夜、家に帰ってビールを飲んで、やれやれと思ったところで一本の電話がかかってきました。
なんでも人権啓発のなんかの審査員をしておられるとか。で、出てきたものが「イマドキ」のもので、他の審査員は「いい!」って言うけど本人的には「?」なもので、でもみんかそれを選んで、自分の感覚っておかしいんだろうかと。
で、「いつきさん、どう思う?」
と(笑)。
なるほどな。たしかにその「イマドキ」の手法、ありがちです。例えば「みんな同じ人間」とか「みんな違ってみんないい」とかなメッセージ。でも、違いますよね。前者は論外だけど、後者だって「違いの中に格差がある」が必要なメッセージですよね。それが見事になくなる。
じゃ、なぜなくなるのか。それは「考えてない」からです。すごく簡単に言うと「自分の中にあるものを表現する」ことしか考えてない。それを見たマイノリティがどう感じ、その作品がどういうメッセージをマイノリティに対して与えるか、あるいはマジョリティに与えるかってことを考えてない。なぜかというと、しょせん市民感覚は「common sense」でしかないからです。
人権獲得の歴史を考えると、「common sense」との闘いでした。例えば、「部落は忌避・排除されて当たり前」「外国人なんだから権利がなくて当たり前」というcommon senseがあった。これに対して、まずは「同じ人間だ」と同質性の主張による権利獲得の論議が出てくる。例えば「同じ赤い血が流れてる」みたいなね。同じことが同性愛者でもあって「ホモファイル運動」みたいなのがあった。でも、それはあくまでもcommon senseの土俵の上の話でしかなかった。
それに対して、その「common sense」そのものを問う運動が出てきます。それは残念ながら「一般市民」からは出てこない。なぜなら「common sense」は「common」の「sense」だからです。まさに一般市民の感覚です。そして、人権は「commonではないsence」からスタートするからです。
もちろん、なかにはすごいのはあるだろうけど、それが「すごい」ってのはやはり「commonじゃないsence」だからすごいって思うんですよね。
と考えると、「市民参加による人権啓発ビデオ作成」って、つくることそのものに啓発の意味はあるかもしれないけど、そこでできたビデオを啓発に使うのはイマイチだなと。
やはり「The crazy ones」ってことですよね。