」という一言で終わらせてしまう教員がいるのではないかという指摘でした。たとえば、引っ込み思案な子どもがいるとき、「引っ込み思案だから」というレッテル貼りをするのではなく、「自分がその子どもに引っ込み思案にならざるを得ない場所しかつくれていないのではないか」ということを振り返らなくちゃならないという指摘でした。
ただ、そこからやりとりがエスカレートしていきます。そして、先にも書いた「教員批判」「指導者批判」へとつながっていきます。そこで書かれている内容を見たら、「レッテル貼りを否定しながら、でも、教員に対してレッテル貼りをしているんじゃない?」と感じたのです。
「教員」への世間の山のようなレッテル貼りの中、教員は心を閉ざしてしまうか、あるいは疲れを感じるか、あるいは「自分は違う」と心の中で叫ぶか。そして、「辞めたい」と言い、実際に辞めていく教員がいるわけです。
Oさんのコメントがありました。あのようなステレオタイプな返しは、実は、わたしはあまり好きではありません*1。でも、わたしも使うことがあります。どういうときか。それは「語りたくない相手」に対して、あるいは「いってもわからないであろう相手」に対して返すときです。ステレオタイプなもの言いや、ステレオタイプな返しは対話を切ってしまうんじゃないかと思います。そうではない対話をどう紡いでいくかということが、大切なんじゃないかと言うことを思うわけです。

*1:Oさん、ごめんね

教員の仕事・補足” に7件のコメントがあります

  1. 教員でなくとも、「批判の対象」とする時は、
    (自己批判も含めて)レッテル張りなどされるから、
    そういう時は謙虚かつ、率直(!?)に対応・・・してるかな(?)。

    性的少数者のレッテル張りは、
    ゲイもGIDもごったまぜにされるけど、
    比較できるほどというか、
    そこまで(悪口言うほど)の関心持たれてないかも。

  2. うーん。すみませんステレオタイプですよねぇ。私も批判する人がステレオタイプなので、ああ言うというつもりで書いたのですが、説明不足でした。

  3. これは、個人に対する批判と、属性に対する批判とが混ざってるのでは。ごっちゃにして批判する人って多いですよね。

     属性に対する批判は、ある程度ステレオタイプなものにならざるを得ないでしょう。個人じゃ統計なんか取れないから、見た範囲で判断するしかないもの。それを拒絶するなら「何も分かってないくせに、自分たちを批判するな」と言うのに近くなるのでは?

     で、それに対する切り返しも、きちんとした議論の場が設けられるならともかく、そうでない大抵の場合は、ステレオタイプな切り返しにしかなりようがないような。別途内省はするにしても。

     あと、”研修”で指しているものが、私の書いた1/15コメントとは違うなぁ、とも感じました。

  4. 「個人に対する批判と属性に対する批判をごっちゃにする」まさにその通りだと思います。で、「属性に対する批判はステレオタイプにならざるを得ない」というのもその通りなんですけど、わたしは個人的には「属性に対する批判」はやめなくちゃならないんじゃないか、あるいはもっと言うならば「属性を細分化する」作業が必要なのではないかというふうに思っているんです。あるいは、属性と個人を切り離すとか。
    あと、統計の問題ですけど、「標本調査をして100%良品だったからすべて良品」と考えるのか「標本調査をして100%良品だったけど、すべての製品が良品とは限らない」と考えるかという問題だと思うんです。
    同じように「わたしが出会った教員は◯◯な人ばかりだ。だから教員なんて◯◯な人ばかりだ」というふうに論を立てるか、「わたしが出会った限りでは◯◯な人ばかりだった。だから、◯◯な人が多いのではないか」というふうに論を立てるかということなんです。
    ついでに言うと、ここでいう「◯◯な人」がたいていステレオタイプだったりするのですが、ステレオタイプって、世間の評価に引きずられる。個人への批判と属性への批判がごちゃごちゃになると、その人自身を評価するのではなく、属性への評価を個人に適用してしまう傾向が出てくるのではないかと思うのです。
    で、そういうのをやめなくちゃならないんじゃないだろうかと思うのです。

    あと、「研修」の指しているものですが、おっしゃるとおりぜんぜん違います。初任者研修の内容の多くは、かな〜りムダかなぁと思うのですが、でも、一部有用なものもあるみたいですけど…。まぁそんな感じで研修のくだりは書きました。

  5. こんばんはー。発端の日記の主です。mixiに入っておられる方は下記をどうぞ(「友達の友達まで公開」ですが★)
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=73611252&owner_id=74400
    日記の主としてはここでのやりとりはどれも「教員なんて◯◯な人ばかりだ」というものはなかったと思っているのですが…?? 「〜〜な教員はこう困る」っていう書き方だと思いました。まぁ、それでもトーンとしては教員一般を批判しているように感じられるかもしれません…。なにしろ日記ですので、感情吐露(要するにグチ!)ってとこがありますからね★
    私は子どもの権利をテーマにしていた時期がありまして、子どもが大人に対してもの申すときにどんなことが起こるかということについて、いろんなケースを見てきたわけです。なので、子どもが自分の意見を言えない、安心できない環境に置かれているのではないか?という状況をみるとどうしても感情的になります(自分の子ども時代も重ねているわけで)。
    ほんで、そういう私の類友ですし(苦笑)、他の書き込みも感情的なものが多かったかもしれません。

    なので、いつきさんがその日記のやりとりを「教員一般にレッテル貼りをしている」ととられたことには、ちょっととまどいました。
    「〜〜な教員はこう困る」という話はまさに、「属性を細分化」した話方だと思ったんだけどなぁ…??

    大人同士(親と教員とか)では特に、安易なステレオタイプでの批判ってよくないと思いますが、ことが子どもが大人に対して批判するという場合になると、絶大な力関係があるわけですから「弱い」立場の子どもの方に冷静な分析と表現を強いることはできないと思います。

    そして、ややこしいのは、すべての大人がかつて子どもとして被差別体験(と、考えると私は捉えやすい)を経験しているので、その感情が湧きあがって、感情的な教員批判が巻き起こるのかもしれないなぁ、と思うわけです。

    ……この文章、わかりにくいかなぁ…スミマセン★

  6. ともくりさん、はじめまして。「すべての大人がかつて〜」以下の文章に賛成です。そういうことなんだろうと思います。で、「だからと言って目の前の別の教員にそれを投影せんといて〜批判は個別に、等身大にしてちょ」というのが、いつきさんの嘆きなのかな?と。

     どちらの立場も気持ちは分かるような気が。でも難しいですね。専門家と一般人の議論が陥る一つの型にはまっているようにも見えるし。他のテーマでも、こういう構造ってよくありそう。

    研修ですが。一般企業だと、失敗したら拙い業務では、新人を一人で現場に立たせたりはしません。1〜数年間は先輩と組で仕事をさせ、大丈夫と見えるまでは一人ではやらせない。運転免許で言うなら仮免許みたいな研修期間があります。で、教員には今もそういうタイプの研修ってないのかなぁ、あったら良いなぁ、と言うのが私が数日前のコメントで書いた意味でした。予備校なんかでも大手の一部では、数年の研修をつまないと教壇に立てないらしいし。

  7. コメントを書きはじめたら、長くなりすぎたので、1月20日の本文に書きました。

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