まさか中止とは→今日もしゃべりすぎ→ネジに萌える

てことで、今日は某人権教育関係の研究大会です。
午前は記念講演。講師はいまをときめく白井聡さんです。でも、昨日の飲み過ぎでメッチャしんどい。なんとかしなきゃとつい買ってしまったのが「ドデカミン」。笑われました。
それでもなんとか復活基調で、わくわくしながら待ってたら、まさかの講演中止。なにがあったのかと思ったら、なにやら突発的なトラブルがあったとか。しかたないな。残念だけど。
ということで、とりあえず早めの昼ごはんといきましょう。こんな日の昼ごはんは、やはりラーメンですね。

んー、塩辛くて化調の味が強いので、よくわからない味でした(;_;)。
で、午後の分科会。
1本目は第2のふるさとの中学校のレポートです。中身はADHDの子どもへのかかわりですが、とにかくていねい。ほんとにみっちりとかかわっておられます。本人や家族にていねいにかかわり、少しずつ行動が変化していく中で、のけ者にされていたその子がまわりから受け入れられていく。はっきり言って、かかわりにはツッコミどころがありません。となると、天邪鬼なわたしは斜めから切れ込みます。
「その子本人が困ってることってなんでしょうかねぇ。あと、ほんとにその子、薬飲みたいんですか?」
この質問の読み筋は、かつて出会ったADHDの子どもの経験なんですよね。その子、薬がイヤなんです。なんでも、「動きたいのに動けない」らしいです。「手足を縛った感じ?」って聞いたことがあるんですけど、それは違うらしいです。で、薬を飲まない。するとフルパワーが出せるそうです。でも、例えば怒りはじめるととめられない。ダメなのはわかってるんです。でも、わかっていてもどうしようもない。その「とめられない」ことがしんどいらしいです。もう、八方塞がりです。結局、どっちのしんどさをとるかなんですね。その時に、「とめられないしんどさ」は常にあるわけじゃない。でも、「動けないしんどさ」は常にあるわけで、結局「薬を飲まない」を選んでるのかな。つまり「困ってる」ですよね。で、人権教育的には「困ってるその子と、困っている状態でつながる」ことが大事なんじゃないかと思うのです。言いかえるなら、薬を飲むことで行動が変化し、その変化した子によって、周囲の評価が変わって受入が進むというのは、たぶん違うってことです。これ、メッチャむずかしいです。わたしにできるかというと、きっとできません。でも、そこをめざしながら、現実的な解として薬を使うこともあるということなんじゃないかなぁ。そんなことを考えました。
2本目は、またまた中学校のレポートです。こちらは「ハイブリッドハーフ」のAさんとのかかわりです。はっきり言って、Aさん、すごいです。教員はなにもしてません(笑)。というよりも、どちらかというと、レポートした教員がAさんからひたすら教わってます(笑)。でも、これ、たまにあります。わたしもずいぶんと子どもたちから教わってきました。大切なのは、「自分は教える側」と意固地になるのではなく、子どもから教わることを拒否しないことだと思います。ちなみにAさんがレポートした教員にいろいろなことを話してくれるきっかけになったのは、人権学習で傷ついたことのようです。たしかに教員としては反省材料にはなるのですが、「それはそれでええやん」と思うのです。というのは、それも含めての「ワクチンとしての人権学習」だからです。そういう刺激があって、より深く自分のアイデンティティを模索できるんじゃないかと思うんですよね。
で、わたしからの質問は、もちろん
「ピアな存在との出会いはありますか?」」
です。そしてえもちろん答は
「ない」
です。てことで、京都在日外国人生徒交流会と東九条マダンの宣伝なんぞをしておきました(笑)。
3本目のレポートは、またまた中学校で、今年度の人権学習についてです。これ、そこにいたみなさんがぶち切れてました。いや「ちがいのちがい」をそんなに延々と話さなくてもいいし。いや「青い目茶色い目」の説明はいらんし。本人は「新しい知見があるわけではない」と断っておられましたが、そんなものはここではいらないんです。実践が知りたい。それは人権学習であっても同じなんですよね。しかも、いちいち途中ではさむ話がまたぶち切れる理由をつくっています。例えば、
「識字をちょこっと扱ったけど、あまり深入りせずに、部落についても扱わず、学習権についてやりました」
みたいな。隣にいた、長く社会教育畑で識字をやっておられたという方が、ガマンしきれずにムラのおばあさんから言われた
「中途半端にやるならやらんといてくれ」
という、まぁ定番と言えば定番の言葉を紹介してくださったのですが、これがまた届かない。しかたないので、わたしが説明です。
「この言葉はですね、「やるな」という意味じゃなくて「しっかりとやってな」というエールなんですよ」
さらにわたしからも質問です。1時間女性問題を扱っておられて、M字曲線とか賃金格差のこととかはやっておられるのですが…。
「レポート中、「学校時代は男女の扱いに差はないけど」って言われましたが、ほんとうにないですか?」
もちろん答は
「女の子も委員長をやったりするし云々。だからないと思います」
です。で、わたしからの切り返しは
「「ない」と思うから「ない」と思ってしまうんじゃないですか?」
です。例えば、ある英語の研究授業の時に、わたしが注目したのは、机間巡視中に立ち止まってアドバイスをする相手のジェンダーがどうだったかなんですよね。すると、男女で差がありました。まぁ、このケースではその差は単純に苦手な子の差があったということでしたが、一見当たり前に行動している中にジェンダー格差があるかもしれないということに自覚的になって、自らの行動を点検すれば、簡単に「ない」なんて言えないってことです。
レポーター、黙ってはりました。まあ、ちょっといじめすぎたかもしれません。もしかしたら「順番なのでレポートして」っていうことで来られたのかもしれません。が、それにしても、あまりにも謙虚さがないレポートの姿勢だったので、ついぶち切れてしまったという…。
その後の総括討論ではみなさんあまり話をされないので、いろいろ発言してしまったり。ただ、一番笑ったのは、新採2年目の方が、「いろいろ学べました」と言いながら、1本目と2本目のレポートに言及して、3本目については言及しなかったという。これ、大切なのは2年目の人ってことで、かなり辛辣ですよね。まぁ、そんな分科会でした。

で、友だちに車に乗せてもらって京都に帰って、待ちあわせです。ところがなかなか会えない。おかしいなぁと思ったら、待ちあわせ場所をピンポイントで決めてなかったため、50mくらい離れたところで、お互いに「来ない」って思っていたという。
で、駅の近くの居酒屋に行って、今度やるお座敷についての打ちあわせ。のはずが、気がつくと「ネジ、萌えます」で終わってしまいました。
アカンな…。

まさか中止とは→今日もしゃべりすぎ→ネジに萌える” に9件のコメントがあります

  1. しかも、ひとつひとつの話が長いんですよ。言い訳がましいというかなんというか。まいったわ。

  2.  同和対策事業・啓発活動の進展により、明確な形での差別事象として同和問題を捉えることが難しくなってきた現状下において、中学生の認識の発達段階を鑑みれば、特設学活において同和問題学習を展開していくのはなかなか難しくなってきているのではないか。どのような形で同和問題の認識を中学生に深化させていったらよいだろうか?という私個人の問題意識の中で話をさせてもらいました。中学校段階における部落問題学習の在り方について議論になればと思っていたのですが、誰もその方向の意見は出ませんでした。
     研究授業でのアドバイスの性差については、「その先生にとって声のかけやすさの問題」であって、その先生のことを知らない私が勝手なことは言えないと思い、何も言いませんでした。いじめられて圧倒されたから黙っていたわけではありません。
     本文に「謙虚さがない姿勢」とか、またコメントには「教員辞めろ」レベルとまでありますが、丁寧に説明していただければ嬉しいです。

  3. ゴマンと問題があるから「辞めろレベルだ」としたというきわめて正当な感想ですが、私からひとつあげるなら、「男女の扱いに差はない」ですよ。これだけで万死レベルじゃないですか。

  4. まずは、こんなに誰も読んでいないブログを見つけていただき、またコメントしていただき、ありがとうございます。
    いずみさんのコメントも、わたしの文章を読んでの感想なので、それも含めてコメントさせていただきます。

    まずは「謙虚さ」ですが、これはわたしも人に指摘できるものではないのですが…。というのは、かつてオールロマンス事件をめぐるレポートに対しての質疑応答で会場の日とに向かって「この中で原典の「特殊部落」を読んだ方はおられますか?」と挙手させたことがありまして、先輩の教員にメッチャ怒られました。「あの中にどんな人がいるかわかってそんなことをやったのか」って言われました。
    「ちがいのちがい」や「青い目茶色い目」は、20年くらい前からずっと教材としてやってきました。おそらくあそこにいた人のほとんどはそういう人だと思います。そういう人にとって、あそこでレポートで聞きたかったのは、教材の説明ではなく、それをどう料理し、それに対して子どもたちがどういう反応をしたのかということだったかと思います。でも、それについてはさほど述べられませんでした。そういうことについてわたしが感じたのは「レポーターは自分たちが知らないと思っているんだな」ということでした。もちろん、繰り返し「新たな知見を示すものではない」と言っておられましたが、それはつけたしのように聞こえたということです。そしてそういう語りが、わたしにとって「謙虚さがない」と感じられたということです。

    あと、「同和対策事業・啓発活動の進展により、明確な形での差別事象として同和問題を捉えることが難しくなってきた現状下」と書いておられますが、わたしは反対だと思っています。つまり、事業や啓発がされる前は、差別の結果としての劣悪な環境や貧困に注意を奪われていました。しかし、そういうものが一定整備される中で、部落差別の本質が出てきているのが現状だと思います。まさにそれが、「暴く・さらす」ことであり、あるいは土地に対する「忌避」という形であらわれていると考えています。言いかえるなら、「劣悪な環境や貧困」を子どもたちに伝えたら「かわいそう」という話(タニンゴト)にしかなりません。しかし、現在の「暴く・さらす・忌避」といったものは、自分自身にかえってきます。なぜなら、そうしたものは、部落の当事者ではない人間の行動だからです。だからこそ、伝えられることがあると思っています。
    「中学校段階における部落問題学習の在り方について議論になれば」と思っておられたのであれば、たしかに残念ですが、部落問題の現状に対するとらえ方が、少なくともわたしとはまったく違います。そして、「他のことを扱う」ことで部落問題学習をしようとしておられたことが、議論にたどりつかなかった理由なのではないかと思います。
    あと、「性差」のことについては、よねざわいずみさんがすでに端的に書いておられますが、もう少し説明をします。
    ジェンダーは社会構造です。なので、ひとりひとりの行動がどうという話ではなく、それの奥底にある構造そのものを問う必要があると思います。例えば「その先生にとって声のかけやすさの問題」と書かれていますが、その奥には「なぜかけやすさにジェンダーによる違いがあるのか」という問いが隠されていると思います。
    学校におけるジェンダーについては、教育社会学の世界で膨大な研究があります。それらは、かつては明確な扱いの差(例えば委員長や生徒会長が男性で占められているなど)が論点になってきましたが、現在はもっと細かな日常の、あたかも「あたりまえ」と思っていることそのものを問う研究が多くなっています。例えば、会話という側面ひとつとっても、会話権のやりとりや割り込みやうなずきや沈黙の配分などに着目することによって微細な権力関係が男女の間にあることが明らかにされたりもしています。そういうことに着目すると、わたしの質問に対して「差はないと思います」という答えは出てこないだろうと思います。そして、よねざわいずみさんが「やめろ」と、たしかに過激な言い方ではありますが書かれたのは、逆に言うならば「人権にかかわる教員は最低限そういうことに敏感になりながら日々の教育活動をする必要がある」という問題提起だと、わたしは感じました。
    そしてそのことは、ジェンダーの問題だけではなく、「教員と生徒という権力関係」につながります。つまり、少なくとも人権教育にかかわる教員は「生徒に対する権力を与えられている」ことを日々意識化しながら、それから逃げずに、その権力をどう行使するのかということに敏感にならなきゃならないだろうという問題提起です。おそらく、よねざわいずみさんは「(その敏感さがないなら)やめろ」と書かれたのだろうと想像します。
    そして、その提起は、もちろんわたしにも向けられていると考えます。であるからこそ、自分も敏感であろうと、あらためて考えました。

    少々とっちらかった文章で申しわけありません。
    とりあえず、こんなところで…。

  5.  丁寧なコメント、ありがとうございました。顔面のこわばりがやや氷解したように感じます。 
     ご指摘のように、あのレポートは意識の高い皆さんの議論の俎上に載るようなものでないことは重々承知をしていました。そこで「中学校における同和問題学習の在り方」が論点になればとの思いから、話を挟んだ次第です。
     部落差別の本質の一つは「民衆分断による権力構造の維持」にあると思っています。そう考えるならば、この問題を考えることは、現代日本の統治問題を考えることにもリンクするわけで、同和問題を学ぶことは社会問題の解決にとって重要である、と思っています。そうした視座から、授業の中で同和問題を歴史的に位置づけ、系統的に学習するように取り組んでいます。江戸後期の「渋染め一揆」は自分の授業実践の中ではかなり力を入れた展開を毎回しています。また前任校においては「結婚差別」を主テーマにした特設の人権学習プログラムを提起し、実践してみました。ただ結婚問題の特設学習の際に感じたことは、生徒たちに実感を持って学習させきれなかった、という反省・不完全さの思いでした。ポイントは現状の部落問題の私自身の認識に行きつくんだろうなと感じています。「何とかして生徒たちの心の内面に迫りたい。「でもどういう形で迫っていけばよいのか」がなかなかわからないままでいます。
     同和問題に対する認識は大人と中学生では大きな違いがあります。大人たちのこの問題へのわだかまりのようなものの一つは「地域改善対策施行の過程で生じた行政と一部運動団体との関係性」であると思います。(参議院の附帯決議にも出てきますね)しかし、中学生にはその部分がありません。素直に「わけのわからんことで差別してはいけない」と考えます。そして「でもなんで、そんな差別がいまだに残っているのだろう。よくわからない。」となっているように思うのです。
     自分のそうした問題意識を言葉足らずの配慮なき表現でしゃべってしまい、多くの人に不快な思いをさせてしまったのだ、と反省の気持ちを持っています。今回の指摘をきっかけに、自分自身を見つめなおしていければと思っています。
     日本のジェンダーギャップの状況について、私自身は大いに課題があると認識していますし、中学生たちも漠然とした形では感じていることと当然認識しています。ただ社会の中で活動している大人と比較して「一般的な中学生自身」が校内で差別的と感じることは「ないんじゃないかな」という程度の認識で発言しました。浅い認識なんだろうなと後になっては思います。しかし、この学習を通じ、漠然としたジェンダーの空気を具体的事実を通して社会問題として明確に認識するような生徒たちの変容は見ることができたのは取り組みの成果点としたい気持ちです。(これも浅いですね)
     人間として、学びを続けていく姿勢は持ち続けていきたいと思っています。

  6. 返信が遅くなり、すみません。ここ数日、バタバタしていました。
    「民衆分断による権力構造の維持」ということは、いわゆる「近世政治起源説」をとっておられるのでしょうか。ただ、あの説の弱点は「政治が簡単に人を分断できるのか」ということです。もちろん、「青い目茶色い目」のとりくみは「簡単に分断できる」ということの証明かと思いますが、実際の人々は、利害も絡めながら複雑な人間関係をつくっています。なので、それを政治権力が簡単に線引きできるとは思えません。つまり、「それまでにあった差別意識を権力が追認・助長・強化した」というふうに考えた方がいいのではないかという主張と出会い、なるほどと思ったことがあります。いわゆる「中世起源説」ですね。
    そこから、例えば「渋染一揆」をとらえると、従来あったような「抑圧された賤民がさらに抑圧されたことに対して蜂起を起こす」というものとは違う姿があらわれてくるかと思います。
    「わだかまり」云々ですが、これもかなり一面的なとらえ方であると思います。もちろん、おっしゃることがあったことは知っていますし、それはただすべきだと思います。が、100%の正義がないのと同様、100%の悪もないのが「大衆運動」だと思っています。それをどう評価するかということが大切かと思います。
    さらに、中学生とわたしたち大人の関係についても,少し触れておきます。
    差別の現実は誰が一番知っているかというと、やはり当事者だと思います。ただ、あたりまえの生活の中で「知っている」けど「気づいていない」ということはあるかと思います。それは、部落問題だけでなく、ジェンダーの問題もそうだと思います。そういう子どもたちの現実を丹念に掘り起こし、「気づき」のきっかけをつくることを、先日の分科会では「社会化」と言いました。その時に、教えてもらうべき人間は、実はわたしたち大人だと思っています。
    とはいえ、なかなか難しいです。それは、子どもたちとじっくりと無駄話をする時間がなかなかとれないからです。でも、少しの時間であっても、それを多くとり、丹念につないでいく営みをしたいなと、わたしは思っています。

  7.  「政治起源説」についてです。私がコメントで発言したのは、ペリー来航後の政治混乱の状況下での権力側の意図についてです。部落の起源については、近年の「中世起源説」が説得力を持つなと思っています。
     現在における「民衆分断による権力構造の維持」の具体的表れとしては「公務員バッシング」「生活保護受給者バッシング」「正規・非正規労働者間の労働条件を利用しての分断」「子育て世帯・高齢者間の分断」「基地問題に絡む沖縄と他の地域との分断」などが思いつきます。そうした現代の日本の政治状況に目を向けさせ、真に民主的な社会を実現するうえでも、真剣に考えていかねば、という思いを持っています。
     ここで私が言いたかったことは、決して部落問題学習を教育課程の中で軽視しているわけではない、という反証として挙げさせていただいた次第です。
     人権教育の実践の話とは離れますが、「わだかまり」の件についてです。
     「悪いこともあったが良いこともあった」として、課題点に対してしっかりと向かい合い総括していく姿勢がなければ、次につながる前向きな方向性、諸勢力の連帯性は出てこないのではないかと思います。

  8. 返事が遅くなりました。
    すみませんが、あまりにも「雑」に見えたので、なかなか返せませんでした。
    とりあえず、わたしが常々考えていることを…。
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    「悪者」をつくらない。
    「原因」を見つけたら疑う。
    背景にある「構造」に目を向ける。
    「構造」をつくり支えることに「自分」は加担しているのではないかと考える。
    常に「自分」に返す。
    そして、動く。
    ---

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