この間のCOVID-19にかかわる報道を見ていて、とにかくいろいろ考えるところがあるんですけど、そのうちのひとつが、「なぜ感染者数を都道府県別にカウントするのか」ってことです。もっというと「国別」もそうなんですけどね。
言うまでもなく、ウィルスに国境はないです。もちろん、対策には故郷はあるし、なんなら都道府県境もあります。なので、そこに「差」が見られるのは当然です。でもそれは「人々の差」ではなくて「対策・施策」の差なはずです。ところが、「対策・施策」の差が「人々の差」へと転嫁されている。
具体的には、例えば徳島とか岡山の話です。
てか、これの発端って、兵庫と大阪が「県境をまたぐな」みたいな話があった時から出ていましたよね。「尼崎在住で大阪勤務の人間はどうするねん」って話があったし、「兵庫の人で玖伊屋に参加する時は福知山まわりで」みたいな話もありました。ただ、この頃はネタですんでいたけど、「徳島県在住ステッカー」とかいうのが出てきて、これはヤバイなと。だって、淡路島在住の人が鳴門で仕事なんて当たり前にあるだろうし、なんなら買い物で行くことだって当然ありますよね。ここで、「鳴門に来るな。兵庫県の人間は神戸に行け」とかいう話になると、どういうことになるかってことです。
てか、現在は、さまざまな生活上のリソースを都市に集中させてきた結果、特定地域で生活が完結するなんていうことを否定した社会なわけです。なので、人々が「境界」を越えて移動することを前提とした設計になっている。それを「stay home」とかいうって、それはムリだろうと。それは端的に言うと、都市部の発想です。
で、なんでこんなことを書いたかというと、それはCOVID-19への対策として必要なものは「協調」だと思うからです。もちろん、「盛大に移動せよ」と言っているわけじゃない。このあいだのETV特集でジャック・アタリさんが言っていた「利他主義は合理的利己主義」ってやつです。
しかし、いまや「排除と分断」でこの状況を乗り切ろうとする態度は、国家だけではなく、都道府県レベルにまできている。そしてそれを人々が担っている。そしてこれ、地域レベルの分断まで来た時、だれが「排除と分断」の対象となるのか。おそらくそれは「感染リスク」という名のもとに、もしかしたら障害者施設や病院などの医療施設、そして斎場もですね。さらにもしかしたら寄場や外国人多住地域や部落にも及ぶかもしれない。
なんか、そうした「排除と分断」の出発点を目の当たりにしている気がするのです。
もちろん、「おおまかな把握」のためには、地域ごとの感染者数が不必要であるとは思わない。でも、それは「都道府県別」では、たぶんない。実は、さっき書いたことと逆行するけど、もっと細かな単位での把握が必要なんだと思います。なぜなら、「感染リスクの高さに追い込まれた人々」がそこに生み出されているからです。そこにこそ、重点的に施策を打つべきだと思うし、そのための把握です。決して「分断と排除」ではなく「利他主義は合理的利己主義」のための把握です。
まぁしかし、自民党も大阪維新も、分断と排除を利用して勢力を拡大してきたし、支持する人々は「自分が分断と排除の対象になる」とは思っていないだろうからなぁ。すでに「分断と排除」されているのになぁ。