ジェンダー問題について考える

今日は某人権教育研究会の総会です。なので、朝は少しゆっくりです。もっとも、職場の方は「校外学習」、つまり遠足です。「なんで月曜日にしない」と思ったけど、月曜日は休みが多いから行事は入れられませんね。
てことで、のんびりと会場に向かいましょう。が、電車がダダ混みです。もっとも、一駅先でガラガラになりましたが…。
で、会場に着いたらちょうど事務局長がやってきました。なにやら荷物があるそうな。ところがエレベーターがない。どれだけバリアフルやねんと思いながら、2階の展示品を見るとユニバーサルデザインについての教材かなにかがあって、思わず「ユニバーサルデザインとは?」と独り言をつぶやいてしまいました。
今回は総会の前に本店から「えらい人」がやってきて悉皆研修がありました。内容を聞いていると
「教職員の世代交代が進み、各校においてOJTによる同和教育の中で積みあげられてきた成果と手法が継承されにくくなっている」
とか書いてあって、思わず
「いや、だから、そういう人事をしろよ」
と暴れたくなる気持ちを抑えるなど。
その後の総会は特に波乱もなく。
そして午後の記念講演です。今回の講師は伊藤公雄さんです。伊藤さんとはずいぶん前に中京大学の関係で座談会があってご一緒しました。でもそれ以来です。講師依頼の時に
「覚えておられたらうれしいです」
と書いたのですが、返事に
「facebookで見ています」
と書いてあって、そうか、facebookでつながっていたなと思いながらも、恐縮するなど。
てことで、講演開始です。タイトルは「ジェンダー問題について考える」です。
まずは「ジェンダーとは」という、メチャクチャ基本的な話からスタートです。まぁさすがにこのあたりはみなさんわかっておられるだろうとは思います。が、5枚目のスライドでいきなりスコットとバトラーが出てきて、さぁみなさんどう思われたかな?
そこから歴史をひもときはじめられます。まずは前近代社会までさかのぼります。前近代の世界の把握の仕方って二項対立で、だからこそ人を男女に二分して把握する。えーと、このあたりですでに社会構築主義全開ですね。ただ、前近代においては「差別が構造化されているがゆえに安定した社会秩序」があったと。このようなジェンダーの捉えかたが近代社会において「男性=賃労働/女性=シャドウワーク」という形へと置き換わっていく。
一方、日本は伝統的にはそれほど男尊女卑ではなかったと。なにしろ最高神は女性であると。たしかに…。しかし「江戸のイクメン男性たち」というスライドには笑ってしまいました。
このような日本社会も近代化が進む中で男女の格差が出てくる。というか、近世は身分制社会なので、男女の格差よりも身分の格差の方が影響力があったと。つまり「武士階級の女性>百姓の男性」という感じ?それが近代になって身分制が廃止され、「性別」で一元化していく。そして男性支配の社会へと移行していく。
伊藤さんは「男性性と女性に対する「支配」」とされた上で、男性には「優越指向・所有指向・権力指向」があると指摘されます。ただこのような男性は、実は女性によるケアなしには生きられないわけです。まさに「支配と依存」です。
ところが、このような男性主導の近代社会が揺らぎはじめる。それが1970年代前後の「第3次産業革命」によるものです。ここに「アイデンティティ・ポリティクス」が出てきます。おぉ!
このような世界的な流れの中で、実は日本は女性労働の割合が高かった。ところが、世界はどんどん変化していく中、日本は変化しない。そしていまや…。
ここで問題になるのが「男性」の位置づけの変化であるというのが伊藤さんの真骨頂でしょうね。つまり、「男性>女性」という序列化が「仕事ができる>仕事ができない」という序列化へと変化する。その中で「メンズ・クライシス(男性性の聞き)と剥奪(感)」が起こる。とりわけ「剥奪感」はなるほどと思いました。「経済的な剥奪」「社会的剥奪」「心身的(有機体的)剥奪」「関係的剥奪」「精神的剥奪」がそれです。たしかに危機だわ。
続いて「過渡期におけるジェンダー」です。ここでのジェンダー平等戦略として、フランスのパリテ導入時の論争を出されました。まずは「1、男女という区分そのものをとっぱらうのか、2、その枠組みを残すのか」ということ。そして「枠組みを残す」としたら「a、男女の区別を前提とするのか、b、男女の差異を社会的・文化的構築物」とするのかということらしいです。で、パリテを導入するにあたって、もっとも現実的な2aを選択したと。
伊藤さんはアイデンティティポリティクスの意義を充分に認めた上で、でもアイデンティティポリティクスは、マイノリティとマジョリティの間に「境界線」を設定しがちでアルトされます。この境界線が「敵対」へと移行したとしたら、それはイマイチだなと。ここで登場するのが「インターセクショナリティ」です。つまり、第2波フェミニズムがアイデンティティポリティクスに依拠していたとしたら、第3波フェミニズムは「多様なフェミニズム」であるとされます。このあたりでようやく「わたし」が息ができるようになる(笑)。
ということで、最後に「男性のケア力の構築」という話をされておしまいでした。

総会が終わったら、伊藤さんとAっちゃんとわたしの3人で軽くワインを飲んだり。ここでは極めて政治的な話で盛りあがりました。さらにお店を変えたところにTじ子とKよぽんがやってきて、ひと盛りあがり。2軒目で伊藤さんはバイバイされましたが、残る4人は3軒目に突入。すると、たまたま隣で呑んでいた人から声をかけられたり。なんでも、むかーしに解放大学でわたしの話を聞かれたんだとか。すみませんすみません。
そんなこんなでほとんど終電まで呑んでいました。まぁ明日は休みやしな…。

ジェンダー問題について考える” に2件のコメントがあります

  1. おもしろく読みました。(ちなみに「男性性の聞き」→「男性性の危機」ですね) マジョリティ側が「剝奪感」を持つ、というのはよくわかります。
    先日、女子大の学生に「先生、なんで女性は差別されてるんですか」とか聞かれて、うまく答えられず。(水平社宣言の話をした後のこと)
    自分なりに納得のいく説明ができるようになりたいもんです。

    1. 「なぜ女性が差別されているか」は難しいでしょうね。てか「差別される」とはどういうことかって話があるのかも。女性差別は社会構造の問題ですからね。おそらく「なぜ被差別の立場に置かれるのか」の方が答えやすいのかもとか思ったり。

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